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鬼滅の刃、或いはカフカと家族の話 [映画・漫画]

新型コロナはまだ遠い対岸の火事であった今年の正月のこと、おしゃべりな姪の口から飛び出した「キメツのヤイバ」の一言に「え、何の何?」と何度も聞き返してしまった。私が『鬼滅の刃』を初めて知ったのはそのときだったが、姪の解説を聞いて最近の中学生女子は物騒なマンガが好きなんだなと思ったくらいだった。しかし人気がうなぎ登りで劇場版アニメが空前のヒットを飛ばしている今、緑と黒の市松模様や竹を咥えた少女をメディアで見かけない日はない。

nihontou_youtou.png単行本を読破するヒマはないのでTVアニメのダイジェスト版を見たが、なるほど物語がよくできていてキャラクターが個性に溢れている。殺された身内の敵を討つため修行を積んで強くなるストーリーは、スターウォーズやハリーポッターに通ずる基本に忠実なダーク・ファンタジーだ。鬼との戦闘シーンは子供向けとは思えないほど凄惨でグロテスクだが、適宜ユルめのギャグをぶっこんで毒を中和する手加減が心憎い。修行場面のストイックさは昔懐かしいスポ根マンガを彷彿とさせるが、かと言って弱点を克服して強くなる直線的な成長物語ではない。ビビリで拗ねてばかりの善逸とか、自分が一番と認められたくてたまらない伊之助とか、性格にやや難のある隊士が生き生きと活躍する。心の弱さで人を裁かない懐の深さが、大人も魅了される『鬼滅』の人気の源泉ではないかと思う。

そんな優しさと対照的だとふと頭に浮かんだのが、カフカの『変身』だ。グレゴール・ザムザがある朝目覚めると、寝室で巨大な虫と化している。その奇怪な姿に父は拒絶と敵意をむき出しにし、妹は異形のグレゴールを献身的に支えつつも嫌悪感を隠しきれない。高齢の父に代わってひとり家計を支えていたグレゴールだが、その役割を全うできず部屋に閉じこもるやいなや、一転してザムザ家の厄介者に落ちぶれる。当り前と信じていた家族愛がみるみる変質していく現実を、彼はうまく理解できない。大黒柱として頼られたかつての自己像への誇りと郷愁が、グレゴールの心中で空回りする。やがて混乱した彼の思考に芽生える他愛もない反抗心の数々が、状況をことごとく悪化させる。

そして辛うじて優しかった妹がついにキレてしまい、グレゴールは誰にも顧みられないまま自室で息絶える。それまで物語はずっと彼の視点を通して語られていたが、グレゴールの退場により彼の主観から開放された読者は、残されたザムザ一家にとってグレゴールの死は悲劇ではなく解放であったことを知る。小説の幕切れ、父母と妹の三人はグレゴールなどまるで初めからいなかったかのように、清々しい再出発を迎える。『変身』はある意味、善良だが庇護者的な家族観に囚われている(どこにでもいそうな)男の話で、大黒柱の地位を失ったとたん彼の脆いアイデンティティがみるみる崩壊していく悲喜劇である。仮にグレゴールが虫にならずいつか結婚して自分の家庭を持ったとしたら、きっと真面目で勤勉な家長になったに違いないが、夫婦喧嘩になると言葉に詰まり「誰が稼いでると思ってるんだ!」と地雷を踏んでしまうタイプかも知れない。

『変身』の終盤、グレゴールの妹は「あれが本当の兄なら(家族を苦境に追い詰める前に)自分から家を出ていったはずよ」と喝破し、虫の中に兄の面影を求めることを止めてしまう。対照的に、炭治郎は鬼にされた妹の心に本来の禰豆子が生きていることを疑わず、その禰豆子はときに身を挺して兄をかばおうとする。『変身』の家族が役割(親子や兄妹)でつながれたドライな依存関係の典型だとすれば、『鬼滅』の二人は理屈を超えた兄妹愛で結ばれたウェットな絆だ。現実世界を生きる私たちはその両極のはざまで絶えず揺れ動き、家族の想いが噛み合わないと大小さまざまな家庭の問題が発生する。『鬼滅』で擬似家族を作り上げ支配する鬼(累)に炭治郎が対峙するエピソードがあるが、その根底に流れる問いかけも基本的に同じテーマに他ならない。

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時間の使い方 [社会]

video_kaigi.pngテレワークやネット会議が急速に普及し、出勤や出張にかける時間は大幅に減った。もし仕事の作業効率がリモートでも変わらないとすれば、移動の時間と疲労がなくなったぶん生産性は向上したはずである。私の実感としては、消化試合的な会議で業務報告を聞くためにわざわざ一日がかりで出張しなくてすむメリットは大きい。一方、国際学会などは海外の研究仲間と絆を深めたり将来の共同研究者を発掘する貴重な機会で、これはセッションが終わった後コーヒーやビール片手の会話が勝負なので、リモートでは限界がある。

出張への移動時間が必ずしも無駄とは言えない。欧米便の機内は約10時間かそれ以上雑音の入らない時間を確保できる貴重な機会で、疲れてずっと寝ていることもあるが、体調が良いと論文が驚くほどはかどる。現地に着くと時差ボケが待っているが、午前2時に目覚めて止む無くホテルの部屋で仕事を始めると、溜まった残務がきれいに片付いてスッキリ日の出を拝むこともある。海外出張に行けない日が続き、ZoomやTeamsは大変便利で常々世話になっているが、深夜のリモート会議が続くと体力的に辛い。欧米のコロナ状況が芳しくないので先が見えないが、海外と安全に往来できるようになる日が待ち遠しい。

国内ではGoToキャンペーン各種がたけなわだが、制度設計が複雑怪奇で難しい。GoToイートのプレミアム付き食事券は販売方法が自治体によってまちまちで、ネットで即完売したとかコールセンターが一向につながらないとか、不満続出のようである。GoToトラベルに上乗せできる東京都の都民割5000円は、予算規模が中途半端なせいで宿泊施設への割当が少なく、メディアがお得感を煽っている割に一部代理店では即日完売が相次いでいるらしい。キャンペーンの恩恵を被る以前に、制度を利用する入り口で四苦八苦する人を大量生産している模様だ。

空いている予約をネットで探し続けたり、つながらない電話をかけ続けるために、どれだけの人が貴重な時間を費やしていることか。鳴り物入りの景気刺激策のはずが、浪費される時間を国内全体で積算したら、それなりの経済損失を生んでいるのではないか?

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総合的・俯瞰的な・・・ [政治・経済]

日本学術会議は科学者の国会などと喩えられることがあるが、国会議員と違って学術会議会員が選挙で選ばれるわけではない(昔は公選制だったが弊害もあり制度が変わった)。研究者の端くれの目に映る学術会議は、政治と科学の関わりに熱心な(または別に好きではないが巻き込まれてしまった)エラい学者たちの真面目なサロン、というイメージである。学術会議が国内87万人の研究者の総意を代表しているとは別に思わないが、本務の傍ら時間を惜しまぬ彼らの尽力には敬意を感じている。

自民党が、学術会議の在り方を見直すプロジェクトチームを立ち上げた。見直したほうが良いところは見直せば良いと思うが、そもそもことの発端は菅総理が「総合的・俯瞰的」判断をつぶやいたことであって、別に学術会議が何か不祥事を起こしたわけではない。でもなぜか、甘利さんとか非当事者が頼まれもしないのに学術会議への逆風をせっせと煽っている様子である。菅さんご自身はダンマリでも風の吹くまま物事がなびく仕掛けができているわけだが、蓋を開ければ誰も得をしない類の話であり、どこかモリカケ問題に通じる空虚感を禁じ得ない。

animal_chara_fukurou_hakase.pngよく聞かれる批判の一つは、日本学術会議は政府機関の一部で税金が入っているのにそれに見合う働きをしているのか、という指摘である。しばしば引き合いに出されるのが諸外国の類似機関で、欧米の科学アカデミーの多くは政府から独立した組織だ。なお誤解している人もおられるようだが、非政府機関であっても国の予算支援は入っている。少し古いデータだが、2001-2002年度に実施された内閣府傘下の専門調査会が簡潔にまとめた資料(PDF)がある。米国の科学技術系4アカデミーでは年間で計約280億円の予算が動いており、そのうち70%が連邦政府系のグラント等ということなので、国庫から200億円近い支援がある。英国の王立協会は予算規模およそ80億円、その半分強が国庫支出で賄われる。ドイツの科学アカデミー連合は年間予算37.5億円のうち、連邦政府と州政府が半分づつ担う。いずれも会員数が千人から数千人を誇る大規模な組織で、日本学術会議の10億5千万円に比べ何倍もの国費が投入されている。対してフランス科学アカデミーは7億円弱の年間予算のうち政府が6割を担い、予算規模は日本より小さいが会員数も少ない。

欧米諸国の科学アカデミーは政府と独立した立場で活動しながら、各国政府は相応の経済的支援をしている。それが先進国として当たり前の総合的・俯瞰的な見識のようである。実は上述の政府専門調査会は、海外の動向も含め日本学術会議のあり方を議論した上で、長期的には欧米のシステムと同様に国から設置根拠と財政基盤の保証を得た独立の法人とすることが望ましいと結論している。それから20年近くたっているが、法人化への検討が進んでいる気配は見えない。もし学術会議が総理任命権の影響下からさっさと脱していたら、総合的・俯瞰的な言いがかりをつけられる羽目にはならなかっただろうし、にわか学術会議問題論者から変テコなバッシングを受けずに済んでいたのではないか。

ところで、学術会議の在り方についてはとっくの昔に政府自ら2年近くを費やし検討を済ませているのだから、自民党プロジェクトチームの議員たちがわざわざ多忙のなか後追いするまでもない気もする。もっとも自民党と言えば、あのもやウィンの一件から察するに科学リテラシーに無頓着な人たちが多いようなので、先人の調査報告を総合的・俯瞰的に勉強しておいても損はないかもしれない。

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嬉々として経験を語る [その他]

kensagi_blue.png誰しも40代になると、人間ドックを無傷で突破できる人は少ないのではないか。私も例年あれこれ指摘されつつ、経過観察で逃げ切りセーフの日々を送ってきたが、今年はついに便潜血にひっかかり精密検査の判決が下った。で、人生初の大腸内視鏡検査をやってきた。

経験のある方はよく御存知の通り、大腸カメラには事前に周到な儀式が要求される。前日の食事は、消化に良い食材を事細かに指定される。素人が一からメニューを考えるのはやや面倒だが、ジャネフ(キューピーの病院・施設向けブランド)にクリアスルーという大腸カメラ前日用のレトルト食品があって、3食分揃って便利なうえ検査食としては充分おいしい。標準セットのボリュームはかなり控えめなので、食欲のある人には増量タイプを勧める(それでも3食で1000 kcal未満)。

検査当日の朝が、儀式のクライマックスだ。2リットルの腸管洗浄液を、2時間かけて飲む。美味とは言い難い代物を2時間飲み続ける苦痛をどう克服するか、経験者の知恵は様々だ。身内に大腸カメラの大先輩がたくさんおり、希釈には冷水を使えとかコップも冷やせとかウンチクを次から次へ語ってくれる。(私はコップまで冷やさなかったが)おかげで思ったより楽に乗り越えた。検査そのものは、鎮静剤を投与され気持ちよく寝ているあいだに全部終るから、胃カメラに比べ何の煩わしさもない。

大腸内視鏡検査で得た思わぬ発見は、経験者が嬉々として体験談を語ってくれることである。会食中に話すようなネタではないし、普段はわざわざ進んで語るには忍びない反動か、大腸カメラ初体験のカモを見つけるや、誰もがほんとうに嬉しそうにしゃべる。私も経験者になった途端、こうやって綿々と綴っている始末だ。ちなみに検査結果は異常なしだった。

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日本の科学は後退するのか? [科学・技術]

kenkyu_man_shikinbusoku.pngつい先日発売のNewsweek日本版(10月20日号)で、科学後退国ニッポンという特集が組まれていた。ふだん雑誌はほとんど読まないのだが、何となく気になる企画でつい買ってしまった。記事は、科学の現場を取り巻く日本の現状を憂いている。いわく、日本が科学に投資する国家予算はずっと横ばいで伸び率は主要国中最低水準にあり、基盤的研究経費が減り続けているためそれを補う競争的資金の獲得に研究者が忙殺されている。若手研究者の就職難が深刻であり、目端の利く学生は科学者としてのキャリアパスを見限って博士課程に進学しない。また、就職難や資金獲得競争のなか失敗が許されない焦りが一部の科学者を研究不正に駆り立て、日本のアカデミアの信頼を損ねている、といった具合だ。

この最後の論点は、ホンマかいなという気がしないでもない。大自然の謎を解明したいとか、世の中に役立つ発明をしたいとか、研究者のメンタリティは基本的に未発見の真理に到達したいという願望で成立している。嘘のデータをでっち上げても真理には近づかないから、純粋に研究が好きで科学者になった人(大半はそうだと思う)は、いくら苦境の中でも捏造は誘惑になり得ない。STAP細胞の小保方さんは、過当競争のプレッシャーで道を踏み外した心の弱いサイエンティストというより、屈折した自己承認欲求を誰にも正してもらえないまま昇りつめ、いきなり現実世界に放り出され戸惑う御伽の国のお姫様のように見えた。彼女の妄想の中では、作り込んだデータを憧れの偉い先生に見せ喜びを分かち合う幸福こそが研究であり、捏造と真実の境界は初めから意味を持っていなかったのでは、とすら思える。

国立大学に配分される予算が減り続け競争的資金のシェアが増しているのは事実であるが、研究資金獲得に費やす労力の負荷は、日本より米国の方が明らかに重い。アメリカの研究仲間と話をすると、慢性的にプロポーザル(研究費の申請書)の締め切りに追われる疲労感をよく感じる。その意味では、今でも日本の研究環境はむしろ恵まれていると言える。ただし研究費獲得のために投資した努力は、いずれ科学的成果に結実する。日本のアカデミアはむしろ、外部評価や組織改革などマネージメントの議論や書類作成に終わりなき労苦を強いられ、これが現場を圧迫する最大の要因のように思える。評価も改革もある程度は必要だが、研究のプロが組織運営で疲弊するのでは本末転倒だ。泣く泣く研究時間を削って準備した分厚い評価資料への回答が「もっと研究成果を出しなさい」では、笑い話にもならない。

アメリカの研究大学では、研究グループに所属する大学院生やスタッフを教員が外部資金で養うので、人件費の確保が大変だ。米国では大学教員の給与は学期が開講される9ヶ月分が一般的で、残り3ヶ月分を賄うため自分の給与の一部も外部資金に頼る。ところでアメリカはResearch ScientistないしResearch Professor等と呼ばれる外部資金雇いの無期契約研究者が大勢いて、ポスドクのようなプロジェクト色がついた任期付雇用と違い、ボスや自分自身が資金を調達できる限り半永久的に働ける。私は在米時、はじめの2年はポスドクで雇われたがその後Research Scientistに昇格した。米国の有名大学で、一研究室を率いる教員職を得る競争は極めて熾烈だが、外部資金雇いの研究ポジションは(選り好みをしなければ)チャンスは広く開かれている。そもそもチームを引っ張るより誰かの下で職人的に働くのが得意な研究者も大勢いるから、適材適所の効率的なシステムだ。

日本の大学や研究所ではポスドクのような3~5年単位の有期雇用は少なくないが、外部資金による無期雇用制度は原則存在しない(労働契約法との兼ね合いもある)。ポスドクで食いつないだあとは大学や研究所の正職員に挑むほかなく、これは定員が決まっているので公募自体が大変少ない。このギャップが、いわゆるポスドク問題を生んでいる。正職員のキャパを増やせないなら、日本にも外部資金の無期雇用制度を根付かせればポスドク問題は少しは緩和されるだろうし、長期的には人材供給が安定するので研究の活性化が期待できる。ただし財源確保にあたって、新学術領域研究のような大型プロジェクトに集中投入されがちな現在の制度を再編したほうが良い。日本の競争的資金は、小回りの効く個人研究(科研費で言えば基盤BやC)で人を雇える規模の資金確保は難しい。どんな小さなグラントでも人件費を積むのが当前の米国に比べ、日本の研究費制度は科学の発展にいちばん大事なのは人だという設計思想が薄い。

上述のNewsweek記事は、もう少し掘り下げた分析が欲しかったなあと言う印象は拭えない。ただし、主記事に続いて様々な世代の研究者4名による匿名座談会が収録されており、こちらは生々しい意見が飛び交って面白い。

101回目の記事 [その他]

party_cracker_kamifubuki.png後から気がついたのだが、前回の記事でこのブログを始めてちょうど100回目を迎えた。三日坊主で立ち消えになってもいいかというくらいの気分で始めたので、思いのほか長続きしていることに自分でも驚いている。当初は週一回の頻度で週末更新していたが、途中から週の中盤に短い記事を挟んで週二本が基本になった。ペースを上げた背景には、2月ごろからコロナ禍が深刻化し始め、日々考え事が増えたことがある。3~5月には、世界中で何が起こっているのか少しでも理解しようと、かなり時間を投資して疫学データの解析に没頭し、コロナ自由研究をブログに綴っていた。しまいにはやりすぎてお腹いっぱいになり、国内では感染拡大が小康状態にある今、あの頃のテンションで感染状況を追跡する気力はもはや無い。ただいったん定着した週二回のブログ更新ペースだけは(誰に頼まれているわけでもないのに)何故か止められないまま現在に至っている。

週末以外の記事は、気軽な小ネタを上げるつもりでタイトルに「番外編」と付記していた。だが、ときに重めのネタを番外編で扱うこともあるし、本編並みに長めのコラムになるときもある(逆に本編が短いときもある)。番外編と銘打つことにあまり意味はないと薄々気付いていたのだが、自分で始めた慣例を変えるきっかけを何となくつかみそこねていた。今回せっかくキリ番の節目なので、これを機に以後は本編と番外編を区別しないことにする。

テーマは何であれ、少しでも人に伝わるようにと作文を推敲していると、漠然としていた考えが自ずとまとまって来ることがある。その結果、自分で思いもしなかった結論に着地したりする。思考に形を与える意味も含め、ひとり文章修行のつもりでブログを続けているが、ごくたまに「ブログ読んでますよ」と思わぬ方から感想を頂くと、やはり励みになる。密かに思い入れを込めた記事に温かい反応を下さると、とりわけ嬉しい。ちなみに手元のログによれば、当ブログの記事別アクセス数で最多を誇るのは、ダントツで『コロナを吹っ飛ばせ』のようだ。記念すべき番外編の第一号だが、どなたかが作った手の込んだジョーク『Coronavirus Etude』の譜面をいじっているだけの軽いコラムで、いちばん頭を使わずに書いた回かも知れない。無い知恵を絞って書く記事より、半ば反射神経で捻り出すネタのほうが、結局ウケが良いということか?

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皆勤賞はお嫌いで? [社会]

marumeta_syoujou_ribbon.png幼稚園や学校で皆勤賞を廃止する動きがある、という話を聞いた。反対論のなかには、高熱をおして登校する子がいるとコロナ感染リスクを高める、という主張がある。その懸念は理解できるが、皆勤賞廃止論争は新型コロナ以前からすでに始まっていたので、本来の論拠は別にある。例えば、2019年12月付FNNのコラムでは、休むことが悪いわけではない、むしろ体調が悪いなら無理をせず休むことが大事、として皆勤賞を止めた小学校の例を紹介している。さらに、無理して毎日学校に行くことへのこだわりが薄くなった親側の価値観の変化があると、専門家が指摘している。

休むべきときは遠慮なく休めばいい。でも、だから皆勤賞は止めようとネガティブな制度論に飛びつかなくてもいいんじゃないか。休む子の意思を尊重することと、休まずに登校し続けた子を褒めることは、何ら矛盾しない。足が早ければ運動会で喝采を浴び、勉強ができれば通信簿で称賛されるように、休まず登校し続けたらちゃんと表彰してあげればいい。

大人は皆勤を美徳だと思っている(いた)から、美徳の価値観が変わってくると今の世相に皆勤賞など似つかわしくないという話になるのかも知れない。しかしそもそも子供の行動原理は、そんな頭でっかちの美学とは無関係で、モチベーションに理由は要らない。私は幼いころ京王線の駅名を新宿から高尾山口まで全部言えたりとか、図鑑に載っていた恐竜のカタカナ名を片っ端から記憶したりとか、流行りでもなければ何の役にも立たないマイブームにハマった前科が無数にある。毎日休まず学校に行く情熱だって、根はたぶん同じではないか。体調が悪かったらやむなく登校を諦めさせるのは大人の役目で、皆勤ミッションに頓挫した子はがっかりするかもしれないが、かといってささやかな生きがいの芽を初めから摘んでしまうことがいいとも思わない。

24時間働けますかなどと言われていたバブルの時代は遠い昔、今は働き方改革とテレワークで家で過ごす時間が増えた人は多いだろう。そんな社会の風向きの変化が学校教育の現場に及んだ結果が皆勤賞の廃止ということなら、皆勤賞をなくす代わりにいっそ一番休んだ子を表彰する最長欠席賞を新設してはどうか。さまざまな事情で長期欠席していた子に、いろいろ大変だった君をずっと見守ってきたよ、とねぎらう機会があってもいい。そして、皆勤賞と最長欠席賞の表彰式を同時に催行すればいい。まるで対極の価値基準にもそれぞれ意味がある、ということを考えさせることができるなら、それこそ本来教育の目指すべき方向ではないか。

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番外編:続・学術会議 [政治・経済]

kokkai_touben_shingi_man.png日本学術会議の任命問題をめぐり、表舞台では政治と学問のあり方について論戦が続いている一方、裏ではネトウヨのおいしいネタになっているようである。これまで学術会議にまるで興味がなかった(知らなかった)人々が、誰かの論説をコピペし熱心にバッシングしている模様だ。良くも悪くもせっかく注目を浴びているまたとない機会なので、学術会議は政権に意見するだけでなく、もっと広く社会に語りかけてはどうだろう。

学術会議の年間予算は、約10億円ということだ。そんな大金を、という声もあるようだが、会員210名に加え連携会員約2000名という組織の運営経費である。(民間企業と同列に比較はできないが)年商10億円の会社がどれくらいの規模か想像のつく人は、理不尽な金額とは別に言わないんじゃないか。とは言え税金が投入され動いている以上、存在意義をきちんと発信する責務はある。学術会議は必要なのか、という意見が社会から出てくるならば、きちんと反論して自らの立場を説明したほうがいい。

ただし、一般の人が学術会議に意見するのと、時の政権が学術会議会員の人選に恣意的な判断を加えるのは、問題のレベルが違う。首相に任命権があるのだから黙って従えでは、違法か合法か以前の問題として、民主主義国の宰相として品がない。稲穂は実るほど頭を垂れるどころか、つくしんぼのように直立していないか。政府として学術会議とどう付き合っていきたいのか(またはいきたくないのか)、菅総理はむっつり黙っていないでなにか喋ってみてはいかがか。

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学術会議の任命問題 [政治・経済]

日本学術会議がにわかに注目を浴びている。任期満了に伴う新規会員の指名に当たり、学術会議側が推薦した105名中6人の任命を首相が拒否したということである。前例のない事態だそうだが、首相側は現時点でその理由を明らかにしていない。任命されなかった6人の方々はいずれも人文・社会科学系の研究者で、反政府の立場をとる学者の強権的な排除ではないかと憶測が飛んでいる。どの学者がどんな学説をお持ちか菅さんが逐一ご存知だとは思えないので、資料を上げる役人が忖度して入れ知恵したのかも知れない。

kaisya_ayatsuru_joushi.pngこの事案で、黒川前検事長の定年延長問題を思い出した。政権寄りと言われた黒川氏を検事総長に起用するため、法務省の人事案を無視し官邸がひねり出した奇策だったということになっている。当の黒川氏がご趣味の賭け麻雀で足を滑らせご破算になったが、官邸による官僚支配の露骨な実例としてしばし世を騒がせた。長らく官僚の人事は霞が関の意向を尊重することが慣例だったが、安倍政権は人事権をちらつかせて官僚を操る官邸主導政治を敢行し、その結果官僚の忖度を誘発してモリカケ問題を生んだと囁かれている。その中心にいたのが、安倍政権の官房長官だった今の菅首相というわけである。週刊誌的な整理なのでどこまで正しいかわからないが、菅総理が官僚心理の弱みを心得た老獪な策士であることはたぶん間違いないだろう。

もし官僚を手懐けるのと同じ手管で首相が学術会議をコントロールしようしたのだとすれば、いくつか誤算があったのではないか。第一に、同じ行政機構の中で一定の緊張をもって協力する内閣と省庁の関係と違って、学術会議は行政機能の一部ではない。政策提言は行うが、何の権限も権力もない。社会的使命感や政治的上昇志向の強い学者は学術会議の肩書にこだわるかも知れないが、役職上は非常勤の兼業に過ぎず、官僚のような人事系インセンティブがそもそも薄い。第二に、研究者は正しいと思ったことは黙っていられない性分の人が多く、忖度とかややこしいことを考える思考回路がない。戦後まもなく設立された日本学術会議は、科学が国家に対して負う責任と距離感を強く意識し続けてきた組織である。政府が学問の自由に介入したと解釈されかねない暴挙に出れば、蜂の巣をつついたような騒ぎになるのは当たり前だ。

中曽根元首相は、学術会議が推薦した会員を政府が取捨選択することはしないと明言していたそうである。戦争を体験した世代として、学問の自由に対し格別の想いと責任感をお持ちだったのかも知れない。人間の器が違うのはどうしようもないが、菅さんご自身の思惑に照らしても今回やり方を間違えたように思えてならない。理由は何であれ、任命拒否をやってしまった挙げ句説明の意思も見せない塩対応で通したものだから、どこの局も(トランプ大統領感染の一報に次いで)トップニュース扱いだ。おかげで、学術会議にとっては予想外の宣伝キャンペーンになったし、任命から外された学者たちは全国ネットで主張を語る機会を得た。菅さんは今頃、どうしてこうなったかとヘソを曲げているのではないか。

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