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遥かな宇宙と内なる宇宙 [科学・技術]

サイエンス誌が、今年を代表する科学的ブレイクスルーとしてブラックホール撮像成功を挙げた。このブログでも以前軽く触れた案件だが、学生時代は天文学者を志し(て結局挫折し)た身としては大好物のネタである。ブラックホールの存在を暗に示唆する間接的観測事実は以前からたくさんあったが、御本尊は小さすぎてとても見ることは叶わないと私が学生だった90年代ごろは思われていた。見えはしないがそこにあるはずだ、という状況証拠を積み重ねていくのもサイエンスの重要なプロセスだが、目の前に実物の影がぬっと立ち現れるとやはり感慨が違う。この偉業を達成した国際プロジェクトの日本チーム代表が同期の友人ということもあり、個人的にひときわ思い入れが強い。学生のころ机を並べていた仲間が今や世界と渡り合う勇姿を眼にするのは、とても誇らしい。何ら自分の手柄ではないのに、つい我がことのように周りに自慢してしまいそうになる。

サイエンス誌は同時に10余りの2019年重要科学イベントを挙げており、その中にAIがポーカーでプロを負かしたというニュースがある。コンピュータがチェスの世界チャンピオンに勝利したのは随分前の話だが、ここ数年で将棋や囲碁などチェスより手数が多くて複雑なゲームでAIがプロと互角の実績を上げ始めている。複数の対戦相手と勝負する上に相手の持ち札が見えないポーカーは、1対1のボードゲームよりアルゴリズムが高度で、将棋や囲碁よりさらに敷居が高いとされていた。ポーカーの制覇は、昨今急速に進化を続けるAIの面目躍如といったところか。

ai_computer_sousa_robot.png現在とくに研究が盛んなAI技術の根幹は、機械学習である。機械学習はコンピュータに膨大な数の実例を与えて背後の法則を自ずと学習させる方法論の総称で、その原型は古くから試みがあるが、計算機性能の飛躍的な進歩とともに処理できるデータ量が爆発的に増大し、AIの高度化をもたらした。AI(人工知能)というSF的な語感に似合わず、実態は泥臭い学習プログラムで鍛えられたソフトウェアに過ぎない。だが先のポーカーの件ではAIが仕掛ける大胆な賭けにプロのプレイヤーが驚いたというから、単なる学習の総和を超える何かがAIの中で起こっているのかと想像してみたくなる。

機械学習の基本的な設計思想は、人間の脳の模倣である。幼い子供は周りの人が話す無数の言葉の断片にじっと耳を傾けるうちに、いつのまにか母国語の文法を使いこなせるようになる。実例を積み重ねて一般法則を習得するプロセスはまさに機械学習の手本だが、人はいったん言葉を使いこなせるようになると、やがて言葉で自分の考えをまとめたり、誰に教わったわけでもない新しいアイディアを披露したりする。同じようなことは、十分に高度化したAIにも起こるのだろうか?シンギュラリティなどと言って恐れられるが、既存事例の学習をひたすら積み重ねるだけのコンピュータプログラムが、ひとりでに自律的な思考を始めることがあり得るのだろうか?

というようにコンピュータが人間固有の能力を超える話題ばかりが注目されるが、裏を返せば私たちの脳がことも無げに行っている情報処理作業のすごさを再認識させられたということでもある。CPUやメモリのスペックとしてはパソコン一台に遠く及ばないはずの人間の脳は、最先端の計算機リソースを湯水のように使って構築した機械学習アルゴリズムと互角のパフォーマンスを実現するのだ。AIの進化が人類を脅かす日が本当に来るのか私にはわからないが、現在のAIはボードゲームやカードゲームで人間を下すことはできても、生身の脳が普段の生活でやっていることの総体を丸ごと再現する能力には遠く及ばない。本当の驚異はむしろ、アナログで非力な人間の脳が秘めた能力の深遠さである。

2019年、人類は遠い宇宙の秘密の一端を紐解くとともに、内なる宇宙に広がる底知れぬ謎の深さに触れた。2020年の科学シーンは私たちに何を見せてくれるだろうか。

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大学入試改革はどこへ [社会]

大学入試センター試験に代わる共通テストの計画が頓挫した。二本柱であった英語の民間試験活用と国語・数学の記述式設問導入のいずれも仕切り直しとなり、大山鳴動して鼠一匹の感がある。前者が批判された背景には文科相の「身の丈」発言が炎上した要素もあるので純粋に制度設計の問題だけとは言い切れないが、後者については明らかに性急に事を進めすぎたようである。50万人を超える受験生の記述式回答をいったい誰が採点するのかと不思議に思っていたら、バイトの大量雇用という驚愕の情報が飛び交って案の定批判の嵐となった。秘匿性や公平性にことさら神経を使う入試現場の苦労を知り尽くした大学関係者にとっては、文科省ご乱心かと呆れ返るレベルである。

document_marksheet_naname.png現行制度の大学入試センター試験は完全マークシート方式で、記述式解答は求められない。マークシート方式の利点は、機械が採点するので処理が早くてヒューマンエラーが入らないことと、正誤がはっきりしているので配点に主観の余地がなく自己採点が容易であることだ(これは受験生が二次試験を受ける大学を決める上で大事な要素である)。逆にマークシート試験の限界は、単純な知識の有無や機械的な解答テクニックに左右されがちで、思考力や表現力を図る指標としては不十分だという指摘が主のようである。

たしかに、論理的思考力や文章表現力を問うなら記述式の設問が向いているだろう。ただし、受験生の地頭のみならず採点者の見識も同時に試される。仮に模範解答を凌駕する見事な答案が出てきたとしても、その真価を見抜ける採点者がいなければ想定正答例からの逸脱と見做され減点されかねない。それではわざわざ記述式にする意味がないばかりか、むしろ逆効果である。現実問題としては、あきらかに優れた答案は記述をざっと眺めただけでわかるし、その逆もまた然りだ。採点者によって最も判断が分かれるのは、成績がボーダーライン上の微妙な答案である。しかし共通テストが大学ごとの個別試験に先立つ一次入試という役割を担っていることを考えると、ボーダーライン前後の答案をどれだけ客観的に評価できるかこそ採点の透明性を確保するキモとなる。結局、現行のマークシート方式のほうがますます現実的に思えてくる。

思考力より知識重視のカリキュラムは詰め込み教育などと批判されたりもするが、知識は思考力の基礎であって軽視できない。テレビのクイズ番組でとてつもなく広く深い知識をこともなげに披露する現役東大生が活躍しているが、彼らは別に詰め込み教育が生んだモンスターではなくて、知的好奇心が人一倍旺盛なせいで誰に言われなくても貪欲に知識を吸収しているのである。物知りな人の話がいつも理路整然でわかりやすいとは限らないが、豊富な知識の使い方をよく心得ている人はおおむね思考力にも表現力にも優れている。かつて詰め込みの反省からゆとり教育が生まれたが、詰め込みをやめれば自発的思考に長けた人材が育つという淡い期待はあっさり外れ、今や再び脱ゆとりに舵を切った。詰め込みかゆとりかという対立軸を設定した時点で、すでに対処を誤っているのだ。育てるべきは好奇心と集中力で、この二つに恵まれた子供(大人も同じだが)は詰め込まれようが「ゆとられ」ようが必ず伸びるのである。

ゆとり教育にせよ共通テストにせよ、文科省肝いりの教育制度改革はなぜか残念な結末に陥りやすい。今回の迷走案件に関して敢えて良かったことを挙げるなら、現行のセンター試験が一次選抜の土俵としてはそれなりに良くできた入試制度だと再認識されたことだろうか。

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男はつらいよ50周年 [映画・漫画]

来年ドラえもん50周年を迎えると先週書いたが、奇しくも今年は『男はつらいよ』映画第一作から50周年でもある。この年末には往年のキャストが同窓会のように集結し新作が公開されるらしい。しかも寅さん本人が4Kデジタル修復で蘇るという触れ込みだ。よくわからないが何だかすごい。

eiga_kachinko.png渥美清の生前に作られた『男はつらいよ』シリーズは48作ある。寅さんが旅して恋してフラれる、という水戸黄門ばりの鉄板ストーリーでファンの期待を裏切らない。だが失恋パターンには何通りかあって、マドンナが寅さんの本心に気付いてすらいないこともあれば、実質的には寅次郎のほうが好きなはずの相手をフッていることもある。寅さんは恋を妄想し始めるとなりふり構わず暴走するのに、いざ妄想が実現しそうになったとたん急にそのリアリティが怖くなって逃げ出すのである。そんなとき笑ってごまかす寅さんを見つめる妹のさくらは、いつも泣きそうな顔をしている(本当に泣いてしまう回もある)。人並みの幸せを受け止めるには諦観の深すぎる寅次郎がさくらにはもどかしくてならない反面、兄の孤独を誰よりもよく理解しているのもまた彼女のようである。

シリーズ後半から準主役級の存在感を放ち始めるのが、さくらと博の一人息子満男である。大人社会のしきたりから自由な寅さんと、世間の良識を代表するさくらとその家族。この相容れない価値の衝突が『男はつらいよ』の可笑しさと哀しさの源泉であるが、満男はやがて居場所を求めてそのはざまを彷徨うようになる。思春期の悩みに悶々とする満男に寅次郎は何ら実践的な解決を示すわけではないが、世間的な成功とか安定とは無縁のところで生き延びてきた寅さんのおおらかさに、さくらや博の親心とは別次元の優しさを満男は嗅ぎとるのだ。これはまた、ワケありのマドンナたちが寅さんに惹かれる理由でもある。

話は変わるが、映画『ニュー・シネマ・パラダイス』で恋に夢中なトト青年にアルフレード老人が語り聞かせるこんな寓話がある。とある国の王女様に護衛の兵士が恋をした。身分違いと知りながら気持ちを抑えられない兵士は、ある日王女に思いを打ち明ける。驚いた王女は、それなら私のバルコニーの外で100日間待っていなさい、100日目にあなたの気持ちに応えましょう、と告げる。喜んだ兵士は王女のバルコニーの下に椅子を置いて座り込んだ。10日、20日がたち、50日が過ぎ、風の日も雪の日も兵士はひたすら待ち続けた。90日が過ぎる頃には、兵士の肌は干からびて真っ白になった。しかし99日目の夜、兵士は不意に立ち上がると椅子を持って王女の前から姿を消してしまう。アルフレードはその理由を語らず、トトも観客も煙に巻かれる。でも私は、この兵士に寅次郎の遠い面影を見る。

『男はつらいよ』は一見あまりに日本の下町的な人情話で、海外とくに欧米圏では理解されにくいのではないか、と思われるが案外そうでもない。寅さんがウィーンに行く話があるが、これはもともと出張中の機内で『男はつらいよ』を見た当時のウィーン市長が感激し誘致したのがきっかけだという。先の話で王女に恋い焦がれた兵士は、夢想が現実になる瞬間を目前にした99日目、寅次郎と同じくその重さに耐えられなくなったのではないか。根っから純粋なこの兵士には、手の届かない幸福を永遠に求め続けることだけが心の糧だったのである。日本映画とイタリア映画に登場する縁もゆかりもない二人の人物に同じ匂いを感じるのは単なる偶然か、それとも洋の東西を問わない人間の哀しさなのか。

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ドラえもん50周年 [映画・漫画]

『ドラえもん』の連載が始まったのが1970年1月、来年で50周年を迎える。生みの親の藤子・F・不二雄氏が他界してなお毎年のように長編映画が作られる類まれな国民的漫画が、ついに半世紀の節目を迎える。オリンピック・イヤーなどと浮かれている場合ではない。

Draemon1.pngとくに初期・中期のドラえもんがいい。単行本で言えば30巻くらいまでが黄金期か。ドラえもんはもともと、結構おっちょこちょいで危なかしかった。のび太からどら焼きにつられて宿題代行を請け負う羽目になったドラえもんが、苦肉の策でタイムマシンを使い数時間後の自分自身を大量招集したあげく、内輪揉めでボコボコにされる話がある。他にも近所の猫に恋して骨抜きになったり、ネズミ怖さに正気を失い地球破壊爆弾なる物騒な代物を取り出したり、諌めるのび太の方が大人びて見えるエピソードに事欠かない。それがドラえもんの愛嬌であり、ロボットらしからぬ人間臭さの源であった。のび太にとっては単なるお目付け役を超えた存在だったからこそ、体を張ってでも未来に帰るドラえもんを安心させようとしたのである。ところで話は逸れるが、家庭用ロボットが大量破壊兵器にアクセスできる未来世界の安全保障体制はいったいどうなっているのか。核拡散への懸念が広がる昨今の国際政治事情に重ねると、将来に何やらキナ臭い不安を禁じ得ない。

しずちゃんはフェミニスト受けが悪いようである。主要登場人物の中では紅一点で、男子が憧れる可愛い女の子という記号を演じていると言われればそうかも知れないし、入浴シーンが無駄に多いのも事実である。とは言えしずちゃんがいつも風呂に入っているのは単に本人が風呂好きだからであって、他人にとやかく言われる筋合いはない。そもそもしずちゃんは人に媚びる性格ではないし、優しいときも怒るときも自分の価値観に芯が通ってブレない。男友達には基本的に等距離で接するし、あの出来杉君さえことさら特別視はしない(のび太が勝手に嫉妬しているだけである)。ちびまる子の親友たまちゃんと並んで、小学生としては相当に人間のできた少女である。

ジャイアンの暴力的な性格は弁明の余地がない。しかし内面はかなり複雑な少年であり、繊細なガラスの心の持ち主でありながら、義理を重んじここぞという場面で骨太な男気を発揮する。母親にはめっぽう弱いが、妹思いの優しい兄の側面も持ち合わせる。だから『さようならドラえもん』でのび太にけんかを売ったジャイアンは、事情を知ってわざと負けたとのだ私は密かに信じている。非力なのび太を相手に大したダメージを受けていなかったジャイアンが、ドラえもんが駆けつける頃合いを狙ったかのように突然降参するのは、偶然にしては出来すぎていないか。

スネ夫はもっぱら「強きを助け弱きをくじく」ネガティブな印象が強い。高慢とかズルさとか自己顕示欲とか、大人社会でも「ああこんなやついるよな」という負の性格要素を一手に引き受けている。その意味では、話に絶妙なリアリティを添える重要な役回りだ。仮にスネ夫のいない『ドラえもん』を思い浮かべてみると、筋立てとしては成り立ったとしても何か物足りない気がする。

『ドラえもん』の主人公はドラえもんだと思っている人がいるかも知れないが、のび太が主役である。1巻はのび太の部屋の引き出しからいきなりドラえもんが飛び出して来るところから始まるように、のび太の視点で展開する物語だ。テストはいつも0点、運動神経もゼロ、ジャイアンにはいつも追いかけられ、スネ夫にはバカにされる。これだけ容赦ない設定を与えられながら、のび太には不思議と屈折した悲壮感がない。しずちゃんのパパをして「人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことのできる」と言わしめたように、素顔ののび太は根が優しくて心の真っ直ぐな少年である。物語に表立って現れることは少ないが、のび太の基本的なタチの良さが『ドラえもん』の衰えぬ人気を支える安定感の礎なのだと思う。

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