SSブログ

不遇のオミクロン [科学・技術]

とくに要注意と判定されたコロナ変異株は、ギリシャ文字の通番で呼ばれる。アルファ株やデルタ株は耳にタコができるほど聞かされた。南アフリカで見つかった最新の変異株は、オミクロン株と命名されたという。ちょっと耳慣れない響きである。

job_suugakusya.png研究者にとっては、ギリシャ文字の αβγ… は英語のABC…と同じくらい馴染みがある。中学数学では方程式の主役はxやyと相場が決まっているが、応用が効きすぎて逆に個性がない。ギリシャ文字は(ギリシャ人でない私たちにとっては)見た目のクセが強いので、キャラが立つぶん特定の意味を持たせやすい。円周率が π だったり、角度が θ で表されるのは定番だ。物理系の分野の人の目には、 ω λ が指数関数や三角関数の中に出てくれば自ずと角周波数と波長の意味を帯びる。 δ は微小変化を表現するとき好んで用いられる。

分野によって同じ文字が違う意味に使われることも多い。 ε は電磁気学では誘電率に用いられるが、数学者にとっては微少量を意味する。 Ψ は量子力学では波動関数に重用されるが、流体力学では流れ関数になる。ギリシャ文字の数に限りがある以上重複するのはやむを得ないが、混用される機会がない限り実用上支障はない。「説明抜きで瞬時に意味が共有される変数」としてビジュアルのエッジが効いたギリシャ文字が重宝するのである。

しかし、オミクロンは学術記号としては見かけたことがない。たぶん見た目が英語のoと区別できないせいだろう。おまけに数字の0とも紛らわしいので、数式の中に埋没すると間違えやすいことこの上ない。出番に恵まれないオミクロンがついに脚光を浴びる機会が訪れたはいいが、それが誰からも望まれないコロナ変異株では今ひとつ浮かばれない。つくづく気の毒なオミクロン氏である。

ところでオミクロン株の命名を巡り、ある疑惑が持ち上がっている。ギリシャ文字の順番では本来オミクロンより先に来るはずの ν ξ が飛ばされている、というのである。ロイター通信の記事によれば、 ν は発音がnewと同じで「新しい変異株」と聞こえるのが紛らわしく、 ξ(英語表記でxi)は同名の苗字が実在するため回避した、とWHOは釈明しているそうだ。ちなみに(日本メディアでもちらほら話題に昇っているが)xiという中国名は習近平(Xi Jinping)国家主席の姓でもある。コロナを巡るWHOと中国との距離感は以前から取り沙汰されているところでもあり、SNSの一部界隈では美味しいネタになっているようだ。

共通テーマ:日記・雑感

愚者の宴 賢者の集い [社会]

medical_koutai_breakthrough_woman.pngドイツでコロナ感染状況が急激に悪化しているそうである。新規感染者数のみならず、病院の逼迫状況も懸念が増しているというから穏やかではない。重症化する患者の多くはワクチン未接種者ということである。接種から月日を経た高齢者もブレイクスルー感染で重症化するリスクが増す恐れはあるが、ブースター(3回目)接種で回避できる。しかし自らの意思でワクチンを打たない未接種者たちを通して広がる感染は、彼らが決心を変えない限り状況は好転しない。だがそもそも人からとやかく言われるのが嫌いなタチな人もいるので、批判されればされるほど頑なに拒否し続ける。

ドイツの接種完了率は7割弱とのことだ。日本は7割と8割のあいだなのでドイツより接種が進んでいるが、それほど差が開いているわけではない。第6波が来ると脅され続けながら一向にその気配のない日本は、何がそんなに違うのか。マスク率の高さは間違いなく感染抑止に効いているだろう。でもそれだけだろうか?とくに根拠があるわけではないが、別の仮説を一つ考えてみたい。

もともと、人口の6-7割が抗体を獲得すれば集団免疫に達すると言われていた。ブレイクスルー感染のおかげでそのハードルは上がったが、今の日本はあたかも社会が集団免疫を得たかのような落ち着きを見せている。むしろ、接種が進んでいる欧州諸国で一向に感染収束の傾向が見えてこないことの方が、疫学の数理に反する。

ワクチン接種者と未接種者は、必ずしも社会に均等に散らばっているわけではない。世代や嗜好の似た者同士は集まりやすい。ワクチン嫌いの人同士は何となく感性が合って話も弾むかも知れない。仮に社会全体で7割が接種を終えていても、未接種者ばかりが集まってパーティーで盛り上がれば、その空間(仮に「愚者の宴」と呼んでおく)はワクチン開始以前並みに無防備だ。社会の内部構造が非一様なサブネットワークでつながっている限り、仮に社会全体が数値の上で集団免疫を獲得したとしても、一定の範囲で感染拡大は続く。「社会のブレイクスルー感染」が起きているのである。

接種者と非接種者の心理的な分断が深ければ深いほど、両者が交わる機会は少ないので社会のブレイクスルー感染はなかなか止まらないだろう。一方、接種者と非接種者の垣根が低い社会では、人が集まれば非接種者の合間に自ずと接種者が混じり、感染の連鎖が断ち切られる。そんな「賢者の集い」が愚者の宴より当たり前に実現する社会では、集団免疫は理論値に近い水準で実現するだろう。意見の違いを侃々諤々ぶつけ合うより黙して和を重んじる日本社会は、ワクチンの見解が異なる者同士が自然に混じり合う状況が実現しやすいのではないだろうか。

ソリの合わない人と無理やり仲良くなる必要はないけれども、個をぶつけ合ってそっぽを向くよりは、深追いせずに黙って様子をうかがい合う。日本社会は、感染症に対し耐性の強い文化的要素をもともと内包していたような気がしてならない。

共通テーマ:日記・雑感

マスク美人と伊達マスク [社会]

medical_mask_diagonal_view.pngマスクをしていると綺麗に見える人を、マスク美人と呼ぶそうである。身も蓋もない言い方をすれば、マスクを外した時にがっかりされる顔、ということになる。しかし街中ですれ違う人が軒並みマスク顔ばかりになって久しい今、大抵の場合マスクは人を美しく見せる方向に作用するのではないか、と密かに確信するに至った。最近読んだネット記事で知ったが、それは美容業界ではとっくに常識なのだそうである。マスク顔で人目に晒される部分は眼で、(鼻筋や輪郭と違い)メイクでいかようにもイジることができる。マスクで隠れている部分は、他人が妄想で盛ってくれる。そんな本人と他人の意図せぬ共謀が、マスク美人を量産するのである。

コロナのずっと前から、「だてマスク」という言葉があった。風邪でも花粉症でもないのにマスク装着で街を歩く人が、若者を中心に一定数いた。メイクが楽といった実際的な理由はさておき、顔という「プライベート空間」がマスクで守られる安心感が落ち着くのだそうである。自分の顔に自信がないのか、周囲の視線が気になる過剰な自意識の裏返しなのか、いずれにせよ自己肯定感の低さがマスクに安らぎを求める心理につながっている気配がある。上述の記事によれば、コロナが落ち着いてもマスクを取りたくない人が8割を超えているそうである。マスク生活が定着した一年半のあいだに、「だてマスク」派に目覚めてしまった人が急増したということかもしれない。

日本の若者は海外諸国に比べて自己肯定感が目立って低いというデータがある。そんな社会的土壌が、マスクをしたがらない欧米の人たちとの好対照を生み出しているのだろうか。諸外国ではマスクを自分と社会を隔てる壁のように嫌い、日本ではむしろマスクを社会から自分を守ってくれる盾のように信頼する人たちがいる。海外の人には理解を超えるメンタルかもしれないが、パンデミックの社会では明らかに感染抑止に貢献した。

自尊感情に溢れた人は日々を幸せに生きていると思うが、他人から見れば唯我独尊と紙一重だ。その胡散臭さに敏感な人ほど、自己肯定感から無意識に距離を取る。伊達マスクに依存する若者たちの心理は、50歳直前のオッサンにもわからないでもない。だが実際問題としては、マスクは息苦しいしメガネは曇るし、しなくて良いならそれに越したことはない。

共通テーマ:日記・雑感

ほぼ皆既月食 [科学・技術]

moon_michikake06.pngこの金曜日夕刻、最大で約98%が欠ける部分月食が全国で見られた。「ほぼ皆既月食」という触れ込みで、思いのほか盛り上がったようである。

日食の場合、「ほぼ皆既日食」には金環日食という立派な名前がついている。日本では2012年に金環食が見られた。皆既日食も金環日食もなかなか身近で体験する機会がなく、21世紀中に日本で観測できるのはそれぞれ6回づつに限られるそうである(参考サイト)。以前ブログで書いた覚えがあるが、皆既日食そのものは地球のどこかで頻繁に起きている。ただ、人が簡単にアクセスできない僻地で天体ショーがひっそり終わるケースが圧倒的に多い。月食は日食よりむしろ発生頻度は少ないそうだが、地球上に月の影が落ちる狭い地域でしか見ることの出来ない日食とちがい、月が地球の影にすっぽり覆われる皆既月食は(夜の側にいる限り)地球上どこにいても体験できる。数年見られないこともあるが、皆既月食が同じ年に何回も出現するときもある。

一部メディアが「ほぼ皆既月食」は89年ぶりとか140年ぶりとか希少感を煽っているので、笑ってしまった。正真正銘の皆既月食は数年と待たずに再体験できるのに、「ほぼ」がつくと逆に約100年に一度クラスの期待感で祀り上げられるのは、どういうわけか。私たちはもともと、100%に微妙に満たない未完の美学が大好きなのかもしれない。完璧に目鼻立ちの整った美男美女はむしろ没個性的で、顔立ちのどこかがわずかに崩れていればこそ、そこに唯一無二の魅力を感じたりする。

共通テーマ:日記・雑感

アナキンとパドメ、ニューヨークへ行く [映画・漫画]

space_uchu.png小室夫妻がニューヨークに到着した。圭さんは、Tシャツにプリントされたダースベイダーがセーターの陰から顔をのぞかせる独特のコーデで話題をさらった。一方、眞子さんのあまりにサラサラな長髪が全国の女子から羨望の眼差しを浴びているそうである。

もし圭さんがダースベイダーだとすれば、眞子さんはベイダーが(アナキン・スカイウォーカーだったころに)結婚したパドメ・アミダラとういことになる。パドメはもともと惑星ナブーの女王であった。ナブーの君主は公選制で、任期も限定されている。優れた君主であったパドメは任期満了のとき人民から慰留され、再選のために憲法改正の提案まで受けるが、それを断って王室を去っている(このサイトに詳しい)。女性宮家をめぐる制度改正の議論が進展しないなか皇室イチ抜けを果たした眞子さんと、微妙にシンクロする話である。

有り体に言えばアナキンとパドメは身分違いの恋だったので、婚姻は秘密裏に進められ、式に参列したのはC-3POとR2-D2だけだった。世間の風向きを読み皇室伝統のセレモニーを行わず地味に入籍した小室夫妻と、ちょっと似ている。アナキンは結婚後いろいろあってダークサイドの誘惑に負け、ダースベイダーと化した。圭さんが自分をベイダーになぞらえてスターウォーズTシャツを着ていたのか定かではないが、もしかして自らの将来にさらなる波乱を予期しているのか?

アナキンをダークサイドに引き込んだ陰の立役者は、銀河皇帝パルパティーンであった。圭さんの身近なところで皇帝役をスカウトするなら、おそらく「元婚約者」あたりか。一連の問題を白日に晒す原因を作った張本人だし、関係者の中で唯一実名が明かされない黒幕感とか、役に不足はなかろう。渡米直前に解決金で折り合いがついたそうで、意のままに帝国を支配した挙げ句最後はベイダーの返り討ちにあった銀河皇帝よりは、和やかな結末に落ち着いたようである(たぶん)。

ちなみにパドメは、ダークサイドに堕ちていくアナキンに心を痛めつつ、若くして命を落とした。異国暮らしの中、眞子さんは健康に留意して欲しい。

共通テーマ:日記・雑感

機会平等と結果平等 [政治・経済]

family_syunyu.png18歳以下一人あたり10万円を給付する公明党案が、所得制限つきという条件で話が進んでいる。世帯主の年収960万円で切る自民党案に対し、対象世帯の9割をカバーできるので「すべての子供は平等」と主張する公明党の意向と矛盾しない、ということだそうだ。だったら所得制限を付けなくても歳出規模はたいして変わらないので、上位1割だけを排除することに何の意味があるのか、分かりづらい。建前論で互いのメンツを立て妥協するのが政治の本質だとすれば、呆れるほど見事な政治的決着である。

この話を聞いて、機会平等と結果平等の論争を思い起こした。競争原理の公平性を重視するなら参加の機会が均等に与えられるべき(機会平等)だが、スタートラインや能力は人それぞれなので結果的に格差は容認せざるを得ない。対象的に、格差解消をゴールに社会的弱者を救済するのが、結果平等の考え方である。公明党の「子供はみな平等」は機会平等の発想で、困っている人にこそ手を差し伸べるべきだという反論は結果平等論である。給付金とはふつう結果平等的な思想に基づく制度のはずなので、そこになぜか機会平等をぶち込んできた不自然さに、多くの人が違和感を覚えるのではないかと思う。

コロナ対策でピカイチ機会平等的な政策は何だったかと思い返すと、昨年のアベノマスクと特別定額給付金が頭に浮かぶ。アベノマスクはとくに象徴的だ。マスクが品薄だった時期、首相側近の誰かが「マスクを配っておけば国民は喜ぶ」と浅知恵を吹き込んで実現した珍策だったとされる。今回は、「子供のためと言っておけば国民は喜ぶ」と総選挙でブチ上げた落としどころがこれだったということか。18歳以下一律給付金とは、いわば公明党のアベノマスクなのである。

機会平等にも結果平等にもそれぞれの正義がある。だが今回の給付金は、ヘンテコな折衷案に丸め込んでしまったおかげで、どちらの正義も中途半端で筋が通らない。平等とは何かという定番の哲学論議に絡んで、与党トップの見識がここまで浅くて大丈夫なのか、というのが今回の問題の本質のような気がする。

共通テーマ:日記・雑感

飛び恥 [政治・経済]

hikouki_gumo.png「飛び恥」という言葉がある。『逃げ恥』の続編ではない。大量の二酸化炭素を排出する航空機に依存しがちな社会にあって、地球環境に対する意識の低さを揶揄する文脈で使われる。英語ではFlight Shameと言う。グラスゴーで気候変動COP26が開催され、各国の首脳たちがこぞって飛行機で駆けつけ温室効果ガスの排出削減を訴えた。その「矛盾」を批判する環境活動家が好むワードの一つが、飛び恥ということである。

ちなみに航空産業が世界で生み出す二酸化炭素排出量は、人為起源の排出量全体の中で約2%を占める(参考サイト)。仮に世界から航空産業を完全に駆逐しても、節約できる二酸化炭素排出量は数%ということだ。これを多いと見るか、少ないと見るか?運輸部門に限ると航空機の排出割合は12%程度で、自動車の排出量が過半数を占める。ジェット機一機はもちろん車一台より遥かに大量の二酸化炭素を排出するが、車やトラックは普及している台数が圧倒的に多いので総量も半端ない。

飛び恥論者は、鉄道を使えと言う。イギリス開催のCOP26に関して言えば、欧州諸国からの出席者は(警護の問題を別にすれば)ユーロスターで英国入りすればいい。しかしアジアやアメリカからは鉄道のオプションはない。グラスゴーのデモで今回も気を吐いていたグレタ・トゥーンベリさんは、数年前ニューヨークの気候変動サミットに出るためヨットで大西洋を横断し話題をさらった。残念ながら、一国の首脳には優雅にヨット旅を楽しむ時間の贅沢は許されないだろう。

それでも空の旅を否定するのであれば、COP会議を止めてしまうか完全オンラインにするほかない。事務方の事前調整で結論ありきの会議なら、オンラインでも充分だろう。でも、決定権を持つ立場の人がギリギリの駆け引きをする局面が少しでもあるならば、オンラインは何かと不都合だ。もちろん、問題はCOPのようなトップ会談に限らない。国際学会を巡りカーボン・オフセット関連の議論が交わされるのを、以前から耳にしていた。オンライン参加のオプションで良しとする人もいる反面、直接会って言葉を交わす機会の喪失を憂う人は多い。図らずも長いコロナ禍の期間を経て、会議オンライン化の功罪を身に染みて感じ入ることになった。

気候変動対策は、現実性と実効性に優れていなければ意味がない。航空産業に関しては、SAFや機体の燃費向上のように(トータルの削減目標に照らしどこまで有効かはさておき)技術的に現実的な方策がある。一方、COP26に飛行機でやって来る首脳たちを糾弾することに、現実性も実効性もあまり感じない。むしろ、10年前にウォール街で金融エリートを非難し盛り上がったデモ活動を思い起こす。具体的な問題を解決したいというより、根底には特権階級に対する市民の怒りがくすぶっている。怒りの根源は正当かもしれないが、理由あって飛行機で旅する誰かを飛び恥とディスることに正義があるとはあまり思わない。

共通テーマ:日記・雑感

ハンドドライヤーと自己隔離 [科学・技術]

hand_dryer_air1.png公共施設のトイレによく設置されているハンドドライヤーが、未だに使えない。コロナ対策で使用中止になっていたが、結局たいした感染リスクはないことがわかって、半年以上前に解禁になったはずである。しかしコロナ禍のあいだに、利用者はハンドドライヤーが使えないことに慣れてしまった。設備管理側がハンドドライヤーを使用禁止のまま放置しているのは、敢えて再開する強い要望がないからと思われる。様子見しているうちに、問題の所在自体を忘れてしまう。合理性よりも空気感で判断を保留する曖昧さに、和の雅を感じる。

ところで、海外からの入国者に課してきた14日(10日)自己隔離措置が、ビジネス入国者に対し一定の条件のもとで3日に短縮されることになった。一歩前進だが、あくまで対象者を限定した措置だ。ワクチン完了者は陰性証明があれば入国後の自己隔離が免除される国が欧米を中心に増えている中、日本の動きは依然として鈍い。人の流入が新たな波の引き金になるリスクがある以上、判断に慎重になる理由はわかる。だが、14日という隔離期間にそもそも疫学的根拠があるのか?

ワクチンを完了しPCR検査で陰性だった入国者が、N日の隔離後になお感染している確率Pを考えてみよう。Pの計算はこんな風になるはずである。
P = f1 × f2 × f3 × f4 × f5
f1: 入国者が最近感染者に接触した確率
f2: 接触があった際にウイルスを取り込む確率
f3: ワクチン完了者がブレイクスルー感染する確率
f4: PCR検査で偽陰性となる確率
f5: 陽性者がN日の隔離後に依然としてウイルスを保持する確率

ここで最後のf5をどの程度に抑えるべきか?f1からf4までの掛け算でPが充分小さい確率になっていれば、f5を無理やり下げる必要はない。自己隔離の免除(f5 =1)でもPは充分ゼロに近いと判断する国も増えている。N=14日というのはもともとf5単独でP=0にすることを前提とした、かなり大袈裟な数値である(N=7-10日で感染させるリスクは消えるとされる)。

北半球が冬に向かうなか再拡大が始まっている国もあるが、ワクチン効果は完璧ではなくとも確実に効いているから、去年とはまるで状況が違う。世界がコロナ後を見据えて動き始めているなか、いつまでも鎖国しているわけにはいかない。日本政府の腰が重いのは、データ分析に基づいて独自の客観的判断しているならまだ良いが、あまりそうは見えない。たぶん、感染リスクがないはずのハンドドライヤーをいつまでも無用の長物として放置するのと、基本的に同じメンタリティに囚われている。

共通テーマ:日記・雑感

勝てない野党 [政治・経済]

senkyo_bako.pngハロウィーンと同時開催の衆議院選挙が終わった。自民党は議席を減らしたが、事前の予想ほどではなかったようである。日本維新の会は大躍進したが、野党が仮に一致団結しても数の上では自民党の安定を脅かすには遠い。以前から言われ続けているが、野党はなぜ国政選挙で勝てないのか?与党に反対の声を上げるばかりで能がないとよく批判されるが、これに対して野党は法案提出や政策提案の実績を示して猛反論する。たしかに、与党が野党の政策案をつまみ食いしてパクる事例は昔からあった。野党は野党なりにがんばってはいる。いったい何がダメなのか?

かつて民主党政権時代に、事業仕分け(行政刷新会議)なるパフォーマンスをやっていた。国庫歳出のムダを省くという問題意識自体は、だれも反対しない。ただし何が無駄で何が役に立つのか、それを判断する人の視野と見識が問われる。当時話題になった例の一つが、蓮舫議員に「2位じゃだめなんですか」となじられた京コンピュータだ。黄門様の印籠のように世界一位を叫ぶだけでは事業の必要性を擁護できない、という意味では真っ当な批判である。とは言え、仮にオリンピック強化プログラムを槍玉に挙げて「銀じゃだめんなんですか?」とあげつらう人がいるだろうか?「2位じゃ・・・」というのは世界を相手に戦ったことのない人の発想であって、国策の命運を左右する立場にある人の発言としては、思想が貧しい。

野党の課題は、目の前の小さな理想を丁寧に追求するわりに、大局を捉える視座が欠落していることではないか。個別政策のアイディアがいくらあっても、その根底を貫く国家ビジョンが弱いと底の浅さが見透かされてしまう。翻って自民党にどれほどの哲学があるか定かではないが、与党は必然的に10年後や20年度の日本の姿を考える立場に置かれる。折しも英国で気候変動COP26が始まったところで、政府は半強制的に長期ビジョンを国際社会に発信せざるを得ない。

野党はそういうプレッシャーがないので、科学技術政策にせよ国防にせよ、世界からの視線に応え得る日本の将来像を構築する展望を示せていない。野党が語る政治の理想は、何となく「おままごと」感を拭えないのである。だから有権者は、彼らに日本を委ねる気持ちに今ひとつなれないんじゃなかろうか。

共通テーマ:日記・雑感