SSブログ

番外編:ご協力に感謝します [政治・経済]

figure_ojigi.png首相や専門家会議が会見で外出自粛要請に触れるとき、「皆様のご協力に感謝申し上げます」みたいなことを必ず言う。いつも引っかかるのだが、いったい私たちは何に対して感謝されているのか。ありがとうと言われて怒る人はいないので別に良いのだが、外出をガマンしていたのは自分たちと社会全体の安全のためであって、お上の施策に「協力」しているわけではない。

諸外国の場合、首脳がコロナ問題で演説するときは「難局を一緒に乗り切りましょう」というスタンスが一般的だ。一国の長であると同時に一人の市民であり、メッセージを送る側と受け取る側が同じ苦悩を共有している、という前提がある。だが私の知る限り、日本だけが国民に「協力をお願い」し、努力が実れば第一声で感謝する。強制力のない法制度だから下手に出ざるを得ないのかも知れないが、日本の為政者にとって感染症対策はどうやら行政サービスの一環に過ぎず、当人は役所のカウンターのこっち側で国民はあっち側、という感覚なのではないか。高所から感謝されればされるほど、あなたたちには他人事なのね、という印象が深まるばかりである。

世界中の国々で首相や大統領が求心力を増す中、逆に支持率を落としている稀な例がブラジルのボルソナロ大統領と我らが安倍首相だそうだ。アベノマスクや特別定額給付金の迷走で失笑を買ったとは言え、ボルソナロ大統領の破壊力に比べれば安倍首相は至ってまともである。だが、この人の演説はいつも不思議なほど心に響かない。言っていることが間違っているわけではなくて、共感回路が欠落しているせいではないかと思う。これが政府の対策です、皆さん協力して下さい、協力しましたねご苦労さま、今後はくれぐれも緩みのないよう、を繰り返す限り、内閣支持率は上がらないだろう。「私も辛かったけど皆さんはもっと大変ですよね、あと1〜2年くらいかかるかも知れないけど、今を耐えれば必ず普通の生活が戻りますよ」と一度言ってみたらどうか。感謝を百度繰り返すより、よほど心の琴線に触れるんじゃないだろうか。

共通テーマ:日記・雑感

ファクターX [科学・技術]

blackbox_question_open.png思えば3月下旬、桜の開花が始まった三連休は陽気に誘われた人々で賑わい、その後間もなく新型コロナのPCR陽性者数が跳ね上がった。3週間前のニューヨーク市を見るようだと警鐘が響き渡り、悲鳴を上げる医療現場は速やかな緊急事態宣言発令を国に求め、政府がようやく重い腰をあげたのが4月7日のことだ。もはや手遅れかと最悪を覚悟した人もいたかと思うが、感染爆発は結局起こらず、47都道府県の緊急事態宣言が順次解除された。クルーズ船対応に始まった政府対策は一貫して後手に回り、人口あたりのPCR検査数は先進国の水準に遠く及ばず、自粛要請に拘束力がなく休業要請には補償がなく、アベノマスクは検品をやり直し特別定額給付金の申請書はいっこうに届かない。何一つ満足に回っていないかのような惨状に関わらず、人口100万人あたりのコロナ死者数は7人未満と驚異の低水準を維持している。何だかよくわらないが日本はすごい、と思いを新たにした人も多いだろうか。日本の不可解な奇跡として、複数の海外メディアが紙面を割いている(Foreign Policy, Guardian, ABCなど)。

奇跡を説明する仮説は多岐にわたる。代表例は、日本人はマスク着用で歩き回ることに心理的抵抗が少ないとか、握手やハグなどボディタッチの習慣が薄いといった社会行動学的な説明だ。真面目な国民性ゆえ法的拘束力のない自粛要請だけでGWの新幹線がガラガラになるとか、同調圧力が強く独りで目立つ行動は取りたくないなど、社会心理学的な仮説もよく聞かれる。壮大な社会実験でもやらない限り証明は難しいが、いずれもありそうな話ではある。他にも(信憑性は定かでないが)日本人は肥満率が低く重症化しにくい、納豆を食べるので免疫力が高い、など文化習慣をめぐる多彩な俗説が乱立している。

日本独特の地道なクラスター対策がうまく機能したのだ、と胸を張る専門家もおられる。ウイルスのゲノム解析から感染源を追跡する研究を国立感染研が発表し、武漢起源の「第一波」はほぼ収束に成功したが、3月中旬以降ヨーロッパから持ち込まれた「第二波」は経路不明の感染者を大量に生み出した、ということである。クラスター追跡戦略は第一波の封じ込めには確かに有効だったが、緊急事態宣言をもたらした第二波ではむしろその運用上の限界があぶり出された感がある。日本型戦略そのものの是非はさておき、死亡率の低さを説明する要因としてはその役割は限定的のように思える。

ところで、武漢起源と欧州起源でウイルスの遺伝子に変異が認められることから、欧州株の方が感染力が高いとか毒性が強いとか諸説飛び交っているようだ。実際はどうなんだろうか?ヨーロッパはたしかに感染拡大が早く致死率の高い国が多いが、そもそもシェンゲン協定圏内は人の移動が自由だから感染があっという間に広がるのは無理もない。にもかかわらず欧州内(例えばドイツとイタリア)ですら医療体制次第で致死率が顕著にばらつくことはよく知られており、イタリアやスペインの事例だけを見てウイルスの毒性が強いとは言い切れない。ウイルス学的要因と疫学的背景を区別して問題を整理してくれる情報源がなかなか見つからないのだが、今後研究が進むことに期待したい。

感染症対策の基本は検査と隔離だそうで、検査が追いついていない日本は普通に考えれば感染爆発のリスクが高いはずである。しかも、検査を受けられない疑い患者は確定診断が下りず、本来は治療が必要な病人が大勢蚊帳の外に放置された。手厚いとは言い難い公衆衛生システムだが、皮肉なことに検査が少なすぎることが結果として医療崩壊の連鎖を防いだ感もある。日本でPCR検査数が伸びない理由として、保健所の過負荷や検査技師不足といったインフラの限界に加え、病床不足を恐れた一部の保健所が確信犯的に検査要請をスルーしたとする報道も出た。理由は何であれ、軽症(と言えども相当に苦しい思いをした)患者が病院に行けないことで、逼迫する医療現場が辛うじて守られていたのだとすれば、回っていない制度のほころびを患者の犠牲や医療従事者の献身が繕っていたことになる。何と満身創痍な「奇跡」か。

緩い対策にもかかわらず国内の感染拡大が鈍かった要因を山中伸弥教授が「ファクターX」と呼び、その解明を呼びかけておられる。いまのところ、XはまだXのままである。憶測に過ぎないが、「なるほど!」と膝を打つような明快な答えはないのではないか。仮に(1)マスク好きで(2)握手をしない(3)規律正しく(4)目立ちたがらない国民が(5)貧弱な検査体制の下で耐えた成果が日本の奇跡なら、一つひとつは目立たない要素がたまたま揃った偶然の作用が、感染拡大の危機を救ったということである。そんな「合わせ技一本」が実現した僥倖こそ、ファクターXの正体かも知れない。

共通テーマ:日記・雑感

番外編:オリンピックはどうなる [スポーツ]

olympics_tokyo_2021_line.png今後1~2年は新型コロナの第二波や第三波に備えよ、と至るところで聞かされる。とすると、来年に延期された東京オリンピックは本当に開催できるのか?先日、IOCバッハ会長が東京オリンピックは2021年が最後のチャンス(来年できなければ中止)と語った報道(BBC)があり、会長はこれを安倍首相の明確な意向であるという言い方をした。つまり首相サイドもオリンピック中止の可能性を現実的に見据えているということになるが、日本の報道ではあまり深刻に受け止められていないようである。国内メディアは東京オリンピックについて悲観的な見通しを直視したがらない気配があるが、それで良いのか?検事長の麻雀癖の話ばかりしている場合ではないのではないか。

オリンピックにはもちろん大勢の人々が観戦にやってくる。スタジアムの観戦席間を広げて3密回避はできても、会場にいない時間の行動を制限することはできない。日本の酷暑に慣れていない外国人訪問者が常時マスクをしてくれるとは思えないし(そもそも熱中症で倒れる危険がある)、待ちに待ったハレの日の旅先で「おしゃべりは控えめに食事に集中」するはずもない。完全無観客でない限り、オリンピックの市中感染リスクは避け難い。

しかし首相や都知事や組織委員会にとっては、早期にオリンピック中止を宣言する政治的リスクは高い。相当な反発と失望を買う覚悟がいるし、来年になって第2波が来なければ「開催できたじゃないか」と叩かれる。だから主催者としては、決定を先延ばしにして最後まで様子を見るほうが、ダメージが少ない。ギリギリまで世界の感染状況が改善しなければ、中止決定も世論が受け入れる。むしろ最悪のシナリオは、感染が微妙な小康状態にあるなか見切り発車でオリンピックを決行した場合だ。万が一東京でクラスターが次々と発生したら、感染者が各国にウイルスを持ち帰りパンデミックが再燃する可能性だってある。そうなると医療崩壊の悪夢がぶり返すばかりか、開催判断を誤った日本は世界から非難を浴びる事態になりかねない。

延期によって日本は数千億円規模の追加負担が発生するそうで、是が非でもオリンピックを敢行し経済効果で元を取りたいのが政府の本音ではないかと推測する。だが今後一年以内でウイルスが消滅することもワクチンが世界に普及することも想定しにくい状況下で、東京オリンピックが「人類が感染症に打ち勝った証」となるか、日本が感染症を甘く見た悲劇となるか。政治的リスクと感染再拡大リスクのはざまで、綱渡りの判断が強いられる。

共通テーマ:日記・雑感

BCGの話 [科学・技術]

BCGワクチンを打った人は新型コロナに罹りにくいのではないか、という仮説がある。BCGは結核予防のワクチンだが、自然免疫力も高まるので結核以外の感染症予防にも効果がある、という話は以前からあったらしい。ただしBCGが新型コロナに本当に効くのか、確たる医学的証拠は現時点で知られていない。二の腕に怪しい幾何学模様を残すヘンな接種くらいの認識しかなかったが、BCGは果たして「新しい生活」のなかで一躍脚光を浴びる救世主となるか、はたまた都市伝説に過ぎないのか。

BCGWolrdAtlas.pngBCG説で持ち出される根拠は、BCGワクチンを国策として義務付けてきた国は新型コロナの犠牲者が少ない(ように見える)というデータである。この図(BCG World Atlas)によると、アジア・アフリカ・南米を中心にBCG接種が広く普及している一方、BCG接種義務化をやめてしまったか、そもそも制度自体のない国がヨーロッパや北米に集中している。中でも、欧州でコロナ拡大の震源となったイタリアそして感染者数や死者数が突出して多いアメリカでは、大半の人がBCG接種を受けていない。これがBCG説に勢いを与えている一因のようである。

人口100万人あたりの新型コロナ死者数を国別に見てみよう(Our World in DataのCOVID-19統計ページから引用)。アジア諸国は一様に死亡率が低いが、発生源であるはずの中国の死者数が100万人あたり3人強とひときわ少ないことには解釈に注意が必要だ。中国のコロナ犠牲者は深刻な医療崩壊が起こった武漢地域に集中しており(WHO報告)、中国総人口14億を基準に死亡率を割り出すのでは実態を必ずしも反映しない。武漢の人口は一千万人強で中国全土の100分の1未満だから、仮に武漢を一つの国のように見ると(実際に長期間「国境」封鎖されていた)現地の死亡率は二桁多かったと考えるべきである。

コロナ死亡率が世界最悪レベルにあるベルギー(約790人/100万人)は、BCGワクチン義務化制度のない国の一つである。一方、西欧諸国の中でBCG制度を継続している数少ない国の一つがポルトガル(死者120人強/100万人)で、隣国のスペイン(100万人あたり死者600人近く)に比べて犠牲者が顕著に少ない。やはりBCG説を支持するようであるが、考慮すべき別の背景もある。Newsweekの記事によると、ベルギーは未検査の疑い例までコロナ死亡者数に算入する独自の統計を取っているので他国と単純比較ができず、ポルトガルはスペインより迅速に対策を打ったことが感染拡大を抑えたと一般的には理解されているようである。この記事はさらに、スペインはオーバーツーリズムが感染拡大に災いしたのではと推測している。外国人旅行客数の国別ランキング上位5カ国はフランス、スペイン、米国、中国、イタリアであり(2018データ)、偶然かも知れないが新型コロナの猛威に苦しんだ国ばかりだ。BCGよりも観光客数の方が、案外もっとコロナと高い相関が出てくるかも知れない(確かめたわけではない)。

BCG説では説明のつかないデータもある。例えば、ドイツ(死者100人弱/100万人)やオーストリア(死者約70人/100万人)はBCG義務化が廃止されたにもかかわらず、ポルトガルよりも死亡率が低い。オーストラリアやニュージーランドは欧州諸国同様にBCG制度をやめているが、100万人あたり死者数が4人前後と非常に少ない。オセアニアは諸外国から隔絶している地の利に加えて(もしかしたら夏半球に位置することも遠因だったか)、独・墺と同じく速やかに毅然としたコロナ対策を実施したことで知られる。コロナ対応が機敏で合理的だった国はBCG事情にかかわらず死亡率の抑制に成功している一方、ブラジルのようにBCG接種国だが経済最優先の大統領のせいか死者数が増え続けている国もある。対策が迅速でも厳格でもないのになぜか死亡率が低い不思議な国は、日出処に浮かぶ神秘の島国を例外としてあまり聞いたことがない。

BCGワクチンにはデンマーク株とか日本株などいくつかの系統があって、新型コロナには日本株の効果が有意に高いという研究もある。ちなみに死亡者数の多いフランス(死者約430人/100万人)やスペインはデンマーク株だが、「コロナ優秀国」のドイツやニュージーランドも同じくデンマーク株である。憶測だが、コロナ感染のホットスポットとなってしまったヨーロッパにたまたまデンマーク株を採用していた国が多く、日本株は欧州市場にもともとシェアがなかったからコロナ死亡率の高い国に名前が出なかった、という解釈も不可能ではない。相関は必ずしも因果関係を意味しない。

ダイアモンド・プリンセス号の疫学調査データを国別に集計すればよいのではないか、と以前から思っていた。クルーズ船は様々な国から来た人たちが同じ環境・同じ対策を共有した稀な事例であり、もしBCGワクチン日本株が新型コロナに有効なら、統計的には日本人乗客は米国人乗客より重症化率や死亡率が低いはずである。探してみたところ、実際にそのような分析をした論文があった。その結果によれば、出身国のBCG事情とコロナ感染率・死亡率のあいだに有意な相関は見られなかったそうである。

BCGワクチンと新型コロナの関係を論じた研究は肯定派と否定派が乱立しており、とりわけCOVID関連の研究成果は査読前の論文が洪水のように流通しているので、最新の知見を門外漢が正しく理解することは難しい。ただ素人の分かる範囲でデータを眺める限り、BCGワクチンが新型コロナ予防に効くとする仮説を支持する要素は薄い。もちろん、完全に否定する根拠もない。新型コロナに対するBCGの効果を見極める臨床試験が始まっているとのことなので、その結果を待ちたい。

注)本文中のコロナ死者数のデータは、Our World in Dataによる5月22日時点の100万人あたり累積死者数に基づく。

共通テーマ:日記・雑感

番外編:厚労省の抗体検査 [科学・技術]

厚労省が、新型コロナ抗体検査の結果(検査キットの性能評価)を公表した。緊急事態宣言一部解除の陰であまり注目されないが、各社報道によれば赤十字から提供された献血検体を分析したところ東京の陽性率は0.6%、しかし精度に課題あり、だそうだ。今ひとつ歯切れが悪い。

antibody-test.png報道の元となった厚労省の発表資料が、新型コロナ関連情報サイトにひっそり載っている。ページ中程に「抗体検査キットの性能評価」というPDFが貼ってあるが、相当注意深く探さないと発見できないので(見られたくない理由でもあるんだろうか)、宝探し感覚で見つけてみてはいかがか。表が一つ載っているだけの簡単な資料で、学生時代の私の実験レポート並に内容が薄い。表注釈の文言を借りれば、今年4月時点で「東京都内では500検体中に陽性が最大3件 (0.6%)、東北6県内では500検体中最大2件 (0.4%)が陽性」だった。ただし、コロナ以前2019年初頭の検体にも同程度(最大0.4%)の陽性反応が出た。厚労省の結論は「2020年の結果についても偽陽性が含まれる可能性が高い」だが、もっと素直に言えば(検査誤差の範囲内で)抗体保有率はゼロ同然だったということである。0.4%や0.6%という個別の数値は、ノイズと判別し難いのであまり意味はない。

日本のコロナ死者数が欧米諸国に比べ目立って少ないことを鑑みると、抗体検査陽性率が10%を優に超えたニューヨークなどより市内感染の広がりは鈍そうだ。とは言え、ゼロ同然とは少々意外だ。緊急事態宣言下の4月にわざわざ献血に赴くのは相当に意識高い系の人かと想像するが、コロナらしき自覚症状に身の覚えがある人(ましてPCR検査で陽性を経験した人)が敢えていま献血しようとは思わない気がするので、赤十字の検体に陽性が入り込む余地がそもそも低いのではないか。東大先端研が一般医療機関で採取された検体を使った独自の抗体検査で500検体中3例陽性と同じ結果が出たが、制度上コロナの疑い患者は一般病院を受診しないはずなので、やはりサンプリングに偏りがあった可能性もある。ただ、もし無症状でも感染すればコロナウイルスに抗体が作られると仮定し、そのような感染者が無自覚に献血や一般病院に行っていたとすると、これらの抗体検査でもそれ相応の陽性率が見えてくるはずだ。不顕性感染の規模が、よく言われるほど広がっていないということか?どう解釈すればよいのか、いちど専門家に聞いてみたい。

厚労省の今回の調査はあくまで検査キットの性能評価で、本格的な実態把握は意図していなかったと思われる。今後1万人規模の抗体検査を始めるとのことなので、その事前準備という位置づけなら、公表が控えめ過ぎる事情も一応理解できる。だが、陽性率実質ゼロの母集団ではそもそも検証の役にも立たない。性能評価が目的なら、あえて感染履歴のある検体を一定数含めてブラインド・テストした方が良かったんじゃないか。

共通テーマ:日記・雑感

不自由の中の自由 [音楽]

animal_penguin_music_band.png新型コロナのせいで鬱々とした自粛生活を送る中、ときに思いがけず心躍るできごとがある。家にこもる私たちのために、世界中のミュージシャンが演奏をネット配信してくれるのもその一つだ。ベルリン・フィルのデジタルコンサートホールが期間限定で無料開放されたり、毎晩9時から小曽根真がライブを配信していたり。何と贅沢なひとときか。

小曽根さんは、もともと敬遠していたクラシックにある頃から面白さを見出したという。逆に、もともとクラシックでピアノを習い始めたがジャズ界で超一流になった人もいる。上原ひろみの見事に粒の揃った滝のようなスケール(音階)を聞くと、ああきっとハノンで鍛え抜かれた指だな、とどうでもいいことにまで感動する。同じく幼少期クラシックで育ったキース・ジャレットは、三つ子の魂百までというのか、バッハの「平均律」1巻・2巻に加えてショスタコーヴィチの「24の前奏曲とフーガ」までCDを出してしまった。どれも煌めく星々が織りなす小宇宙のごとき壮大な曲集で、この3セットを全曲録音した人は生粋のクラシック・ピアニストだって世界に数えるほどしかいない。

ビル・エヴァンスはドビュッシーやラヴェルの音楽に影響を受けたと言われる。そのラヴェルはというとアメリカを訪れて出会ったジャズにすっかり心酔し、2つのピアノ協奏曲(ト長調と左手コンチェルト)やヴァイオリン・ソナタなど晩年の作品にジャズの影響が色濃い。ラヴェルを敬愛していたガーシュウィンに作曲の教えを請われたとき、「一流のガーシュウィンたり得るあなたが、なぜ二流のラヴェルになろうとするのです?」と断った話はよく知られている。気の利いた社交辞令と見ることもできるが、ジャズ発祥の国の若き才能がほんとうに眩しかったのかも知れない。

ジャズの人がクラシックを敬遠するのは、楽譜どおり決まった音列を演奏する窮屈さにあるようだ。でも、バッハもモーツァルトも即興演奏の名手だった。多くの協奏曲にはソロが独りで腕を振るう見せ所(カデンツァ)があって、作曲者自身がカデンツァを楽譜を書き込むことも多いが、本来はソリストが曲の素材をもとにアドリブを披露する場だった。ただ即興演奏は才能と経験を要する高度な技術で、素人には敷居が高い。過去の大作曲家が楽曲を譜面に落としてくれたおかげで、一介の愛好家が不器用なりに弾いて嗜む喜びに浸ることができる。それでも、リズムのゆらぎとかフレーズの呼吸とか、音楽の心の機微は記号では到底表現しきれない。だから、同じ楽譜なのに弾き手によって驚くほど違う音楽が立ち現れる。譜面の余白に無限の自由度が息衝いている。自由の中に型があるのがジャズだとすれば、型の中に自由が染み込んでいるのがクラシックだ。

どこにも行けない不自由な毎日で曜日の感覚すら色褪せていく中、沈みがちな心が音楽で解き放たれ、束の間ふわっと自由になれる。ネット配信で極上の演奏を届けてくれるミュージシャンの皆さまに感謝しつつ、今日もライブのリンクをポチッと押す。

共通テーマ:日記・雑感

番外編:9月入学 [社会]

感染拡大がひとまず落ち着きを見せ始め、長期にわたった休校措置にようやく出口が見えた。最近少し下火になった感のある9月入学の騒ぎは、結局どうなったんだろう。推進論者の小池都知事が、どうせいま混乱期なんだから混乱ついでにやっちまえ、みたいな暴論をぶち上げたのがまだ記憶に新しい。入口(入試)から出口(就職)まで4月-3月サイクルで回っている巨大な車輪の勢い(都知事流に言えばモメンタム)を丸ごと変えるには、相応の準備と時間がかかる。平時にできなかったことは混乱期にはもっとできないと考えるのが良識であり、慌てて作った制度は大抵次から次へとボロが出る。大学入学共通テストの導入を急いで暗礁に乗り上げたのが良い例だ。東大がむかし秋入学への移行をやろうとしたが、寝耳に水だった現場教員の反応が冷たくこれもすぐ頓挫した。

scool_room_kyoushitsu.png休校が長引き教育機会が損なわれた子どもたちをフォローするのはもちろん大事だ。一方、休校中にコツコツ勉強を進めている子どもたち(またはオンライン授業が機能している一部の学校)への目配りがほとんど聞かれないのは、少しバランスを欠いていないか。真面目に進めてるのになんで9月からまたやり直しなの?と思っている生徒や教員は、少数かもしれないが確実にいると思う。

学校の徒競走で、順位をつけないために横並びで走ってゴールさせる、という話を聞いたことがある。平等とは出る杭を打って平坦にすることだ、と日本の初等教育現場が考えている気配がないでもない。自慢ではないが、私は子供のころ運動会ではいつも下から2番めだった。私に向かって「お前がいるから絶対ビリにはならないぜ」と豪語したヤツが大抵ビリで、というのは私がこいつにだけは負けてなるものかと懸命に走ったからである。当時「遅れる子が可哀想だからみんな手をつないでゴールしましょうね」と言い出す先生がいなかったことに、心から感謝している。颯爽と一位でテープを切る友達の背中はカッコよかったし、かけっこが苦手な子供にはそれなりの勝負とプライドがあって、そういう雑多な感情体験が渾然となって人間が成長していくのだ。

閑話休題。夏休み短縮などを利用し教育格差の埋め合わせをきちんとこなすと同時に、先に進む準備のできている子たちのモチベーションを尊重することも大事ではないか。学年暦を後ろに一斉シフトすればみんな救われるという素朴な発想は、並んでゴールするのが美しいという歪んだ平等意識と地続きである。

共通テーマ:日記・雑感

当たり前だったはずのこと [文学]

カフカやカミュの小説は、不条理の文学と評されることがある。ただ、理不尽でわけのわからないものを不条理と一言で片付けてしまうと、何を理解したことにもならない。不条理を突き詰めることは、そもそも「条理」とは何なのか、を見つめ直すことでもある。

medical_pest_ishi.png時節柄、カミュの『ペスト』が急に売れ出しているらしい。カミュの作品は『異邦人』しか手を出したことがなかったが、私も流行りに乗じて読んでみた。新潮文庫の訳書は、フランス語の文章構造に寄せる翻訳家のリスペクトが止まらないのか、格調高すぎる日本語がいささか読みづらい。だが、後半から終盤になると物語の吸引力に呑み込まれ、それも気にならなくなる。舞台は1940年代、アルジェリアの港町オラン。同名の街は実在するそうだが、小説で語られるペストの流行は作者の創作である。しかし、ルポルタージュ風の淡々とした筆致が醸すリアリティが生々しい。

医師リウーはいち早くペストの兆候を見抜くが、当初は市民も行政もことの深刻さを認めようとしない。平穏な毎日に慣れすぎたばかりに、目の前の異常事態を正確に把握する想像力が機能せず、初動が遅れて事態を悪化させる(どこか記憶に新しい)。しかし死者数がうなぎ上りに増え、ついに街全体が隔離され外界との接触が封鎖される。オランの人々は、会いたい人に会えない狂おしさに苛まれ、いつ我が身にやってくるかわからないペストの恐怖に震える。当たり前だったはずの何でもない生活が、何の前触れもなく手の届かないところに消えてしまう。

奪われた「当たり前」は、日々の暮らしだけではない。ペストは人々の思想や価値観を試し揺さぶる。疫病は信心を失った民衆に神が突き付けた挑戦だ、と市民を断罪する街の神父がいる。しかし罪なき子供の命まで無慈悲に奪うペストの魔の手を目の当たりにしてから、彼は自身の信仰に確信を失い心理的に追い詰められていく。

個人に死の制裁を下す社会を受け入れることができず、検事の父と袂を分かった男がいる。無差別に死刑宣告を下すペストの猛威に社会の偽善を重ねた彼は、危険を承知で患者の看護を志願し、リウーと行動を共にする。

人知れず警察の追跡に怯え生きてきた、後ろ暗い過去を持つ男がいる。ペストに追われる恐怖に誰もが慄く中、立場が反転したことに気付いた彼は溌剌と生き返る。しかし街がついにペストから解放されたとき、市民が喜びに沸く傍らで独り精神の均衡を失う。

物語では医療従事者の献身的な努力が描かれるが、『ペスト』の語り部は彼らをことさら英雄視はしない。医師リウーは平時から人の死と向き合い、救える命と救えなかった命の狭間で自らの限界を見つめてきた男である。リウーが神の条理を信じず自分なりの死生観を築いたとすれば、検事たる父の権威を受け入れられなかった男は、社会の条理を受け入れず自身の正義を貫いた人物である。隔離された街で蔓延する疫病に対峙する非日常の中で、二人はやがて強い絆で結ばれていく。

条理と不条理を隔てる曖昧な境界を平時から直視し考え続けてきた人間だけが、疫病の猛威に敢然と立ち向かうことができる。『ペスト』は不条理の文学というより、条理(当たり前だったはずのこと)の脆さについての物語だ。ペストの終息は不条理の終焉ではなく、顕在化していた条理のほころびが再び人々の心の深層に潜り込んだに過ぎない。語り部が幕切れでペストの再来を匂わせているのは、そのせいである。

新型コロナのパンデミックで、私たちは当たり前だったはずの生活を当たり前に送ることができなくなっている。でも、当たり前すぎて今まで考えもしなかったことについて、今だからこそ真剣に思いを巡らすことができる。それで目の前の問題が溶けて失くなるわけではないが、なかなか晴れない霧の彼方に、微かな光明くらいは浮かび上がってくるも知れない。

共通テーマ:日記・雑感

番外編:新しい生活様式? [社会]

コロナ後の新しい生活様式なるものが提示された。過去数ヶ月で言われ続けたことの集大成なので、内容自体は想像の範囲内だが、これを「新しい」生活と呼ぶセンスの悪さがすごい。

5月4日付専門家会議提言書(PDF)の9ページに「新しい生活様式」の実践例というリストが載っている。実践「例」だから、すべての項目を一つ残らず強制する意図はないものと想像する。とは言え《料理に集中、おしゃべりは控えめに》とか、刑務所なみに規律が厳しい。これ美味しいね、とかつぶやいた途端に自粛警察が飛んできて罵詈雑言を浴びせられるのか。そんな日々が「新しい生活様式」だと決めつけられると、せっかく見え始めた一抹の希望に蓋をされるようで息が詰まる。

overshoot_model.png疫学の数理モデルによると、規制が強すぎても弱すぎても結局オーバーシュートするリスクがある(オーバーシュートの本来の意味についてはこちら)。強い対策を取れば第1波は無事やり過ごせるが、免疫獲得の広がりが遅くなるので却って無防備なまま第2波を迎える脆弱性が残るのだ。将来ワクチンが普及するまでは、医療崩壊を起こさない範囲で緩やかな感染を許容していくことが、オーバーシュート(=本来は防ぎ得る過剰な感染)をむしろ抑える。感染拡大を断固阻止するのではなく、上手に制御するわけだ。状況を注意深く分析しつつオンとオフを使い分ける社会戦略が、結果的には新型肺炎の犠牲者を最小限に抑えることにつながる。

温もりある社会と科学の知見が両立する合理的な接点を追及する。それが本来あるべき「新しい生活様式」ではないか。

共通テーマ:日記・雑感

番外編:続「8割減?」 [科学・技術]

以前このブログで、メディアは人出8割減と接触8割減を混同している感があると書いた。専門家会議の5月1日提言書(PDF)を読むと、専門家会議はもちろん人出と接触の意味をはっきり区別している。ただ分析手法の裏付けが微妙で、少しモヤっとしている。

提言の中で、「接触頻度=接触率✕人流」という概念式が出てくる。人流はいわゆる人出のことである。外出自粛が進むと、人流(出歩いている人口)が減ると同時に接触率(出歩いている人が他の出歩いている人と出会う確率)も同じくらいのペースで減るので、接触頻度(感染リスク)はおおむね人出の2乗に比例して減るはずだ、というのが以前のブログで指摘したポイントだ。提言書では、年齢群別の接触頻度(に相当する数値)を調査し地域ごとの8割減達成度を評価した。だが提言書の脚注1から類推するに、今回の報告では接触率を実際に見積もることは断念し、代替的な方法で接触頻度を出しているらしい。

提言書の補足資料の3ページに、ある年齢群どうしが出会う接触頻度を算出する式が出てくる。tijが年齢群ijの接触頻度、kiは調査区画に出歩いていた年齢群iの人口である。math_contactfreq.png説明を簡単にするため年齢群が若者と中高年の2つだけとすると、ある地域で若者が中高年とすれ違う接触頻度は「(出歩く若者人口)✕(出歩く中高年人口)÷(出歩く若者人口+出歩く中高年人口)」を時空間にわたり積算して求まる、というのが数式の意味だ。これが理屈の上では「接触率✕人流」に相当するというのが専門家会議の分析の立場のようだが、ほんとうにそうなっているか?(私が何か見落としているかも知れないが)どうもそうなっていないように見える。

物理や化学をかじった人は、分子衝突理論との類似から接触頻度というとこんな式を思い浮かべるのではないか。math_contactfreq2.pngvは人が歩く平均速度(歩くのが速いほど多くの人とすれ違う)、σは人がどこまで近づけば接触とみなすかの目安(分子運動論などで言う衝突断面積)である。これら比例定数は「○割減」と自粛前後を比較するとき約分されて消えるので気にしなくて良い。つまり接触頻度の増減は、基本的に「(出歩く若者人口)✕(出歩く中高年人口)」のような乗算で決まる。上に引用した専門家会議の推定式は、これと似ているが右辺の分母が余計である。なぜ総人口で割り算してしまうのか?この除算のせいで、人出の概ね2乗を反映するはずが実質1乗になっている。結果的に、ここでも図らずして接触8割減と人出8割減の混同が起こっている気配がある。実際の接触頻度は、出てきた数値よりもっと順当に減っていたのではないだろうか。

ところで、半専門的な補足資料をわざわざ一般向けに作成するクラスター対策班の努力に、ちょっと感動した。このような情報開示のおかげで、素人にも考える機会が与えられる。

共通テーマ:日記・雑感