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番外編:ワーケーション? [社会]

nomad_surfing_nangoku.png菅官房長官がワーケーションなどと言い出した。旅先でくつろぎながらリモートで仕事をこなす、というコンセプトらしい。work+vacation=workationという造語センスが和製英語っぽくないな、と思っていたら、アメリカでは10年以上前からあるテレワークの一形態のようである。心身共にリフレッシュする環境で生産性が向上したり、思考が刺激され斬新な着想が生まれたりと、仕事にポジティブな効果が期待できるという。社員旅行と研修を一体化したような試みとして、ワーケーションを会社ぐるみで活用する事例もあるらしい。ただ人によっては、誘惑の多い観光地では気が散って仕事どころではないという向きもあろうか。

仕事に休暇の要素がプラスされるのか、休暇に仕事が侵食してくるのか、で意味合いが全く変わってくる。本来の意図は前者で、ワーケーションは勤務時間中に実施されるべきである。しかし政府主導となると、有休消化の口実としてワーケーションを推奨し、働き方改革の運用実績を上げようという下心も透けて見える。来週はゆっくり有休を取りたまえ、旅先でのんびり羽を伸ばしてきてはどうかね、ただし毎日午前10時からzoom会議だから忘れるなよ、では実質的にサービス残業と変わらない(今どきこんな口の利き方をする上司は半沢直樹の世界くらいと思うが)。

何よりも、GoToトラベル・キャンペーンの延長で出てきた話で、筋が悪い。コロナ禍におけるワーケーションとは、要は感染リスクを伴うテレワークである。そもそも感染拡大回避のためにテレワークが推奨されてきたのに、いったい何がやりたいのか。

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エリオット少年の気持ち [映画・漫画]

alien_ufo.pngこのあいだBSで久しぶりに『E.T.』を見たが、子供の頃に感じた印象といろいろ違って面白かった。孤独な少年が迷子の宇宙人と束の間友情を育む話だと思っていたが、今思えばE.T.にとってエリオット少年は果たして「友人」だったのか?E.T.は突然訳のわからない惑星に放置され途方に暮れていたわけで、友達を作るより一刻も早く助けを呼んで家に帰りたい一心だったはずである。その割に冷蔵庫のビールを勝手に開けて酩酊したりとかなり自由だが、その結果エリオット少年が被る迷惑をまるで意に介していないあたり、友情と言うよりエリオットの片想いに近い。

E.T.自作の通信機を森に設置した夜、本音ではE.T.に帰って欲しくないエリオットは初めてその本心を打ち明ける。ところがエリオットが翌朝目覚めるとE.T.は姿を消しており、捜索に走り回ったエリオットの兄が小川に転落した瀕死のE.T.を発見する。この展開が唐突で、ずっと違和感があった。森でじっと迎えを待っていればよかったはずのE.T.が、なぜ一人で動き回ったのか?小腹が空いてコンビニにおにぎりを買いに行こうとしたわけではあるまい。久々に映画を見返してふと思ったのは、エリオットの告白が重かったせいじゃないか。故郷に帰る期待に頭がいっぱいだったE.T.は、切々と引き留めるエリオットに戸惑い、その場に居づらかったのではないか。

終盤でいったん息を引き取ったE.T.が蘇生するくだりも強引な展開だと思っていたが、地球人に計り知れない各種能力に長けているようなので、自身を仮死状態に追い込んで脱出の機会を作り出すくらいは朝飯前だったのかも知れない。衰弱していくE.T.にエリオットが「逝かないで(Stay with me)」と呼びかけると、E.T.は意味深に「Stay...」を繰り返す。遠のく意識でおうむ返しに復唱しているだけと見せかけ、実は「すぐに生き返るからそこで待っていろ」というエリオットへのメッセージだったとも受け取れる。E.T.がシェイクスピアを読んでいたとは思えないが、言うなれば「ロミオとジュリエット」作戦だ。ロミオはジュリエットの意図に気付かず自ら命を絶ってしまったが、幸いエリオットは土壇場で事の成り行きを悟りE.T.の救出に成功した。

身も蓋もない言い方をすれば、E.T.にとってエリオットは帰還計画に手を貸してくれる好都合な協力者だったわけだ。ただ別れ際エリオットに「おいで(Come)」と誘っているから、本気で宇宙に連れ帰る気があったかはともかく、少なくともお礼に夕飯へ招くくらいの礼節は尽くそうとしたようである。これに対し「行かないで(Stay)」と呟くエリオットの面持ちは、張り裂けそうな諦観に満ちている。困ったE.T.は「ぼくはずっとここにいるから」と指先から念を送る得意のセラピーを試みるが、エリオットの表情は晴れない。ずっと気持ちを閉ざすことに慣れていた少年が、ついに孤独を共有する親友を得たと信じて心を開いてしまったばかりに、溢れる想いがかえって傷口を広げてしまった。別にE.T.が悪いわけではないが、なにかと罪つくりな宇宙人である。ハリウッド的なハッピーエンドで華々しく幕を下ろしながら、去りゆく宇宙船を見送るエリオット少年の、何と寂し気なことか。

ところで『E.T.』当初の脚本(PDFで読める)によると、このエンディングの後に短いエピローグが続くはずだった。以前はみそっかす扱いだったエリオットが、自宅で兄とその友人に混じり互角にゲームに参加している。屋根の上ではE.T.が作った通信機が作動を続け、カメラはその信号の行く末を追うように夜空へ駆け上っていく。渇望した「つながり」を手に入れたエリオットのリア充ぶりを暗示する後日譚だが、結局映画で使われることはなかった。物語の余韻としてはそれが正しい制作判断だったと思うが、おかげで傷心のまま映画史の殿堂に取り残されたエリオット少年が気の毒と言えば気の毒である。

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番外編:彗星到来 [科学・技術]

コロナや豪雨災害など気がかりなニュースにすっかり埋もれてしまったが、いま夕刻と明け方の空に彗星が見えているらしい(国立天文台の情報)。その名をネオワイズ彗星という。7月上旬は1等級くらいの明るさだったようだが、その頃は連日の荒天で天体観測どころではなかった。いまは3等か4等級まで光度が落ちているので、都会の空で見つけるのは難しそうだ。

かつて彗星は厄災の前兆と恐れられていた。必ずしも前近代の迷信ばかりではない。1910年にハレー彗星が地球に接近したときは、彗星の尾のなかを地球が通過する際に人類が窒息し滅亡するというデマが飛んだ。彗星の尾にシアン化合物が含まれることが当時知られていたからで、実際には極めて希薄で何ら問題ではなかったのだが、中途半端な科学の知識がかえって人心を惑わすのは今も昔も変わらない。コロナ関連でもウソかホントか判然としない情報が飛び交いがちなので、注意が必要だ。

hoshizora_nagareboshi.png彗星の落とし物が地球の大気に飛び込んでくると、流れ星になる。地球の公転軌道を横切る彗星がいくつか知られていて、かつて彗星が撒いた砂塵がヘンゼルとグレーテルのパンくずのように地球の行く手に漂っているので、地球が毎年その場所を通過するたび無数のチリが大気で燃え尽き流星群となる。夏のペルセウス座流星群や冬のふたご座流星群が有名だ。流星群の当たり年は願い事チャレンジの絶好の機会だが、それを仕掛けた彗星が禍々しい凶報の使者だとすれば、無邪気に喜んでばかりもいられない。流れ星に願掛けをするとき、願いに耳を傾けてくれるのは慈悲深い神さまと思いきや、私たちは知らないうちに悪魔に魂を売る企みに乗せられているのかも知れない。いわば、天空の振り込め詐欺である。

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GoTo Where? [政治・経済]

コロナウイルスの影が広がる今の現状は、原発事故直後に日本を覆っていた空気と少し似ている。ウイルスも放射性物質も、目に見えない。普段の生活における感染や被曝の確率はかなり低いにもかかわらず、どこに潜んでいるか分からないから漠然と恐怖感があおられる。原発事故のあと、局地的に放射線量の高いホットスポットがしばしば話題になり、被曝への不安が高じてわざわざ遠くに引っ越した人もいる。コロナの場合は「夜の街」がホットスポット筆頭の扱いをされているが、ウイルスが放射性物質と決定的に違う点は人から人に感染することであり、場所ではなく人を避けざるを得ないところに問題の根の深さがある。

travel_bag.png感染防止と経済活性化のはざまに落とし所が見つからず、国の施策が迷走している。GoToトラベル・キャンペーンが賛否を巻き起こした挙句、東京発着を排除して敢行する苦肉の奇策に出た。感染拡大を阻止するなら人流を遮断するに越したことはないが、経済を回すには一人でも多くの人に動きまわって欲しい。指向が完全に逆なので、原則論を戦わせている限りそこに答はない。観光業界には「感染対策に万全を期すことが前提です」と政府は言うが、それはホストクラブでも劇場でも同じことであり、大半の業界関係者が対策を取っていても一部が「まあこれくらいは」となるとそこでクラスターが発生する。全ての人が100%ストイックに行動すると期待できない以上、人の流れが活発になれば感染は確実に拡大するだろう。問題はそれが許容範囲ですむか否かで、政府は乗り切れると楽観視しているようだが、医療従事者は既に戦々恐々としている。

そもそも全都道府県で緊急事態宣言が解除されて以来、国内旅行を妨げる制限(要請)はなくなった。それでも行きたいはずの旅行を控える人が多いとすれば、感染したりさせたりする懸念が現状まだ払拭できないからだ。感染リスクが低下していない(むしろ増大している)いま、値引きやクーポンが不安を帳消しにしてくれるわけではない。安く行けるならぜひ行きたい、と簡単にモチベーションが上がるのは感染リスクをあまり気にしない層であり、中にはホットスポットへまっしぐらに飛び込んでいく夏の虫もきっと紛れているだろう。制御可能な範囲で緩やかな感染は許容し経済を回すという狙いそのものに反対はしないが、肝心の感染制御に国として戦略性が見えず、何を思ったか火に油を注ぐために1兆円超をぶち込むとはいかがなものか。むしろその予算は医療支援に上乗せし、来たるべき「第2波」の制御に備えるのが筋だ、という意見もあるだろう。

もとをたどれば、GoToキャンペーンとは「感染収束後の」経済復興を期した策ではなかったか?それなら、来年や数年後でも使える旅行券とか宿泊券とか切符の引換券を発行すればいいんじゃないか。いつか行きたい旅先への旅行代金をいま払っておき、キャンペーン割引分は国が補填して旅館など現地の事業者に満額届くようにする。そうやって現在の苦境を乗り切る支援をした上で、私たちは状況が落ち着いた頃に支払い済みの旅行を満喫するのである。もちろん、移動や宿泊だけが観光産業の全てではないから、人が動き始めないと地元の小売店や食事処まで経済効果は波及していかないだろう。でも、小さな観光地で万が一クラスターでも発生すれば、それこそ街全体が壊滅的なダメージにつながりかねない。

繰り返すが、わざわざキャンペーンを張らなくても旅行に行きたい人はいつでも行ける。もし割引がなければ例年より集客は減るだろうが、そのほうが感染対策には好都合ではないか。いつになく人混みのない観光地をゆっくり味わえるなら別に安くなくてもいい、というニーズも間違いなくあると思う。GoToキャンペーンを予算審議に上げた頃はすぐに感染が下火になると高をくくっていたのかも知れないが、その読みが甘かった以上、土壇場で仕切り直す勇気も必要である。来週の連休前から始まる触れ込みなのに、未だ制度設計が流動的で曖昧だ。GoToトラベルとか言いながら、キャンペーンそのものがどこに行こうとしているのかよくわからない。本当にやるんだろうか?

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番外編:7枚入 [その他]

bread_syokupan_cheese.pngスライスチーズは7枚1セットで売られていることが多い。雪印森永明治など大手ブランドの主力商品は、軒並み7枚入である。何故あえて7枚なのか?今どき7人家族は少ないと思うので、一回で使い切るには多すぎ、半端な枚数が余る。例えば4人家族の場合、3枚余る。次に食卓に出すには1枚足りないので、仕方なくもう7枚買うと計10枚になり、2×4枚食べて今度は2枚余る。3人家族でも5人家族でも、人数で割り切れないから買い足しを余儀なくされる。使い切らせないことで消費者の購買意欲を引っ張り続けるマーケティング戦略、これが7枚入の狙いではないかと邪推している。7という素数を選んだところがミソだ。

素数を巧みに利用するセミが、北米に生息している。13年に一度大量発生する13年ゼミと、17年に一度の17年ゼミだ。どんなセミも長期間地中で幼虫として過ごし、羽化すれば成虫としてひと夏に満たない短い青春を謳歌して死ぬ。13年ゼミや17年ゼミが他種と違うのは、幼虫時代がとりわけ長いことと、ほぼ全個体が同じ年に一斉羽化する集団性である。この風変わりな習性を数学的に説明する有名な学説がある。セミの天敵は3から4年の寿命を持つ小動物が多いので、12年や15~16周期だと捕食者も公倍数の年に同じ大量発生サイクルが同期し、セミを食い尽くしてしまう。だから、好運にも13年や17年という素数年の寿命を持つセミだけが、淘汰を勝ち残ったということだ。乳製品メーカーがセミの生態を参考にしたとは思わないが、雪印のスライスチーズは7枚入のほか5枚入とお徳用13枚入がラインナップされていることを考えると、確信犯的に素数を選んでいる可能性は高い。

ところが先日、近所のスーパーが自社ブランドのスライスチーズを1枚増量8枚入で売り始めた。4人家族なら、2回で食べきってしまうではないか。補充するモチベーションが薄れれば、ブランド問わずチーズ消費全体が低迷しかねない、まさかの禁じ手である。自社ブランドはコスパがウリなので勝算があるのかも知れないが、しばらく売れ行きの推移を注視したい。

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コロナ禍の七夕 [社会]

コロナ感染者数が再び急上昇しているが、数ヶ月前に比べると明らかに世間の風向きが変わった。PCR検査数が増えた、若年層が多くて無症状や軽症率が高い、医療機関のキャパにまだ余裕がある、といった「安心材料」が強調される。国や自治体はもちろん、少し前まで眉間にシワを寄せて感染爆発の危機を憂いていた専門家やコメンテータが、こぞって人が変わったように涼し気な気配だ。もっともコロナ対応の医療現場に近い専門家だけは、世間と温度差がある。

4月頃の状況と色々事情が違うのは事実としても、冷静な現状分析の上でそう言っているというより、もう自粛しなくて良いと公言する方が今はウケがいい、という場の空気に乗っかっている人も多い気がする。だから、風向きが変わった、と形容するのがぴったりくる。西村大臣が「もう誰も緊急事態宣言とかやりたくないでしょ」と言い放った会見など、その際たる例だ。自発的な引き締めを呼びかける文脈で言った言葉ではあるが、自粛疲れも限界だからちょっとやそっとでは緊急事態宣言は出しません、と匙を投げたように聞こえなくもない。

sasanoha_bg.pngところで今週は七夕であった。働き者だったはずの織姫と彦星が、結婚した途端に嬉しさのあまり緩んでしまい、織姫のパパである天の神様が緊急事態を宣言した。引き離され自粛生活を余儀なくされた二人のメンタルはかえって仕事どころではなくなり、天界の経済が回らなくなる。そんな状態を見かねた神様は、7月7日だけはソーシャル・ディスタンシングを解禁することにした。コロナ禍の時節柄、織姫と彦星の物語が心に刺さる人も多いのではないか。いま私たちを悩ませる新しい日常を、織姫と彦星は銀河系(天の川)の誕生以来ずっと耐え忍んできたわけである。

七夕の神様はやり過ぎではないかと、ずっと思っていた。いくら若い2人が職場放棄したとは言え、再会まで丸一年指折り待ち続けた挙げ句、不可抗力の雨天に見舞われれば容赦なくもう1年先延ばしにされるのはあまりに理不尽である。しかし、七夕の寓話が感染症拡大下で生きる不条理のメタファーだと考えれば、ちゃんと腑に落ちる。人と接すれば接するほど逆に会えないリスクを高めてしまう矛盾が、感染症の厄介なところだ。誰が悪いわけでもないのに人と人が距離を置くことが求められ、逆らえば第二波という天罰が待っている。織姫と彦星は、仕事を放ったらかしたせいで罰を受けたのではなくて、いつも一緒にいたいという当たり前の想いが彼らの「罪」だったのである。会いたいが故に引き離された七夕の悲話は、私たちの置かれた実情そのままで身につまされる。

今年の七夕は各地で浸水被害を出した梅雨前線の勢力下にあり、彦星と織姫にとっても気の毒なことであった。七夕の日に小耳に挟んだとある親子の会話が、なかなか冴えている。
母「七夕なのに、織姫さんと彦星さん会えなくてかわいそうね。」
子「え、何で?コロナだから?」
最近の子供は七夕さまの話も知らんのか、と嘆息するなかれ。まさかのリアクションながら、これはこれで結構本質を射抜いているのである。

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番外編:線状降水帯 [科学・技術]

suigai_kawa_mizukasa_ame.pngいつ頃からか、豪雨の絡みで線状降水帯という言葉をメディアで使う人が増えた。先日熊本南部を襲い痛ましい被害を出した水害も、「線状降水帯と呼ばれる現象」が引き金だったと盛んに言われる。でも、ちょっとヘンな用語である。試しにちょくちょく気象レーダ画像を眺めてみるとわかるが、降水帯が線状になるのは日常茶飯事で何ら珍しくはない。気象庁の用語集によれば、線状降水帯とは「次々と発生する発達した雨雲(積乱雲)が列をなした、組織化した積乱雲群によって、数時間にわたってほぼ同じ場所を通過または停滞することで作り出される」事象を指す。豪雨災害の文脈では、雨雲が列をなすことよりも、同じ場所に居座る要素の方が肝心だ。「停滞降水帯」とでも呼んだ方が、水害をもたらす気象の記述としては正鵠を射ているかも知れない。

私の知る限り、線状降水帯は国際的に認知された学術用語ではない。近い語感を持つ専門語にスコールラインという言葉があり、広い意味で線状降水帯の一種と言えそうだが同義ではない。積乱雲の雨粒が蒸発してできる冷たい下降気流が地面にぶつかって突風を作り、その先端で励起される新しい積乱雲が横一列に隊を成して伝搬していくのがスコールラインである。一方いま九州を悩ませているのは梅雨前線に伴う豪雨で、既存の風系が作り出す線状の収束帯(大気下層の風がぶつかるところ)に向かって湿った空気が流れ込み、雨雲が入れ代わり立ち代わり数珠つなぎに作られた。一口に線状降水帯と言っても、その中身は多様な現象の総称と見るべきのようである(専門的解説としては津口 2016が勉強になる)。台風とか温帯低気圧のように明確な物理的裏付けが確立している名称と比べると、曖昧な用語である。

実際には、立派な線状をしていても悪さをしない雨雲が大半だし、逆に丸かろうと三角だろうと条件が揃えば激甚災害をもたらす。形態は必ずしも本質と直結しない。どなたが線状降水帯と言い出したか定かでないが、視覚的イメージを喚起しやすい名称だけに、すこし粗いネーミングだったかという気もする。

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心の同期 [音楽]

music_animal_cat_sax.pngしばらく前の話になるが、新日本フィルがテレワークで『パプリカ』を演奏した動画が話題を呼んだ。フルオーケストラが一人ひとり別撮りでアンサンブルをやったのは初めての試みだったと思うので、演奏も編集も大変だったかと苦労が忍ばれるが、その手作り感に一層感銘を受けたものである。オーケストラなのに選曲がクラシックでなく米津玄師だったのは、広い観客層の心をつかもうという意図もあったかと思うが、たぶんクラシックだったらこう上手くは行かなかったんじゃないか。ポップス系の場合パートごと別トラックに撮って後からミキシングするのは普通なので、ある意味でもともとテレワーク向きと言える。決まったビートの上にメロディーやハーモニーが乗っていくように音楽が作られているから、パートを一つずつかぶせていけばちゃんと曲になる。一方クラシックは(ラデツキーマーチとかを別にすれば)ビートに相当する要素は希薄で、ただ綿々とハーモニーを紡いでいくことで成立する曲も少なくない。リズムが音楽の呼吸に応じて微妙に揺らぐ味わいにこそ美学を追求するので、メトロノームのような演奏、と評されると相当辛辣な悪口になる。

オーケストラには(ふつう)指揮者がいる。機械的にブンブン腕を振る学校の合唱祭の指揮者とちがって、交響曲を振る指揮者は杖を振りかぶる魔法使いのようでかっこいい。今のような楽曲の解釈を担う職業指揮者が誕生したのは19世紀半ばだそうで、クラシックの歴史の中ではそれほど昔ではない。バロックの時代には長く重い棒でドンドン床を叩いて拍子を取る指揮がよく行われたそうで、ある意味でドラム音源の役割に近い。演奏中に誤って棒で自分の足を打ち抜いてしまい、その怪我から破傷風にやられ亡くなってしまった気の毒な音楽家もいた。現代の指揮は落命の危険はなくなったが、複雑なジェスチャーで音楽の間合いを取る高度なコミュニケーション技術を要求される。これをオンラインでやるのは、ちょっと難しい。もし新日本フィルが『パプリカ』の代わりにベートーヴェンの『運命』をテレワークでやっていたら、始めの4小節で挫折していたかも知れない。

室内楽は指揮者がいないので、オーケストラ以上に職人芸的な双方向コミュニケーションが欠かせない。阿吽の呼吸が培う絶妙な空気感が音楽の流れを左右するから、パートごとに音源を別撮りで重ねていく造り方は向いていない(できなくはないがあまり楽しくない)。Zoomなどネット会議ツールは会話には不自由しないが、リアルタイムでアンサンブルをやろうと思うと遅延がひどく、とても使えない(Zoomの遅延は0.14秒程度だそうである)。音楽向けにはYAMAHAがNetduettoという無料サービスを提供しており(つい最近新しくなってSyncroomと改名された)、遅延を最小限に抑えてネット越しに合奏ができる。便利で大変ありがたいツールなのだが、ネット環境とかオーディオ・インターフェースなどハード面の限界は超えられないので、どうにもならない僅かな遅延は微妙に早めに打鍵するといった奏者のアナログ的な脳内変換で補いようやく音楽が成立する。

音楽とは心の同期である。「新しい生活様式」で不自由な毎日の中、ネットの向こうにいる音楽仲間と心が通じたと思える瞬間は感無量だが、コンマ1秒の遅れすら音楽には致命的だと改めて実感することにもなった。生身の人間が求める心の同期は相当に高い時間精度が必要で、遠隔でアンサンブルをやるにはまだテクノロジーが完全に追いついていない。

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番外編:科学はクッキー缶か? [政治・経済]

国が専門家会議を廃止し、都は東京アラートをお蔵入りにした。政治にとって科学は何か、その本音と建前の乖離が表面化した例として面白い。

sweets_cookie.png専門家が提言していない一斉休校を首相が突然ぶち上げた3月初頭の時点で、既にどこか噛み合っていなかった。総理にとって専門家の提言とはたぶんクッキーの詰め合わせのようなもので、美味しそうなところをつまみ食いすればよいと思っていたのではないか。東京アラートが参考にした新規感染者数とか経路不明の割合とか、見るべきデータ自体は間違っていなかったのだと思うが、20人とか50%とかいった数値基準が恣意的で裏付けが弱過ぎた。データは客観的でも閾値が主観的では何の意味もない。政治判断の足枷になる基準を自ら課してしまったことに後から気付き、数値に縛られるのは面倒くさいのでもうやめます、では結局東京アラートとは何だったのか。

今に始まったことではないが、政界にも謙虚に科学の知見を学びたいという人がいる一方で、科学を政策にお墨付きを与える鑑定書のように考えておられる政治家もいる。後者の場合、往々にしてお気に召さない鑑定は見なかったことにされる。専門家会議が太鼓判を押すクッキーは苦くて総理の口にあまり合わなかったようだし、鳴り物入りで始まった東京アラートは都知事自ら早々に反故にしてしまった。国も都も新体制で専門家の意見を聞くスタンスが消えて無くなったわけではないから、確信犯的に科学を軽視しているわけではない。要は、科学の活用の仕方を為政者が未だに測りかねているのではないかと思う。

科学とは出来合いの知識体系ではなくて、限られた手掛かりをもとに点と点をつないで全体像を描き出す思考力のことである。新型コロナは未解明の点が多いから、自分の頭でよく考えていないと容易にあやふやな情報の海に溺れる。安倍首相は会見で答えづらい質問をしれっと尾身副座長に振っていたが、もし首相が一貫して自身の言葉で質疑に応じていたら、与える印象はだいぶ違ったのではないか。メルケル首相のように科学者出身でなくとも、一国の長ならサイエンスの基礎を咀嚼する知性は備えているはずだ(残念ながら例外も数人思い浮かぶが)。最後は政治判断なのでクッキーを完食する必要はないのだが、苦くても食わず嫌いせず栄養価まできちんと熟知した上で食レポしてみてはどうだろう。

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