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下げ止まり [科学・技術]

graph_down.pngコロナ感染者数が減少を続け、首都圏4都県を除き緊急事態宣言が解除されることになった。一方、ここのところ感染者数が下げ止まりだとかリバウンドの恐れとか、慎重論も根強い。2月はじめ頃だったか、週ごとの感染者減少率を7割以下にという目標を小池都知事がブチ上げた。しばらくはシナリオ通りで万事順調かと思われたが、だんだん雲行きが怪しくなってきたようである。

ウイルスは感染者との接触を通じて広がり、感染後しばらくすると体内からいなくなる。この理屈を極力シンプルに数式化すれば、
dN/dt = aN - bN
のようになる。Nが感染者数、tは時間、aは感染しやすさ、bは回復の早さだと考えてもらえばいい。いちばん初歩的な微分方程式で、解は指数関数になる。a > bのとき感染は加速度的に広まり、逆にa < bであれば収束していく。後者の傾向が順調に続くなら7日ごと7割減少の達成は手堅い、という期待が都知事サイドにあったのではないかと想像するが、現実には下げ止まリの兆候が出た。自粛疲れで対策の緩みを指摘する専門家(や非専門家)が多いが、本当にそうなのか?

新型コロナの特徴は、無症状の感染者が少なからずいることだ。自覚症状がなくクラスター追跡にも引っかからない感染者は、行政検査の俎上に乗る可能性は低い。これを勘定に入れるには、上の式にすこし手を加えないといけない。
dNo/dt = a(No+Nx) - bNo
Nの後ろにoとxがつているのは、検査の有無を表す。NoはPCR検査で陽性が確認された感染者数、Nxは検査外の無症状感染者数のことだ。後者はデータに載らないので左辺には現れないが、感染源として効くので右辺第一項に含まれる。a > bのときは元の式と同様に指数関数的な感染拡大をもたらすが、a < bの場合は少し違う。話を簡単にするため仮にNxを時間に依らない定数とすると、Noは減少するもののゼロには向かわず、時間の経過とともに正の一定値=aNx/(b-a)に漸近する。つまり、ある定常状態に達して下げ止まるのである。

こんなシンプルな方程式で感染状況の再現が正確にできるわけでは、もちろんない。無検査の感染者数が定数としたのは簡略化しすぎで、新規陽性者が増えれば、検査の網にかからない無症状感染者も連動して増加するに違いない。ただしここで注目したいのはむしろ感染が落ち着いてきたフェーズで、波が引いたあとも見えない感染源が背景ノイズのように効いていることを示している。実は、それらしき現象を私たちはすでに経験している。

以前書いたが、昨年9月から10月にかけて2ヶ月ものあいだ、国内のコロナ感染者数は日々500人前後で横ばいを続けていた。その理由にあまり満足のいく説明が思いつかなかったのだが、上の話に照らして考え直すと、第二波後の感染縮小が下げ止まって準定常状態に到達していたと捉えることもできる。無症状で検査ルーチンに乗らない感染者が薄く広く社会に浸透している限り、新規陽性者をじわじわ産出する。だから、いつまでも毎週7割ずつ感染者が下がり続けることを期待してはいけない。

強力なロックダウンを実施しない我が国では下げ止まりは不可避の結果であって、小手先の行動変容ではたぶん解決しない。低止まりに収まっている以上、それはそれで仕方ないんじゃないか。年度末に向けて送別会など各種行事のシーズンとなり、下手をすれば再びa > bとなって「ぶり返し」が始まる恐れは確かにあるが、下げ止まりを気にしすぎると、首都圏の緊急事態宣言が解除できる日は永久に来ない。

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火星人との付き合い方 [文学]

space_kasei_tansa.pngNASA JPLの火星探査機Perseverance Roverが、無事現地に着陸した。着陸船からローバーが紐で吊るされそろりそろりと降下される様子は、まるでドローンが宅配便を送り届けているかのようだ。前回の探査機Curiosityから採用された手法のようだが、ちょっと昔の火星ミッション(Mars Pathfinder)はエアバッグにローバーを包んで突き落とし、手荒くバウンドさせていた記憶がある。もし火星人がその様子に出くわしていたら、地球も文明が進んで少しは洗練された着陸ができるようになったか、と感心したかもしれない。

H.G.ウェルズが『宇宙戦争』を発表したのは1898年、当時は人類がいつか火星に探査機を送り込むなど想像もしていなかったかもしれない。代わりに火星人の方が出向いてきて、地球の侵略を試みた。圧倒的な技術力を誇る火星人の襲撃に人類は為すすべもなかったが、最後は火星人が地球の伝染病にやられてコロリと全滅する。『宇宙戦争』の原題は『The War of the Worlds』で、直訳すれば世界と世界の戦争ということになる。ウェルズは地球対火星という構図に加え、ミクロとマクロの生態系が交える世界間決戦という寓意も重ねたかったのかも知れない。コロナとの付き合い方を暗中模索する今、ウェルズの火星人が舐めた辛酸を、今度は私たちが味わう羽目になっている。

『宇宙戦争』からおよそ半世紀後、レイ・ブラッドベリの代表作『火星年代記(Martian Chronicles)』が誕生する。短編集のようであり一大叙事詩のようでもあり、皮肉とユーモアと詩情が交叉する不可思議な魅力に溢れた作品だ。宇宙開発時代の黎明期に書かれたこの物語では、地球の文明は火星に人類を送り込むまでに発展している。しかし一大スペクタクルが繰り広げられるウェルズの『宇宙戦争』に比べ、ブラッドベリが描くファースト・コンタクトは拍子抜けするほどあっけない。

『火星年代記』の幕開けは、倦怠期の火星人夫婦が織りなす冷めた家庭劇だ。夢の中で王子様のような地球人飛行士の来訪を察知し胸が高鳴る妻と、無関心を装いながらそれが面白くない夫。居ても立っても居られない妻を家に置いて、夫が銃器を片手に一人猟に出る。やがて遠くから銃声が聞こえ、妻が待ち望んだ地球人の痕跡はテレパシーから突如途絶える。SF版レイモンド・カーヴァーとでも言えそうな夫婦の乾いた会話劇が、記念すべき人類の第一次先遣隊を見舞った悲運を暗示する。続く第二次先遣隊は地球からの使者と誰からも真に受けてもらえず、精神病棟に送られた挙句やはりあっさりと片付けられてしまう。

しかし、程なく火星人は自ずと全滅する。『宇宙戦争』の結末と同じく、彼らは訪問者が持ち込んだウイルスに無力だった。ただウェルズの火星人が悪意に満ちた侵略者であったのと対照的に、ブラッドベリの火星人にとっては地球人のほうが侵入者だ。かつて新大陸の先住民が欧州人の持ち込んだ伝染病で苦しんだように、『火星年代記』は無邪気に火星に押し寄せる地球人を植民地主義の再興として描く。

1970年代に人類が送った探査機が初めて火星に着陸し、そこが知的生命体など一切存在しない不毛の荒野であることを確認した。それから半世紀近くを経た現在、例え原始的な単細胞生物のカケラであるにせよ、私たちは火星に生命の痕跡を見つけ出す可能性を諦めていない。ウェルズやブラッドベリが危惧したような火星人との不幸な邂逅は杞憂だったが、人類は宇宙の果てしない闇にポツリと佇む孤独がどうしても耐えられないようである。

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懲りない人たち [政治・経済]

city_night_yoruno_machi.png何だか冴えないニュースばかりだったこの一週間を振り返りたい。

夜の灯りに誘われ彷徨う永田町の羽虫がまた一匹、文春砲で撃ち落とされたようである。麻布十番の高級ラウンジとやらでうつつを抜かしていた自民党議員の件だ。深夜に営業する店もそこに訪れる客も、緊急事態宣言下とは言え法に抵触しているわけではない。ガマンできなったのなら、贔屓のママにどうしても会いに行きたかったんですとか堂々と告白すればいい。しかしこの期に及んでまだ見栄を張りたいのか、飲食業界の窮状を見るに見かねて、のようなことをおっしゃる。それなら、議員なんだから休業補償の制度化にでも一肌脱いでは如何か。このご時世に夜遊びをしていたことより、言い訳が拙すぎることに脱力する。少し前に銀座を徘徊していた別の議員に至っては、子分を従えていたのに一人で行ったなどと子供のようなウソをつく始末だ。バレると「前途ある有望な彼らをかばって」などと弁明を始めたが、そんな浪花節で世間が一緒に泣いてくれると思ったのか。

永田町の心が浪花節なら、霞が関の掟は忖度である。菅総理のご子息が絡む接待問題で、録音された会話中に自身の声を認めざるを得なくなった総務省の局長だが、ヤバめのワードが飛び出した部分は当初「記憶にない」と逃げに走っていた。動かぬ証拠を突きつけられてなおシラを切り続けることに、何か得るものがあるのだろうか。往年の刑事ドラマだったら、観念してカツ丼をいただく局面ではないか。後から急に記憶が蘇ったようで結局更迭されたのだから、引っ張った分だけ時間の無駄だった。それはさておき、こういうとき魔法のように出てくる会話音源って、誰が何のために録ったんだろう。音声データが公になれば、その場にいた人はみな身を滅ぼしかねない気もするのだが。

東京オリパラ問題では、森喜朗元会長の後任が橋本聖子氏に決まった。選考メンバーの顔ぶれすら非公表(結局バレたが)と思わせぶりだったが、その割に蓋を開けてみれば既定路線で何のサプライズもない。喋りすぎてチャンスを逃した川淵三郎氏は自業自得とは言え、どうせ森氏の側近が後を継ぐなら始めからそうやって俺を選んでくれよ、と苦々しく思っているのではないか。結果論としては無難な落とし所に落ち着いたと思うが、ただでさえコロナで盛り下がっているオリンピック機運を復興するのは、なかなか大変そうである。

コロナ感染者接触確認アプリCOCOAが、Android版に続いてiOS版でも不具合が見つかった。要は一切満足に機能していなかったわけだが、不具合があること自体は仕方がない。初めから完璧なアプリはないので、バグがわかれば速やかに修正してアップデートすれば良い。問題は、Androidで不具合が報告されてから何ヶ月も対策が取られず放置されていたことだ。厚労省はCOCOAを作ったことすら忘れていたのか?バッテリーばかりやけに食うアプリであれば即刻削除するところだが、そもそも動作していないなら単に役立たずなだけで実害はなさそうだ。当面は様子を見つつ放っておくことにする。

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どえりゃあ不正の話 [政治・経済]

東北広域を震度6の余震が襲い、コロナワクチン接種がようやく日本で始まり、東京オリパラ組織委員会は相変わらず迷走している。といった全国ニュースと全く縁のないローカル記事が、昨日今日と中日新聞の朝刊一面を賑わせている。大村愛知県知事のリコール署名問題の裏で、びっくりするような組織的不正があったのでは、というスクープだ。

figure_fighting.png愛知県外の方は何の話かピンとこないと思うので、ざっと経緯を説明したい。愛知県が主スポンサーとして3年毎に開催する「あいちトリエンナーレ」という国際芸術祭がある。2019年のあいちトリエンナーレに出展された少女像(いわゆる慰安婦像)が物議を醸し、反対派による大村知事のリコール請求運動が始まった。署名活動の先導役が高須クリニック院長で、河村名古屋市長がその支援に回ったことから、県知事と県庁所在地市長がガチで喧嘩をする異常事態となる。およそ43万人分の署名が県に提出されたが、必要数の半分にしか届かずリコール請求は不成立に終わった。

しかし問題はその後だ。署名の不審点を指摘する情報を受け県選管が精査したところ、なんと43万のうち8割強が無効な署名と判明する。違う人物の署名が同じ筆跡だったり、有権者名簿に該当者が見当たらなかったり、死亡したはずの人が名を連ねていたり、意図的な水増しが疑われる事案がごろごろ出てきた。無効8割という驚愕の数字からして、一部のアンチ大村派が出来心で捏造したというレベルをはるかに超えている。そこに飛び出したのが中日のスクープで、外注先の業者がバイトを大量動員して署名捏造を組織的にやっていたという生々しい証言が紹介された。高須院長を始め関係者は軒並み関与を否定しており、今後の捜査で真相が明らかになっていくだろう。

数十万人規模のリコール署名をでっち上げたとなれば前代未聞の珍事件であり、21世紀の先進国でこんな雑であからさまな捏造を思いつく人がいるのかと耳を疑うニュースだ。太平洋のあちら側ではありもしない選挙不正で騒ぐ人たちがいたが、こちらではバイトまで雇って大胆不敵な(そしてバレるに決まっている)組織的不正を本当に企てた誰かがいたわけだ。大統領選と県知事リコールではニュースバリューが桁違いとは言え、洋の東西を問わずいったい何をやっているのか。

アインシュタインが残したこんな箴言がある。「果てのないものが、2つだけある。宇宙と、人間の愚かさと。前者については、断言はできないが。」知事と市長の相性が悪いのは仕方ないとして、地方自治体の結束がかつてなく求められるコロナ禍のいま、好き嫌いにかかわらず首長の仕事はちゃんと協力しやり遂げて欲しい。人類の歴史は不正や争いという愚行の連続だったかも知れないが、それでも何とか仲直りし生き延びてきたのだから。

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秩序社会と森発言 [社会]

社会には、秩序を守るために多くの決まりごとがある。しかし、既存の秩序がいつも正しい理念を体現しているとは限らない。昔から染み付いた価値観が許容できなくなれば、変えていかなければいかない。特定のコミュニティのしきたりが歪んでいれば、正さなければならない。その場合、秩序を維持するための規律ではなく、誤った秩序を正しく解体するための指針が必要になる。

figure_nakama_hazure.pngしかし秩序のゆるやかな解体は、秩序の維持より圧倒的にむずかしい。国が定める法律はふつう、秩序の解体より維持を目的としている。そして民主国家では国民の多数意見が(独裁国家では権力者が)秩序の維持に力を及ぼす。だから多数派にとって都合の良い既存秩序は、少数派にとっていかに不合理だったとしても、歪みを正すメカニズムが存在しない。結果として社会秩序はマジョリティの意に沿う形に収斂してゆき、放っておけばそのまま安定的に維持される。民主的な多数決原理は、少数への差別を社会に固定する指向性をもともと構造的に孕んでいるのだ。

そのため、差別の存在する古い秩序を解体していくには、敢えて逆差別的な荒療治がしばしば採用される。アファーマティブ・アクションはその一例だ。あるいは、既存秩序の中で特権的立場にある人の過ちに厳しいペナルティを課し、その「罪」を本人にも社会にも認知させることもある。2015年ティモシー・ハントという英国のノーベル賞学者が、韓国で開かれた国際会議でこんな発言をした。「研究室に女の子がいると3つの問題が起こる。誰かがその子を好きになってしまうこと、その子が誰かを好きになってしまうこと、そして批判されると泣き出してしまうことだ。」ハント博士は当時ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンの名誉教授だったが、この失言の直後に辞任した。事実上の解雇通告で、彼の妻が所属大学から電話を受けたとき、ハント博士本人はまだ件の会議から帰国の機上にいたというから凄まじいスピード決済だ。一切申し開きの機会すら与えられなかったわけである。

発言の是非だけにこだわると、これほど厳しい制裁は理解しづらい。問われているのは何を言ったかのみならず、歪んだ秩序(=昔ながらの偏見)に我知らず加担した未必の故意である。ハント博士に悪気や底意はなかったようだが、悪意のなさはむしろ無意識下の偏見に対する自覚の欠如でもある。そんなささやかで無自覚な偏見が積み重なって、差別が容認される「秩序」が出来上がっている。一見可憐な雑草が地中で図太い根を張りめぐらせているように、他愛もない失言の水面下には、旧態依然とした秩序が居座っている。ハント博士に対する厳格な処分は、道端に咲く一輪の花を抜くことが目的ではなく、地中で絡み合う根を駆逐する長大なプロセスの一部なのである。

森喜朗氏が「女性がいる会議は長い云々」発言で組織委員会会長を辞任した。国内では当初「あ、森さんがまたやらかした」くらいの反応で、政府もJOCも日和見でのらりくらりとしていたが、当然ながらオリンピックは世界が注目している。海外のメディアやスポンサーがこぞって森氏に一発退場を突きつけた温度感は、ご本人とその周辺は想像もできなかったのかも知れないが、ハント博士を即日処分した欧米基準に照らせば何ら不思議ではない。森さん個人の資質に加えて、男女平等意識の遅れた日本社会の実態、と付け加える欧米メディアが多いようである。花が咲くのは、そこに根があるからということだ。

日本は基本的に秩序を重んじる社会である。それは時にかけがえのない美徳だが、時には絶やすべき秩序すら解体したがらない日和見主義につながる。森氏の辞任に続く騒動のグダグダぶりから察するに、雨漏りだらけのあばら屋すら取り壊しに躊躇しているようである。組織委員会にいま必要なのは、新しいリーダーよりまずプロの解体屋ではなかろうか。

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スモールワールド [科学・技術]

network_people_connection.png知り合いの知り合いのまた知り合いの・・・と知人を6人たどると、全世界人口とつながるという俗説がある。なぜ5でも10でもなく6人なのかと言うと、もとを辿れば米国の心理学者スタンリー・ミルグラムが60年代に行った研究に行き着くらしい。彼はミルグラム実験(アイヒマン・テストとも呼ばれる)という物騒な心理実験を考案したことで有名だが、今回の話題とは別の話である。

ミルグラムは無作為に選んだ被験者に郵便物を送り、指定した人物宛にそれを送ってもらうよう依頼した。送り先の人物に心当たりがない場合は、知っていそうな人に転送してもらう。このプロセスを繰り返して目的地に届いた郵便物は、平均6人程度の送り手が介在していたということである。その数値が独り歩きしたか、Six degrees of separation(6次の隔たり)という言葉が人口に膾炙した。出所は米国の一部で行われた実験に過ぎないから、全世界が6人を介して網羅されるという数字にとくに根拠はない。

ただ、私たちの世界が想像を超える巨大なネットワークでつながっていることは事実だ。仮に6次の隔たり説が正しいとして、一人あたり45人の知り合いがいるとすれば、単純に6乗すると世界人口の77億人を超える。毎年年賀状を出す枚数を考えれば、知り合いは45人どころかもっと多いかも知れない。ただしこの計算の前提には、知己のネットワークがランダムに張り巡らされているという仮定がある。実際には、「知り合い」と「知り合いの知り合い」は相当数同じ友人がかぶっているはずなので、知り合いの知り合いだけで2,025人(=45✕45)もいるわけではない。

ランダムからは程遠いが、かと言って身近な共同体だけで閉じているわけでもない。そんな私たちの社会の成り立ちを表現する数学モデルを、スモールワールド・ネットワークと呼ぶ。20世紀末にダンカン・ワッツとスティーヴン・ストロガッツという二人の数学者が発表した研究があって、世界に散らばるローカルな共同体間を比較的少数のリンクで結んでやるだけで、見知らぬ人同士の仮想的な距離はぐっと縮まるのだそうだ。国境を越えた往来が活発になり、SNSを介し簡単に世界とつながることができる現代社会は、半世紀前にミルグラムがドブ板選挙的な実験をやっていた時代に比べ、確かにずいぶんと「小さく」なった。

新型コロナウイルスが、小さくなった世界の現実をいま如実に可視化している。Stay with your communityとか言われているが、同居家族や職場の同僚のような普段のつきあいを超える人的交流によって、感染拡大リスクが跳ね上がるそうである。普段は会わない家族と寝食を共にする機会が集中した年末年始に感染者が急増したのが好例だ。コミュニティとコミュニティを橋渡しする経路が随所で増えた途端にウイルスの拡散が加速するのは、まさにスモールワールド・ネットワークそのものである。「It's a small world after all」と高らかに連呼されるディズニーの看板曲があるが、コロナ禍の今聞くとその意外な含意の深さにため息が出る。

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ソウルフル・ワールド、或いは河童と人生の話 [映画・漫画]

芥川龍之介晩年の小説に『河童』という風変わりな作品がある。カッパが独特の社会を営む架空の国が主な舞台で、奔放でブラックな社会風刺に満ちた痛快作だ。物語の中で、誕生直前の河童の胎児に向かって父親が意思確認をする下りがある。河童の子どもは生まれる前からきちんと思考と会話ができて、将来を悲観し誕生を拒否した河童はその場で出産が中断される。人間は河童とちがい、選択の余地を与えられないままこの世に生まれ落ちる。私たちは皆、自分の意志で選んだわけではない人生を必死で生きているのである。

bg_heaven_tengoku.jpgピクサーの新作『ソウルフル・ワールド(原題Soul)』が、ディズニーのオンライン配信サービスで公開されている。主人公の男はジャズピアニストを夢見つつも、中学の音楽教師に甘んじる日々を送っている。ある日地元ニューヨークのクラブでデビューを果たす千載一遇の機会をつかんだのも束の間、浮かれすぎてマンホールに墜落する。天国行きを拒否した彼がたどり着いたのは、人間界への誕生を控えた精霊(ソウル)たちがひしめく世界だった。なりゆき上ソウルの教育係になった彼が引き合わされたのは、人生に希望を見いだせず下界行きを拒絶しつづける札付きソウル「22番」だ。死にたくない男と生まれたくないソウルの駆け引きが、やがて二人を想定外の騒動に巻き込んでいく。

これがディズニー本流のアニメ映画なら、厭世的なソウルが音楽を通じ生きる歓びを知るといった、わかりやすい成長物語になっていたかもしれない。しかしそこはピクサー、手垢のついた人生哲学を片端からひっくり返していく。音楽に没頭する至高の悦びに光を当てつつ、没頭のあまり現実から遊離し抜け殻となった魂を描くことも忘れない。積年の夢を叶える成功を讃える傍ら、まっしぐらの生き様からそぎ落とされる削り屑にかけがえのない輝きを発見する。目標を追い実現することが生きる意味なのか?才能は人生を豊かにしてくれるのか?そうでないなら、生きる幸せとは何なのか?私たちが人生のどこかで直面する問を突きつけながら、それを安易に肯定も否定もしない。

ネタバレになるのでこれ以上あらすじは書かないが、終盤で主人公憧れのミュージシャンがつぶやく短い喩え話が、真髄のほぼすべてを物語っている。

一匹の魚が年かさの魚に言った。
「ぼくは海ってやつを見つけに行くよ。」
「海?いまここが海じゃないか。」
「ここ?これは水だよ。ぼくが求めるのは、海なんだ。」

芥川龍之介は河童の胎児に「僕は生まれたくありません・・・河童的存在を悪いと信じていますから」と語らせたが、妙に達観したこの河童は、老獪で皮肉屋のソウル22番とよく似ている。いくらか芥川本人の思いを代弁しているのかも知れない。芥川龍之介は『河童』を発表したその同じ年、服毒自殺で世を去った。既に文壇での名声も社会的地位も手に入れた偉大な作家だったが、まだ見ぬ大海を無為に追い続けることに疲れたのか。または海に囲まれていることを百も承知で、そこに安らぎを見出すことのできない自身に倦んでしまったのか。

将来の夢とか生きがいとか、人生の崇高な目的を美化する暗黙のプレッシャーに私たちはさらされがちだ。でも自らの意志でこの世に生を受けた人はいないから、そこに大げさな意味を与える義務もない。もちろん夢を叶えることは素晴らしいが、どんなに努力しても手の届かない願いもあれば、逆に目標を達成し燃え尽きてしまうこともある。海を求めて海を泳ぎ回る魚は、夢中になっている間は充実感に我を忘れていられるが、本当は絶えず苦しさと紙一重だ。

そんなとき立ち止まって空を見上げると、何気ない木漏れ日の美しさにふと心を奪われる瞬間がある。人生に大それた目標などいらないと悟ってしまえば、人生は生きるに値すると心で感じることができる。『ソウルフル・ワールド』はそんな映画だが、煩悩多き実生活でこれを実践するのは、案外むずかしい。

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今年は特別な年? [社会]

昨年の12月25日、こんなメッセージがSNS上の一角を賑わせたらしい。

今日は、自分の生まれた西暦の年と年齢を足すと、世界中の人が皆2020になるそうです。 今度こうなるのは1000年後だそうです!!!Merry Christmas

試しに自分の生年に歳を加えたら本当に2020になったのを見て「すごーい」と喜び、無邪気に拡散する人があちこちで発生した模様である。言うまでもなく、生まれた西暦年に年齢を足せば今年の数字になるのはアタリマエで、「今度こうなるのは1000年後」のわけがない。すでに年内の誕生日が過ぎていることが前提だが、年末間際のクリスマスに仕掛ければ大半の人は当てはまるので、そのタイミングも計算ずみということか。他愛もない悪戯と言えばそれまでだが、フェイク・ニュースの浸透実験として見るとちょっと面白い。

フェイク・ニュースは、必ずしも巧妙に真実を偽装する必要はない。見るからに真偽の怪しい情報でも、人々の願望や恐怖に付け込み簡単に心の隙間に忍び込む。米国大統領選が不正で歪められたと思っているトランプ信奉者が議事堂を襲撃し、ワクチン陰謀論を真に受けたアメリカの薬剤師は大量のコロナワクチンをわざと常温放置したという。気に入らない真実を受け入れるより、心に響く虚構に浸っていたい誘惑が、私たちの心の底でいつもうごめいている。

しかし冒頭の2020年ネタは、特段に強い感情的要因とは結びついていない。コロリと信じてしまう心理の裏に善意も悪意もなく、あるとすればファクトチェックに対する無関心だけだ。執着が薄いぶん喉元に引っかからないので、脊髄反射的にリツイートが繰り返されあっという間に拡散する。ある意味でもっともタチの悪いフェイク・ニュースは、「誰も気に留めない嘘」かも知れない。愛の対極は憎しみではない、無関心だ、と喝破したのは誰だったか?

osyougatsu_text_2021.png数学的には、昨年よりむしろ今年のほうが興味深い。2021は2つの素数43と47をかけ合わせてできる、ちょっと珍しい数字である。3と7、19と23、そして43と47のように、差が4の素数ペアを「いとこ素数」と呼ぶ。次にいとこ素数の積で表される年がやって来るのは4757年(=67✕71)で、なんと2736年後だ。信じるか信じないかはあなた次第だが、簡単にファクトチェックできるのでお試しあれ。

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