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一平さんの事件 その2 [スポーツ]

fashion_baseball_cap2_blue.png大谷翔平選手の会見が行われた。水原さんの違法賭博事件について、大谷選手は全く関知していないという「公式」版のストーリーを裏付ける証言に終始した。すなわち、水原さんが数か月から一年にわたり大谷選手の口座に無断アクセスを繰り返して大金をくすね、メディアの追及には(どう考えてもすぐにばれる)嘘を作り込んで語り、一方で大谷選手はつい先週までその異常に全く気付かなかった、ということである。もし水原さんが確信犯的な(しかし絶望的に詰めの甘い)詐欺師で、大谷選手が資金管理や身辺の異変にまるで無頓着な無類の野球バカであった、ということなら、(いろいろと残念だが)あり得ない話ではない。

だがどうにも腑に落ちないのは、大谷選手が真相を知ったのがドジャーズのチームミーティングの場だったという証言である。それに先立ち代理人が問題を把握していたことを、大谷選手自身が語っている。チームに対して話が明かされる前に、当事者である大谷選手に代理人から何の説明もなかったということがあり得るだろうか? チームミーティングで大谷選手が困惑したという話は既に報道で出ていて、彼が「知らなかった」ことを印象付ける演出めいた匂いを感じていた。大谷選手は水原さんがメディアの取材に応じたことを事前に聞いていなかったと会見で述べているので、彼がチームミーティングで知って驚いたのはそっちなのではないか、という憶測も成り立つ。

ところで、今回の騒動は大谷選手を巡る日米の温度差を図らずも浮き彫りにしたように思う。日本人の目に映る大谷選手は、野球の本場アメリカで頂点を競う国民的英雄である。日本のメディアはシーズン前から大谷選手の一挙手一投足に注目し、キャンプで勢い余ってトレーニング器具を引きちぎるだけでニュースになる。しかしアメリカ国内では、エンゼルスやドジャーズのコアなファンならともかく、大谷選手は数多いるメジャーリーガーの一人に過ぎない。野球にとりたてて関心のない多くの米国人は、名前は知っていても大谷選手に何ら特別の思い入れはない。

それはちょうど、日本人にとってのモンゴル人力士のようなものではないか。現役時代の朝青龍は、モンゴルの人たちには日本の国技に乗り込み横綱として君臨する英雄であった。だが、生粋の相撲ファンを別にすれば、日本人の大半にとって朝青龍は「ああ、あの力士ね」くらいの存在に過ぎなかったはずだ。いろいろとやんちゃな素行に事欠かなかったので、どちらかというとネガティブな印象を持つ人も多かったかもしれない。もしモンゴル力士が日本の角界で話題をさらうことを密かに快く思わない人がいたとすれば、同じことは大谷選手がアメリカでどう受容されるかについても言えるのである。

その意味で、水原さんの事件により大谷選手はかなり微妙な状況に追い込まれている。もし彼が水原さんの窮状を見かねて借金を肩代わりしたのが真相だったとしても、それが感涙の友情エピソードとして処理されるほど米国人は大谷選手に愛着はない。大谷選手の代理人はそこに美談を見なかったからこそ、大谷選手を水原事件から完全に切り離す作戦に打って出たのだと思っていた。大谷会見後の今も、その印象は払拭できていない。

或いは、大谷選手側の主張どおり一から十まで水原さんが水面下で仕組んだ犯行だったのかもしれない。だがいずれにせよ、質疑なし12分の会見が大谷選手の名誉回復にどれだけ寄与したか、その効果はあまり見えない。大谷選手に非がある話ではないのに、誠意に欠けるような印象を与えかねない対応戦略は大丈夫なのか、とか他人事ながらいろいろ心配している。

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一平さんの事件 [スポーツ]

money_satsutaba.png水原一平さんのドジャーズ解雇という報道に仰天した。大谷翔平選手の専属通訳で良きバディだったはずの水原さんが、違法スポーツ賭博に手を出したばかりか、損失の穴埋めに総計数百万ドルに及ぶ大金が大谷選手名義で送金されたというのである。大リーグ開幕戦の祝祭感も吹っ飛ぶ、破壊力全開のニュースだ。ドジャーズお膝元のLos Angeles Timesとスポーツ系チャンネルESPNの記事をざっと読むと、だいたい次のような経緯が浮かび上がる。

捜査機関はまだ表立った動きがなく、メディアのスクープが事件発覚のきっかけだった。大谷口座からの送金データに異変を察知したESPNの取材に対し、水原さんは初め大谷選手の同意のもと損失を埋め合わせてもらったと語った。そのとき大谷選手は明らかに不満げであったが、水原さんが足を洗えるならと送金に同意した、ということである。ところが取材の翌日、大谷選手は何も知らなかったと水原さんは前言を翻した。これを裏付けるように、大谷側の弁護士は大谷選手を水原さんによる「窃盗の被害者」とする声明を出した。胴元側は弁護士を通じ大谷選手と直接の接触はなかったと明言しており、大谷選手自身が賭博に関わっていない点では証言が一致している。

現時点では、相容れない二つのシナリオが共存する奇妙な状況にある。大谷選手が自らの意志で水原さんの擦った金を肩代わりしたという当初の説明と、そうではなくて水原さんが無断で大谷選手の金を使い込んだという話である。公式には、関係者の証言は後者のストーリーに収束する様相を見せている。これが事実なら、大谷選手が補填を承諾したという最初の説明が水原さんの真っ赤なウソだったことになり、破廉恥の誹りも免れない事態である。

しかし、窃盗説にはいろいろ不可解な点がある。ESPNが把握した送金記録は昨年の9月と10月(各50万ドル)だそうだが、それほどの規模の「窃盗」が持ち主に何カ月も気付かれずに済むだろうか? そもそも、プロのハッカーでもない一般人が他人の口座に手を付けられるだろうか? 水原さんが大谷選手の資産管理を一任されてでもいない限り、かなり無理のある話に聞こえる。

カリフォルニア州では、スポーツ賭博は違法である。水原さんは違法性を知らなかったと証言しているが、ドジャーズの一員であった立場を考えると妙に脇が甘い。あり得る可能性としては、彼のギャンブル癖に目をつけた胴元が、言葉巧みに合法性を装い水原さんを巻き込んだのかもしれない。スポーツ賭博の経営者からすれば、名門球団のインサイダーを取り込む旨味は大きいはずだ。水原さん自身はさすがにメジャーリーグの賭けには関与していなかったというが、大金を擦った弱みに付け込み情報提供者のように顧客を利用する下心が胴元側にあったとしても、不思議ではない気がする。

もし大谷選手が事情を承知で送金を許したのだとすれば、下手をすれば違法賭博に手を貸した嫌疑をかけられる。そのリスクを断ち切るため、大谷選手の弁護士は窃盗被害という落としどころで話を整理したがっているように見える。水原さんにとっては、賭博と無関係の大谷選手を道連れにするのは本意でないはずだから、自分が窃盗の罪を被る覚悟を決めたのかもしれない。ESPNに直撃された当初は、動揺のあまり大谷選手に降りかかる火の粉まで想像が及ばず、経緯をそのまま話してしまったのではないか。

大谷選手はたぶん、窮地に陥った友人を救いたかっただけなのではと想像する。結果として違法賭博に加担してしまうように見られるリスクが彼の頭によぎったかどうかは、わからない。ただ、二人の関係としてわれわれが知るパブリックイメージから察するに、進退窮まった水原さんが大谷選手を裏切り私財を着服したという物語より、リスクに思い至らず(あるいは承知で)大谷選手が水原さんに手を差し伸べたシナリオのほうが、何だかありそうな気がするのである。

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安楽死の権利 [社会]

medical_anrakushi.pngテレビの報道番組を何気なく見ていたら、安楽死の特集をやっていた。日本では認められていないが、スイスのように一定の条件下で安楽死が合法とされている国もある。番組が取材したのは、事故の後遺症や進行性の難病に苦しみ安楽死を求めてスイスを訪れた人たちだ。親族や友人に見送られながら死を迎える人や独り静かに旅立つ人がいれば、直前に迷いを見せ中断を言い渡される人もいる。もちろん、余命幾ばくもない病を抱えながら、苦痛を受け入れ命を全うする道を選択する人もいる。

自殺を罪として裁く法律は日本にはないが、自殺幇助は犯罪である。犯罪でない行為をアシストしただけで罪に問われるのは非合理な気もするが、これにはいろいろ法学論争があるようだ。ざっと調べたところ、命の決定権に他者が介入すべきでない、という漠然とした倫理観に落ち着く解説が多い。だが見方を変えれば、本来は個人のものであるべき死生観に国家が恣意的に踏み込んでいる、という批判もあり得る。

仮に安楽死が合法化されると、安易に死を選ぶ人が増えるという指摘がある。ただ「安易」かどうかは当事者の訴えにじっくり耳を傾けないと判断できない話で、一般論として整理するのは難しい。また、安楽死の合法化は死を望まない難病患者に対する謂われなき偏見を生む、という懸念を上述の番組の中で聞いた。他者には何の脅威でもないはずの個人の権利が、同質性を指向する社会によって静かに排除される。同性婚や夫婦別姓の問題に似た同調圧力の陰が、ここにも垣間見える。

死の選択は重い決断である。安楽死の是非について、誰もが納得する回答は存在しない。だから安楽死が合法の国でも、耐え難い苦痛・治療の不可能性・本人の自発的な意思確認、などさまざまな条件をクリアする必要がある。社会の側が注意深くハードルを設定した上で、あとは個人の選択に委ねられる。先日、ALS患者に対する嘱託殺人で医師が京都地裁から懲役刑を言い渡される判決が出た。安楽死が違法の日本でそのニーズがアングラに潜り、結果として本来厳格に適用されるべき倫理規範が法で守られなかったのだとすれば、現行法制度の矛盾を示唆する皮肉な事件である。

安楽死の問題とは、究極的には当事者の死を選ぶ権利を社会が制度的に容認できるか、ということである。容認できない社会が未熟ということではないが、日本が少なくとも成熟した議論が成立する国であってほしいと思う。

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オッペンハイマー:原著編 [科学・技術]

アカデミー賞の受賞者が発表され、日本では『君たちはどう生きるか』や『ゴジラ-1.0』の受賞が話題を呼んでいるが、今年最大の注目は何と言っても7部門を席巻した『オッペンハイマー』であった。原爆開発責任者の半生を描いた映画だけに、国内世論を気にしたか日本での配給が決まるまでかなり時間を要した(3月下旬にようやく封切られることになった)。映画のネタ本は、 Kai BirdとMartin J. Sherwin共著『American Prometheus』という大部で濃密な伝記である。映画は半月後まで見られないので、今回は原著の話を書きたい。

hat_nakaore.png『American Prometheus』はオッペンハイマーの誕生から死までを克明に描いたノンフィクションである。とてつもない量の資料から浮かび上がるオッペンハイマー像は、複雑で一筋縄では行かない人物だ。幼少期から早熟の秀才だったが、今で言う発達障害を思わせるぎこちない言動に事欠かなかった。マンハッタン計画を率いるオッペンハイマーは誰もが認めるカリスマ性に輝いていたが、極度のストレス下で冷静な判断を誤る危うさが彼自身をやがて苦境に追い込む。やわらかい物腰の中に暖かい思いやりを見せる時があれば、人を見下したような自信と傲慢さが同僚の反感を買うこともあった。終戦直後は時の人としてもてはやされるが、赤狩りの狂気が吹き荒れた1950年代、オッペンハイマーは政敵ルイス・ストロースの異常な敵意と執念に追い詰められる。

マンハッタン計画は、ナチスドイツの原爆開発に対する強い危機感から始まった。ユダヤ人であったオッペンハイマーが感じていたであろう使命感は想像に難くない。だが彼を含め、マンハッタン計画のため米国全土から集められた頭脳は、本来は軍事産業と縁もゆかりもない自然科学者たちだった。核分裂の原理を兵器に応用する前代未聞のプロジェクトには、当時まだ黎明期であった現代原子物理学の深い知識を要したからである。もともとは自然の成り立ちを解き明かす純粋な目的のもとで育まれた叡智が、大量破壊兵器の開発に惜しげもなく注ぎ込まれた。トリニティ実験に立ち会った科学者たちは、彼らが解き放った魔物の恐ろしい破壊力を目にして、ただ言葉を失った。

ドイツ降伏後、日本に対する原爆投下の是非について科学者たちの意見は割れた。無警告で原爆を実戦使用することに反対する署名活動も行われた。オッペンハイマー自身は投下反対の立場ではなかったが、すでに敗戦が濃厚な敵国に原爆を用いる正当性に疑念を持っていたようである。しかしオッペンハイマー自身は、原爆投下の政治的決定に関与を許される立場にはなかった。

オッペンハイマーの心に、原爆開発の指揮を執った事実が生涯暗い影を落とし続けたことは疑いない。終戦後、トルーマン大統領との面会の場で「私の手は血塗られているような気がします」と呟いたと伝えられている。他方で、彼は原爆開発を主導した功績を恥じることはなかった。戦後日本を訪れたオッペンハイマーは、心情の変化について問われこう答えた。
I do not think coming to Japan changed my sense of anguish about my part in this whole piece of history. Nor has it fully made me regret my responsibility for the technical success of the enterprise.
この歴史的な出来事に関わり私が感じてきた苦悶が、日本を訪れたことで変わったとは思いません。(原爆開発)事業の技術的成功で果たした私の責任を後悔するに至ったということもありません。
これに続き、少し謎めいた言葉を残している。
It isn’t that I don’t feel bad. It is that I don’t feel worse tonight than last night.
申し訳ないと思う気持ちがないという意味ではありません。ただ、その気持ちが日々強くなっているわけではない、ということです。
破格に明晰な頭脳に恵まれた彼すら、自身の内面が抱える矛盾を整理しあぐねていたようである。

被爆国に生まれ育ち広島と長崎の惨禍を知る私たちにとって、オッペンハイマーの評価は難しい。戦後の彼は戦術核論者ではあったが、米ソの対立を煽りかねない戦略核には懐疑的で、とくに水爆開発には明確に反対した。自身の信念ゆえ政府のタカ派に公然と異を唱えたオッペンハイマーは、その点で米国内に今も根強い素朴な原爆肯定論とは大きく立場が異なる。結果的にマッカーシズムの犠牲者として表舞台から姿を消したが、そうでなかったらオッペンハイマーはきな臭い冷戦の世界にどんな影響を与えていただろうか? それが光だったのか闇だったのかにわかに想像が及ばない曖昧さが、オッペンハイマーという人物の本質を物語っているように思える。

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ほぼトラ [政治・経済]

america_daitouryousen_man.png今年秋のアメリカ大統領選を控え、共和党予備選でトランプ氏が圧勝した。バイデン大統領にトランプ氏が挑む構図は、4年前と攻守が入れ替わっただけで一向に代わり映えがしない。世論調査ではトランプ氏の人気が上回り、巷では「もしトラ」とか「ほぼトラ」とか来るべきトランプ政権を見据えたさまざまな観測が飛び交っている。

トランプ氏の強さは、いくら失言をしようと支持率が下がらないことである。関税ボッタくり宣言とか、費用負担の少ないNATO加盟国はロシアにやられちまえ発言とか、とりわけ対外政策に関わるトランプ発言はハチャメチャ極まりない。つねに暴言だらけなのだが、暴言に溜飲を下げる人々が一定数おり、トランプ氏を熱狂的に支持しているのだ。彼のMAGA(Make America Great Again)思想は、支持者の耳にはたぶん「俺たちさえよければ、それでいいじゃないか」と聞こえているに違いない。耳に心地よいだけならまだしも、MAGAの延長上で何をやりだすかわからない予測不可能性がトランプ再選後のリスクである。

バイデン大統領はトランプ氏のような攻撃性はないが、この人はこの人で奇妙な失言が多い。ミッテランをドイツの大統領と言い間違え、慌ててフランスと言い直したが、「マクロンだろ」とツッコむ余地を残した見事なボケっぷりであった。期待値の低さという点では、トランプ氏とは別の意味でバイデン大統領は「これ以上がっかりすることはない」的な安定感がある。人口3億3千万を超える国で、なぜこの二人より人望のある大統領候補が現れないのか、と首を傾げているのは私だけではあるまい。

ロボット掃除機を買いに行ったら、中古品が2台だけ売れ残っていたしよう。一台は、自分の部屋はきれいに履き清めるが、溜まったゴミを他人の部屋にぶちまけ知らん顔をする。もう一台は、保証期間をとうに過ぎて掃除の最中に理解不能なエラーメッセージを吐く。どうしてもその場で掃除機を手に入れなければならないとしたら、どちらを選ぶべきか? いま米国市民に突きつけられているのは、そんな問いかもしれない。

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セクハラ町長 [社会]

kaisya_nigate_joushi_man_woman.png岐南町町長のセクハラ・パワハラ問題が報道を賑わせている。岐南町ホームページに調査報告書が載っているが、問題発言・問題行為の指摘は99件に及ぶ。下の名前を「ちゃん」付けで呼ぶという微妙な案件から、抱きつく・尻を触るといった完全アウトな蛮行まで、この方お一人だけでセクハラ事例集完全版が出版できそうだ。

一般論としては、セクハラのラインを超えるかどうかは、受け止める側の心象次第だという意見もある。「ちゃん」付けで呼ばれた人が気分を害さなければ、たぶん誰も問題にしない。が、尻を触るような上司から「ちゃん」で呼ばれたら、大抵の人は気持ち悪がるだろう。セクハラをするから人望がないのと同時に、人望がないから何を言ってもハラスメントになるのである。

とはいえ、ハラスメント防止のガイドラインを決める以上、客観的に適用可能な善悪の基準を定めておく必要がある。基準が緩すぎると被害者が泣き寝入りする羽目になるし、逆に厳格すぎると冤罪につながりかねない。ハラスメント被害者に寄り添う時代の流れは基本的に正しいと思うが、際限なくコンプラのハードルを上げ続けることで社会の正義が自ずと実現するわけでもない。

問題の町長は昭和の価値観から抜けられない人物とあちこちで評されており、ある意味ではその通りだが、別に昭和の時代がこういう人ばかりだったわけではない。件の町長の問題は、そもそも人間として「ちゃんとしてない」ことに尽きる。人として真っ当であることの価値は、昭和も令和も基本は何も変わっていない。

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マルハラ [社会]

computer_message_app.pngZ世代の子たちは、LINEで送られてきた文章が「。」で終わっていると恐怖を覚えるのだという。マル・ハラスメント略してマルハラという言葉まであるそうだ。旧世代には想像のつかない心理だが、何がそんなに怖いのか? 日本語に句読点が導入された明治時代以来、「。」をくらって絶命した犠牲者は一人もいないはずだ。

そもそも「。」がなければ文章が区切れないから読みにくい、と私たち旧世代は考える。しかし若い子たちは、そもそもLINEで長文を打たない。短い言葉やスタンプをこまめに送信するので、文章を区切る必要がない。必要がないところに敢えて「。」をぶっこんでくると、逆に背後の意図を感じてしまう。スタンプや絵文字と違って感情を伝える機能を持たない「。」は、その無機質さゆえに静かな拒絶や冷たい怒りを表しているように見える。というのが彼らの恐怖の深層のようである。

若者たちもレポートや社内文書などで堅い文章を書くときは当然「。」を使うに違いない。一方で内輪のコミュニケーションで使う言葉は標準的な日本語とは別の言語へと進化を始め、彼らは器用にそれを使い分けているのだ。若者のスラングが上の世代に理解できないのは時代を問わず世の常だが、句読点の省略のような文章表現の基盤をも揺るがすレベルの変容は、あまり聞いたことがない。

かつて日本語は文語体が口語体からかけ離れていた時代があったが、明治の文豪たちが言文一致運動を起こして現在の文体に統一された。ところが今、Z世代はスマホ上のコミュニケーションに特化した「超口語体」を使いこなし、日本語の新体系を生み出そうとしている。2020年代は明治の言文一致に匹敵する日本語の変革期だった、と未来の言語学者が宣言する日が来るかもしれない。

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追悼 小澤征爾 [音楽]

昔の話だが、生前の母がいっとき成城の小さな教会を借りて子供たちに英語を教えていたことがある。その縁で教会のクリスマスイベントに呼ばれた母が、地元在住の小澤征爾さんの姿を見つけた。皆でクリスマスキャロルを歌う段になると、小澤さんが自ら「じゃあ、ぼく指揮するわ」と立ち上がり、場を盛り上げたそうである。地域イベントなのに世界のオザワの棒で歌えるなど、何と贅沢なクリスマスプレゼントか。小澤征爾は立ち昇るオーラと庶民的な気さくさのギャップがすごい、と母が感心していた。

tsue_sennin.png一期一会のコンサートを聴きに訪れるだけの聴衆にとっては、指揮者はオーケストラのセンターで踊り魔法の杖を操る花形だ。しかし指揮者の仕事の大半は、コンサートが始まる前に終わっている。オーケストラは一人一人が音楽的個性とプライドを持つ厄介なプロ集団だ。指揮者はそんな相手を束ねて一つの楽曲をまとめ上げなければならない。指示が細かすぎれば嫌われるし、創る音楽が浅ければバカにされる。指揮者は音楽家であると同時に、プロジェクトマネージャでもある。知識が豊富で頭が切れるだけではプロジェクトのリーダーが務まらないのと同じで、音楽的才能はピカイチでも烏合の衆を惹きつけるカリスマ性を備えていなければ、指揮者として成功を極める可能性はおそらくない。

今でこそ世界のクラシック音楽界で活躍する日本人は珍しくないが、小澤征爾さんはその草分けだった。クラシックは欧州の伝統芸能だから、日本の梨園や角界に似てとても保守的な世界だ。ウィーンフィルが最近(1997年)まで女性の正団員を採用しなかったことは有名である。ベルリンフィルも、80年代くらいのコンサート映像を見ると大半が白人男性である。東洋人に西洋音楽が分かるものか、と平気で言われていた時代に、小澤さんは音楽を奏でる心に国境などないことをタクト一本で証明し続け、少しずつ偏見を塗り替えて来た。

2016年に小澤征爾さんがベルリンフィルを振った際、コンサートマスターの樫本大進さんを聞き手にインタビューで語る映像を見たことがある。小澤さんが「あなたのとこのオーケストラ、やっぱりすごい(中略)こう、弦の粘りがね」と言うと、樫本さんが驚いて「それは(小澤さんが)要求するからですよ」と答えるくだりがある。指揮台に小澤征爾が立つと、天下のベルリンフィルすら音が変わる。世界最高の管弦楽団と今や対等に渡り合い、お互いに深い敬意を払う関係を築いた世界のオザワの到達点を見る思いがした。

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君たちはどう鍋を食うか [社会]

大阪公立大学の講義中に鍋をつつく学生が現れた、というネットニュースの見出しを見て、学級崩壊もそこまで来たかと思わず唸った。が、記事を読み進めると、どうもそういうことではないらしい。この講義を担当する増田聡教授のSNSに、こうある。
「オレの授業なら授業中に鍋やっていいよ」と言い続けてきたがようやくほんまに鍋やってくれた学生(一回生)が現れました。やー大学とはこんなふうに手間暇かけて自由であることのディテールを確認する空間であるべきやと思うねん。自前でそれをやる見所のある若者たちである。がんばってくれたまえ
何を言っているのか、よくわからない。鍋を食べたければ、授業をサボって誰かの部屋にでも集まって盛り上がればいい。そっちのほうが、よほど自由だ。

nabe_chanko.png昔は一般教養の授業をサボる学生はちっとも珍しくなかった。毎週出席する学生の方が少ないので、いつもいる学生同志はすぐに仲良くなった。普段はガラガラの教室が、期末試験の時期だけ入りきれないくらいごったがえす。この大学には学生がこんな大勢いたのか、と驚いた。率直に言って、出席率と成績はあまり関係がない。授業に来なくてもやたら出来る連中もいれば、単位を落としまくって留年する学生もいた。

勉強するもしないも学生次第だから、講義に顔を出さなくてもあからさまに叱る教員はいなかった。良し悪しは別として、当時はそれが大学の自由だった。食材やカセットコンロをわざわざ教室に持ち込む面倒くさい「自由」など、アホらしくてだれも思いつきもしなかった。

今の学生は、総じて真面目である。私たちの世代が学生だった30年前に比べ、授業の出席率はずっと高い。毎回出席を取られそれが単位に必須の講義であれば、イヤでも来ざるを得ない。でも、大学で自由を確認したい増田教授は、まさか出席など取っておられないだろう。自由を謳うのであれば、オレの授業が退屈なら来なくていい、代わりに他所で勉強するもしないも君たち次第、と言えばいいだけの話だ。

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けん玉ギネス記録 [その他]

ミシュランといえば、言わずと知れたレストラン・ホテル格付けの権威である。タイヤメーカーがグルメ界の頂点に君臨する実情は一見すると奇妙だが、ミシュランガイドはもともとフランス国内旅行の無料ガイドブックに過ぎなかった。自動車が一般に普及し始めた20世紀初め、ドライバーが愛用する旅のお供としてその歴史が始まったわけである。

奇妙といえば、ビール会社が世界記録を認定するギネスブックも不可思議な伝統である。ギネスブックのルーツは、ギネスの社長が狩猟に出かけた際に一番早く飛べる鳥は何かと議論が始まり、その答えがどこにもみつからなかった出来事に由来するという。これがのちに「世界で一番〇〇なのは?」というパブ定番の議論ネタを解決する本のアイディアを産み、通称ギネスブックとして知られるようになった。ビールの売り上げに貢献しているか定かでないが、ビール醸造の会社が世界記録集の出版を手掛けた背景はアイルランドのパブ文化に端を発するのである。

オリンピックで世界記録を出すのは並大抵のことではないが、ギネスブックの敷居はそこまで高くはない。競技種目があらかじめ決まっているオリンピックと違い、ギネスブックは自分で新種目を造ることができる。他の誰も挑戦しないマニアックな記録に挑戦すれば、一般人がギネスブックに載ることも夢ではない。試しにギネスワールドレコーズの日本版オフィシャルサイト(ここ)を覗いてみたところ、ダイソンの掃除機で50メートルを掃除する最速タイムという記録が紹介されていた(22.31秒で床に散布された重曹の99%を回収できたそうである)。世界最速も何も、50メートルを全力疾走で掃除しようと思った人が人類史上かつて誰もいなかっただけの話ではないか。もちろん、要は掃除機メーカーのキャンペーンである。

omocha_kendama.pngここ数年にわたり、NHK紅白歌合戦がけん玉連続成功数のギネス記録にチャレンジしてきた。ご自身がけん玉道四段という三山ひろし氏が演歌を熱唱する裏で、ずらりと居並ぶ名人たちが次々と技を決めていく。2022年の紅白では127人のギネス記録を達成したので、昨年末は128人で新記録に挑んだ。その場では無事記録達成と思われたが、直後のビデオ判定で16番目の挑戦者が技を外していたことが判明し、チャンレンジ失敗となったそうである。2023年の紅白は、ジャニーズ不在とけん玉騒動に見舞われた回として歴史に刻まれることだろう。

何かを始める決心よりも、いったん始めた何かを終える決断のほうが時として難しい。けん玉ギネス記録はその好例だ。しかし新記録なるものは毎回ハードルが上がっていくから、必然的に成功率は下がり続けいつか失敗するに決まっている。これを機にNHKが目を覚まし、無謀で無意味なけん玉プロジェクトを今後放棄するのであれば、16番氏の失敗も結果的に報われるだろう。たぶんけん玉チャレンジに限ったことではなく、迷走する紅白のあり方そのものを見つめ直す好い機会のような気がする。

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