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午後の恐竜 [文学]

Tyrannosaurus.png『午後の恐竜』という星新一の短編がある。星新一と言えばユーモアと皮肉のきいたオチで読者を唸らせるショートショートの達人だが、もう少し長めでちょっとシリアスなテーマを扱った短編もたくさん書いた。『処刑』しかり『午後の恐竜』しかり、異彩を放つ傑作が少なくない。

街を闊歩する恐竜たちを見上げ子供らがはしゃぐ不可思議な場面で幕を開ける。いったい何が起こっているのか、誰にもわからない。恐竜は蜃気楼のように実体がなく、触れることができない。そこら中に原始の植物がはびこり、空には翼竜が飛び交っているが、すべて立体映像のように儚く無害だ。次第に恐竜は姿を消し、代わりにマンモスのような哺乳動物が跋扈する。目まぐるしく時代が進み、やがて原始人が現れる。あたかも進化の歴史を早送りで再現するショーが繰り広げられているかのようだ。そして地球史がついに現代に追いついた夕暮れ時、物語は衝撃的な結末で幕を閉じる。

1968年に発表された『午後の恐竜』は、テーマパークのパレードを眺めているような祝祭感を装いながら、通底するのは冷戦期の緊迫した時代の空気である。一歩間違えれば容易に世界を破壊し得る核兵器の脅威。人は死の直前に一生の記憶が走馬灯のように頭をよぎると言うが、『午後の恐竜』で描かれるのは地球全史を網羅する壮大な「世界の臨死体験」だ。子供たちが嬉々として無害な恐竜と戯れる間に、世界は破滅に向かって猛然と突き進んでいく。

米ソが軍拡競争に邁進していた当時、人々は何食わぬ顔で当たり前の日常を送りながら、一皮むけばその深層に黙示録的な不安が潜んでいた。でも裏を返せば、どんな暗鬱な時代にも人々の変わらぬ暮らしがあり、日々のささやかな喜怒哀楽であふれているということでもある。ロシア軍に破壊されたウクライナの街で、かろうじて全壊を免れた自宅に暮らす市民がせっせと花壇の手入れをする様子をテレビで見た。そのとき思い出したのが『午後の恐竜』である。これは世界の終わりの話ではなくて、人々のたくましい知恵と生命力についての物語だったのか、と初めて気付いた。

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