SSブログ

ズートピア:差別と偏見について [映画・漫画]

figure_fuhyou_higai_uwasa.pngコロナ禍の不満や不安が、世界でアジア系への偏見や差別を生んでいるという。通りすがりの人から何となく避けられるといった話はあちこちで聞くし、罵声を浴びせられたり中には傷害事件に巻き込まれる深刻な事例もある。確かにウイルスの出処は中国だったが、その後ほどなくしてイタリア北部で感染が急拡大し、あっという間にヨーロッパそして全世界に広がった。武漢の収束以降、感染者数の推移を見る限り東アジア諸国は(もちろん日本を含め)一貫してコロナ対応の優等生だ。トランプ元大統領はChinese Virusと連呼していたが、実際のところ過去一年せっせと感染を広げてきた震源地はどこなのか?だが、今日書きたいのはそういうことではない。

『ズートピア』というディズニーのアニメ映画がある。一行で要約すれば、天真爛漫なウサギと皮肉屋のキツネが反目しながらも友情の絆を深めていく物語、ということになる。しかし『ズートピア』の本質は差別と偏見を描いた寓話で、その点においてかなりリアルで重い話だ。差別とは特定のグループに向けられた社会の圧力のことで、偏見とは個々人が心の底に抱える心理的バイアスを言う。偏見が差別の構造を生み、差別はいったん広まると偏見を正当化する。偏見と差別はそうやって相互に強化していくので、社会から完全に駆除することは難しい。

ズートピアなる世界は、草食動物と肉食動物が仲良く共存する理想郷である。しかし、草食動物は無意識下で肉食動物への本能的な恐れを抱えている。そしてある事件をきっかけに、両者を隔てる心の壁が顕在化する。『ズートピア』の作者は、弱肉強食の食物連鎖ピラミッドをひっくり返し、マジョリティである草食動物を社会的強者に据える。電車の座席で偶然隣に座ったトラから距離を取るように、そっと娘を引き寄せるウサギの母親。かすかに悲しげな表情を隠せないトラの男性。束の間のシーンだが、目に見えない偏見が目に見える差別として社会に固定されていく瞬間を、鋭く切り取っている。映画が公開された2016年の2月はパリ同時多発テロの直後だったので、イスラムの人々へ向ける眼差しが厳しくなった現実と『ズートピア』の世界が、時にギョッとするほどよく似ていた。

米国コロラド州に住んでいたある日、勤め先の大学が開いた交流イベントでトルコ人留学生のスピーチを聞いた。当時は2001年の9・11テロからまだ間もない頃で、彼は在学中にテロの速報を目の当たりにした。イスラム教徒の学生が集う学内施設に駆けつけると、そこは重苦しい空気に沈んでいる。屋外に気配を感じて外を見ると、見慣れない学生の一群が取り囲んでいるではないか。スピーチで彼は「なんてこった、俺の人生は終わりだ」と思ったと冗談めかして語ったが、実際その瞬間は本気でそう感じていたのかも知れない。しかし外で待っていた学生たちは、「あなた達は私たちの変わらぬ友人です、それを伝えに来ました」と手に抱えた花束を差し出してきたという。

偏見が消しがたい心の闇だとしても、闇を自覚することでそこに光を取り戻すこともできる。アジア系への差別はコロナ前からあったし、コロナ後もなくなりはしないだろうが、手を差し伸べる人は社会のどこかに必ずいる。傷ついたり救われたりを繰り返しながら、社会全体はたぶん、少しずつでもより住みやすい世界に変わろうとしているのだと思いたい。

共通テーマ:日記・雑感

神の一手 [科学・技術]

game_syougi_ban.png竜王ランキング戦で藤井聡太二冠が指した妙手が、話題を呼んでいる。定跡に従えば迷わず飛車を取りに行くはずの局面で、藤井二冠の手が止まった。その時ある将棋チャンネルの中継で、AIが弾き出した「4一銀」の一手に解説者が目を剥いていた。取れるはずの飛車をいったん見送り、わざわざ持ち駒の銀を捨てに行く。一見すると意味不明のようで、実は巧妙に相手の退路を断つ絶妙な戦略。人間には指せない神の一手、などと盛り上がるギャラリーをもちろん知る由もない藤井二冠は、ほぼ一時間悩み続ける。将棋ファンが固唾を飲んで見守る中、ついに藤井二冠が盤面に叩きつけた一手は、なんと4一銀。人類には不可能だったはずの妙手で流れを掴んだ藤井二冠が、勝負を制する。将棋と言えば「ルールは知っている」レベルに過ぎない私が聞いて感動するくらいだから、将棋ファンの興奮は想像に難くない。

素人目には、将棋界で既にAIが「模範解答」ツールとして受け入れられていることが興味深い。たしかに、数億に及ぶ手を読ませて最善手を吐き出す今の将棋ソフトに、情報処理能力で人間が太刀打ちできるはずもない。それに、AIは良くも悪くも常識に縛られない。鼻先の人参を取る代わりに敵に塩を送りかねない手でも、結果として合理性が高ければ躊躇なく選択する。人間はAIに比べると、ハード面(生身の脳細胞)でもソフト面(心理的な束縛)でもハンディを負っている。それでもなおAIと同じ「神の一手」に到達した、藤井君のしなやかな才能にシビレる。

藤井二冠は終局後のインタビューで「(4一銀以外の手では)詰めろになっていない気がした」と答えた(詰めろとは詰めの一つ前の手のこと)。この「気がした」が深い。人間の頭脳は記憶力も処理速度も限られている反面、直感が効く。直感はたぶん無意識下に積み重なる膨大な経験値の結晶だが、本人にもその論理が見えないので天から下りてきたような唐突感がある。気がした、としか表現しようがない。一方、AIがデータを走査するプロセスに直感が滑り込む余地はない。AIに自意識があったなら、4一銀が最善手だと「確信」していたはずである。

AI技術の進化は、盤上の頭脳戦で人間の限界を超え、運転者を必要としない車の実現を可能にした。AIが処理できるデータ量と解析速度が向上すればするほど、不完全で曖昧な人間はますます差をつけられていくように見える。しかし人間の創造力はそもそも、その曖昧さの中にこそ潜んでいる。限られた経験値の不確かさを補うように訪れる閃きは、間違える可能性があるからこそ、思いもよらぬ何かを生み出す。無数の学習の積み重ねで成立するAI技術は、読みこなした教科書で得た知識は決して忘れないが、教科書に載っていない正解には永遠にたどり着くことができない。

それとも、深層学習のアルゴリズムが十分に精緻化すれば、そこにないはずの答えに辿り着く創造性への道が拓かれるのだろうか?ある時AIが確信のかわりに「そんな気がする」と不可解な直感に打たれ、閃きの予感に身を震わす日が来るだろうか?AIの知能が人間を超えるシンギュラリティがいつか到来するなら、それはAIが完全に人類を凌駕するというより、AIが私たちの不完全さを獲得する日なのかも知れない。

共通テーマ:日記・雑感

リバウンド [社会]

kaden_taijukei.png最近あちこちでリバウンド、リバウンドと連呼される。体重計に乗るたびこの頃目盛りがおかしいと訝る日々を送る人にとっては、いちいちビクッとするのではないか。もっとも、少し気が緩むとすぐにリバウンドのリスクがやって来るという意味では、ダイエットもコロナも本質はあまり変わらない。

思い返せば一年前の今頃、新型コロナの感染状況が悪化の一途をたどり、4月初旬の緊急事態宣言発令に至った。当時のPCR陽性者数は全国で1,000人に満たない規模だったが、まともに検査が回っていない頃だったので、本当の感染実態がどうだったか知る由もない。春の陽気に恵まれた3連休に人が溢れ、感染拡大を助長したとも言われていた。今年は春分の日が土曜日だったので3連休にはならなかったが、折しも首都圏は緊急事態宣言が明けたばかりで、人出の急増がリバウンドを誘発するのではという懸念が随所で聞かれる。

ただ、今年は昨春と明らかに違うことがいくつかある。言うまでもなく、この一年間で感染対策の経験値がずいぶん上がった。去年の3月の時点では、無症状の感染者がウイルスを広めるリスク自体もよく分かっていなかった。症状のない一般人はマスクをするな(マスクを必要としている医療者等に優先させるべき)とWHOがまだ公に発信していた頃だ。いまや店頭で当たり前になった透明の暖簾はどこにも見当たらなかったし、行列の立ち位置を促す床のテープも貼られていなかった。

もう一つたぶん重要なことは、昨年3月はまだ日本と海外との往来が比較的自由だったことである。中国と韓国からの渡航は3月9日以降制限されたが、ヨーロッパ方面からの入国者に遅ればせながら14日間検疫を課したのは3月19日だった。国内で武漢株の終息に成功しつつあった矢先、水際対策がもたつき流入した欧州株がたちまち感染を拡大させていたことが、のちの感染研の分子疫学調査で明らかになった。今はもちろん、国外からの人流はかなり抑制されている。折しも東京オリンピックが海外観客の受け入れを断念したそうで、来る方も迎える側も楽しみにしていた人たちには気の毒だが、昨年の第一波の二の舞を避けるなら他に選択肢はない。

地域によっては、緊急事態宣言が明けてなお時短営業要請が続いている。時短要請の費用対効果が、未だによくわからない。いっそのこと営業時間の制約はやめて、代わりに全皿定価の5割増しで営業した飲食店に協力金を出す、みたいな方針に転換してはどうか?高くてもこの店の料理を味わいたい、応援したい、という人だけが来店すれば、客数が減って感染対策がしやすくなるし、一方で客単価は上がるので店も助かる。テイクアウト分は定価据え置きで良いかも知れない。値上げしたくない店には協力金は出ないが、非難もしないと決めておく。大事なのは、店側にも消費者にも選択肢が生まれることだ。あれもだめこれもだめ、とネガティブな対策で締め上げるより、ポジティブなインセンティブで引っ張るほうが、社会が適度に活気づくのではないか。

共通テーマ:日記・雑感

東京オリンピッグ [社会]

東京オリンピックが、またやらかしたようである。開会式のネタ出しの際、渡辺直美さんに豚のコスプレをさせる発案をしたとかで、演出統括の佐々木宏氏が辞任した。ご本人の謝罪文で経緯を説明したくだりが、これだ。

出演者の候補として名前が上がっていた渡辺直美さんに対する演出アイデアの中で、宇宙人と地球人の接点的な役柄で、オリンピックの使者的キャラということで、オリンピックの語尾をピッグという駄洒落にして、オリンピッグという名前のピンク色の衣装で、耳がぶたのはどうだろう、というような発案をしました。

computer_message_ryusyutsu.png侮辱的かどうか以前に、何をやりたいのかよくわからない。これが世界に向けて華々しく披露される可能性が万が一にもあったとすれば、そのスベり具合が主催国の一市民として気が遠くなるほど恥ずかしい。当然ながら周囲のスタッフから一喝され即ボツになったと言うことで、そのまま忘却されるはずであった事案と思われる。ところが発言から1年経った今になって、内輪のLINEデータが流出した。そのきな臭さも含め、オリンピックの内幕で何が起こっているのか?以前から旧エンブレムのパクリ疑惑、国立競技場のコンペ騒動、最近では森元組織委員長の失言と、何かと残念な話題に事欠かない。

当の渡辺直美さんは大人の対応でスルーしたが、コメントの中で「しかし、ひとりの人間として思うのは、それぞれの個性や考え方を尊重し、認め合える、楽しく豊かな世界になれる事を心より願っております」と付け加えている。容姿のせいで心無い言葉に耐えてきた、数知れぬ人たちへの思いやりなのだと思う。自身は仕事として体型をイジられるのは厭わないが、それを見て傷つく人がいるなら本意ではない。そういう社会は変わってほしい、という彼女の願いがじわりとにじみ出ている。

辞任した佐々木氏は、トミー・リー・ジョーンズを宇宙人役に起用したBOSSのCMを仕掛けた人だ。人間の滑稽さと愛おしさを他者目線で描くのが、このCMの一貫したコンセプトと思われる。宇宙人を出してきたアイディアがうまい。宇宙人をコケにしても、不快な思いをする当事者はどこにもいないからだ(たぶん)。同じことを、日本社会に戸惑う外国人のような構図でもしやったら、ちょっと角が立つかも知れない。そのあたり佐々木氏のセンスは決して悪くなかったはずだが、うっかり悪ノリに走った瞬間を世間に晒されてしまったようである。

昨年末、開会式の演出統括を佐々木氏が野村萬斎氏から引き継いだ。あの人は優れたクリエイターだけどちょっと危ういよ、と誰も止めなかったのか?東京オリンピックの企画チームは日本が誇る多方面の才能が結集しているはずだが、リスク・マネージメントの勘に冴えた人材にだけは恵まれなかったようである。

共通テーマ:日記・雑感

ワイパーごしの世界 [その他]

運転の荒い人が多いと言われる名古屋に住んでいるせいなのかどうか、ウィンカーを出したがらない車によく出くわす。車線変更で白線をまたいでから2発ほどチカチカやるヤツとか、中には一切ウィンカーを出さずに割り込んでくる連中もいる。この手のドライバーはきっと車から降りても、他の通行人にぶつかりそうな勢いでムッツリうろついているのではないか。逆に、合流で先を譲ると丁寧に会釈をしてハザードまで出してくれる人は、出入口のドアなどで鉢合わせしたら必ず笑顔で通路を譲ってくれるような気がする。

car_wiper_ame.pngドライバーの癖が出る車の所作は、他にもたくさんある。実は自分の癖が人とずいぶん違うなと思うことが一つだけあって、それはワイパーのスピードだ。少し雨脚が強くなると、すぐにINT(間欠)からLOに上げたくなるのだが、その時点でまわりを流れる車のワイパーはまだほとんど稼働していない。みんな、ちゃんと前見えているか?

私の車(ホンダFIT)の場合、ワイパーはINT・LO・HIの3段階ある。INTとLOの差が結構大きいので悩ましいのだが、雨粒が視野に溜まってくるととにかく鬱陶しい。雨滴一つ一つは小さいが、フロントガラス上に静止しているから視野の同じ一角を占有し続ける。ワイパーは頻繁に視界を横切るけれども、素早く動いているので雨滴ほど視線をブロックしない。でもこのあたりの感覚が、平均的なドライバーとすこし違うのかも知れない。最近は、雨滴を感知して自動的にワイパースピードを調節する機能が標準装備の車種も多いそうで、必ずしもドライバーの好みで決まっているのではないのかも知れないが。

感覚の違いについては、思い当たる節がないでもない。私はド近眼な上に比較的強い乱視がある。40代も半ばに近づいた頃から老眼も進んできて、長年愛用したコンタクトレンズが不便になったので、数年まえ遠近乱視兼用のメガネに代えた。乱視は、眼球内の屈折率が不均一で焦点が一点だけに決まらない状態である。運転時はもちろんメガネをかけているが、乱視を完璧に矯正するのは多分難しい。そのせいで、雨粒ごしの景色が普通の人より歪んで見えやすいのかもしれない。

一緒に空を見上げる二人が同じ碧色を見ているか確かめる術がないように、自分が見ている世界と他人の目の映る世界がまったく同じである保証はない。雨に濡れるフロントガラスごしの風景も、ドライバーによって少しずつ違う。降り始めの雨の中ひとりワイパーをぶん回していると、たまに同じようにワイパーをフル稼働させる車とすれ違う。運転者の顔を一瞥する間もないほどあっけない一期一会だが、きっと私と限りなく近い世界を見ている数少ない誰かなのだと思うと、つかのま心が繋がるような気がする。

共通テーマ:日記・雑感

エアロかアエロか [語学]

character_fuujin.pngエアロビやエアロゾルは元の英語ではaerobics/aerosolと綴り、字面だけ見ると「ア」と「エ」の順序がひっくり返っている。しかし英語圏の人が発音すると、私たちの耳には確かに「エアロビクス」と「エアロゾル」のように聞こえる。aeroはairと同じ語源で、空気や風などに関連する接頭語だ。「NASA」のA(2つのうち初めの方)はAeronautics(航空)の頭文字で、発音はこれも綴りと裏腹に「エアロノティクス」になる。視覚と聴覚情報が逆転していて、どことなく気持ち悪い。

必ずしも日本人の耳の問題ではなくて、英語特有の癖と言ったほうがいい。なぜなら仏語では字面どおり「アエロ」であって、そう発音させるためわざわざアクサンを付けて「aéro」と綴る。例えばaéroport(空港)はアエロポールだ。スイスの老舗時計ブランドAerowatchは、(watchが英語なのに)和名は仏語流にアエロと呼ばれる。エアロとアエロ、本当はどちらが正しいのか?

なぜ今この話題かというと、英語の発音がエアロである理由がさっき突然閃いたからだ。Aとeをアとエだと思いこんでいたのが、そもそもの間違いなのである。aesthetics(美学)をエステティクスと言うように、英語の「ae」はふつう二文字まとめて「エ」と発音する(ちなみに日本で言う「エステ」はたぶん仏語起源で、英語のaestheticに美容関係の含意はない)。従って「a・e・ro=ア・エ・ロ」とはならずに、「ae・ro=エ・アロ」なのである。アはアール(r)からきているのだ。冒頭のaeからrに移行する際、舌を巻き込みながら発せられる一瞬の母音が、私たちの耳には「ア」のように聞こえる。フランス語はrの発音に舌を巻かないから、このアが忍び込む余地がない。

似たような「母音からのr」で始まる英単語の例として、errorがある。でもカタカナ表記でerrorは常にエラーであって、エアラーとは書かない。これに準ずるなら、aerobicsとaeronauticsは本来エロビクス・エロノティクスと表記すべきだ。でも「今日これからエロビ教室なの」では、口に出すには響きがあまりに艶っぽい。私たちの耳がaeroをエ「ア」ロと聞きとっている深層には、日本人の奥ゆかしい美意識もちょっと手伝っているかも知れない。

共通テーマ:日記・雑感

3月11日の花火 [フィクション]

浜を見下ろす小高い丘のてっぺんに着くと、いつものように大きく息を吸って、眼下に広がる海を見つめる。若い時分は何でもなかった短い上り坂なのに、今では慎重に登らないと息が切れる。かつて所狭しと軒を連ねていた街の面影をつぶさに思い浮かべるのが、年々難儀になってくる。生まれ育った街並みを思い出せない日が来るなんて、昔は考えもしなかった。湿った潮風の感触はちっとも変わらないのに、ここから眺める景色の変わりようは、今でも奇異な感じがする。

kaden_keitai.png草むらに腰を下ろすと、胸ポケットから携帯を取り出す。画面を開けて、しばらく待つ。15年もののガラケーなので、スクリーンが灯るにもいちいち時間がかかる。バッテリーが弱っているのは確かだけど、接触もおかしい。携帯ショップに持ち込んだら、ずいぶん古い機種で修理も交換も無理ですねと、にべもなく言われた。普段用にはスマホに乗り換えて久しいから不便はないけれど、このガラケーは捨てられない。刺すような冬の空気に混じって、かすかに春の暖かみを運ぶ海風がそっと頬をかすめる。

画面上にアイコンが出揃うのを辛抱強く待って、SMSアプリを立ち上げる。『大丈夫?これからそっち行く』幾度となく見返した最後の着信は、10年前のあの日で止まっている。あのときすぐに返信したけど、それきりレスはなかった。この丘の上でずっと待っていたけど、再会は叶わなかった。そのあといろいろなことがあって、海の見えない遠くの街で新しい仕事を見つけた。それでも毎月この日にはこの丘にやって来て同じように海を見つめ、草むらの同じ場所に座ってガラケーを開き、届くあてのないメールを出す。とりとめのない近況報告を書き連ねることもあれば、「どうして?」しか書けない日もあった。わざわざこの丘まで足を運んでくるのは、毎夏一緒に花火を見に来た思い出の場所だからでもあるけれど、本当の理由は別にある。

LINEじゃないから既読は付かないし(あの頃LINEはまだなかった)、もちろん返事が来るわけもない。宛先の番号はもう解約されているから送信エラーが返ってくるだけ、と誰かに言われたが、一度もエラーなんて戻ってこなかった。たぶん向こうの世界とつながる秘密の基地局が、丘の近くどこかに佇んでいるのだと思う。そこで目に見えないアンテナを天まで伸ばして、送ったメールを黙々と届けてくれる。そんなことはあり得ないと頭ではわかっているけど、心は自然にそう受け入れている。いま暮らす街で家からショートメールを送ろうとしたこともあるけれど、取り返しのつかない過ちのような気がして止めた。1時間半の道のりを独りでドライブし、海の見える丘に登ってガラケーの電源を入れるのが、毎月のささやかな儀式のようになった。

レスが来ないのはもちろん今でも寂しい。でもメールを書いているあいだだけ、ほんの少しだけど心が鎮まる。いくら年月が経ってもつらさが癒えることなんてないけれど、ずっとこぎ続けていないと倒れてしまう自転車のように、日々やるべきことを淡々とこなしていくしかない。初めは補助輪を外したばかりの子供みたいに転んで泣いてばかりだったけど、今はよろけつつも少しずつ前に進めるようになったよ、まだまだ自信はないけどね。そんなことをとりとめもなく綴って、送信ボタンを押す。空を見上げ、ゆっくり海の方へ流される雲の群れに見入る。ずっと上空を旋回していた鳶の声が、いつの間にか聞こえなくなっている。画面の時計を見ると思いのほか時間が経っていたことに気づき、ガラケーをパチンと畳む。すると、まるでその瞬間を待っていたかのように、携帯が手中でブルブルと鳴った。

ひどく驚いたせいで、携帯が手から滑り落ちる。慌ててつかみ取ろうと手を伸ばしたら逆に跳ね飛ばしてしまい、携帯は前方の草むらに着地し丘の斜面を転がり落ちていく。それを追って、自分も転がるように斜面を駆け下りる。このガラケーの番号を知っている人はもういない、少なくとも「こっち」の世界には。勢いのついた携帯は地面から突き出した石にぶつかり、ガツンと嫌な音を立ててようやく止まる。飛びつくようにガラケーを拾って開けると、新着一件を知らせるロゴが点いている。ウソみたいに指が震えて、うまく押せない。ようやく開封ボタンを押した瞬間、画面いっぱいに色とりどりの光が花火のように輝き、それきりフッと真っ暗になった。

呆然と携帯を見つめたまま、どれほど時間が経ったかわからない。われに返って、カバーを閉めたり開けたり、電源を入れたり切ったりする。いつもはそれで接触不良が治るのに、何度試しても画面は黒いままだ。よりによってなぜいま壊れるんだ?やり場のない怒りが頭の中を駆け巡る。やがて怒りが引いてくると、あまりの間の悪さに今度は場違いな笑いの衝動がこみ上げる。笑ったせいで舌の上にしょっぱい雫が流れ込んできて、自分がさっきから泣いていたことに初めて気づいた。涙のこびりついた顔に夕刻の冷気を感じて視線を上げると、水平線に接する空が濃紺のグラデーションに沈みはじめている。

すっかり日が落ちた帰路を運転しながら、携帯の画面で最後に煌めいた光のことをずっと考えている。着信を確認する前にガラケーの回路が飛んだと思っていたけど、そうじゃない。あのとき返事はちゃんと届いていた。いつもあの丘から二人で眺めていた花火の、あれは最後の一輪だったのだ。まだまだ自信はないけどって送ったから、背中をそっと押してくれたんだね。大丈夫、補助輪はなくても、たぶんもう一人でどこまでも進んで行ける。



東日本大震災から10年目を迎えた。真正面から向き合うにはあまりに重く、被災者でない私が下手に評論じみた随想を綴ると、何を書いても皮相的でウソっぽくなってしまう。そこで、どうせウソならいっそフィクションにしてしまおう、と思い立った。あの日から10年を耐え抜いた無数の人たちを想い、乏しい想像力を精一杯絞った拙い産物である。

共通テーマ:日記・雑感

今週の小ネタ三題 [政治・経済]

飲み会を断らない女こと山田真紀子氏が、断るべきだった飲み会を断らなかったせいで内閣広報官の職を失った。彼女が若者向けに語ったメッセージ動画の中で、幸運を引き寄せる心得として多くの人との出会いを挙げ、飲み会への誘いを残らず受けた自身の体験を語った下りが「飲み会を断らない女」である。男社会のしがらみと闘い、ガラスの天井を突き破る決意と努力がそこに結実したのだとすれば、その飲み会に足をすくわれたキャリアの末路は哀しい皮肉と言うほかない。彼女の生き様に物申すつもりはないが、昭和臭あふれる「飲みニュケーション」の武勇伝が、果たして令和の若者たちの心に刺さっただろうか。

首都圏の緊急事態宣言解除が、2週間延期された。送別会や卒業旅行シーズンに差し掛かるいま、自粛ムードに終止符を打ちたくない行政の思惑はわからないではない。しかし2週間という微妙な区切りに、迷いが垣間見える。今年東京の桜の開花は15日から20日くらいの予報なので、次々と蕾がほころび期待感が盛り上がっていくころに宣言明けが重なる。それまで劇的に感染状況が改善しない限り(その見込みは低い)、花見のピーク期を控えて分科会や医師会がしかめっ面の頬を緩める望みは薄い。そこで見切り発車で緊急事態を解くか、さらに2週間伸ばして桜が散るのを待つか。延長すればするほど、総理の苦悩も飲食・観光産業の窮状も、いっそう深まるばかりだ。緊急事態宣言は始めるより終える方が難しいと以前誰かが言っていたが、言い得て妙である。

namahage_aka.png神戸のゲノム解析によると、コロナ変異株の占める割合が1月以降増大しつつあるそうである。従来株に比べ相対的に感染力が強いのは確かなようだが、新規感染者の総数は減ってきている。イギリスで変異株が初めて注目されたときは、ロックダウンにもかかわらず感染拡大が止まらない原因ではと疑われた。日本国内で変異株が発見された12月下旬から2ヶ月以上経ち、首都圏は緊急事態宣言下とは言え街に人が溢れたままにもかかわらず、データを素直に見る限り日本で感染爆発らしきものが起こる兆候は未だにない(正月明けの感染ピークは変異株とは関係ない)。当初イギリスの研究で感染力は最大7割増しのようなことを言われていたが、少しばかり変異株を買い被っていたのではないか。潜在的リスクがある以上黙殺すべきではないが、変異株は各国政府が意識低い系の衆をビビらせるツールのように使われている気配もある。むずかる子供に「なまはげが来るぞ」と言いきかせるのと、何ら変わらない。なまはげの正体は近所の大人たちだが、変異株もお面を外せば意外に優しい顔をしているかもしれない。

共通テーマ:日記・雑感

雛壇の楽屋にて [フィクション]

hinamatsuri_hinakazari_set.png囃子(謡)「皆の衆、久しぶりだな。ん、なんだこの微妙な空気は?笛、どうした暗い顔して。」
囃子(太鼓)「お前、聞いてないのか。今年は三密回避とかで、俺たち全員は雛壇に乗れないんだとさ。」
囃子(笛)「嫌な予感はしてたんだけどさ・・・。去年はどこの祭りも中止ばかりで仕事さっぱりだったし。でも、ひな祭りもダメ出しなんて・・・。」
囃子(小鼓)「鼓のぼくらは黙々と叩いてれば飛沫リスクがないから、出ていいらしいんだけど。でもパーカスだけでパコパコお囃子やっても、様にならないよね。」
囃子(太鼓)「俺たちの前を一列空けてもらえれば、笛もいけるんじゃないかと思ってさ。それとなくマネージャーに言ってみたんだけど、渋い顔されたよ。」
囃子(大皮鼓)「前の列って言えば、大臣二人か?右大臣はいいやつだけど、左大臣はちょっと偏屈だしな。」
囃子(笛)「あの左大臣にネチッと言われたよ。菱餅とか食い物が並んでいる目の前で唾飛ばすのか?ってさ・・・」
囃子(謡)「左大臣のじいさん、確かに口悪いけど、根は悪い人じゃないよ。俺は席が近いから、残った雛あられこっそりくれたこともあるし。」
囃子(大皮鼓)「要は食べ物くれるのが良い人ってことか。わかり易いやつだな。」
囃子(小鼓)「ぼくは、背後の官女たちのほうが苦手なんだけど。とくに真ん中の人、見るからにお局っぽくてさ。ぜったい陰で仕切ってるよね。」
囃子(太鼓)「三人官女もソーシャル・ディタンシングで二人にしろとか言われて、誰を外すかで相当揉めてるらしいぞ。どうなるか見ものだな。」
囃子(謡)「例年どおりに乗れるのは、最上段のカップルだけってこと?あ、噂をすれば・・・」
女雛「あら、5人で何コソコソ話してるの?」
囃子(太鼓)「これはこれはお姫様。ご機嫌も麗しく。」
女雛「もちろん、気分はいいわよ。今年はあいつとの間にアクリル板立ててくれるって言うし。」
囃子(小鼓)「あいつってお殿様ですか?嬉しいんですか、仕切りがある方が?」
女雛「あいつ、なんかキモいのよね。やたら話しかけてくるし、『お殿様とお姫様、仲睦まじいわねえ』とか誰かに言われたときなんて、調子に乗って手握ろうしてきたのよ。単にお仕事で並んでるだけなのに、勘違いしてるんじゃないかしら。」
囃子(太鼓)「そんなご苦労があったとは。うちらは、人員削減で困ってるんですよ。」
女雛「あら、生バンドのメンバーが欠けたら盛り上がらないわね。あたしからもマネージャーに言っておくわ。じゃあね。」
囃子(太鼓)「ありがとうございます。・・・さて、うちらもそろそろ出番だ。とりあえず3人でスタメンやるしかないが、もし5人集合の許可が出たら後から合流してくれ。」
囃子(謡)「いよいよか、腕が鳴るな。ん、いま3人って言った?笛とあと1人ベンチ組がいるってこと?」
囃子(大皮鼓)「謡、お前だよ。笛がダメなのに、ボーカルが出られるわけないじゃないか。」
囃子(謡)「え?え?聞いてないよ。俺もこの一年ほとんど仕事なかったから、久しぶりで嬉しくて、すごい張り切ってコソ練してきたのに。」
囃子(太鼓)「悪いな、いろいろ手を尽くしたんだが、当面どうしようも無い。では行くぞ。あ、これはこれはお殿様、一足お先に失礼します。」
男雛「よう、久しぶりだな。ところで見たか、愛しい姫とこの私を隔てるあの忌々しい透明板を。いくらコロナ禍とはいえ、ずいぶん無粋な計らいじゃないか。桃の節句といえば姫とこの私こそ・・・おいおい聞いてるか、そんな逃げるように出て行くなよ。おや、笛と謡、お前たちは出ないのか?」
囃子(笛)「(ため息)今年は管楽器と声楽はNGらしいです。」
男雛「それは気の毒なことだな。おお、そうだ!お前たちにあのアクリル板をくれてやろうか。そうすれば五人囃子揃って並ぶのを許されるかもしれんぞ。姫もあんな邪魔物は迷惑がっているに決まっている。」
囃子(笛)「えっと・・・有り難いお言葉ですが、私どもは自力で何とかいたしますので、どうかお気遣いなく。」
男雛「そうか。まあ、この私にできることがあれば、何でも言ってくれ。じゃあな。」

囃子(謡)「(ヒソヒソ声で)何で断るんだよ!せっかく渡りに船のチャンスだったのに。」
囃子(笛)「脳天気なやつだな。お姫様の身になってみろよ。」
囃子(謡)「みんな、お姫様びいきだな。俺は、お殿様がそんなひどい人だとは思わないけど。」
囃子(笛)「お前が殿様派とは知らなかったよ。何か恩義でもあるのか?」
囃子(謡)「恩義っていうか、普通にいい人だよ。ずっと欲しかった菱餅のピンク色のとこ、分けてくれたことあったし。」