SSブログ

クララとお日さま [文学]

yuuyake_yama.png『クララとお日さま(Klara and the Sun)』は、カズオ・イシグロが6年ぶりに上梓した新作長編である。もともと寡作な作家だが、その代わり作品一つ一つの密度と完成度が半端ない。前作『忘れられた巨人(The Buried Giant)』では、忘却の霧に沈みゆくアーサー王伝説後の世界を舞台に、仲睦まじい老夫婦の心深くに眠る孤独の闇をえぐり出した。『クララ・・・』はというと、差別や遺伝子改変技術といった社会の課題を横軸として、家族や隣人のあいだに交錯する複雑な感情を丁寧に見つめる。SFやファンタジーの設定を借りつつ、身近で普遍的な人間関係の軋みを描くのが、ここ10年ほどのイシグロ小説(二つだけだが)のテーマのようである。

イシグロ作品の登場人物は、たいてい自我が強くてとげとげしい。表向き人当たりが良くても、往々にして内心は頑固で自己中心的だ。それは『クララとお日さま』でも例外ではないが、主人公のクララだけは一貫して冷静沈着で他意がない異色のキャラである。作者がクララだけに異例の特権を与えたのは、彼女がそもそも人間ではないからだ。

クララはAF(Artificial Friend)と呼ばれるアンドロイドの少女である。ショップの窓から垣間見える世界の一角を、日々観察するクララ。知的で洞察力に優れながら、その一方で世界を独特な「常識」で捉えている。太陽光発電で動作する彼女は、生身の人間も同じように陽射しを糧に命をつないでいると信じている。ある日クララは、病弱な少女ジョジーの話し相手として買い取られる(『アルプスの少女』のハイジとクララの関係に少し似ているが「クララ」の立場が逆転している)。クララはジョジーを不治の病から救うため、太陽を相手に取引を持ちかける奇矯な計画をひそかに温める。

AFの存在が当たり前の近未来世界だが、アンドロイドに向けられる人々の眼差しはしばしば冷たくぎこちない。しかし怒りや憎悪の情動をプログラミングされていないクララは、露骨な仕打ちすら淡々と受け止める。時折クララの認知機能に一時的な障害が生じ、彼女の視覚が奇妙に歪む。しかしストレスやパニックという概念を知らないクララは、明らかな機能不全すら慌てる素振りも見せない。クララの一人称で語られる物語は、早朝の湖面に映し出される大自然の風景のように、澄みわたった静けさに満ちている。

だが読者はやがて、そんな水面にさざ波を掻き立てる不穏な風向きを感じ取る。隣家に住むボーイフレンドのリックとジョジーを隔てる「階層」の壁。その壁に抜け穴を穿とうと企むリックの母。別居するジョジーの父と母を分かつ価値観の溝。そして、ジョジーの母がクララを手に入れた本当の理由。ジョジーとリック、リックと母、母とジョジー、人間たちがエゴと表裏一体の愛情に傷つき苦しむ傍らで、クララはひとり純粋で無償の友情を貫こうとする。イシグロ作品の常として過剰な演出を拝した静謐な物語だが、終盤思わぬできごとが春先の突風のように訪れる。仰々しい仕掛けは何もないのに、そのクライマックスが言葉を失うほど神々しい。

『クララとお日さま』の結末は果たしてハッピーエンドか?どの登場人物に肩入れするかで、たぶんその印象は変わるだろう。作品の舞台はクララにとって決して幸福な世界ではないが、それでも彼女の独白は相変わらず物静かで、取り乱すことはない。でもカズオ・イシグロが創り出したAFは、無私無欲の聖人ではないし、無機質なロボットでもない。最終章までたどり着いた読者は、明鏡止水のごときクララの語り口が隠しきれない、彼女のかすかな心の震えに気付くかも知れない。

共通テーマ:日記・雑感