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大手町駅 C2b [その他]

自治体が管轄する一般接種と並行して、国主導の大規模ワクチン接種が東京と大阪で始まった。東京の接種会場は、大手町の合同庁舎3号館というところである。ほんの少し前まで、この建物のすぐ隣に気象庁本庁が入っていた(今は虎ノ門に移転している)。コロナ禍が始まる前は気象庁に出張で訪れる機会が度々あったので、この近辺はよく通りがかったものだ。接種会場の最寄りである大手町駅C2b出口も、幾度となく使った。旧気象庁に行くには東西線の竹橋駅が目と鼻の先なのだが、新幹線を降りて地下鉄を一駅だけ乗り継ぐのも面倒なので、たいていは東京駅から歩いて通っていた。

天気の良い日は、地上を歩くのが気持ちいい。東京駅丸の内北口を出て、丸善が入るOAZOビルを抜け、永代通りを皇居方面に向かう。皇居のお堀まで出ると行き過ぎなので、その一つ手前の日比谷通りを右に曲がる。道沿いに直角に折れてもいいが、大手町ファーストスクエアという高層ビルを(今だから告白するが)用もないのに通り抜けると、対角線上にショートカットできる。前方に首都高の高架橋が見えるので、そのすぐ手前を左に曲がると目前に(昔は名称すら知らなかったが)合同庁舎3号館があり、その奥が旧気象庁になる。迷わずに歩いて東京駅から15分くらいだろうか。

figure_yardmap_otemachi_all.jpg天候がすぐれない日は、地下道を使っていた。東京駅の地下出口から大手町駅方面に抜け、東西線の改札の手前を曲がると永代通りの真下を進むことになる。基本的に直進するのだが、途中で階段を降りたり昇ったり、地下道が微妙に左右にクイッとずれたり、地中の構造物が邪魔しているのかまっすぐ進めない。見通しが悪いので正しい方向に向かっているか不安になるが、心を強く持ってズンズン進むとやがて突き当りにぶつかる。そこで右折すると、日比谷通りに沿って地下を北上することになる。千代田線大手町駅の改札をやり過ごして地下道が終わるところまで歩くと、微妙にわかりにくい陰にある階段を昇り、ようやくC2bから地上の光を仰ぐことができる。

大手町駅には東西線・丸ノ内線・半蔵門線・千代田線の4路線が乗り入れていて、とんでもない数の出入口があるが、東京駅から見てその最も遠い端がC2bである。迷わず東京駅とC2bを往復できるようになるまでに、何度か失敗を繰り返した。おそらく東京の(そしてたぶん全国の)地下鉄網のなかで、大手町駅C2bは到達までのハードルが高い最難関ゴールの一つではないか。上の構内図をひと目見れば明らかだが、完全に迷路である。埒が明かず適当な出口で地上に出てしまうと、どちらを向いても似たようなビルばかりで途方に暮れるだろう。スマホの地図アプリを使い慣れていればまだしも、当面は接種会場にやってくるのは基本的に高齢者だ。都心に土地勘のない人が接種にやって来て、改札を出てから最短距離でC2bにたどり着くのは至難の業と思われる。

実際迷いに迷って相当遠回りした人もいたようだが、大規模接種自体はおおむね快調な滑り出しのようである。要所々々に相当数のスタッフを配置している上、東京駅から無料のシャトルバスも手配されている。国がやることにしては手際が良いなと思っていたが、大規模接種は防衛省が仕切っているのだった。もともと自然災害など不測の事態を救済するため訓練されている自衛隊が動いているだけあって、平時の行政を回すことに特化した官僚機構とは機動性がちがう。ワクチンに限らずコロナ対策全般を自衛隊に主導してもらうほうが、役所が慣れない非常時対応にジタバタするより、いろいろなことがうまく動くのではないか。文民統制の観点からは制服組が表に出づらいのかもしれないが、災害処理のプロをもう少し頼ってもいい。東京出張が消えて久しく今や懐かしい大手町の景色をテレビで眺めながら、そんなことをつらつら考えている。

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感染予測はどこまで正しいのか [科学・技術]

virus_overshoot.png数値気象予報や地球温暖化予測などに比べて、感染者数の推移を予測する疫学数理モデルは驚くほどシンプルな微分方程式だけで成立している。シンプルだから悪いわけではない。計算結果を大雑把に診断するには、モデルは単純にできている方が見通しは良い。が、シンプルなモデルは自ずとたくさんの仮定に依存する。モデルの建て付けが正しくても、仮定が間違っていれば答えは間違う。

東大のグループが精力的にコロナ感染状況のシミュレーション結果を公開していて、最近では東京オリパラ前後の感染者数を予測している(PDF資料)。彼らの結論は、海外からの入国・滞在者による影響は限定的(実施しても中止しても感染状況はあまり変わらない)だが、日本居住者の人流の大小は感染状況を大きく変え得る、とういうことである。後者については、そりゃそうだろうな、と思う。前者に関しては、ホンマかいな?と思う。

彼らのモデルでは、100人の海外感染者が水際対策をすり抜け入国するという仮定がベースになっている。オリ・パラ期間が1ヶ月ほどに渡るとすれば、一日平均数人というところか。この侵入ウイルスが産み出す新規感染者は、シミュレーションによれば一日あたり15人程度にとどまる、ということである。ふと思い出すのが、最近台湾で起きた事例だ。ずっと感染を抑制してきた台湾で、たった一人の国際線パイロットが持ち込んだウイルスが、ごく短期間で数百人規模の感染者を生み出した。この事実に照らすと、毎日数人ずつ合計100人の感染者が侵入しながら一日平均15人増で済むという試算は、甘すぎるのではないか?

以前、スモールワールド・ネットワークの話を書いた。いくつもの閉じたネットワークに少数の経路を加えて結んでやるだけで、ネットワーク間のつながりは一気に広がる。パンデミックの文脈に照らせば、少人数が都市や国の間を行き来するだけで、感染の急拡大を誘発し得ることを意味する。実際、ようやく新規感染者数が下降傾向に入った大阪や東京と入れ替わるように、連休明けくらいから北海道と沖縄で感染が拡大している。GWに大都市から人気観光地を訪れた旅行者が現地に火種を持ち込んだ、ということのように思われる。地元の人だけの小さなネットワークに閉じていれば何も起こらないはずが、そこに舞い込んだ一人の他所者が運悪くウイルスを持っていると、池に投げ込まれた小石から環状に広がるさざ波のように、新たな感染が広がっていく。

私たちの社会は人と人が薄くランダムにつながっているのではなく、家庭や職場や学校のような密で小さいネットワーク同士が緩やかに接して成り立っている。東大グループの疫学モデルは、スモールワールド・ネットワークの非一様性を表現できるほどには、うまくチューニングされていないのかもしれない。面白いことに、彼らのモデル予測を後日几帳面に実測データと比較したグラフが公開されている(ここのページ最下部)。各時点から一週間先の予測を検証した時系列で、一見よく再現されているようであるが、よく見ると新規感染者数の予測がわずかに(一週間ほど)実測から遅れて推移している。

一週間先の予測が一週間遅れて現れるのは、今日の天気で明日の天気を予報しているようなものだ。今日が晴れなら明日は晴れ、今日が雨なら明日も雨、と言い続けると、あとから見れば一日遅れで必ず「当たる」予報になる。それと同じで、遠目には実測に沿っているように見えるシミュレーションは、一週間スパンで初期条件がほぼそのまま反映されているだけの結果にも見える。これでは、このモデルが弾き出す数カ月先のシミュレーションがどれほど当たるのか、評価するすべがない。

蓋を開けてみれば、オリンピックをやっても目立った感染拡大は起こらないかもしれないし、怒涛の波がやって来るかもしれない。そんなロシアン・ルーレットを迫られたとき、本当に引き金を引かなければいけない理由があるのか。いま私たちに突きつけられているのは、そんな問いである。

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火星某所にて [フィクション]

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「こんにちは。君はだれ?」
「うわっ、びっくりした。こんなところで人に出会うと思ってなかった。」
「そう?ぼくはあちこちの星で変テコな人たちに会ってきたよ。君は面白い姿をしてるね。」
「火星探査機なんて、だいたいこんな見てくれだよ。あちこちの星って、君はどこから来たんだい?こんな辺境で、ずいぶんオシャレな格好して。」
「ぼくは地球から故郷の星に帰る途中さ。ヘビに噛まれた足が腫れて痛くてさ、ちょっとここで一休みしようと思って。君はここに不時着したのかい?」
「不時着?いやいや、現地調査でわざわざ来たのさ。迷子で困ってるように見えたかい?」
「いや、アフリカの砂漠で壊れた飛行機に八つ当たりする人に会ったばかりでね。ここも似たような景色だし・・・。調査って、何を探してるの?」
「土や石ころを集めているんだよ。ずっと昔この辺りに海や川があって、小さな生き物が棲んでたかもって話があってさ。その痕跡を見つけたいんだ。」
「へえ。でも、昔ってことは今は誰も住んでいないんだね。君はひとりぼっちなの?」
「まあね、仕事だからさ。でも、こうやって集めたものを地球に持ち帰るために、そのうち仲間が回収に来るよ。5年後くらいかな。」
「5年後?さっき誰か降りてくるの見たけど。」
「ああ、それは中国の探査機だね。そいつは、別に知り合いじゃないよ。」
「ははぁ、ケンカしたんだね?」
「え?ケンカっていうか・・・。」
「いやいや、わかるよ。ぼくも故郷でちょっとモメてさ。大切にしていたバラの花があるんだけど、彼女いつもツンとして、要求ばっかりで。なんか居づらくなって、飛び出してきちゃったんだ。」
「花とケンカしたの?ま、モメてると言えば、確かにアメリカと中国はいま経済や安全保障で緊張が高まってるけど。」
「君、急に大人みたいな口のきき方するね。あのね、ぼくはいま後悔してるんだ、バラの本当の気持ちに気付いてあげられなくて、独り置いてきぼりにしてしまったから。君のチューゴクだって、ツンとしてても本心はわからないよ。」
「話が見えないんだけど・・・。ま、どちらにせよ科学と政治は別だから、持ち帰ったサンプルは国を問わず世界の研究者が分析するんじゃないかな。」
「難しくてわからないよ。ブンセキって何だい?」
「見た目は単なる石ころでも、目に見えないくらい小さな生き物の痕跡を、あの手この手で探し出すってことさ。」
「ああ!それならわかるよ。一番だいじなものは目に見えないって、キツネが教えてくれたし。」
「キツネ?君の言うことって、ほんと突拍子ないね。さて、そろそろ仕事に戻らないと。じゃあ・・・」
「你好!」
「うわ、またびっくりした。何でみんな急に出て来るの。」
「我推測 星之王子様?我読了 仏蘭西的童話。」
「君、もしかして中国の探査機?」
「是!你 米国探査機?米国火星探査有長大歴史!你 大先輩。我見倣 米国的探査方式。」
「仲直りできそうで、よかったね。ぼくも故郷のバラがいっそう恋しくなったよ。じゃ、またね。」
「え?ちょっと。あ、行っちゃった・・・。えっと、君、そんなじっと見つめないでよ。わかったよ、じゃあ仕事始めようか。まずアームを伸ばして、ここの地面をそっと掘り起こして・・・」

お断り)文中の漢語はもちろん私の勝手な創作であって、文法も語彙も全く体を成していません。お許し下さい。

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ワクチンとマグネットのはなし [海外文化]

medical_vaccine_covid19.pngコロナワクチンの接種跡に磁石が引っ付くという無邪気なデマ動画が、アメリカを中心に拡散しているようである。自ら二の腕に小さなマグネットを貼って驚いてみせる人が続出したが、噂を聞いた当初はおバカなユーチューバーがネタでやっているのかと思っていた。しかし実際に動画を確認してみると、要はワクチン陰謀論者がキャンペーンの一環で広めているのである。

ウイルスと同じで、陰謀論にもいろいろな変異種が存在する。中でも感染力の強い流言は、コロナワクチンにはマイクロチップが仕込まれていて、接種した人はみな知らないうちに行動を監視される、という壮大なお伽話だ。ビル・ゲイツ氏が以前から感染症対策に関心が高く、ワクチン開発にも積極的に投資しているせいで、ゲイツ氏が黒幕だとする「説」がまことしやかに囁かれ早一年が経った。マイクロチップって強磁性体なのか、注射針を通過できるほど極小のチップが存在するのか、とかいろいろ疑問は尽きないが、陰謀論に合理的思考は初めから通用しない。

すでに成人人口の半数以上が少なくとも1回の接種を終えたアメリカであるが、ここ最近接種数が伸び悩んでいるという話を聞く。行政は接種促進に躍起だ。ニューヨークでは駅で接種すると一週間分のメトロカードをもらえたり、球場で接種するとタダでヤンキース・メッツ戦チケットをもらえたり、と気前が良い。オハイオ州に至っては、接種を済ませた人は毎週100万ドルが当たる宝くじに参加できるという破格の大盤振る舞いを始めるそうだ。日本では考えられないような税金の使い道であるが、裏を返せば米国の焦りの現れでもある。ゴリゴリの保守層を中心に、成人人口のおよそ5分の1から4分の1くらいはワクチンを断固拒否する難攻不落の岩盤だそうだ。それに加えて、なんとなく接種が不安で尻込みしている層が一定数いるようである。

ところで、マグネット動画をせっせと作っている人たちが反ワクチン派だとすれば、彼ら自身が本当に接種を済ませた可能性は限りなく低いはずだ。だから、「接種した」腕にマグネットがくっつくと実演している時点で、そもそも矛盾しているのである。もし進んでワクチンを打つような人なら、両面テープで(かどうかは知らないが)磁石を貼り付ける見え透いた芝居を打つ動機がない。つまり、動画のシチュエーションが成立する余地が本来ないのである。あれこれ主張するわりにツメが甘いのも、陰謀論者に見られる共通の特徴の一つだ。もともとガセネタを信じやすい純朴な人たちなので、無理もない。

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砂上の楼閣 [政治・経済]

beach_suna_oshiro.png内閣官房参与の髙橋洋一氏が、『この程度のさざ波で五輪中止か笑笑』のようなツイートをして炎上した。日本の人口あたりコロナ感染者数が世界と比べ低いことは周知の事実で、今さら教えてもらうまでもない。しかし本当の問題は、「さざ波」が打ち寄せるだけで日本のコロナ医療が浜辺の砂城みたいに崩れ始めることじゃないのか。

髙橋洋一氏が5月3日付で現代ビジネスに寄稿した記事(ここ)があり、これがツイートの元ネタのようである。読んでみるとなかなか楽しい。記事冒頭で例の「さざ波」に言及した後、医療崩壊の問題に触れている。髙橋氏によると、昨年度の予備費10兆円を元に病院への支援を試みたが「昨年の1、2次補正予算後、新型コロナへの備えについて関係者(地方自治体、地方医師会など)の間で油断があった」せいでコロナ病床が増えなかった、と断定している。要約すれば、政府はカネを配ったのに自治体や医療が改革をサボっていたのが悪い、という言い分のようである。それが本当なら、そのカネはいったい何処に消えたのだろう?

そのあとワクチンの話題が続く。「ワクチンの供給は原則として感染の拡大が深刻な国・地域から行われている。データ入手可能な世界84ヶ国で日本は71位と下位であるが、感染度合を加味すると、日本は45位で平均的だ」そうである。どういう計算でそうなるのかはさておき、84カ国中45位で真ん中辺だから平均的というのは、平均値と中央値の区別すらおぼつかないご様子である。そもそも、ワクチン供給が感染拡大の深刻な国や地域から行われているとは、なかなか牧歌的な分析だ。自国生産できる国がワクチン市場で優位を維持し、そうでない国との熾烈な駆け引きが連日報道されているのは、気のせいか。接種が進むイスラエルや英国などが一抜けの様相を見せる反面、我が国は緊急事態宣言の対象地域が再び拡大している。「平均的」などと胸を張るお気楽さが微笑ましい。

記事後半で髙橋氏は、憲法に緊急事態条項のない日本では私権制限ができず、緩い規制にとどまらざるを得ないというのはお決まりの議論を展開する。それはそれで良いのだが、結局「私権制限もできないながら、新型コロナの感染者数などは先進国の中で優秀だ」と結んでいる。そこが落とし所なら、日本には私権制限など別に必要ないという話になるはずで、論理が混乱している。緊急事態宣言がスカなのに感染者数が国際標準より少ない理由は、突き詰めればファクターXの話であるが、肝心な真相の究明について問題提起すらしない。

最後は経済の話で、「先進国の中で、財政支援を横軸、経済落込みを縦軸にすると、財政支援が大きいほど経済落込みが少ないことがわかる」と始まる。そのプロットがこれ(記事中のリンク)だが、注釈を見ると横軸の財政支援の定義は「Additional Spending対GDP比/(Additional Spending対GDP比+2020年度第四四半期の前年比減少額)」とある。私は経済の専門知識がないので式の意図がよくわからないが、数学的には分母第二項が0に近い(第四四半期の落ち込みが少ない)ほど自動的に100%に近づく(財政支援が大きくなる)仕組みになっている。だから高橋氏の見立て(財政支援が大きいほど経済落込みが少ない)は、ご本人が採用した数式の建て付け上アタリマエであって、特段なにも意味しない。

「データに基づきながら、世界の中の日本を見てみよう」という言葉で高橋氏の記事が始まっているが、データを活かすも殺すもそれを分析する人次第である。数字は客観的でも解釈が恣意的では台無しだ。コロナ禍が始まって以来、政策決定の現場におられる方々のデータ分析力に不安を覚える機会が増えた。まずは彼らのサイエンス・リテラシーを向上させることが、砂上の楼閣さながらのコロナ医療体制を救済する第一歩のように思う。

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五輪は誰のために [スポーツ]

rikujou_track_side.png東京オリンピック参加選手に、ファイザーがワクチンを無償提供する話が出た。これについてある日本代表選手が、他の人への危険を考えるなら打つが、正直不安はある、と率直な胸中を明かした。彼女の言う通り、ワクチンは本人の安全だけでなく他者への感染を防ぐのが目的だ。しかしコンディションの調整に細心の注意を払うアスリートの何割が、大事な試合の前に未知のワクチンを進んで打つだろうか。不測の副反応で体調が劣化するリスクと日本社会に感染を広げるリスクを天秤にかけたとき、どちらを優先するだろうか。先の選手は、命に大小はないのに選手が特別扱いされているように見られるのが残念、とも語った。だがワクチン問題はむしろアスリート自身にとっての踏み絵であり、オリンピック出場の特権と一社会人としての責任のはざまでどうバランスを取るかを問われているのではないか。

オリンピックの主役は誰だろう?もちろん、各国を代表する選手たちである。ではオリンピックは誰のためにあるのか?もちろん、アスリートだけのためではない。オリンピックは、競技を観戦する人々のためにある。コンサートやライブはそれを聴きに来る聴衆のために存在し、歌舞伎や演劇の舞台はそれを見に来る観客のためにある。もちろんアーティストにとってステージに立つことは、自分と向き合うパーソナルな真剣勝負の場でもあると思う。だがそれを観にやって来るファンなしには、イベント自体が成立しない。

それと同じことで、アスリートが頂点を目指して切磋琢磨する姿は美しいが、選手個人の自己実現や記録達成のために一兆円規模の運営費を要するメガイベントが開催されるわけがない。選手にとってオリンピックは山頂に聳え立つ神殿かも知れないが、その他大勢にとっては4年に一度のエンタテイメントだ。IOC最大のスポンサーがNBC(米国のテレビ局)である事実が象徴するように、そこに繰り広げられるドラマの「感動」を消費する大観衆が、オリンピックの存在を支えているのである。

世界がコロナ禍に苦しむ中でスポーツをやっていても良いのか、と自問する選手がいるという。個人的には、アスリートはスポーツをやるのが使命なのだから正々堂々と打ち込めばいい、と思う。池江選手に出場辞退や開催反対を促す声が届いているそうだが、若い現役選手にそんな重荷を背負わせるべきではない。一方、ハンドボール日本代表の土井レミイ杏利選手がテレビのインタビューで、無観客のオリンピックならむしろ開催しない方がいいと語っていた。一選手としてはオリンピック開催を望んでいるにちがいないが、観客やファンの応援なくして競技は成立しないという想いを強くお持ちのようである。オリンピックは誰のためにあるのか、深く考え続けてきた人なのだと思う。

さて大会主催側はというと、土壇場で完全無観客というカードを切ってでも開催にこぎつけたい思惑のようだ。彼らは誰のためのオリンピックをやろうとしているのか。IOCか?NBCか?無観客で大義が立つならそれでも良いが、感染予防の観点からは、国内の観客が集まることより、水際対策をすり抜け選手らが持ち込むウイルスのほうが厄介だ。

組織委員会は、今月予定されていたIOC会長の訪日を「緊急事態宣言が延長される中で来日していただくのは非常に難しい」という理由で断念したばかりだ。しかし現在の状況でVIP一人の接待すらままならないのなら、たった2ヶ月半後の東京で何万人もの選手やスタッフの行動をどうやって制御するつもりか?30を超える競技が同時進行するスポーツ大会でバブルを実施した例は、世界のどこにもない。プレイブックなる感染対策ガイドラインの策定が進んでいるが、マニュアルが揃っても運用が回らなければ何の意味もない。

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プリウスの暴走事故 [科学・技術]

isogu_car.png池袋で一昨年起きた車の暴走死傷事故の公判で、運転者が自身の過失を否定した。走行中にカーブを曲がる際、少しスピードが出すぎていたことが異常の始まりだったらしい。「ブレーキを断続的に踏んだと思います」「アクセルを踏んでいないのにエンジンが高速回転しました」「パニック状態になったと思う」「(アクセルペダルが)床に張り付いているように見えました」「ブレーキをいっぱい踏みましたが、減速しませんでした」と供述が続く。荒唐無稽な珍答に聞こえるが、被告の車がプリウスだったことを思い返すと、奇妙な既視感を覚える。

2010年3月カリフォルニア州サンディエゴの高速道路で、プリウスを運転中の男性から車が制御不能になったと緊急通報が入った。アクセルを踏んだところ戻らなくなり、ブレーキをかけ続けたが車は加速する一方だった、とは後の会見での証言だが、駆けつけた高速パトロール隊の適切な対処で事なきを得た。その翌日のこと、今度はニューヨーク州ハリソンで、急加速したプリウスが自宅前の道路を猛然と横切り正面の壁に激突した。ハンドルを握っていた女性は、車がひとりでに加速しブレーキを踏み込んでも止まらなかったと警察に語っている。

これらのできごとが注目された背景には、当時トヨタが実施中だった大規模なリコール(レクサス車含む)がある。過去に米国で起きた類似事故の調査結果で、フロアマットにアクセルペダルが引っかかる、ペダルの反応が鈍って最悪戻らなくなる、といった不具合の可能性が指摘されていたのである。電子系統の欠陥で急加速が起こるという説もあったが、(私の記憶する限り)トヨタは電子系統の問題を認めておらず、アメリカ運輸省の調査もトヨタの見解を支持した。

米国の二事案と池袋の事故はよく似ている。いずれも「意図せぬ加速」と「効かないブレーキ」という二つの問題が関わっている。この二つを同時に説明するシンプルな仮説がある。高齢の運転者が発進時や停車時にアクセルとブレーキを混同する事故をしばしば耳にするが、稀に運転者が踏み間違いを全く自覚しないまま大事故に発展するケースがある。頭ではブレーキを踏んでいるつもりが足はアクセルペダルに乗っており、意思に反して車が加速するのでパニックになり、踏み間違いに気づく心の余裕を完全に失ってしまう。

ある米国の調査で急加速事故の58事例を分析したところ、過半数の35事例で衝突時にブレーキを踏んだ形跡がなく、9事例では衝突の直前で初めてブレーキをかけていた(Wall Street Journal)。上述のニューヨーク州の事故後に行われた車載データの解析でも、衝突直前の車はフルスロットル状態で、運転者の証言に反しブレーキをかけた痕跡は認められなかったという。サンディエゴの事例に至っては、運転者の通報そのものがリコールに便乗した詐欺だったのではというまさかの疑惑が持ち上がった。

さて池袋の事故だが、被告の証言が意図的な虚偽でないのなら、ブレーキをアクセルと混同しながら最後まで間違いを自覚できなかった可能性がいちばん腑に落ちる。カーブで減速しようとしたときブレーキに足をかけたつもりが実際にはアクセルを踏んでおり、思わぬ加速に驚きブレーキを踏み込んだが、実際にはアクセルを全開にしていた。アクセルペダルが床に張り付いて見えたと言うがそれは自分で踏んでいたからで、極度のパニックで自分が見ているものとやっていることが結びつかなかったのではないか。被告はいつだったかテレビの取材に「高齢者にも安全な車を」と訴えていたが、むしろ「高齢者の運転はこれだから・・・」と言われないよう冷静な自己分析に務めるのが先ではないか。

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鯉のぼり [社会]

koinobori.png鯉のぼりの由来は江戸時代に遡り、幟を立てて端午の節句を祝う武家文化を庶民が真似したのが始まりだそうである。五月人形のように侍臭が露骨なアイテムと対照的に、子の成長を願う気持ちを風になびくコイに託すあたり、江戸町民の粋なセンスが香る。当時は男児を表す真鯉(黒のコイ)一匹だけだったようだが、明治時代に入ってしばらく経って、真鯉と緋鯉の二匹体制に移行した。昭和初期に書かれた童謡『こいのぼり』の歌詞に、「おおきい真鯉はおとうさん、小さい緋鯉はこどもたち」とある。真鯉のポジションをいつの間にかお父さんに取られているのは、江戸庶民の家族観から明治以降の家父長制にシフトしていった社会背景を反映しているとされる。そのせいで、この頃の鯉のぼりは父子だけでお母さんの出番がなかった。

戦後はさすがに封建的な家族像が馴染まなくなって、昭和30年代から40年代にかけて真鯉(父)と緋鯉(母)に3匹目の青鯉(子)が加わる現在の姿になったという。緑やオレンジの鯉をさらに加えてカラフルに彩る鯉のぼりも一般的になったが、職人が五輪のシンボルから着想を得たという説もあり、当時の東京オリンピックが一役買っているらしい。折しも再びオリンピックが東京開催を控え(本当にあるかないかはさておき)、昨今多様化した家族観に合わせて鯉のぼりのパターンももっと自由でいいんじゃないか。真鯉不在で緋鯉と青鯉が仲良く泳いでいてもいいし、真鯉だけや緋鯉だけが寄り添う鯉のぼりでもいい。ただこの半世紀のもっとも顕著な変化は、5月の空にたなびく鯉のぼりそのものがめっきり減ったことである。

こどもの日が近づくこの季節、鯉のぼりを上げる一般家庭をほとんど目にしなくなった。昔ならいざ知らず、昨今の住宅事情では広い庭に平屋建ての民家は減る一方だから、「屋根より高い」鯉のぼりを立てるには、2階や3階まで届く巨大な装置を手狭な庭に設置するハメになる。これでは風向き次第で尻尾が隣家の領空を侵犯し、ご近所トラブルになりかねない。集合住宅に住んでいる場合、庭がないのでベランダに竿を立てる他ないが、鯉が上階の住人の部屋を覗き込むようではやはり具合が悪い。そもそも、子供を地域共同体で見守る文化が薄れゆく世相では、人目を引く鯉のぼりでのろしのようにアピールするより、みな家族単位でひっそり成長を祝いたいのではないか。鯉のぼりにとっては、何かと生きづらい現代社会である。

黄河に龍門と呼ばれる激しい急流があって、流れを遡って龍門を超えた鯉は龍と化すという。難関を突破し立身出世を果たす譬えで、「登竜門」の語源にもなった中国の伝説だ。鯉のぼりの鯉はもともとこれが出どころで、わが子の映えある将来を願う親心が込められているのだそうである。幼いころ私の家に鯉のぼりはなかったし、子供がいないので自分で鯉のぼりを上げたこともないが、こんな大それた夢を託された子供の身を思うと少し気の毒だ。鳶が鷹を産むという諺はあるが、鯉に生まれ落ちながら龍に化ける期待を背負わされるのは、ちょっと重いのではないか。

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大阪と東京の感染動向について [社会]

一口に第4波と言われるが、大阪と東京ではかなり実態がちがう。大阪は3月初旬まで日ごとの新規感染者が100人未満までいったん落ち着いていたが、3月中旬から急速に拡大し4月半ばには1,200人程度に達し、その後その前後の数値で推移している。一方東京では、新規感染者300人前後の「下げ止まり」状態をしばらく経たあと、徐々に上昇を続けて1,000人をやや上回ったところだ。

COVID_Jan-Apr2021.png数字だけ聞くと状況は一見似たりよったりが、グラフを見れば違いが一目瞭然である。日経新聞が集計したデータを見てみよう。2月末日をもって2回めの緊急事態宣言が明けた大阪の新規感染者数は、ひと月を経た4月頭には年始のピーク約600人を軽々と超えた。東京は3週間遅れて3月21日まで(前回の)緊急事態宣言が続いたが、宣言明け以降の感染者増加率は大阪に比べるとかなり緩やかである。1,000人を超えたと騒がれているが、東京は正月明けに2,500人を超えていたので、4月中旬に年始ピークの2倍(1,200人)を記録した大阪に比べればだいぶ穏やかである。

東京も3週間遅れで大阪と同じ道を追いかける、という予測をメディアで散々聞かされた。たしかに、東京の新規感染者数はじわじわ増え続けている。だが、宣言明けからひと月で6倍以上(100人未満から600人)に急拡大した大阪に比べ、東京は3月下旬から4月下旬の一ヶ月で3倍程度(300人から1000人)である。実効再生産数を見ると、一時は2近くに届いた大阪に対し、3月以降の東京はおおむね1から1.1の前後を推移し、そこから急加速する兆候を示していない。少なくとも現時点のデータを見る限り、東京は大阪の轍を踏むという見立てはハズれたようである。

緊急事態宣言やまんぼうには2つ効能があって、時短や休業要請で感染経路を経つ直接的な効果への期待と、同調圧力で真綿で首を絞めるように行動抑制を促す心理的な効果がある。前者については一定の効果は上げているかも知れないが、万全の対策を取っている飲食店等の苦境を街角で眼にするたび心が痛む。後者は「コロナ疲れ」で効き目が薄れていると言われるものの、何だかんだ日本社会はまじめだ。3月は大阪が宣言をイチ抜けしたあと感染者が増えていく状況を東京はずっと見ていて、なんかヤバそうだという雰囲気はじわりと伝わっていた。それが送別会と花見シーズンの浮かれムードに水を差し、東京で宣言が解除された後も感染拡大が鈍いまま抑えられてきた、という憶測も成り立つ。

とは言えGWではっちゃければ感染がぶり返すので、政府にしては珍しく先手を打ち、3回目の緊急事態宣言をさっさと一部都府県に発令した。総理や都知事の呼びかけは、相変わらず校長先生が朝礼で聞き飽きた訓話を垂れているようで、あまり心に響かない。その代わり、テレビの報道番組が街角を徘徊する若者や旅行に出かける人々を連日のように追いかけ、メディアが頼まれもしない自粛警察を買って出ている気配がある。感染の縮小や拡大に何が一番効いているかと言えば、大抵の国ではロックダウンのオン・オフなのかもしれないが、日本の場合は社会にぼんやり漂う「空気」の風向き次第の気がする。空気を醸成する主体も責任の所在も曖昧だが、それ以外に東京のビミョーな感染動向を説明する要素が見当たらない。経済的・心理的に持続可能な程度に緩みない雰囲気を持ち込む「風」が吹けば、それがたぶん一番無難で効果的なコロナ対策になりそうである。

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