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ヤバめの三人衆 [政治・経済]

世界情勢関連の最近の話題から小ネタを二つ。

bakudan.pngバイデン米大統領が訪問先のポーランドで行った演説中で「この男は権力の座にとどまってはいけない(this man cannot remain in power)」とプーチン大統領を批判し波紋を広げた。スピーチ原稿にはなかった不規則発言だったようである。本来は人道的見地に基づく対ロシア対応で筋を通すべきところ、米国にロシア政権転覆の下心があるかのような言質をわざわざ与えてしまった。泡を喰ったのはホワイトハウスで、バイデン大統領の真意は「プーチンは周辺の人々・領域に軍事力を行使することは許されない(Putin cannot be allowed to exercise power over his neighbors or the region)」ということだったと慌てて釈明した。powerという言葉のニュアンスを再解釈し火消しに走ったようだが、無理矢理感は否めない。バイデンは失言でトランプは暴言という違いはあるが、発言の精度が粗い点で二人の米大統領はどことなく似た者同士である。

ウクライナ侵攻ですっかり影の薄くなった北朝鮮が、やけっぱちの勢いでミサイル実験を繰り返している。いわゆる新型ICBMの発射実験が成功した先日、革ジャンにグラサンというチョイ悪オヤジ風に決めた金正恩総書記が大喜びするプロモーションビデオを作った。北朝鮮国営放送の国内番組ではあるが、その一コマが日本のテレビで盛んに流れている。これって、朝鮮中央テレビに放送権料を払っているんだろうか?そもそも国交のない二国の間でそういう市場が存在するのか?

調べてみると、実際に北朝鮮の代理人が日本でテレビ局を相手に訴訟を起こしたことがあるのだそうだ。日本も北朝鮮もベルヌ条約(著作権の遵守を定めた国際条約)加盟国であるが、国家と認めていない相手に国際法上の権利義務は負わないという法的判断で北朝鮮側が敗訴したということである。この判例がある以上、おそらく日本のメディアは「無断で」ICBMビデオを流しているものと思われる。まあどちらでもいいのだが、金正恩側の思惑としては北朝鮮の軍事的脅威をせっせと喧伝してくれる日本のメディアはむしろ好都合で、放送権料の取りっぱぐれくらい大目に見ているのかもしれない。

東にバイデン、西にプーチン、目と鼻の先には金正恩。なぜ今よりによってこの三人なんだろう。ようやくパンデミックの出口が見え始めたというのに、依然として世界の雲行きは怪しい。

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世界の縮図 [科学・技術]

国際宇宙ステーションISSに合流したロシアの宇宙飛行士3人が「ウクライナ色」のユニフォームに身を包んでいたことが話題を呼んだ。飛行士本人はその意図を否定し、彼らの出身校のシンボルカラーであるとか黄色の素材が余っていたからとか理由を説明したようである。そもそも宇宙飛行士用スーツは特別なあつらえ品で、打ち上げ半年前には着衣の色を決めているそうである(Guardian紙)。確かにユニクロの店頭で急遽調達できるような既製品のはずはないから、本人の弁明通り偶然の一致と見るほうが自然と思われる。とは言えこの情勢下でロシアの飛行士が予定通りISSに派遣され、欧米の飛行士と笑顔でハグを交わす映像には、考えさせられるものがあった。

ロシアの宇宙開発事業を担う国営企業ロスコスモスのトップ(ロゴジン氏)が、諸外国の対ロシア制裁に反発してなかなかはじけたコメントを連発している。その一つが、ロシアが手を引けばISSは地上に落下するという「恐喝」である。確かにISSのロシア区画は軌道制御を担っているが、放っておいてもISSがすぐに落ちてくることはない。月が地球に落ちてこないのと同じことである。ISSくらいの高度だとわずかに大気摩擦があるので何年も無制御で放置すればいつかは落ちるかもしれないが(ウクライナ侵攻と関係なくISSは2030年頃に運用を終了し太平洋に突入させる計画のはずである)、飛行機が墜落するような喫緊のリスクはまずあり得ない。

majo_cat_houki.png欧米の宇宙飛行士は今後は「箒にまたがって」ISSに行くがよい、とは同じくロゴジン氏の迷言である。ロシアのソユーズロケットはISSへの人的輸送を担う主要手段の一つであり(前澤友作氏もソユーズの乗客であった)、またロシア製エンジンは欧米のロケットの一部にも使われているそうである。何年か前であれば宇宙開発インフラにおけるロシアの優位性は明らかだったが、スペースX社のクルードラゴンが実用化している今では、ロシアの輸送サービスは必ずしもISSの維持に不可欠ではなくなった(以前この話題に触れた)。もっとも、ロシアの存在感が完全に消滅しているわけではない。欧州の衛星打ち上げ事業は部分的にソユーズに依存しており、私が仕事で少し関わる日本の地球観測衛星計画もその影響と無縁ではない。

ISSは、軌道上を周回する世界の縮図である。現時点では米露独の飛行士たちが滞在しており、考え方や立場は違うかもしれないけれど、それはさておき力を合わせミッションに取り組むプロフェッショナルである。そうでないと、小さな宇宙ステーションで生きていくことはできないからだ。地球はISSよりずっと広いけれど、人々が肩を寄せ合って生きている唯一無二の世界である点において、つまるところ巨大な宇宙ステーションのようなものだ。自分の意のままにならない隣国を力で潰しに行けば、巡り巡って自分も立ち行かなくなる。一度プーチン大統領とロゴジン氏をISSに送り込んで、そういうことを身をもって思い知ってもらってはどうか。

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私事で恐縮ですが [その他]

kouchou_sensei_speech.png祝いの席のスピーチだったり芸能人が私的な出来事を発表するときだったり、「わたくしごとで恐縮ですが」という枕詞がよく使われる。なぜ私事を話すのに恐縮しないといけないのか、考えてみると不思議だ。おそらく、私のプライベートなんて皆さん関心ありませんよね、差し出がましくてホントすみませんね、ということなのかと思う。だったら黙っていてもいいわけだが、恐縮ですと断っておいて結局長々と話し出すところがミソだ。要は、自慢やのろけを聞いてほしい本音をカムフラージュする社交辞令が「私事で恐縮」ということなのだと思う。

若い芸能人がよく「・・・させて戴きました」を過剰に連発する。「・・・に出させて頂きまして」「・・・を見させていただいて」などと一見すると礼儀正しい物言いだが、本来は「出演致しまして」「拝見しまして」でいいはずだ。むやみに謙遜して見せる慇懃さが、いちいち私事に恐縮するメンタリティと相通ずるものを感じる。

インスタグラムのようにリア充な毎日を一方的に発信するツールが全盛で、フォロワーが大勢つけば「わたくしごと」の拡散がマーケットとして成立する時代である。それが当たり前の若者たちが昭和世代の仕切る縦社会(芸能界とか)に組み込まれると、私事を語るだけで恐縮する和の雅を教育される。そんな文化的衝突の軋みが、チグハグな謙譲語に表れているんじゃないかという気がするのである。

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大統領のスピーチ [社会]

ウクライナのゼレンスキー大統領が日本の国会でオンライン演説を行いたいと打診があったそうだ。大統領のスピーチをめぐって、二つ興味をそそられる事案があった。

Ukraine.png一つは、日本政府関係者側が「(オンラインで演説を中継する)前例と設備がない」と戸惑っているという報道だ。日本の国会議員はいまだに石器時代を生きている様子である。コロナ禍の過去2年間、至る所でオンライン会議のノウハウ確立と設備導入が進んだが、世界から取り残された最後の秘境が国会議事堂のようだ。本会議場にオンライン会議設備を設置できないこと自体が驚きではあるが、それなら都内の大型会議施設を借りてもいいし、それが無理なら議員が各々PCに向かって演説を聞く手もある。戦火に晒される街から悲痛な声を聞いてほしいというときに、先進国の立法府が発した第一声が「前例も設備もない」だったなど、ちょっとあり得ない話である。受け入れる方向で動いているそうなので結果論としては良いのだが、我が国の国会議員はいい加減マンモスを追う生活をやめて21世紀の暮らし方を覚えてはいかがか。

もう一つは、ゼリンスキー大統領が米国議会で行ったオンラインスピーチの内容だ。9月11日同時多発テロと真珠湾攻撃に言及したことが、日本で静かに話題を呼んでいる。日本人にとっては微妙に居心地の悪い話題だが、英国向けのゼリンスキー演説ではチャーチルの議会演説を引用したそうだから、国ごとに愛国心を煽る主題をとっかえひっかえ選んでいる以上の意味はない。彼が日本の議会でスピーチするときは、おそらく広島と長崎を引き合いに出すのではないか。仮にそうなら、今度はアメリカ人にとっていくらか耳障りに響くかもしれない。原爆投下は必要だったと考える米国世論は今でも根強いのである(そうでない人たちももちろんいる)。

戦争は、どちらの立場から見るかによって正義が反転する。ロシアにはプーチン大統領の根強い支持者がいて、政権が垂れ流す戯言を信じている。正しい情報へのアクセスが限られているせいだけではなく、そう「信じていたい」のである。他方で、勇気を奮って戦争反対の声を上げるロシア人もいる。太平洋戦争中の日本もきっとそうだったし、同時多発テロ後の中東だって同じだったはずだ。戦争は国と国との争いという形をとるが、戦争に加担する人と苦しむ人の間を隔てる境界線は必ずしも国境とは一致しない。

正義感や愛国心は、つねに諸刃の剣である。ゼレンスキー大統領の各国向け演説を全部つなげて聞いてみると、ご本人の意図を超えて「私たち」と「あいつら」で簡単に分けられない世界の多面性が浮かび上がってくるのではないか。

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みんな怪しい [社会]

job_tantei_foreign.pngミステリー小説やドラマの定石の一つは、怪しく見えなかった普通の人物が実は犯人だった、というパターンである。驚愕の真相をいかに矛盾なく物語に忍ばせるか、伏線や隠れた犯行動機を緻密に仕掛けるのがミステリー作家の腕の見せ所であり、それが良く出来ていれば読者や視聴者はまんまと騙されても結末で胸のすく思いがする。しかし、熟練の読者はちょっとやそっとでは騙せないから、作者も裏をかくのは容易ではない。そこで、時として定石そのものがひっくり返される。

アガサ・クリスティは時々大胆な賭けをした。『オリエント急行』のように容疑者全員が犯人だったこともあれば、『アクロイド殺し』のように語り手が真犯人という禁じ手すれすれのトリックを使ったこともある。あるいは、はじめにトリックを視聴者に明かしてしまう『刑事コロンボ』のスタイルがある。コロンボ方式のメリットは、ネタバレの心配がない(初めからバラしている)ので豪華ゲスト俳優を犯人役として毎回堂々と起用できることだ。『コロンボ』シリーズがあれほど長期間続いた背景には、真相解明より刑事と犯人の駆け引きで引っ張る天才的なアイディアが功を奏していたことは疑いない。もっとも、ドストエフスキーは『罪と罰』で既にその手法を存分に活用していた。

日テレのドラマ『真犯人フラグ』が完結した。同じ制作陣による前作『あなたの番です』と同様、見るからに怪しい登場人物がぞろぞろ跋扈し、その中には実際に相当ヤバい輩もいれば、単に怪しく見えるだけの無害な人もいる。小ネタを小出しにしながら回を重ね、全てを操るラスボスは誰かという謎解きで最終回まで引っ張る仕組みだ。第2クール後半は毎回一人ずつ善い人キャラが崩壊していったり元に戻ったり、カオスがいっそう深まる。もともと連続ドラマは面倒であまり見ないのだが、『真犯人フラグ』は一度うっかり見てしまったが最後、途中で止められなくなってしまった。

露頭からほんの少し顔を出す石塊を手がかりに恐竜の化石を掘り当てるように、わずかな手がかりから埋もれた真相を推理するのがミステリーの伝統であった。対照的に、わざと過剰な手がかりを派手に散りばめて真相を煙に巻くのが『あな番』や『真犯人フラグ』の手法である。真偽不明の情報がネットを飛び交う混沌の中でなにが本質かを見極めなければいけない時代、雑音だらけで情報過多なミステリーのほうが逆にリアリティがあるということか。

蓋を空けてみると真犯人予想の下馬評を裏切る結末で、最終回のあとファンはしばしネットで騒然としていたようだ。消化不良の印象を拭えない視聴者も少なくなかったようだが、つまるところオチはさほど重要ではない。『真犯人フラグ』には柄本時生さん演じるユーチューバーが狂言回しのように登場したが、彼のいかがわしさと無邪気さこそ、このドラマがえぐる情報化社会の功罪を最も端的に象徴しているのである。

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キイュイヴ [語学]

food_peking_duck.png北京はカナ表記ではペキンだが、英字ではふつうBeijingと綴られる。しかし、北京大学はPeking University、北京ダックはPeking duckである。中国都市名のアルファベット表記に標準が二通りあって、以前はウェード式(北京=Peking)を採用していたが、あるとき中国政府がピンイン式(北京=Beijing)に切り替えたというのが公的な事情のようだ。発音を外国語で正確に表す難しさが、英字表記のブレを生む。

ChinaとかJapanのように、現地語の呼称と直接関係のない英語名が国名として定着しているケースもある。日本語にも英国とか米国など独特の呼称で外国名を表現する慣習があるが、これはもともと英吉利とか亜米利加のように(無理矢理感は否めないとは言え)外国語の表音を真似ようとした名残である。現地の言葉を尊重するなら日本の英名はNihonまたはNipponとするべきと思うが、その場合はニホンとニッポンのどちらが正統かという別の問題が発生する。これは「どちらでもいい」というのが公式見解のようである。漢字にすれば同じなので読み方は自由でも混乱はないということかと思うが、英字アルファベットに転記すると別の固有名詞に見えてしまう。漢字を知らない外国人に、NihonとNipponは同じと納得してもらうのは容易ではないかもしれない。結局、実用的にはJapanと呼んでおくのが明快で便利ということか。

ロシアのウクライナ侵攻をめぐり、欧米の報道ではKievの代わりにKyivと綴るほうが一般的になりつつあるようである。ムソルグスキーの『展覧会の絵』最終曲がふつう『キエフの大門』と呼ばれるように、国外ではウクライナの首都はずっとキエフという名称が馴染んでいた。しかしKievはロシア語起源の呼称であり、ウクライナ語の名を英字アルファベットに転記するとKyivになる。ソ連崩壊後の1995年にウクライナ政府はKyivを公認表記に定めたそうだ。カタカナではキーウと書かれることが多いが、Youtubeでウクライナ語の発音を聞いてみると「キイュイヴ」のように聞こえる。外国人には容易に真似しづらい難度だが、とくに現在のような情勢下で母国の都市を何語で表現するべきか、現地の人々にとって極めて大切な問題にちがいない。

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ファミレス(と人類)の未来 [社会]

robot_house.png近所のファミレスに行ったところ、配膳ロボットが店内を徘徊していた。タブレット端末で注文すると、料理を客のテーブルまで自動的に運んでくれる優れ者である。デフォルト状態ではモニターに猫顔のイラストが表示され、子供が喜ぶ仕様になっている(私も喜んだが)。通路の先を人が塞いでいると「道を開けて下さい」と喋りだすが、障害物が人でない場合(椅子が通路にはみ出しているケースなど)は「通れません」と泣き言を繰り返したまま立ち往生する。すると店員さんが救出に飛んでくるので、ロボットがフロア店員の代わりになっているのか逆に手間が増えているのか、あまり定かでない。ちなみに私は汁物を頼んだせいか、人間の店員がふつうに運んできた。

配膳ロボットは、北京冬季オリンピックの選手村でも話題になった。感染対策で導入が加速した面はあるだろうが、コロナ前からファミレスの店員数は減少の一途にあったから、もともと人件費節減のために開発されたシステムと思われる。近未来のファミレスは、本当に店舗から店員が消えるかもしれない。入店したら空いている席に勝手に座り、端末で注文したら配膳ロボットが食事を運んできて、食べ終わったらセルフレジで支払いをして帰る。厨房では調理ロボットが腕を振るい、無銭飲食を試みる不届き者を警備ドローンが猛追する。トラブルが発生し客が「店長を出せ!」と凄めば、店長ロボットがおずおずと現れ土下座する。

チェコの作家カレル・チャペックが戯曲「R.U.R.」を世に問うた1920年から、ちょうど100年あまりが経った。ロボットという言葉が初めて使われたことで知られるSFの古典である。チャペックの描いた世界はロボットが人間を駆逐するディストピアだが、2022年のロボットはファミレスの通路でオロオロしているありさまだから、人類征服にはまだ遠い。それより先にクレムリンに棲む不穏な男のせいで人類が自滅してしまわないかのほうが心配だ。

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ゲルギエフ問題 [音楽]

building_gekijou_theater_shitsunai.pngヴァレリー・ゲルギエフというロシアの指揮者がいる。風貌は『シャイニング』に出てくるジャック・ニコルソンを思い浮かべてもらえばさほど間違っていない。つまりちょっとヤバそうに見える人だが、タクトを握れば(彼はなぜか爪楊枝のような棒切れを使うが)抜群の切れ味で彫りの深い音楽を造り出す天才だ。ストラヴィンスキーやプロコフィエフのバレエ音楽を振らせると、荒々しい泥臭さと洗練された知性が奇跡のように溶け合う名人芸をやってのける。世界最高の現役指揮者の一人であることは間違いないだろう。

そのゲルギエフが、ミュンヘン・フィルの首席指揮者を解任された。プーチン大統領のダチとして知られるゲルギエフはウクライナ問題をめぐりロシア政権批判を求められたが、己の見解を明らかにしなかったことが理由である。彼が関わっていた欧州各地の楽団からも次々と締め出しを食らっており、四面楚歌の状況に陥っている。

この件で思い出したのがフルトヴェングラーである。泣く子も黙る偉大なマエストロだったが、第二次大戦中に祖国ドイツで音楽活動を続けた彼はナチス政権との関係を疑われ、戦後2年間ドイツ音楽界から追放された。フルトヴェングラーはナチス党員ではなかったし、ナチズムに傾倒することもなかった。しかし芸術は政治から自由だと信ずるフルトヴェングラーの純粋さが、皮肉にもナチス政府に利用される隙を生んだ。

ゲルギエフの場合はどうか。本人が沈黙している以上、本音はわからない。仮にゲルギエフが指揮台に立ち続ければ、「非人道行為を黙認するような人間の音楽は聴きたくない」と考える聴衆からブーイングを買うのは必至で、そんな空気がミュンヘン市の解任通告の背後にあるものと思われる。もしゲルギエフが公然とウクライナ侵攻を正当化するなら弁明の余地はないが、今のところそういう事実はない。本当に魂をプーチンに捧げているのかもしれないが、本意を公言できない何らかの事情があるのかもしれない。フルトヴェングラーの件もそうだが、表面に見えている要素だけで人を断罪するのは危険だ。

同じことは、北京パラリンピックについても言える。「ロシア選手と戦うなら出ない」という他国選手の声にIPCが押され、ロシアとベラルーシの選手が出場できなくなった。ロシア選手団の中にも、ウクライナ侵攻に心から反対する人はきっといる。そんな真っ当な選手たちまで問答無用に排除することが、オリパラの精神に照らして本当に正しいのか?

ふつう容疑者には黙秘権が認められていて、沈黙は有罪の根拠とは見做されない。しかしゲルギエフは一言も発しないまま容赦なく契約を解除された。社会の現実はフルトヴェングラーの理想からほど遠く、芸術は政治や社会の温度感から自由であることは許されない。ロシアがウクライナでやっていることは、もちろん許し難い。その正義が生み出す怒りは正当だが、怒りが正義を自己正当化し始めたとき、社会は往々にして余裕を失う。

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プリンはどう食べるのが正しいのか [その他]

キナ臭い世界情勢を尻目に、どうでもいい話題を一つ。プリンはどっちが上なのか、という話だ。

sweets_purin.png饅頭やどら焼きのように対称形をしている菓子は別にすると、スイーツは普通上下が決まっている。ショートケーキを逆さに置く人はいない。プリンの場合、カフェなどで頂く場合はふつうキャラメルソースの面が上に来て、富士山型になる。ソースが自然にプリン全体にかかって、多分これが本来の食べ方としては正しい。

一方、コンビニ等で買うプリンはカップに入っているので、カップから出さず逆さ富士状態のまま食べる人が多いと思う。この場合の問題は、キャラメルソースが下面に沈んでいるので、最後の最後まであのほろ苦い甘さに到達できないことにある。これを回避するには、スプーンの最初の一撃でプリンの層に深い穴を穿ち、閉じ込められたキャラメルソースをまず漏出させることになる。邪道のような気もするが、スプーンの先からキャラメルソースが染み出す瞬間は、鉱泉を掘り当てたようなワクワク感がないでもない。

この矛盾を解消するべく発明されたのが、プッチンプリンである。底面に空気穴を開けることで、カップからストンとプリンが落ちる。画期的な発明だ。グリコが取得したこの特許はだいぶ前に期限が過ぎているので、他社が真似してもいい。だが、プッチン以外でこのカップ構造を利用した製品はほとんど見ない。なぜか?

理由はいくつか考えられる。一つは、敢えて二番煎じには走らないという菓子メーカーの矜持。売上には直結しない単なるプライドだが、開発者も誇り高き人間だから実情は案外そんなところかもしれない。二つ目は、カップのまま食べるのが初めから想定仕様になっている場合。カップ入りの焼きプリンは焼き目が表にあるので、そのまま頂くのが正解のように思う。三つ目は、大抵のプリンは空気穴くらいでは簡単に取り出せない可能性。プッチンプリンはぷにぷにと柔らかいが、ふつうプリンはもうすこし固めに作られている。たぶん、プチッと爪を折ったくらいではストンと出てこないのではないか。生半可カップの構造だけ真似しても無駄ということかもしれない。

自家製でプリンを作るときは、アルミ容器から取り出すときにヘリを押さえたり軽く振ったりしながらそっと取り出すと思う。購入したカップのプリンも同じように皿に空ければ良いかもしれない。だがそれなりに高度な技術で、慣れた人でないとプリン崩壊のリスクと隣合わせだ。無残に変わり果てたプリンを皿からすくって食べるよりは、カップから直接食べるほうが気分がいい。プリンをどう食べるかという課題は、敢えてリスクを取るか安定志向に走るか、人生観を試される瞬間でもある。

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