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変異種のはなし [科学・技術]

virus_corona_mutant.pngイギリスで見つかった新型コロナの変異種が、騒ぎになっている。従来種より感染力が強いとのことで、最大7割増とか実効再生算数が少なくとも0.4増えたとか、報道で数値が出てくると何やら切迫感が増す。実効再生産数については、0.4上昇と言っても0.5が0.9になるのと0.8が1.2になるのでは全く意味合いが違うので、数値が正しいとしてもその言い方の数理的センスがイマイチだなあと思うが、まあいいことにする(実際には1.1から1.5ということらしい)。

英国南東部ケントで初めて見つかったこの変異種は、12月に入って急拡大した感染の波に乗ってみるみる増え続け、徐々に従来種を駆逐しつつあるようである。だが、これだけではこの変異種が従来種より感染力が強い証拠にはならない。ウイルスの変異自体は日常茶飯事なので、何らかの原因で感染再拡大が早く始まった地域にたまたまいただけの変異種が、ロックダウン解除で復活した人流に乗って一気に勢力を得たのでは、という仮説も成り立つ。9月下旬には既にケントに出現していたことが判っているから、本当に感染力がアップしているなら、2ヶ月以上にわたりほとんど人目を引く挙動を示さなかったことが奇妙と言えば奇妙だ。この変異種が現実に感染拡大を駆動しているのか、単に感染実態のトレーサーに過ぎないのか、データの相関だけから因果関係を特定することは(一般論としては)難しい気がする。

ダーウィン的な自然淘汰の見地からは、感染力の高い種が生き残っていくのは当然の帰結ということになる。一方、分子レベルの進化はほとんどの場合有利でも不利でもない中立的な変異が集団内に広まる帰結として起こる、とする理論(分子進化中立説)があって、これによれば結果的にどの変異が進化を支配するかは基本的に偶然の作用が決める。提唱者の木村資生博士は、ダーウィニズムを象徴するSurvival of the fittest(最適者生存)と対比させて、彼の理論を Survival of the luckiest(一番幸運な者が生き残る)と呼んだ。ウイルスの世界でも、多数派を占めたから感染力が強いはずだとは必ずしも言いきれないのではないか。この方面に詳しいどなたかにぜひ教えて頂きたい。

ただ例の変異種は、ウイルスのスパイクタンパク質に関わる変化がいくつも起きていることが確認されているそうである。さまざまな疫学的・ウイルス学的状況証拠を集約すると、実際に感染力を増している蓋然性は高いという話のようだ。この手の強面な変異種が現れると世界中の入国警戒レベルが跳ね上がるので、社会への影響は大きい。水際対策は重要だが、これから疑惑の変異種が見つかるたびにパニックに近い反応を誘発しないか、少し気になる。デンマークでミンクが大量に殺処分された時は、いささか過剰反応だった感がある。

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紅白明暗 [音楽]

audience_penlight.png紅白歌合戦をじっくり見なくなって久しい。1960年代や70年代は視聴率60%から70%は下回らない鉄板の人気番組だったが、80年代後半に数字が急落して以降年々じりじりと下がり続け、近年は40%を切ることも多い。それでも、デビュー後間もないミュージシャンにとって紅白出場の機会を得る栄誉とは、新人作家が芥川賞をとるような特別の輝きを未だに放っているらしい。今年も紅白出場歌手が発表された直後は、当落を巡りひとしきり巷がざわついたようである。

AKBの落選ほど話題になっていないが、ともに昨年初出場だった髭男とKing Gnuが明暗を分けたことが、ファンの間で論議を呼んだようである。いずれも男性4人のグループで世代が近く、流行りはじめた時期もかぶっているのでよく比較される。でも、音楽的には似ても似つかないバンドである。髭男の爽やかで真っ直ぐな音楽はとても心地よいが、40代後半のひねくれたオッサンには眩しすぎて少々こそばゆい。King Gnuの曲に通底する屈折したほの暗さが、むしろ心に馴染む。『三文小説』などサビの旋律だけ取り出せばバッハのフーガにでも馴染みそうなくらいクラシカルだが、端正で美しいメロディーを暗く爆発的な情念に乗せるセンスと熱量にしびれる。『白日』を超える名曲だと思うが、どのみち紅白の浮かれたムードには馴染まないかも知れない。

紅白人気が衰退の一途を辿る背後には、世相の変化がもたらす不可避の要素は確かにあるだろう。家族団欒の場ですら親子それぞれスマホの画面にチラチラ目を落としかねない時代だから、大晦日の晩にテレビ以外の娯楽がなかった頃と同じ視聴率が期待できるはずもない。だが紅白人気の翳りは、スマホはもちろんガラケーもなかったバブル初期に既に顕著だった。視聴率低下の原因か結果かはわからないが、紅白製作側の意気込みが空回りするイタい企画が目立つようになる。ひところ小林幸子の華美な衣装が話題になると、何を思ったか白組には美川憲一を立て、毎年奇怪な衣装合戦を仕組んでいた。年々エスカレートして引くに引けなくなった挙句に衣装が舞台装置の一部と化してしまい、電飾の狭間に閉じ込められ身動きの取れない歌手が気の毒だった。『シン・ゴジラ』が話題を呼んだ2016年の紅白では、ゴジラを題材に大掛かりな演出を仕込んで大々的にすべった珍事件がなかったか?いつからか紅白といえば、見ている方が気恥ずかしくなる残念な企画の宝庫になってしまった。

ある頃から、NHKはお堅いイメージを払拭する自己改革を始めた気配がある。『LIFE!』のようにイメチェンが上手く実った番組もあるが、紅白は「軟派もいけるNHK」作戦がいつも裏目に出ている。間延びするつなぎコンテンツは程々にして、その一年を代表するヒット曲と万人受けしないけど内容の濃い曲を組み合わせて、もう少し音楽中心の構成で攻めてもいいんじゃないか。お金のかかったMステみたいな番組なるかも知れないが、誰に何を伝えたいのかよく分からない最近の紅白よりは、見応えがあるんじゃなかろうか。視聴率が30%代まで低下したとは言え、一般の番組がこの数字を取れれば驚異的と言える水準ではある。何だかんだ大晦日の晩に何となく紅白を流している家庭は今でも多いと思われるので、下手に媚を売ったりせず骨のある音楽番組を期待したい。

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北極圏某所にて [フィクション]

christmas_mask_santa_tonakai.png「今年も子どもたちからどっさり手紙が来ておるな。でも内容がいつもの年と少し違うぞ。『今年のクリスマス、私はなにもいりません。かわりに、コロナがなおるくすりを世界でくるしんでいる人にとどけて下さい』だとさ。泣かせるじゃないか。」
「子どもはピュアっすね。こっちの手紙も読んでみましょうか?『私は大きくなったらサンタさんになりたいです。なぜかというと・・・』」
「おいルドルフ、急に腹をよじって笑い出すとは何事だ。最後まで読んでくれ。」
「『・・・なぜかというと、一年に一日はたらくだけでいいからです。』どうします、サンタ先輩?この子を呼んで、弟子にします?」
「何もわかっとらん子どもだ。イブの晩だけ仕事して、一年間ずっと飯が食えるわけないじゃないか。オフシーズンはルドルフと一緒にFedExのバイトで密かに世界を飛び回っておるのだ。」
「いやぁ、今年は散々でしたね。ひところ世界の流通がさっぱりだったから、もう少しで契約切られるところでしたし。」
「非正規雇用のつらいところだな。この手紙の山の中にも、爪に火を灯すような窮状を綴った切実な願いは多いぞ。わしは配達が本職だから、ウーバーイーツで凌いでおったが。」
「え?聞いてないっすよ。先輩一人で行ってたんですか?ソリはガレージに置きっぱなしだったじゃないですか。」
「そりゃ、ロックダウン最中の街中でトナカイ連れてソリに乗ってたら、悪目立ちするじゃないか。普通に自転車で走り回ってたさ。ソリと言えば、今年は出番がなさそうだな。」
「あ、それ聞こうと思ってたんすけど、いつもならこの時期は崩れんばかりガレージに積まれるプレゼントの山が、影も形もなくないですか?」
「今年わしの担当は日本なんだが、問題は14日間の自己隔離だ。クリスマス前に入国したら、謹慎が解けるころには松の内が明けているじゃないか。クリスマスプレゼントどころか、お年玉にも間に合わない。」
「確かに・・・。で、どうするんです?子どもたちは楽しみにしてますよ。」
「心配いらない、もう全部手配した。クリスマスの早朝、各家庭にアマゾンで届く。」
「マジすか?手軽でいいけど、なんか味気ないっすね。」
「まあそう言うな。そもそも、時代が変わっているんだ。煙突がある家なんて今どきないし、セキュリティも厳しくなった。おまえはそそっかしいから、子供部屋に忍び込もうとしてセコムが飛んできたことが、何度もあったじゃないか。」
「え、あれ全部あっしのせい?まあいいっすけど。でもネット通販で済むようになったら、サンタクロースのありがたみって何?って話になりませんかね。」
「それはわしも気にしておる。で、こんなプロモーションビデオを作った。今まで配達中にスマホで撮り溜めた動画をつないで、サンタ目線で世界を旅する気分になれる。」
「サンタ先輩、いつからユーチューバーになったんですか?うわ、むちゃクオリティ高くないっすか、これ。きっとバズりますよ。」
「じゃろ?上手くいけば、もうFedExのバイトで老体に鞭を打たなくても食っていけるかもしれん。」
「とすると、結局あの子の言う通りじゃないですかね?」
「誰だ、あの子って?」
「一年に一日しか働かなくて楽だからサンタになりたい、って書いてきた手紙の子ですよ。」
「・・・まあ今年はその一日にゆっくりできるめったに無い機会なんじゃから、静かにクリスマス・ディナーでも楽しもうじゃないか。もうテーブルの準備はできておる。でも、その前に手指消毒は念入りに頼むぞ。手指っていうかひづめかな、おまえの場合?」
「どっちでもいいっすけど。ただ、チキンとか食えませんよ、ベジタリアンですから。」


※言うまでもありませんがこの物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。ただしサンタ宛の手紙に関しては、実話から着想を得ています。

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今日も最高値 [科学・技術]

space_nissyoku.png皆既日食をご覧になったことはあるだろうか?私はオーロラと皆既日食は死ぬまでに一度この目で見てみたいのだが、どちらもまだ実現していない。次に日本で観測される皆既日食は2035年だそうで、めったに拝めない希少な天体ショーというイメージがあるのではないか。だが実際には、世界のどこかではほぼ毎年のように皆既日食が出現している。ただ地球の表面は7割がた海に覆われているし、陸上もその大半はジャングルや砂漠など人が簡単にアクセスできない無人の大地である。たまたま人間の生活圏を皆既日食が通過するとその時だけにわかに盛り上がるので、結果的に稀なイベントという印象を醸成するのだ。

豪雨などの際に気象庁から出される大雨特別警報というものがあって、数十年に一度の降雨量という物々しい警句が飛び交う。しかしこれを年に何回も聞かされると、全然「数十年に一度」ではないじゃないか、と訝しく思う方も多いのではと思う。真意はと言うと「そこの地域が」数十年に一度経験する災害のことであって、「全国のどこかに」豪雨が襲う頻度のことではない(特別警報の発令基準は気象庁サイトに詳しい)。皆既日食の例と裏返しで、ニュースを見ていると数十年に一度クラスの集中豪雨が年がら年中降っているように錯覚するが、自分の住んでいる街で特別警報クラスの気象災害に遭遇する確率は、多くても一生に一度か二度くらいのはずだ。

日々報道されるコロナ感染者数の取り上げ方に、似たようなデータ解釈の混乱を感じる。東京都で最高値を更新しましたとか、今日は広島県で過去最多でしたとか、記録を更新した都道府県を入れ代わり立ち代わり取り上げると、全国規模で日々一方的に感染者が増加し続けている印象を与える。どこにも過去最多が見当たらない日は、「過去3番目の数値」とか「総計で○万人を突破」などとあの手この手で煽るメディアもある。毎日のように最多最多と聞かされると、明日は日本も感染爆発かと不安になる人もいるかも知れない。冬本番を迎え夏場より感染リスクが高いのは当たり前だが、北海道で第三波が縮小に向かいつつあるほか、近畿や中部地方などで12月に入り感染拡大の伸び率が11月より鈍化した地域も多い。じりじりと新規陽性者数が増え続ける首都圏や一部の県と何が違うのか、データを注意深く読み解けば何かヒントがありそうである。

メディアのコロナ報道はともすればヒステリックになりがちだが、逆に首相周辺は呑気に忘年会でステーキを召し上がっておられるようで、このギャップはいったい何だろう。その真ん中へんが本来あるべき立ち位置ではないか。為政者の決断力が鈍いと対策が回らないし、メディアが煽り続けるとオオカミ少年と同じで国民のメンタルが擦り減りむしろ逆効果だ。勝負の3週間とやらが不発に終わったのも、別に不思議ではない。医療が逼迫し予断を許さないならなおさら、データを読むときはグラフの最高峰ばかり指差し狼が来たと大騒ぎするのでなく、ちゃんと全体を見渡し落ち着いて分析をしよう。

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向田邦子のエッセイ [文学]

とある方のインタビュー記事で、こんな逸話に出会った。小学生の頃、学校から帰宅の時分ドシャ降りに遭った。家が近かったので、自宅の傘をいくつかひっつかんで学校へ戻り、傘がなくて困っていた先生に貸そうとした。ところが蛇の目の柄が気に入らなかったか、「こんな傘がさせるか」と不機嫌に突き返されてしまう。ひどく傷ついた彼女は帰宅後、歳の離れた姉にその出来事を訴えた。すると姉が言うには、大人も子供と同じように好みがあって、虫の居所が悪いときもあるから、理不尽な言い分で人に当たることもある。でもあなたのやったことはとても素晴らしい。彼女はその姉の言葉にとても救われた、というような話である。当時20歳とは思えぬ達観した温かい言葉で妹に寄り添った姉は、若き日の向田邦子さんである(インタビューに答える女性は末妹の和子さん)。

book.png先日たまたま自宅に『向田邦子ベスト・エッセイ』という本を見つけて、懐かしくなった。向田邦子のエッセイに目を通すのは、学生の頃ハマって読破して以来だからほぼ30年ぶりだ。お父上が無愛想で怒りっぽい昔ながらの大和男子で、子煩悩な本心を素直に表現する術を知らない。『父の詫び状』を始めたびたびエッセイに登場する不器用な父を、向田邦子は上品なユーモアを交え淡々と描く。でも「ちょっといい話」的な毒抜きされたほのぼの感とは、すこし違う。人の心のひだを見通す眼差しは触れれば指を切りそうなくらい鋭いのに、刃先を他人に向けることは絶対にない。聡明で思いやりの染み渡った美しい文章は、いつも諦観に近い寂しさが仄かに漂う。

『噛み癖』というエッセイで、彼女がかつて飼っていた大型犬の話が登場する。気立ての良い犬だったが、見境なく甘噛みする癖があった。隣人を追い回しては服の裾を駄目にしてしまう失態を繰り返し、ついに保健所送りになってしまった。見送る最後の日に大好物のソーセージを買い込んでくるが、駅で袋が破れホームにぶちまけてしまう。居心地の悪い視線を背に受けソーセージを拾い集めながら、人じゃないの犬が食べるの、いいヤツだったけど保健所に行かなくてはいけないの、と心のなかで叫ぶ。そのくだりを読みながら、むかし私の実家で飼っていた犬の二代目を思い出した。白黒モノトーンのおてんば娘で、名前をコムといった。

コムは私がしゃがんで相手をすると大喜びで飛び跳ね、しまいには決まって私の背中によじ登る。犬は群れの習性が刷り込まれているので、飼い主一家の下っ端をまず乗っ取ろうと企んでいると聞いたことがあるが、私が家族で一番年下であることを察知していたのかも知れない。だが両親が離婚したときコムを手放さざるを得なくなり、知人のつてで面識のない一家に引き取ってもらうことになった。何も知らないコムは、旅立つ日の朝も出かける私にいつものように飛びつき、そそくさと出て行く私を不満げに見送った。それが私が目にしたコムの最後の姿で、その日以来いちども犬を飼っていない。

コムの引き取り先を親から聞き出し、こっそり様子を見いくことも考えたが、結局行かなかった。家の事情で追い出してしまった疚しさもあって、慣れない犬小屋で心細く鳴いているコムを見たくはなかった。飼い主の気持ちは身勝手なもので、逆に新しい家族にはやばやと馴染んでいたら、それはそれで複雑な心境になっていたに違いない。事情は違うけれど、向田邦子さんが愛犬を手放したときの心中が、少しわかるような気がする。胸のうちをそのまま文章にさらけ出す人ではないから、愛犬との別れのシーンが何故かソーセージのエピソードになる。でも不思議なことに、人混みで這うようにソーセージを回収する彼女の背中を思い浮かべると、張り裂けそうな心痛がひしひしと伝わってくるのである。

向田邦子のエッセイの中で一つだけ、率直に心中を吐露した異色作がある。『手袋をさがす』という長めの随想で、気に入った手袋が見つからず、凍える手のまま寒い冬を越した意地っ張りな若き日の回想で始まる。自分の欠点や境遇が気に障り、そうやって苛立つ我が身を冷静に見つめてまた嘆息する。持ち前の人間観察力で自己分析を試みたなどと生易しいレベルではなく、人には決して向けない刃を自分の喉元に突きつけ、薄く血が滲み出すような痛々しさに満ちている。人並外れた才能で手に入れた人気放送作家の地位と、世間並の幸福に手が届かなかった喪失感のあいだで振り子のように揺れ続ける、満たされない渇望。若い頃に読んだときは息苦しさに面食らったが、今読み返すと、揺れたままの振り子を丸ごと受け入れ胸を張って生きる彼女の覚悟が沁みる。

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ガースーの本音 [政治・経済]

我らが総理ガースーが、年末年始のGo Toトラベル全国一斉停止をいきなり宣言した。見直す気はないとニコ動で言っていた舌の根も乾かうぬうちにと騒がれているが、それ自体は別に驚くに当たらない。議会解散は頭にないと言った矢先に解散したり、出馬はしないと言っておいて立候補したり、臆面なく前言を翻すのは菅さんに限らず政治家お得意の手管だ。ただそれは別にしても、今回の「英断」はとにかくツッコミどころが満載だ。

omairi_mask_kimono_family.pngあたかも年末年始の旅行プランが軒並みダメ出しされたかのようなざわつきぶりだが、そうではない。キャンペーンが一時停止されるということは、制度上は単にいつも通りの新年に戻ったというだけの話である。総理はそれを最大限の対策となぜか得意気だったが、例年と同じなのだから実態はゼロ対策だ。年末年始は静かに過ごしてほしいとのことだが、「静かに」って何か?御節は黙々と食えという意味ではないと思うが(飛沫飛散防止にはそのほうがいいのかも知れないが)、帰省や旅行はしないで下さいとは首相は絶対に明言しない。それでも観光業界が戦々恐々としているのは、お得感が急に消滅すると妙に士気が下がるのと、Go To停止を移動自粛のメッセージと受け取り、頼まれなくても進んでツアーをキャンセルする意識高い系の人が日本には大勢いるからである。旅を中止するのは各自の判断であって政府はそんなことは言ってませんよ、と(確信犯かどうかはともかく)経済損失の政策責任を回避できる仕組みになっている。

年末年始に医療現場を逼迫させたくないと総理は説明しておられたが、それなら今すぐキャンペーンを止めるほうが理に適っている。対策を先の伸ばせばそれだけ感染はじわじわ拡大するし、ウイルスの潜伏期間を考えればなおさら事前に手を打たないと意味がない。年末年始にGo Toを止めれば年末年始のコロナ患者が直ちに減るわけではないのである。そもそも帰省の場合、実家に泊まりGo Toトラベルの対象にならないケースも多いと思うので、正月休み前後はキャンペーン停止の効果はむしろ薄いのではないか。Go Toはもともと使わないからいいや、と予定通り帰省する人もいるだろう。重症者を抑えつつ経済を回したいなら、高齢者のおられる実家への帰省はガマンして下さい、一般の旅行は万全の感染対策で行って下さい、と言う方がまだ筋が通る。考えれば考えるほど、年越し限定でGo Toを止める実効性がわからない。敢えて邪推するなら、官邸側がなるべく憎まれ者にならずに対策を打つフリをできる苦肉の策がこれだったということか。キャンペーン一時中断を呼びかけておきながら感染拡大がGo Toトラベルのせいだとは今でも認めていない自己矛盾からして、それがフリに過ぎないことをご自身で認めておられるようなものだ。

ドイツではメルケル首相が怒りもあらわに、両手をぶんぶん振り回し感染抑止を訴える演説をぶち上げていた。自分は嫌われ役でいいから何よりも国を救いたいと熱弁を振るう総理が、いつか日本にも現れる日が来るだろうか?

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査読前の論文ですよね [政治・経済]

document_research_taba.pngGo Toトラベルに参加した人はそうでなかった人よりもコロナ的症状を訴える人が多かった、という論文に政府が噛み付いているようである。加藤官房長官は会見で「個々の論文にコメントはできない」と言いつつ、Go Toとコロナの因果関係は断定できない等々の限界を著者自ら認めてますね、とちゃっかりコメントしている。西村大臣も基本おなじ塩対応で、症状を自己申告したアンケート調査であってPCR検査はやってないでしょ、と強調した。そして二人とも、まだ査読前の論文ですよねとそろって念を押した。

論文が査読前ということは、業界内の検品がまだ終わっていないということである。蓋を開けてみればトンデモ論文かもしれないし、画期的な研究成果かもしれないし、その時点ではシロでもクロでもない。普通は門外漢が公の場で査読前の論文にコメントすることはないし、するべきでもない。研究の限界を著者が自己分析するのは論文では当然の考察ポイントで、それだけを強調して成果の信頼性を疑問視するのはフェアではない。官房長官や大臣の立場におられる政治家が、データ分析の専門家でもないのに論文の内容に立ち入った感想を公式会見の場で述べるのは、筋が違うのではないか。

Go Toトラベルが感染拡大の主要因であるエビデンスは現在のところ存在しない、とはもともと分科会の見解(アドバイザリーボード11月24日資料3)である。官邸サイドはこれを気に入って一つ覚えのように復唱しているが、言うまでもなく「Go Toのせいだという証拠がない」からと言って「Go Toのせいじゃないという証拠」にはならない。キャンペーンと感染率の関連について組織的な調査自体がずっと行われてこなかったのだから、分科会としては他に言いようがない。そこで簡易的な方法ながら実際に調査してみたのが冒頭の論文で、その結果やっぱり関連があるらしいと結論が出たわけだ。相関は必ずしも因果関係を示唆しないから、調査結果をもってGo Toのせいと言い切れないのは原則論としてそのとおりだが、素朴に考れば旅行に行けば外食もするのだから、旅行に行かない人より感染率が高くてもちっとも不思議ではない。

Go Toを止めたくないのであれば、キャンペーンが感染を拡大させるリスクをまずきちんと分析し、実態を把握することが政策判断の基礎となるはずだ。そこでつまづいているので、感染爆発か経済かという二元論に右往左往するばかりで埒が明かない。官房長官や経済再生担当相の立場としては、「国民の安全に資する政策改善のためこのような研究をどんどん進めて下さい」と(たとえ建前だとしても)奨励すべきと思うのだが。こともあろうか「査読前の論文ですよね」などと嫌味レベルのコメントしか出てこないことに、脱力感を覚える。

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二度目のおつかい [科学・技術]

space_syouwakusei_tansaki.png小惑星探査機「はやぶさ」初号機が注目されたのは、それが順風満帆のミッションだったからではなくて、逆に絶体絶命のピンチを何度も切り抜け奇跡の帰還を果たしたからである。科学としては成果が大事だが、社会にはドラマがウケる。2010年に満身創痍の初号機が故郷の大気圏で燃え尽きたとき、「はじめてのおつかい」のラストで買い物袋を引き摺り半ベソで帰ってくる子を迎える親のように、過酷で孤独な長旅から戻ったはやぶさに涙する人が続出した。はやぶさ開発をめぐる人間模様を描いた劇場映画が、立て続けに3本も作られた。

その後継機のはやぶさ2が先日6年間の旅から戻り、小惑星で採取した岩石試料を送り届けてくれた。現地のタッチダウンにあたり想定外の事象もあったようだが、初号機に比べ危なげのない見事な仕事ぶりである。関係者のたゆまぬ努力と技術革新の結晶だが、ドラマという点では波乱万丈だった先代に比べ、いくらか安定感がありすぎたかも知れない。オーストラリアの砂漠で回収されたカプセルは新聞の一面をさらったものの、二匹目のドジョウを狙った続編映画が作られるという話はさすがに聞かない。

2号機の本体は大気圏突入せず、次の目標に向かって再び長い旅路を邁進中である。さまざまな運用実験や科学観測を行いつつ、2031年に別の小惑星との出会いを目指すそうである。「はじめてのおつかい」ならばきっと「あれから11年・・・」とテロップが流れ、歳月を経たはやぶさ2の勇姿を紹介してくれるだろうか。次の旅は片道切符とわかっているのが少々切ないが、目的地に着く頃には初号機から通算20年を優に越え立派に「親離れ」する年齢なのだから、黙ってその背中を見送ることにしよう。

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憧れの人、憧れの職業 [社会]

ベネッセが小学生3年から6年生を対象に行なった「将来やってみたい仕事」のランキング調査結果を発表した。PR TIMESの紹介記事が詳しい。

男子は上位から順に「ゲームクリエイター・プログラマー」「ユーチューバー」「サッカー選手」がベスト3入りした。ゲームクリエイターやユーチューバーがランク入りするのは近年目立ってきた傾向だが、今年ついに1位と2位に並んだのはコロナ禍の影響でインドア指向が強くなったせいもあるだろうか。4位は野球選手、5位に研究者・科学者がランクインしている。研究者が健闘しているのは同業者としてちょっと嬉しいが、調査対象の母集団によっていくらか順位は違うかも知れない。ベネッセの調査は、研究者が比較的上位に食い込んでいることが多い印象がある。

女子のベスト3は「芸能人」「漫画家・アニメーター・イラストレーター」「パティシエ」の順で並ぶ。パティシエは女の子にとって憧れの職業の定番のようだが、現実には洋菓子職人はむしろ男性の方が多いそうである。聞くところによればプロのパティシエは仕込みに過酷な力仕事がつきもので、結構な肉体労働らしい。ちなみに女子の「なりたい職業」で科学者はランク外である。残念ながら、こちらのほうは学界における現実の男女比にそのまま現れている。日本は、とりわけ数学や物理系の分野で、女性研究者が少ない。

kenkyu_woman_seikou.png日本に比べると、欧米は世代を問わず女性研究者の比率がもっと高い。3年前パリの大学に半年滞在した時、現地の研究仲間とランチに出ると私以外ほとんど女性だった、という日も少なくなかった。日本と何が違うのか理由はいろいろありそうだが、もともと研究職の男女比が自然に釣り合う社会で育てば、女の子にとっても研究者のロールモデルを見つけやすいのかも知れない。おなじく理系専門職でも医師は女子の9位、男子の7位に入っており、普段の生活で触れる機会の多い職種は男女を問わず憧れの目標になる可能性も高い、ということではないかと思う。

同じベネッセの調査で、「あこがれの人」ランキングも発表されている。今年はベスト10のうち7人を『鬼滅の刃』の登場人物が占めた。トップに君臨するのはやはり竈門炭治郎、続く2位では「お母さん」が健闘し、3位から5位は「胡蝶しのぶ」「先生」「お父さん」と続く。少し意外だったのは、先生やお父さんを抑え3位に輝く胡蝶しのぶの人気だ。確かに彼女は口調が柔らかくて笑顔が優しいが、一皮むけば鬼への復讐心が煮えたぎる狂気と紙一重の美女、というキャラではなかったか。子供は不用意に近づかないほうがいい人物のような気がする。

ただ、彼女は鬼に効く毒薬の調合に長けた専門知識と科学的センスの持ち主であり、鬼殺隊随一のリケジョである。もし鬼のいない平和な世の中に生まれていたら、有機合成化学で才能を発揮し相当優秀な研究者になっていたのではないか。胡蝶しのぶに憧れる小学生女子からいつか研究職を目指す人材が続出すれば、とひそかに期待している。

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モノリス出現 [その他]

landmark_monolith.png米国ユタ州の荒野でビッグホーンシープ(大角羊)の群れを調査していた当局のヘリが、そこにあるはずのない奇妙な人工物を発見したのは11月18日のことだった。成人男性の背丈を優に超える三角柱らしき構造物が、赤茶けた岩壁を背に凛と屹立している。断面形状と金属的な質感を別にすれば、その佇まいは『2001年宇宙の旅』に登場する漆黒のモノリスを思い起こす。その正体をめぐりネットがざわつく一方、ユタ州当局は許可なく構造物や芸術作品を公有地に設置することは「どの惑星から来た者であろうと」違法行為であると念を押した。

そそっかしい野次馬が砂漠で遭難することを危惧し、当局はモノリスの所在地を公表しなかった。ところが、どなたかがヘリの飛行経路データから着陸地点を割り出し、地図の地形と空撮画像を見比べモノリスの正確な位置座標を特定してしまった(BBCの記事に詳しい)。2015年夏には存在しなかったモノリスの影が、2016年秋の画像にはっきり写っている(現在もGoogle Map上で影を確認できる)。4年以上もの間、モノリスは誰にも発見されぬまま立ち尽くしていたわけだ。未踏の地が失われて久しい日本ではにわかに信じがたいが、広大なユタの砂漠はその大半が人の寄り付かぬ原野であり、これほど目立つ異物が誰にも気付かれないまま4〜5年の歳月が流れてもさして不思議ではない。

ネットで暴露された緯度経度をもとに、第一発見者の州職員に続く最初の訪問者が現地に到着したのは、23日の当局公式発表からわずか2日後だったという。その後、続々と現場を訪れる物見高い見物人がインスタを賑わせ始めた。折しもアメリカは感謝祭の休暇に入りつつあったが、コロナの今年は異例の閉塞感に包まれていたから、奇矯なアーティストの作品か未知の知的生命体の置き土産かはともかく、モノリス巡礼がつかのま非日常の小旅行を楽しむ絶好の機会を提供したのかと想像する。ところがそれから間もない27日夜、モノリスは忽然と姿を消してしまう。行政執行で撤去されたかとの観測は、州当局が即座に否定した。誰がモノリスを持ち込み誰が持ち去ったのか、さまざまな憶測や証言が飛び交ってはいるものの、現時点では依然として謎である。

アーサー・C・クラークが1951年に発表した短編に『The Sentinel(前哨)』という佳作がある。筋書き自体は、地質学者が月面探索中に小さなピラミッド状の建造物を発見する、というだけの近未来SFだ。しかしこの作品の魅力は、生命の痕跡のない月面に場違いな物体が何のために存在するのか、その問いに答える深遠で壮大な想像力だ。太古の昔に太陽系を訪れた何者かが、地球にいつか知的生命が生まれ文明を謳歌する可能性を予見し、月面にピラミッド型の自動通信装置を設置する。やがて人類の粗暴な好奇心によりピラミッドが破壊されたとき、数十億年にわたり発信され続けてきた信号がついに途絶える。その異変により、「彼ら」は宇宙飛行すら可能にした新しい文明の開花を知る。月面で発見されたピラミッドは、そんな途方もなく気の長い仕掛けが施されたある種の警報機である、と『前哨』の語り手は推測する。人類をはるかに凌駕する究極の知性の痕跡を描いたこの詩的で美しい作品がキューブリック監督の目に止まり、『2001年』を生むきっかけとなったことはよく知られている。

キューブリックのモノリスが人類をさらなる高みへいざなう進化への畏怖を象徴していたのに比べ、広島と長崎の惨禍から間もない頃に書かれた『前哨』には、世界を破壊し得る力を手にした人類の将来への不安感がかすかに漂う。それから半世紀以上を経た今、私たちはどのような「進化」を遂げただろうか。全面核戦争で世界が破滅することはなかったが、かと言って大国どうしが手に手を携え世界平和に邁進する気配もない。奇しくもユタ州のモノリスはトランプ政権誕生の少し前に人知れず出現し、トランプ大統領の退陣を見届けるかのように姿を消した。もしそれが人類を宇宙から見守る超知性の仕業だったとするなら、いつまでもやんちゃで未熟な子供をハラハラしながら見守る親のような心境なのではないか。

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