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総理、残念です [政治・経済]

kazari_kamifubuki.png安倍総理が首相を辞任する意向を表明した。私はとくにこの人のファンではないが、歴代最長を記録した在任期間にわたり、身を粉にして公務にあたってこられたことは間違いない。一刻も早い体調のご回復を祈る。

安倍総理は真面目な人だ。小泉元首相のような茶目っ気はないが、麻生元首相のように言わなくてもいいことを口走る悪ノリもしない。保守層からは手堅い信頼を集めるが、世論調査では決まって支持しない理由の上位に「人柄が信用できない」が挙がる。飲み会で世間話でもすればきっと気さくで優しい人なんじゃないかと想像するが、国会で答弁に立つと野党の挑発にキレて早口でまくし立てることもあり、しなやかさを欠くきらいがある。政治家はそれで良いといえば良いのだが、総理は生真面目すぎるのか、ときどき「残念な人」の雰囲気を醸し出す。

アベノミクスという命名が残念である。もし瀬古さんという人が作った政策がSeconomicsなら語呂合わせになるが、アベノミクスとエコノミクスではまるで頭韻を踏まず、造語センスを感じない。誰が命名したのかわからないが、総理ご自身ニューヨーク証券取引所の演説で「Buy my Abenomics!」とかマイケル・ダグラスを気取ってブチ上げておられ、なんとなく胡散臭い。アベノ「マスク」という呼び名があれほど人口に膾炙したのは、もともとアベノミクスの語感がはらむどこか浮ついた感覚が、国民のニーズから乖離した布マスクのズレっぷりと絶妙にマッチしたからと思われる。

東日本大震災の2年後、安倍首相は東京オリンピック招致のプレゼンでスピーチをした。芝居がかった気配が見ていて気恥ずかしかったのはさておき、冒頭すぐ後の科白が残念だった。「Some may have concerns about Fukushima. Let me assure you, the situation is under control. It has never done and will never do any damage to Tokyo.」根拠も示さず絶対に大丈夫と安請け合いしていいのか、と不安に思った人は多かったのではないか。むしろ、福島の人々とともに真摯に原発事故問題に取り組んでいます、その成果に期待して下さい、と言っていたら、もう少し誠実な印象を与えたのではないか。リオデジャネイロの閉会式でマリオに扮して登場した安倍首相のビミョーな佇まいに、なぜかあの時の演説に感じたかすかな違和感を思い出した。

第一次政権の時に安倍総理が盛んに口にしていた「美しい国、日本」というスローガンが、今思えばトランプ大統領の「Make America great again 」とよく似ている。実際、この二人には多くの共通点がある。良し悪しを別として、愛国心を揺さぶる明確なビジョンとロードマップがあり、その実現に邁進する努力を惜しまない。自身の信念に一片の疑いもないので、批判には一切動じない。この安定感が、安倍首相の長期政権を支えた要因の一つだったのだと思う。しかしこのタイプのリーダーは、平時には強いが不測の危機に脆い。新型コロナのパンデミックは「美しい国」プランに書かれていなかったから、既定路線のなかに正解がない。ずっと強気に先頭を走ってきたので、誰を頼るべきか、どんな意見に耳を傾れば良いのか、経験値がなかったのではないか。専門家会議改め分科会との奇妙な距離感は、最後まで埋まらなかった。その結果、官邸お墨付きのコロナ対策は迷走を繰り返す。アベノマスクしかり、給付金しかり、GoToキャンペーンしかり。残念な政策が次々と打ち出され、そのたびに物議を醸した。

8月3日、安倍総理はずっと愛用してきたアベノマスクを突如やめ、大きめの新しい布マスクで官邸に現れた。今思い返せば、持病の悪化から辞任を覚悟し始めておられた頃ではないかと推察する。首相の対コロナ政策を象徴するアベノマスクと自ら訣別したとき、総理の胸中にどんな想いが到来していたのか。次期党総裁が決まるまでまだ少し任期が残っているが、長い間お疲れさまでしたと申し上げたい。

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番外編:スパコンの使いみち [科学・技術]

マスク着用時の飛沫飛散をスパコンでシミュレートした動画が、メディアで紹介された。理研の「富岳」を利用した成果である。富岳は、「2位じゃだめなんですか?」のキャッチフレーズでかつて一世を風靡した京コンピュータの後継機である。ちなみに富岳の計算性能は直近の世界ランキング(BFS部門)で1位を獲得している。

nyudougumo.png飛沫飛散のような何気ない日常の一コマすら、計算機で再現するには高性能のスパコンを要する。ふと窓から外を眺めて目を奪われる入道雲だって、その勇姿をつぶさに計算機上で再現することは簡単ではない。ある日目にしたクジラ型の雲をスパコンで正確に再現できる(ように初期条件や雲微物理スキームをチューニングできる)研究者は、たぶん世界中探しても見つからないだろう。最新技術の粋を集めた大型計算機すら手こずる実験を日々ことも無げにこなしてしまう大自然は、偉大な神秘である。

飛沫飛散のシミュレーションも見た目はとてもリアルだが、実際のところどの程度現実を忠実に再現しているのだろうか?大きな飛沫と小さな飛沫では、空気抵抗や蒸発の速さが違うから、到達距離も異なるはずだ。理研が公開したシミュレーションの数値実験設定はわからないが、おそらく飛沫粒径分布の仮定次第で計算結果は変わるんじゃないか。ただ雲と違って飛沫飛散は簡単に室内実験ができるので、人の呼気に含まれる飛沫の大きさとか飛距離は、充分信頼に足る参照データがあるに違いない。

と書きながらふと思ったが、室内実験でデータが取れるならわざわざスパコンを回す必要があったんだろうか?最近テレビの科学番組などでよく目にする、飛沫を可視化する実験でも充分なんじゃないか。飛沫シミュレーションの真の目的は、マスクの効果検証より富岳のプロモーションだったと思えばよいのか。

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天気のうつろい、時の流れ [語学]

今年は7月にやたらと雨が降り、8月に入ると今度はずっと暑い。日照不足の冷夏では農作物が不作になり、かんかん照りの酷暑では熱中症の危険が増す。気温が高すぎても低すぎても、何かと厄介だ。

temperature(温度)という言葉は、気質や気候が穏やかで程よいことを示すtemperateとよく似ている。熱すぎる風呂を冷水で埋めるように、熱はおのずと高温と低温の差を打ち消すように流れ、中程の温度で熱的な平衡に達する。人の気分や気質を表すtemperも、同じ語源のことばだ。もともとこれらの語は、両極端が混じり合って中和し中庸を指向する語感を持っていたのだろうか。だが今年の夏のように気温は絶えず上下に揺らぎ続け、コロナ禍のなか人の気分は浮き沈みを繰り返す。中庸は永遠に到達できない理想郷で、だからこそ価値がある美徳なのかも知れない。

tempで始まる単語は、temperatureやtemperの他にもたくさんある。temporal(時間の)とかtemporary(一時的な)など、時の概念を表す言葉が多い。音楽用語のtempoもその一つだ。ラテン語で時間を意味するtempusが語源だそうで、現代フランス語でも時間は「temps」と言う。tempusには時間の他に季節の意味もあり、初めの季節を意味するle premier tempsがle printemps(春)になった。

arashi.png面白いことに、フランス語の天気に相当する語は、時間と同じtempsである。一見全く違う概念に、どうして同一の言葉を当てたのか?ラテン語で時間と季節を同じ単語で表現することから想像するに、時計を持たなかった古代の人々は、自然の営みが時間の変化を知る手掛かりだったのではないか。だから、日々体感する気象に時の流れを肌で感じていたのかも知れない。青空にもくもくと湧き起こる入道雲、夕立の予感を乗せて吹き付ける冷たい突風、そして突如叩きつける大粒の雨。嵐を意味する英語のtempest(仏語のtempête)の中にも、はっきり「時間軸」が刻印されている。

日々の天気を彩る陽射しや雨は、二重の意味で天の恵みである。降り注ぐ光と水は地上の生命を遍く育み、その移ろいが人間に時間の意味を教えた。

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番外編:かき氷はなぜ高い [その他]

kakigoori6_blue.png相変わらずの酷暑で、かき氷が恋しい。それにしても、かき氷は昔からこんなに高かったか?普通のカフェでも平気で700~800円くらいする。砕いた氷に色と味をつけただけの食べ物が、どうしてこんなに値が張るのか?2,000円を超えるかき氷もあるそうだが、いったい何様のつもりか(食べてみたくはあるが)。

試しにググってみると、同じ疑問を持っているのは私だけではない。数年前にTBSの番組が、専門家監修のもとかき氷の原価率を12%と算出した。飲食店の原価率はふつう30%が基準だそうで、この数字だけ見ればかき氷は圧倒的に儲けが良い。しかし、店にも言い分があるだろう。氷の質(食感)にこだわって天然氷から作るなら、仕入れに相応のコストがかかる。シロップの材料費や手間ひまもピンキリだろうし、アイスとかフルーツとか上に乗っかるもの次第で原価は結構バカにならない。実際、天然氷で作る本格抹茶かき氷を1,000円で売ると原価率は約40%に上るとする試算もある。素材にこだわれば、素人が邪推するほど利益は出ないのかも知れない。

インスタ映えへの飽くなき欲求が、かき氷価格の高騰に一役買っているという見方もある。夏祭りで屋台の定番駄菓子だった時代はどこへやら、かき氷のビジュアル進化が止まらない。豪華トッピングに埋もれてもはやパフェと判別不能なかき氷があれば、高級和菓子のような佇まいに侘び寂びの境地に達した一品もある。かき氷はもはや涼を取るおやつではなく、SNSの一コマを彩るアイテムとして存在しているのか。インスタに上げるために皆せっせとかき氷に高額投資しているのだとすれば、その利益を本当に享受してるのは、いったい誰なんだろう?

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自由になりたかったヤギの話 [フィクション]

animal_koyagi.pngどこか見覚えのある古民家の母屋で、私は冷えたスイカをかじりながら板張りの廊下を歩いている。すると、開け放たれた大きな居間ごしに、縁側に座る祖父の背中を見つける。私は神棚の前を駆け抜けて祖父の隣に腰を下ろし、口の周りに引っ付いたスイカの種を手で払いながら、ニュースで聞いたばかりの小ネタを報告する。
「千葉県でね、おうちから逃げてたヤギが、とうとう捕まったんだって。ずっと崖の上を逃げ回ってたから、ポニョって呼ばれてるんだってさ。」
祖父が静かに笑って答える。
「崖の上に逃げたヤギ?そんな物語が『風車小屋だより』の中にあったな。ドーデっていうフランスの作家が書いたお話だよ。」
「どんな話?」
そう言えば祖父はフランス文学のセンセイだった、と私は思い出す。

「山の麓にスガンさんっていう独り者が住んでいてね、ヤギを飼っていたんだ。とても可愛がっていたんだけど、ヤギのほうは不満だった。とにかく自由になりたくてね。」
「で、逃げ出したの?」
「そう、逃げ出した。スガンさんはあらかじめ忠告したんだ、森には怖い狼が住んでいて、自由になった途端おまえはすぐに取って喰われてしまう。だからここにいたほうが安全だと。」
「ヤギはなんて答えたの?」
「こんなちっぽけな庭先で一生暮らすのは退屈でたまらない、とね。首尾よく逃げ出したヤギは、一日じゅう野山を駆け回り、心の底から自由の喜びを満喫した。崖の上から見下ろした美しい景色の片隅にスガンさんのちっぽけな家を見つけたときは、思わず笑い出してしまった。野生の山羊の群れに出会ったときは、美しいスガンさんのヤギにみな心を奪われて、すっかり王女さま気分さ。」
「それで?」
「そして夜が来た。ヤギはふと不安になったけど、スガンさんの狭い庭に帰るなんてまっぴらだった。夜の帳がすっかり降りたころ、暗闇から狼の遠吠えが聞こえた。気付いた時には、目の前に爛々と輝く一対の眼光が迫っていた。」
「食べられちゃったの?」
「スガンさんのヤギは勇敢だったよ。大きな狼に深手を負わされながら、何度も立ち向かっていった。なんとか夜明けまで持ちこたえられれば・・・それだけを考えて夢中に戦った。やがて地平線が白み始め、一番鶏が鳴いた。でもヤギにもう抵抗する力は残っていなかった。狼の勝ちだ。」
そこまで言って祖父は息をつく。庭の木々でクマゼミがひっきりなしに鳴いている。

「悲しい話だね。」
「ああ。でもね、これはフランスの田舎に住むドーデが、パリの友達に書き送った忠告なんだ。友人が詩を書いてばかりで貧しい有様を見かねて、大きな新聞社の仕事を紹介したのに、友人は自分から断ってしまったんだ。」
「なんで?」
「新聞社で記者をやれば暮らしは豊かになるけれど、会社の言うことには逆らえないんだよ。自分の好きな詩を書いて暮らすわけにはいかなくなる。友達は、安定より自由を選んだんだ。スガンさんのヤギのようにね。」
「詩ばかり書いていると、オオカミに食べられちゃうの?」
祖父は可笑しそうに笑う。
「もちろん、食べられたりはしないよ。でも、自分の思いを貫き通すってことは、ときに命取りになるんだ。」
祖父の優しい声色が、不意に揺らいだような気がする。思わず見上げた祖父の顔が、真夏の陽射しのせいか、セピア色に褪せていくように見える。慌ててうつむいて話の続きを待つが、祖父はそれきり黙り込んでしまう。かすかなそよ風が、そっと風鈴を鳴らす。
「もしおじいちゃんだったら、そんな時どうするの?」
祖父はやはり何も言わない。怒ってしまったのだろうか?ぎこちない沈黙が流れ、風鈴がまたチリンと鳴る。そして、祖父はほとんど聞き取れないくらいの小さな声で話し出す。

「インドシナを知ってるかい?フランスの占領下にあって、いま日本軍が戦っている。おじいちゃんはフランス語が話せるから、軍に呼ばれているんだ、戦争に協力しなさいとね。でもそれは、大好きなフランスを敵に回すことになる。そんなことは、ぼくにはできない。」
私は返す言葉が見つからない。話の内容はよくわからないが妙な胸騒ぎがして、握りしめたスイカの皮をただ黙って見つめる。
「ぼくにはね、ドーデが本気で友人を責めていたとは思えないんだ。スガンさんのヤギは、軽率で愚かな若造じゃない。ドーデは、ヤギを勇敢で信念に満ちた真っ直ぐな心の持ち主として描いたんだ。やはり、自由は何にも代えられない宝物なんだよ。とりわけ、大切なことをだいじに想い続ける心の自由はね。たとえ、どんな犠牲を払ったとしても。」
再び、祖父の声が揺らいでかすれる。今度は絶対に気のせいではない。
「犠牲って?正しいことをしているのに、どうして犠牲を払うの?」
スッと首筋を撫でる温かい風を感じて、私は顔を上げる。そこに祖父の姿はない。空っぽの縁側に降り注ぐ陽射しは、心なしか夕暮れの陰りをまとっている。クマゼミの合唱はいつの間にか途絶え、どこかでヒグラシが鳴き始めている。ずっと遠くで、お寺の鐘が鈍く時を告げる。



第二次大戦の暗い気配が色濃くなる頃、関西日仏学館に在籍した吉村道夫という仏文学者がいた。公式サイト中のページにこのような下りがある。「・・・日本の敗戦後四ヶ月にわたる復興作業ののち、戦前と同じスタッフで再開館した。ひとつの机には主が帰ってこなかった。ジロドウの若き翻訳者であった吉村が、戦争の最後の日、中国で戦死した。インドシナ占領に協力することを拒んで、召集され中国へ送られた。インドシナ占領を拒んだのは、愛するフランスに敵対して働かざるを得なくなるのを避けたのだった。・・・」

吉村道夫には二人の幼い娘がいた。先立たれた妻が女手ひとつで育てた娘の一人が、私の母である。母が他界まぎわまで自室に置いていた一葉のモノクロ写真が、私にとって祖父の面影を知る唯一の手掛かりだった。ここ何年か仕事仲間を訪ねてフランスを訪れる機会が増え、あの時代にフランス文学を志した祖父はどんな人だったのだろうと、ふと考えることがある。今日は75年目の終戦の日、75回目の祖父の命日でもある。

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番外編:北のペンギン [動物]

遅い梅雨明けを過ぎ、連日猛暑が続いている。で、少し涼しげな話題を一つ。

ondanka_animal_kuma_penguin.pngなぜシロクマは南極に棲んでいないのか、ペンギンはどうして北極にはいないのか、と聞かれたのでこの場で考えてみたい。いずれも極寒の地の果てを代表する人気者で、イラストで並んで描かれることも多いせいで不思議に思われるのか。答えは単純で、たまたまそういう進化を辿ったからに過ぎない。シロクマはヒグマと近縁だそうだが、南極やその周辺にヒグマはいない。そもそも南半球には、東南アジアのマレーグマと南米のメガネグマを除いてクマが棲んでいない。ホッキョクグマならぬ南極熊が存在しないのは、そこに祖先がいなかったからである。

ペンギンについては、調べてみたところ思いのほか話がややこしい。かつてペンギンと似て非なる鳥が、北大西洋と北極海一帯に生息していた。オオウミガラスという大型の海鳥で、全長80cmというからキングペンギンと同じくらいの大きさだ。飛べない代わりに泳ぎが得意だったことといい白黒のタキシード・ルックといいペンギンとよく似ているが、他人の空似に過ぎず近縁ではない。オオウミガラスはヨーロッパの船乗りには好都合なタンパク源だった上、その羽毛はダウンに脂肪はランプ油にと何かと需要が高かった。よちよち歩きで人を恐れない習性も災いして乱獲の憂き目に合い、19世紀半ばオオウミガラスは人類の飽くなき欲望の犠牲者として永遠に姿を消した。

実は、ペンギンとはもともとオオウミガラスを指す名称だった。目の上の逆パンダ模様のせいか、ウェールズ語の「白い頭(Pen Gwyn)」を語源とする説がある。大航海時代に南氷洋にやって来た探検家がオオウミガラスとそっくりの鳥を見つけ、ペンギンと呼んだ。そして本家本元が絶滅したあと、誤称がいつの間にか定着した。というわけで、北極圏にペンギンがいない理由は、人類が元祖ペンギンを殲滅してしまい、代わりに南半球の別の鳥がペンギンを襲名したからである。チコちゃんが得意げに語ってくれそうなネタではないか。

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その説、ホント? [科学・技術]

吉村大阪府知事のうがい薬案件は、府の歯科保険医協会が怒りの抗議声明を発表したりと、しばし後を引いたようである。知事ご本人は実験結果に絶大な自信を持っておられるようなので(当初は)強気だったが、問題の所在はデータではなく解釈の方である。発言者が社会的影響力のある府知事だったために、反響がいっそう大きくなった。ただこのようなできごとは何も今に始まったことではないし、たぶん今後も起こるだろう。

figure_kaigi_hanashiai.pngところで、専門家はなぜ人によって言うことが違うのか、と不満を持つ人は多いのではないか。コロナ対策を取らないと国内で数十万規模の死者が出るという専門家がいれば、たかだか数千人と説く研究者もいる。もし科学が教科書に書いてある既成事実に過ぎないなら、解説が食い違うはずはない。しかし科学が作られつつある現場は百家争鳴で、みな口々に違うことを言うのは当たり前だ。時が経ち理解が進むにつれ仮説が絞られていき、やがてある程度の合意形成に至る。ふつう専門家以外の人が目にする「科学」はその最終形だが、コロナウイルス研究は建設作業中の現場を一般の人が目の当たりにできる珍しいケースだ。足場がむき出しになっていても、驚いてはいけない。意見が合わないのが、生きた科学の姿なのである。

科学者も人の子だから、間違えることがある。あるいは間違いとまでは言えないまでも、考察が不十分だったり、仮説に飛躍があったり、研究仲間から指摘され考えを改めることは日常茶飯事だ。科学の多くの分野で論文誌にピアレビュー(同業者による査読)制度があり、科学コミュニティ全体で研究品質の自己管理を行っている。ピアレビューが泥沼の喧嘩と化すケースもなくはないが、査読プロセスのおかげで論文著者が思い込みや瑕疵に気付かされることも少なくない。だから論文を多く書いてきた研究者ほど、人間は先入観に囚われやすく安易な解釈に足をすくわれがちなことを、身に染みて知っている。吉村知事は研究者ではないので無理からぬ面もあるが、思い込みでデータを見誤る陥穽に見事にハマってしまったようである。

厄介なことに、高名な学者がこれをやらかすことがままある。例えば地球温暖化の懐疑論者には、気候学者ではないが地球科学の他分野で著名な方が複数おられ、専門家のプライドと経験知を駆使して独自研究に走る。そこまでは良いが、ピアレビューで揉まれることなく一般書で自説を展開すると、誤解や誤謬がそのまま活字に定着する。知事の会見なら政治家のフライングとわかりやすく叩かれるのでまだ良いが、学界のエラい先生が言っているとなると一般の人は信憑性を感じてしまいがちだ。コロナウイルス研究でも、ピアレビュー前のプレプリント(出版前または未出版の論文原稿)が一般メディアに流通し、玉石混交で雑音も多い。K値とか埼玉型とか、色とりどりの新説が入れ替わり立ち替わりメディアを賑わせる。

門外漢にとって、学者が語る学説はどれも尤もらしく聞こえるかも知れない。ただ、私は正しい、あいつらは間違っている、と揺るぎない自信で語る「専門家」の主張は、あまり真に受けない方がいい。自分が間違う可能性を受け入れない人は足元の明白なミスを見落としがちだから、往々にして吉村知事と同じ罠に陥る。

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番外編:その薬、効きます? [科学・技術]

トランプ大統領がコロナ予防に抗マラリア薬のヒドロキシクロロキンを服用していると吹聴し、いっとき話題になった。コロナウイルスに感染したブラジルのボルソナロ大統領も、この薬を飲んで回復したと公言してはばからない。ヒドロキシクロロキンが新型コロナに効くのか医学界で一致した結論は出ておらず、副作用を警告する声もある。しかしどういうわけか、この手の(やばめな)大統領を魅きつける何かがあるようである。名前の長さではコロナ治療薬候補中ピカイチで(Hydroxychloroquineでなんと18文字)、何となく強そうに見えるのか。

ugai_man.png吉村大阪府知事が、市販うがい液の殺菌消毒成分(ポビドンヨード)がコロナ対策に有効と発表して話題をさらった。軽症患者を対象に対照実験を行ったところ、うがい液の使用を続けたグループは唾液PCR検査で顕著な改善が見られたそうである。唾液中のウイルスが退治されたということのようだが、いったんウイルスが体内に取り込まれてしまうと、うがい薬に為す術はない。だからコロナの予防や治療に効くという証拠にはならない、と批判を食らった。手洗い消毒のような衛生習慣の延長でうがいも奨励します、くらいの話と聞いておけば良いのか。早速薬局の店頭からイソジンが消えたそうだが、次はリステリンでコロナ撲滅などと誰かが言い出さないことを祈る(長年のリステリン愛用者なので品薄が心配)。

吉村知事は誇大広告を打つつもりではなかったと思うが、「嘘のようなホントの話」などと思わせぶりな前フリからして、気合の入れようが半端ない。前のめりっぷりが、ヒドロキシクロロキン案件にちょっと似ていないか。個別の結果に惑わされず、データ背後の意味を考え続ける知性が本来の科学だ。反射神経が肝心な政治家の性には、地道な科学はあまり馴染まないのかも知れない。

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ハンマー、ダンス、バイバイン [映画・漫画]

sweets_kurimanju.pngドラえもんに『バイバイン』という話がある。最後の一つとなった大好物の栗まんじゅうを前に悩むのび太に、ドラえもんが助け船を出す。取り出したのはバイバインなる薬で、1個の栗まんじゅうに一滴ふりかけると5分後に2個に増える夢の道具だ。一つ食べて一つ残しておくと、さらに5分後また2つに分裂する。最後の一つをとっておく限り、無限に栗まんじゅうを食べ続けられるわけだ。ただし、放っておくと2つが4つに、4つが8つに、と加速度的に増えていく。容赦なく増殖を続ける栗まんじゅうが、やがてのび太をピンチに陥れることになる。

新型コロナウイルスが急速に再拡大している。人が動き始めればそうなることは理屈ではわかりきっていたが、憎たらしいほどセオリー通りだ。The Hammer and Danceなどと名付けた人がいたが、厳格なソーシャル・ディタンスングやロックダウン(=ハンマー)でひとまず感染拡大の勢いを抑え込んでおき、そのあと慎重に行動規制を緩和してゆき制御可能な範囲で感染を許す(=ダンス)。この繰り返しで乗り切る他ない。

ハンマーの手加減が難しい。弱すぎると効き目が薄いし、強すぎれば社会のあちこちが壊れ始める。ハンマーの破壊力が強大であればあるほど効果絶大かといえば、そうでもない。一部の欧米諸国は厳しいロックダウンを課したが、多くの人は真面目に耐えていても法の眼をかいくぐる不届き者が必ずおり、規制が長引けば我慢できない輩がどんどん感染を広め、結局イタチごっこだ。日本でも特措法を厳格化せよという声は根強いが、法規制を強化すればそれだけ社会が整頓されるという期待はたぶん甘い。結果として問題の根がアンダーグラウンドに潜れば、感染制御はかえって難しくなる。

ダンスの方は、日本語の語感にちょっと馴染みにくい。恋ダンスとかバブリーダンスとかを思い浮かべると何やら楽しそうだが、ここでは意味が違う。むしろ「付かず離れず」とか「駆け引き」のニュアンスに近いのではないか。お互いちょっと気になる二人が探り合いばかりであと一歩踏み込めない状況を、They are dancing around each other. みたいに言うことがある。社会の動きを締めすぎず緩めすぎず、ウイルスを相手にぎりぎりの駆け引きを演じるのがダンスのフェーズだ。少しでもステップを間違えれば、相方にぶつかったり足を踏まれたりする。失敗のダメージが大きいと、またハンマーからやり直しだ。

ほとんどいなくなったように見えても、油断した瞬間からぐんぐん増え始める。ウイルスの薄ら寒い不気味さが何かに似ていると思っていたが、バイバインだ。のび太は満腹で食べきれなくなった栗まんじゅうをママに献上し、それでも残るとしずちゃんとジャイアンとスネ夫に救援を頼むが、どうしても最後に一つ余る。「ハンマーとダンス」に疲れてヤケになったのび太は、残ったまんじゅうを裏手のゴミバケツに捨て知らん顔を決め込む。ドラえもんに問いただされのび太が白状したときには、ゴミバケツから溢れた栗まんじゅうの山で裏庭が占拠されていた(結構ホラーだ)。ドラえもんがロケットで栗まんじゅうを宇宙に送り出すところで、話は唐突に終わる。『ドラえもん』でオチらしいオチを持たないエピソードは珍しく、博識の藤子・F・不二雄すらバイバインの対処に妙案が思い浮かばなかったようである。

栗まんじゅうがその後どうなったのか、諸説ある。遠からず全宇宙が栗まんじゅうで充満するという人もいれば、ロケットが光速近くまで加速すれば相対論効果で5分が無限に近い時間に伸び、増殖が事実上止まるという説もある。はたまた栗まんじゅうの総重量が天体規模になると自己重力で凝集し、そのサイズをシュバルツシルト半径が上回った時ブラックホール化するという主張もある(アンサイクロペディアが詳しい)。幸いにしてバイバインは空想の産物だが、新型コロナのハンマーとダンスは喫緊の現実課題である。解決の糸口がないままゴミバケツに放り込んで見て見ぬ振りをすると、知らぬ間に取り返しのつかない事態に陥りかねないのは、栗まんじゅう問題と変わらない。

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