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ハリウッドの大統領 [海外文化]

ロシア国内ではプーチン大統領の支持率が8割を超えているという。思ったことを率直に言えない厳しい状況とは言え、独立系メディアの調査ですらプーチン大統領の盤石な人気は揺るがない。祖国の蛮行を直視する痛みに耐えられず、耳に心地よい国営放送のプロパガンダに浸る。2割と8割を隔てる壁は、その誘惑の強さを意味しているのだろうか?

もちろん、それはロシアの人々だけに起こる問題ではない。今回は『コロラドの☆は歌うか』復刻企画の第2弾、2003年イラク戦争突入に踏み切ったアメリカで米国人の愛国心について考えたコラムを再掲したい。



(2003年)3月23日、ハリウッドでアカデミー賞の発表式典が開かれた。 日本では『千と千尋の神隠し』の長編アニメーション部門受賞がもっぱら話題を集めた(と思う)が、 今年の式典で際立っていたのは何といっても戦争の影だった。 主演男優賞を獲得した『The Pianist(戦場のピアニスト)』のエイドリアン・ ブロンディは、受賞スピーチの時間切れの合図を振り切るようにして、 平和的解決への願いを訴え満場の喝采を浴びた。 スピーチに直接・間接的を問わず反戦のメッセージを含ませた受賞者やプレゼンテーターは、彼に限らない。 だがその中で一人、公然とブッシュ大統領をこき下ろした長編ドキュメンタリー部門の受賞者マイケル・ムーアは、スピーチの最後を猛烈なブーイングに掻き消された。 この極端なまでの反応の違いは、アメリカ人にとって「反戦」と「反大統領」 の持つ意味の決定的な違いを浮き彫りにしたと言える。

america_daitouryousen_man2.png大統領に対するこの特殊な敬意は、(言うまでもなく) ジョージ・W・ブッシュの人望によるところではない。 彼の演説は語彙の貧弱さや無意味な言い回しの多いことで知られ、 ワイドショーではもっぱらコケにされ、 報道番組でも持ち上げられることはまずない。 だが彼がひとたび壇上に立ち、スピーチのさびに至って 「United States of America!」のキメ台詞を吐いた瞬間、 アメリカ人はボタンを押したように割れんばかりの拍手を送る。 ブッシュ個人をからかうのに遠慮はいらないが、アメリカ人に向かって大統領をこき下ろすのは避けた方が無難だ。 この国の人々にとって、「大統領」は星条旗と同じく彼らの神聖不可侵な価値観を代表する記号なのだ。演壇に立った瞬間から、そこにいるのはもはや 「ジョージ・W・ブッシュ」ではなくなるのである。

これはアメリカ人が幼いころから注意深く刷り込まれる、 抽象化された宗教といえるのかもしれない。 ふだんは至って理知的で愛国心のそぶりも見せない人すら、星条旗・国歌・大統領の 3点セットを突きつけられると、ある種のトランス状態に陥り God Bless Americaに涙することもある。 とは言え、普通の宗教とは大きく違うのは教義も教祖も存在しないことで、 あるのはあくまで象徴的な⏤⏤しかし実に強固な⏤⏤国家意識のみだ。 そのあたりに、表現・信教の自由を標榜する気風と矛盾することなく、 多宗教・多民族の国民を一つにまとめ上げた秘訣があるのかもしれない。

だがそれは逆に、あらゆる思想がアメリカの名の下に正当化され得る土壌を生む。 個人レベルでは底抜けにフレンドリーなアメリカ人が、 国家レベルでは最強の軍事力を引っ提げ他国を攻撃に行くという矛盾の裏には、星条旗に象徴されるアメリカの全てを肯定するワイルド・カードがある。 反戦運動は大いに結構⏤⏤ヒューマニズムはアメリカの心である⏤⏤だが、アメリカそのものに唾を吐くことは絶対に許されない。 マイケル・ムーアの反戦思想に共感する人は多かったはずだが、彼は憤りのあまり押してはいけないボタンを押してしまった。 アカデミー賞会場の聴衆の反応は、アメリカン・スピリットの二重構造を如実に体現していたと言えるだろう。

ハリウッド映画は、良くも悪くもアメリカ的価値観の鏡である。 露骨な一例は『インディペンデンス・デイ』のクライマックス、 異星人の襲撃による焼け野原で演説する大統領が、人々に抵抗を呼びかける場面だ。 非米国文化圏の観客にとっては困惑すら覚えるこのシーンも、アメリカ人なら容易に涙腺を緩めて不思議はない。
一方『インディペンデンス・デイ』とほぼ同時期に公開された『マーズ・アタック』は、物語のプロットが良く似ている反面、背後に流れる価値観はまるで逆である。 燦然たるオールスター・キャストを揃えながらチープな悪趣味に徹したこの映画では、米軍は火星人の襲撃にまるで歯が立たず、議会はあっさり全滅し、 最後には大統領すら火星人の首領にころりと騙され殺されてしまう。 結局地球を救うのは、痴呆の老女とその内気な孫だった。 『インディペンデンス・デイ』の大統領演説に対応するシーンは、 『マーズ・アタック』では死んだ大統領に代わってその娘が二人を表彰するシーンである。 そのとき、間に合わせのバンドが奏でるアメリカ国歌に、 老女は顔をしかめて耳をふさぐ。 このシーンの象徴する意味は深遠だ。 そこに私は、悪乗りの限りを尽くしたブラック・コメディにティム・バートン監督が仕込んだ、したたかで高潔なメッセージを見る。

宇宙戦争型SFの体裁を借り、「誰が世界を救えるか」という問いに正反対の答えを出した二つの映画。 強すぎる愛国心に目が眩んだアメリカの欺瞞と、 それを冷静に見据えるもう一つのアメリカ。 この二重の価値観のバランスがかろうじて持ちこたえている限り、 国際社会で孤立も辞さないこの国の奥深くに、いまだ潰えぬ良心が残されているはずである。

※初出『コロラドの☆は歌うか』2003年3月28日付

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