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科研費審査スコア分析 [科学・技術]

科研費の審査で不採択だった課題について、審査結果の一部が申請者に開示される制度がある。大型科研費を除くと、審査点の平均値や低評価を下した審査委員の人数など、限られた統計情報が伝えられるに過ぎない。だがデータを丁寧に分析すると、評価点の分布を何となく類推できることもある。その一例を考えてみよう。

kakenhiscore.gif右の表は、開示情報の一部を抜粋したものである(評価の数値は実例をもとに修正を加えたフィクションである)。審査点は審査項目ごと4点満点で、複数の書面審査委員が採点する(別に相対評価の総合評点もあるがここでは触れない)。科研費のカテゴリごとに審査委員の数は決まっているが、審査委員の自己申告で利害関係(身近な共同研究者など)のある課題は評価者から外れることになっているので、申請課題によっては規定数より少人数で審査されることもある。この例では平均点が3.40なので、個々の採点が整数値であることを鑑みると審査委員の人数は5の倍数とわかる。もし規定の審査委員数が6人(基盤Bなどの場合)とすると、この課題は一名が利害関係者で辞退し5人が審査に当たったと推定できる。

審査委員が否定的な評価(2か1)を付けた場合、そう評価した根拠を選択肢から選ぶことになっている。例えば「研究課題の学術的重要性」という審査項目では、「学術的に重要な課題か」「独自性・創造性が認められるか」「国内外の研究動向と研究の位置づけは明確か」「科学技術や社会への波及効果が期待できるか」という4つの選択肢(複数回答可)が示されている。この例では、4項目中3つで低評価が認定されている。5人中の3人がそれぞれ別の観点で低く評価したかもしれないし、特定の一名だけが3項目にダメ出しした可能性もある。この表だけではその違いは判断できないが、平均点が3.40なので実は低い評価をした審査委員は一人だけだったと特定できる。

その理由はこうだ。仮にこの審査項目で2または1を付けた審査委員が二人いたとする。すると審査点平均値は最大で(4+4+4+2+2)/5=3.2のはずで、3.40に届かない。当然、三人以上の委員が2または1を付けた可能性もない。この例であり得るスコアの分布は、4点が3人で3点と2点が一人ずつ、または4点が4人と1点が一人、のいずれかに限られる。つまり、5人中4人は満場一致かそれに近い高得点で申請課題を評価しているが、残る一人だけなぜか全否定に近い辛辣な判断を下したことになる。基盤BやCなどは二段階審査制度を採用しており、ボーダーライン付近の申請課題は第2ラウンドで同じ審査委員により再度採点されるが、一人でもとことんネガティブな人がいると復活当選する見込みはおそらく低い。

科研費の審査委員は、任期が終わったあとに名簿が公表される。もちろんどの委員がどの課題に何点をつけたかは(採点した当人以外は)誰にもわからない。ただ一人だけ審査評価が不自然に低い場合、上述のとおり申請者は開示情報からある程度それを読み解くことができる。研究者も人の子、学説の対立か特定の研究分野への偏見かはたまた個人的な怨恨か、本来は中立であるべき審査に私情を挟むことがないとは言い切れない。申請者があとから審査委員名簿を見たときに、「やはりオマエだったか」と溜飲を下げることもあるかもしれない。

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ハリウッドの大統領 [海外文化]

ロシア国内ではプーチン大統領の支持率が8割を超えているという。思ったことを率直に言えない厳しい状況とは言え、独立系メディアの調査ですらプーチン大統領の盤石な人気は揺るがない。祖国の蛮行を直視する痛みに耐えられず、耳に心地よい国営放送のプロパガンダに浸る。2割と8割を隔てる壁は、その誘惑の強さを意味しているのだろうか?

もちろん、それはロシアの人々だけに起こる問題ではない。今回は『コロラドの☆は歌うか』復刻企画の第2弾、2003年イラク戦争突入に踏み切ったアメリカで米国人の愛国心について考えたコラムを再掲したい。



(2003年)3月23日、ハリウッドでアカデミー賞の発表式典が開かれた。 日本では『千と千尋の神隠し』の長編アニメーション部門受賞がもっぱら話題を集めた(と思う)が、 今年の式典で際立っていたのは何といっても戦争の影だった。 主演男優賞を獲得した『The Pianist(戦場のピアニスト)』のエイドリアン・ ブロンディは、受賞スピーチの時間切れの合図を振り切るようにして、 平和的解決への願いを訴え満場の喝采を浴びた。 スピーチに直接・間接的を問わず反戦のメッセージを含ませた受賞者やプレゼンテーターは、彼に限らない。 だがその中で一人、公然とブッシュ大統領をこき下ろした長編ドキュメンタリー部門の受賞者マイケル・ムーアは、スピーチの最後を猛烈なブーイングに掻き消された。 この極端なまでの反応の違いは、アメリカ人にとって「反戦」と「反大統領」 の持つ意味の決定的な違いを浮き彫りにしたと言える。

america_daitouryousen_man2.png大統領に対するこの特殊な敬意は、(言うまでもなく) ジョージ・W・ブッシュの人望によるところではない。 彼の演説は語彙の貧弱さや無意味な言い回しの多いことで知られ、 ワイドショーではもっぱらコケにされ、 報道番組でも持ち上げられることはまずない。 だが彼がひとたび壇上に立ち、スピーチのさびに至って 「United States of America!」のキメ台詞を吐いた瞬間、 アメリカ人はボタンを押したように割れんばかりの拍手を送る。 ブッシュ個人をからかうのに遠慮はいらないが、アメリカ人に向かって大統領をこき下ろすのは避けた方が無難だ。 この国の人々にとって、「大統領」は星条旗と同じく彼らの神聖不可侵な価値観を代表する記号なのだ。演壇に立った瞬間から、そこにいるのはもはや 「ジョージ・W・ブッシュ」ではなくなるのである。

これはアメリカ人が幼いころから注意深く刷り込まれる、 抽象化された宗教といえるのかもしれない。 ふだんは至って理知的で愛国心のそぶりも見せない人すら、星条旗・国歌・大統領の 3点セットを突きつけられると、ある種のトランス状態に陥り God Bless Americaに涙することもある。 とは言え、普通の宗教とは大きく違うのは教義も教祖も存在しないことで、 あるのはあくまで象徴的な⏤⏤しかし実に強固な⏤⏤国家意識のみだ。 そのあたりに、表現・信教の自由を標榜する気風と矛盾することなく、 多宗教・多民族の国民を一つにまとめ上げた秘訣があるのかもしれない。

だがそれは逆に、あらゆる思想がアメリカの名の下に正当化され得る土壌を生む。 個人レベルでは底抜けにフレンドリーなアメリカ人が、 国家レベルでは最強の軍事力を引っ提げ他国を攻撃に行くという矛盾の裏には、星条旗に象徴されるアメリカの全てを肯定するワイルド・カードがある。 反戦運動は大いに結構⏤⏤ヒューマニズムはアメリカの心である⏤⏤だが、アメリカそのものに唾を吐くことは絶対に許されない。 マイケル・ムーアの反戦思想に共感する人は多かったはずだが、彼は憤りのあまり押してはいけないボタンを押してしまった。 アカデミー賞会場の聴衆の反応は、アメリカン・スピリットの二重構造を如実に体現していたと言えるだろう。

ハリウッド映画は、良くも悪くもアメリカ的価値観の鏡である。 露骨な一例は『インディペンデンス・デイ』のクライマックス、 異星人の襲撃による焼け野原で演説する大統領が、人々に抵抗を呼びかける場面だ。 非米国文化圏の観客にとっては困惑すら覚えるこのシーンも、アメリカ人なら容易に涙腺を緩めて不思議はない。
一方『インディペンデンス・デイ』とほぼ同時期に公開された『マーズ・アタック』は、物語のプロットが良く似ている反面、背後に流れる価値観はまるで逆である。 燦然たるオールスター・キャストを揃えながらチープな悪趣味に徹したこの映画では、米軍は火星人の襲撃にまるで歯が立たず、議会はあっさり全滅し、 最後には大統領すら火星人の首領にころりと騙され殺されてしまう。 結局地球を救うのは、痴呆の老女とその内気な孫だった。 『インディペンデンス・デイ』の大統領演説に対応するシーンは、 『マーズ・アタック』では死んだ大統領に代わってその娘が二人を表彰するシーンである。 そのとき、間に合わせのバンドが奏でるアメリカ国歌に、 老女は顔をしかめて耳をふさぐ。 このシーンの象徴する意味は深遠だ。 そこに私は、悪乗りの限りを尽くしたブラック・コメディにティム・バートン監督が仕込んだ、したたかで高潔なメッセージを見る。

宇宙戦争型SFの体裁を借り、「誰が世界を救えるか」という問いに正反対の答えを出した二つの映画。 強すぎる愛国心に目が眩んだアメリカの欺瞞と、 それを冷静に見据えるもう一つのアメリカ。 この二重の価値観のバランスがかろうじて持ちこたえている限り、 国際社会で孤立も辞さないこの国の奥深くに、いまだ潰えぬ良心が残されているはずである。

※初出『コロラドの☆は歌うか』2003年3月28日付

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動物検疫の特例措置 [動物]

ウクライナからの避難者が、同伴した飼い犬の180日に及ぶ隔離とその間の費用負担を余儀なくされると報道され、非難が沸き起こった。それを受け厚労省が特例措置として条件付きで隔離を緩和する方針を発表したところ、今度は狂犬病を軽視するなと逆の立場から反論が巻き起こっている。この問題について少し考えてみたい。

pet_inu_chuusya.png国外から犬を持ち込むには、現行法では出発地で狂犬病予防接種を打ち十分な抗体価が確認できてから180日を置いてようやく入国できる。通常はその期間を見込んで半年以上前から準備をすることになる。仮に出発地で100日しか待機期間を確保できなかった場合、残り80日を日本の検疫施設で隔離しないといけない。ウクライナ避難民のケースではもちろん本国で事前準備できる状態ではなかったので、法律上180日まるごと検疫所に留め置かれることになるのだ。厚労省が発表した特例措置は、マイクロチップ装着に加え2回接種を行い抗体価が基準値を満たせば、健康観察と定例報告を条件に待機制限を緩和する(飼い主が引き取ってよい)というものである。震災などの折に海外から導入される災害救助犬と同じ扱いだそうだ。

さて、そもそもなぜ抗体ができた「後」に待機期間が必要とされるのか?それはワクチン接種より前に狂犬病に感染した可能性を排除できないからである。ウイルスの潜伏期間を見込んで180日のあいだ様子を見るのだ。発症しない限り感染の有無を確認する術はないが、日本のように飼い犬がルーチン的な予防接種を受ける体制があれば、狂犬病にやられている可能性は低い。実際、ウクライナでも犬の狂犬病予防接種が義務付けられているようである(参考資料PDF)。もちろん今のウクライナ政府に接種証明書を発行する余裕はない。でも日本に来た飼い主への聞き取りはできるし、日本到着時に抗体検査をすれば近過去の接種歴を間接的に確認できるはずだ。

本当に180日も必要なのかという疑問もある。狂犬病ウイルスの潜伏期間は、犬では3-8週間だそうである(大阪府獣医師会)。例外的に長い事例を想定して半年に設定したのかと思うが、最近まで運用されていた新型コロナの14日自己隔離と同じで、サバを読みすぎるとそれはそれで運用上の支障がいろいろ生じる。欧州各国もウクライナ避難民が同伴するペットの検疫についてはいろいろ決まりがあるが(まとめサイト)、日本のルールは破格に厳しい。

狂犬病ウイルスは、罹った動物に咬まれると人間にも感染する。速やかに適切な処置をすれば助かるが、発症してしまうとほぼ確実に死に到る。今でも世界で年間5万人強の死者が出るそうだ。現在の日本は数少ない狂犬病清浄国の一つで、厳格な検疫制度はもちろん、徹底した野犬管理の成果がその背景にある(日本の街で野良犬を見なくなって久しい)。コロナのように飛沫感染はしないので、原則ヒトからヒトへは拡がらない。大量殺処分に至った海外の狂犬病発生事例を引き合いに出す人もいるが、日常の中で動物に咬まれる恐れが相当低い日本社会に見合ったリスク査定をするべきである。

現実的で有効な狂犬病対策を踏まえた上で、命からがら逃げてきたウクライナの人々が家族同然に大切にしている動物たちをどう扱うべきか、政府の温もりある対応が試されている。特例措置については賛成も反対もネット上の情緒的な反応が先行しがちだが、理性的・建設的な検討が進むことを願う。

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Old Enough [海外文化]

otsukai_boy.pngNetflixで公開が始まった日本の老舗テレビ番組が海外で話題を呼んでいるらしい。番組の英語タイトルは『Old Enough』。老人が人生経験でも語るのかと思えばさにあらず、何を隠そうその正体は『はじめてのおつかい』である。英国メディア(Guardian)と米国メディア(CNET)がレビューを書いているが、その戸惑いぶりが面白い。

日本の「はじめてのおつかい」は数時間ぶっちぎりで放映されることも多いが、ネトフリでは20分未満に刻んで放映しているようである。一回当たり一エピソード限定ということか。幼い子供が時に小さな胸を張り、時にとことん駄々をこね、最後には買い物袋をずるずる引きずり半べそで帰ってくる。そしてそれを迎える親が子供以上に号泣する。視聴者の涙腺を崩壊させる感動スイッチは万国共通のようだが、CNETの米国人ライターは番組を概ね好意的に評価しつつ「こんな小さな子たちを大人の目から離して大丈夫なのか」と困惑を隠し切れない。

私が米国コロラド州に住み始めたころ、まだ車がなかった私の必需品買い出しのためアメリカ人の同僚が付き添ってくれた。当時シングルマザーだった彼女は、人懐こい一人娘を同伴してきた。大人が商品棚の前で会話に夢中になると、娘はついフラフラと彷徨いはじめる。目が届くうちは良いのだが、子供が通路の角に姿を消したとたん同僚は血相を変え、おざなりに「Excuse me」と呟くや娘を連れ戻しに猛然と走り出した。小さな田舎町で凶悪犯罪などめったに起こらない土地柄ではあったが、安全に対する緊張感が日本とは全く違う事実を目の当たりにした瞬間であった。

もちろん「はじめてのおつかい」の制作チームは安全面に細心の注意を払い、通行人に扮したスタッフがやたらと子供の周りを徘徊する。上記の英米メディア記事でも番組側の配慮は認めているのだが、そもそも幼児だけでお使いに送り出すというコンセプト自体が彼らの文化圏では考えられないのである。乱暴な例えを許してもらえるなら、三歳児にバンジージャンプのハーネスを括り付けて高台から突き落とすドキュメンタリーを見せられているような残酷性を感じるのではないか。いくらバンジーの設備に安全性が担保されているとはいえ、シチュエーション自体に心理的な抵抗があるのだ。

もう一つ面白いと思ったのは、いずれの記事も日本独特の番組演出に言及している点だ。字幕をやたら多用する作りがGuardianの記者には少し目障りのようだ。一方、子供の心の声を代弁する「生意気系」ナレーションをCNETのライターは面白がっている。ちなみに、私が在米時に現地のテレビでよくやっていた日本の番組と言えば、『風雲!たけし城』と『料理の鉄人』であった。『Sasuke』も結構人気があって、『American Ninja Warriors』という米国版の模倣番組が存在する。

世界が受容する日本のエンタテイメントは何かと考えるとき、ジブリやポケモンのような王道を別にすれば、雑多なサブカルチャーの一群がひしめいている。そこに『はじめてのおつかい』がどこまで食い込むのか、今後の健闘に期待したい。

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河瀨さんの祝辞 [その他]

sotsugyo_boushi.png東大の入学式で映画監督の河瀨直美さんが祝辞を述べた(全文が東大のWWWページに掲載されている)。全体を通して読めば、上から目線で訓辞を垂れる「伝統的」な祝辞と違って、混沌とした闇に一条の光が差し込むような心に響くメッセージだと思う。ただ、この祝辞のある部分がちょっと物議をかもしたようである。問題のパラグラフがこれだ。
管長様にこの言葉の真意を問うた訳ではないので、これは私の感じ方に過ぎないと思って聞いてください。管長様の言わんとすることは、こういうことではないでしょうか?例えば「ロシア」という国を悪者にすることは簡単である。けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?誤解を恐れずに言うと「悪」を存在させることで、私は安心していないだろうか?人間は弱い生き物です。だからこそ、つながりあって、とある国家に属してその中で生かされているともいえます。そうして自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要があるのです。そうすることで、自らの中に自制心を持って、それを拒否することを選択したいと想います。
この前半部だけ読むと、ロシアの「正義」を容認かつ普遍化しているようにも読めるところが危うい。確かに絶対的な正義というものは存在しないが、かと言って何でもかんでも相対化すれば良いわけでもない。ゼレンスキー大統領がNATOに秋波を送ったせいでプーチン大統領がキレたのだからウクライナも悪い、というような正義の相対化をはかる人が日本の政治家の中にもいる。しかしこの理屈は「あいつがガンつけたから殴った」とか「いじめられっ子にも問題がある」というのと大して変わらず、そこに見るべき正義はない。

ただ河瀨さんが言いたかったのは、たぶんそういうことではない。「あいつらが悪い」は「私たちは正しい」と常に表裏一体で、その二極化に思考停止してしまうと社会は暴走しかねない。河瀨さんの祝辞のなかで、彼女が金峯山寺を訪れ管長と言葉を交わした出来事が語られる。
この管長さんが蔵王堂を去る間際にそっとつぶやいた言葉を私は逃しませんでした。 「僕は、この中であれらの国の名前を言わへんようにしとんや」 金峯山寺には役行者様が鬼を諭して弟子にし、その後も大峰の深い山を共に修行をして歩いた歴史が残っています。節分には「福はウチ、鬼もウチ」という掛け声で、鬼を外へ追いやらないのです。この考え方を千年以上続けている吉野の山深い里の人々の精神性に改めて敬意を抱いています。
このあと、上に引用した箇所につながる。人の心には善と悪が共に棲んでいて、己の悪にも怯まず向き合えと諭す話とも読める。思うに、河瀨さんはプーチン大統領が語る「神話」を信じ続けるロシアの人々の心について触れるべきだったのではないか。彼らこそ、「自分たちの国がどこかの国を侵攻する」事実と向き合う機会と勇気を、まさに現在進行形で迫られているのだから。

私たちが対立する世界のどちら側に付くのか、それは好むと好まざるに関わらず歴史の成り行きに翻弄される。二つの世界を隔てる壁は、思いのほか脆い。

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眼鏡店とラーメン屋 [社会]

megane_case.png私は長年のコンタクトレンズ愛用者だったが、老眼が看過できなくなった4年ほど前から眼鏡に切り替えた。もともと近眼に加え乱視もひどいので、近視矯正+乱視矯正+遠近両用をすべてコンタクトに託すのが難しくなったのである。

ときどき眼鏡の購入店に足を運んで調整をお願いする。そのたびに思うのだが、眼鏡店ってどうやって経営が成立しているんだろう。眼鏡は安い買い物ではないが、使い捨てコンタクトレンズと違って一度買ったら何年も買い換えない。調整やクリーニング程度のアフターケアは無料なので、車のディーラーのように車検や定期点検で稼ぐわけでもない。検眼の設備など初期投資はバカにならなさそうだし、どの店も数人の店員が常駐しているので人件費もそこそこかかっているはずだ。めったに買わないアイテムばかりを売る店が、どうやって利益を出しているのか?

ざっと調べてみると、眼鏡の原価率は30%か40%あたりがふつうのようだ。一般の小売店の原価率が50%~75%ということなので、それに比べると眼鏡販売の利益率は高く、30~40%という数値はむしろ飲食店の原価率に近い。仮に眼鏡店が3万円のメガネを一日2本売るとすれば、原価率30%として粗利益は4万2千円となる。一日4万円ちょっとで大丈夫か、と素人目に心配になる。しかし計算上は、ラーメン屋が一食600円のラーメンを一日100食売るのと同じくらいの粗利益である。濡れ手に粟には遠いが、なんとかなりそうな気がしてきた。諸経費のかかり方が違うので営業利益は単純に比較できないが、眼鏡屋のビジネスは小売店よりむしろラーメン屋に近いということか。

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台風の名前 [科学・技術]

taifuu_top.png台風1号が発生したそうだ。気象庁は国内向けには台風を通し番号で呼ぶが、国際的には台風に名前を振る別のルールがある。小惑星のように、発見者が好きなように命名して良いわけではない。台風(北西太平洋・南シナ海で一定程度以上に発達した熱帯低気圧)については140個の命名候補があらかじめリスト化されていて、発生順に名前を振っていく。このリストは、周辺14か国が各々の言語から10ずつチョイスした単語で成立している。日本からは「こいぬ」「やぎ」「うさぎ」「かじき」「こと」「くじら」「こぐま」「コンパス」「とかげ」「やまねこ」がエントリーしている。このラインナップでピンと来た人もいるかもしれないが、いずれも星座の名前から取られている。脈絡はないが、深い意味がないからこそニュートラルで良いのだそうだ。リストの全貌は気象庁のサイトで見ることができる。

個性豊かなアジア名があるのに、国内向けにはなぜ無味乾燥な番号制なのか?台風「こぐま」とか、やんちゃそうで可愛いではないか。『超大型で猛烈な台風「こいぬ」に警戒して下さい』と言われると、ギャップ萌えで悶絶しそうである。もっとも140個のうち130は外国語なので、多くの場合は語感に馴染みが薄い。ちなみに、発生したての今年の一号は台風「マラカス」である。楽器のmaracasではなくて、タガログ語で「強い」を意味するmalakasだそうだ。国際的な論文誌などで発表する際は、日本人研究者も番号ではなく国際名を使う。

台風の名称は、以前は英語の人名が使われていた(上記のアジア名が使われ始めたのは思いのほか最近で2000年のことである)。アメリカでは今もハリケーンに人名を充てる。こちらも名称リストが定められていて、今年大西洋・カリブ海域で発生するハリケーンは「Alex」「Bonnie」「Colin」「Daniel」と続く。頭文字がアルファベット順で男女交互に並び、毎年リセットされる。これが6セット用意されているので6年で一巡することになる。東太平洋と中央太平洋で発生するハリケーンは、ルールの基本は同じだがリストは別に用意されている。中央太平洋版は西洋名ではなくハワイの伝統的な人名で構成されているそうだ。昔は女性名だけだったハリケーンが男女同数に変わったこととか、時代の変化に応じてポリティカルコレクトネスへの配慮に苦心した形跡が感じられ面白い。

ハリケーン名の頭文字は、QとかUとかあまり使われない5文字を除いた21字を用いる。しかし2020年はハリケーンの当たり年で、ストックが足りなくなった。そんな時はギリシャ文字(Alpha、Beta、・・・)を充てるのが旧来のルールだったが、EtaとかIotaとか発音が似ていて紛らわしくいろいろ不都合が生じたようである。2021年からは新ルールが導入され、22番目以降のため予備の人名リストが追加された。なおKatrinaのようにとりわけ甚大な被害をもたらしたハリケーン名は、リストから永久に除外される。この対応は台風のアジア名も同じで、固有名詞がまとう心理的影響力の強さを暗に物語っている。

ハリケーンの名前に絡む心理学的バイアスについて、2014年にちょっと面白い論文が米国科学アカデミー紀要に出た。女性名のハリケーンは男性名のハリケーンより甚大な人的被害をもたらす傾向にある、というのである。男性名だとハリケーンをより威嚇的に感じ速やかな避難行動を起こすが、女性名が付くと安心感が出て逃げ遅れがち、という解釈をこの論文は試みる。アンケート調査によれば確かに男性名のハリケーンにより強い危機感を覚える人が多く、中でも(調査の選択肢中で)一番脅威を与えた名前はオマールであった。アラブ系の名に最も恐怖を感じるのが現代アメリカ心理の深層だとすれば、それはそれで微妙な後味の話ではある。

この論文が正しいなら、台風「こいぬ」はそのほのぼの感ゆえに多くの犠牲者を出しかねないことになる。日本で台風が当たり障りのない通番で呼ばれているのは、防災の見地から合理的ということか。

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ある州知事の物語 [海外文化]

今回の記事は、旧シリーズ『コロラドの☆は歌うか』からの転載である。旧サイト運用で利用していたSo-netの「U-Page+」サービスが終了してしまったので、今後折に触れこのブログで少しずつ復刻掲載しようと考えている(単なるネタ切れ対策ではというご指摘は聞かなったことにする)。
戦時の困難な情勢にあって、社会に立ち込める憎悪に一人立ち向かい信念を貫いた政治家の物語である。これを書いた2004年はイラク戦争が混迷を深めつつあった時期であり、当時のきな臭い閉塞感が今日の状況と少し重なる。



コロラド・スプリングスから西に車で一時間ほど入った山間部に、クリップル・クリークという小さな町がある。現在では数軒のカジノが表通りに並ぶこじんまりとした歓楽街に過ぎないが、かつて金鉱を中心に栄えたゴールド・ラッシュの名残をかろうじて留めている。

当時の熱気がまだ余韻を引いていた20世紀初頭のクリップル・クリークに、ラルフ・ローレンス・カーという一人の少年がいた。当時の彼について知る手がかりは、今では全く残っていない。しかし、若き日のラルフがこの町で経験した何かが、やがて彼を類い稀な州知事へと導く礎を築くことになる。
小さな町で育った私は、そこで人種偏見の憎悪がもたらす恥と不名誉を知りました。成長するにつれ、私は人種偏見を軽蔑するようになりました。なぜならそれは結局私たち全員の幸福を脅かすからです。

コロラド大学を卒業したラルフ・カーは弁護士としてキャリアを踏み出した。行政機関の顧問弁護士を歴任した後、1939年コロラド州知事選に共和党の候補者として出馬する。民主党主導で全国を席巻していたニューディール旋風の中、彼は逆風に立ち向かい見事当選した。州知事としてラルフは行政機構の立て直しを指揮し、官僚システムの効率化に貢献した数少ないコロラド州知事の一人として認められた。が、それは彼が残すことになる偉業のほんの一部に過ぎない。

1941年12月、日本軍の真珠湾攻撃を機に太平洋戦争が勃発し、たちまち激しい反日感情が全米を揺るがした。ところが真珠湾攻撃の早3日後、ラルフ・カー州知事はラジオで公然と日系アメリカ人を擁護した。
仲間や国家に対する想いの強さを、祖先のルーツがどこかという理由で決め付けてはいけません。
連邦政府は西海岸に住んでいた日系人の土地や財産を没収し、強制収容所へ移住を命じたが、ラルフは日系人を捕虜のように扱うことにきっぱりと反対した。コロラドに住む日系人に対する制裁措置は一切認めようとしなかった。また連邦政府が内陸部の10州に収容所の用地提供を働きかけたとき、その要請を積極的に受諾した唯一の州がコロラドだった。他州が軒並み日系人を締め出そうとしていた最中、ラルフだけが進んで彼らに門戸を開いたのである。

fence.png日系人に対するバッシングはコロラドにおいても例外ではなかった。ハイウエイ沿いには「ジャップは出ていけ」と書かれた看板が並んだ。そんな世相の中、ラルフ・カー州知事の姿勢は人々の反発と困惑を招いたが、彼は自分の信条をいささかたりとも曲げなかった。ラルフは、あらゆる日系人は他のアメリカ市民と同様の権利を保証されるべきだと繰り返し主張した。西海岸で土地と財産を奪われた日系人を受け入れるべくコロラド州南東部に建設された収容所は、当時の状況が許す範囲で住人の尊厳が認められていたという。
収容所に一人、隔離政策のためカリフォルニア大学を道半ばで諦めて来た女性がいた。ラルフは彼女を自宅で家政婦として雇い、彼女はその傍らデンバー大学で学位を取ることができた。彼女が卒業していくと、彼は収容所にいた別の日系人を雇った。

ラルフの隣人は、同じ屋根の下に日本人を迎え入れてどうして安眠できるのかと首をひねったが、ラルフにとって敵国人種の肌の色は何ら脅威ではなかった。「黄禍」を恐れなかった彼は、同時に世論から孤立する政治的リスクにも動じなかった。
もし私を正しいと思うなら、日系人を迫害するのはやめることです。もし私が間違っていると考えるなら、次の選挙で私を葬り去るがいいでしょう。
だが深まりゆく戦争の影の中で、人々の取った選択肢は明白だった。上院選に立候補したラルフは、日系人の排斥を主張したエド・ジョンソンに大敗を喫する。ラルフは人々を憎悪と差別に駆り立てた時代の狂気に一人で立ち向かい、敗れた。州知事就任からたった4年で政界から退いた彼は、その後二度と表舞台に返り咲くことはなかった。
1945年に終戦を迎え、コロラドの収容所にいた日系人は次々と西海岸に帰って行った。同年10月、その最後の一人がゲートを後にすると同時に収容所は閉鎖され、忌まわしい戦争と弾圧の記憶とともに永遠に封印された。

ラルフ・カーは一貫して日系人の市民権を擁護し続け、その引き換えに政界と人々の記憶から消し去られた。だが、コロラドに住む日系人は彼と彼の功績を決して忘れなかった。1976年、ラルフ・カーの胸像がデンバー・ダウンタウンの一角に立てられた。ダウンタウンの北のはずれ、サクラ・スクエアと呼ばれる小さな日本人街の中ほどで、ラルフの像はうつろいゆく時代の空気を今も静かに見据えている。

※初出『コロラドの☆は歌うか』2004年8月13日付

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ウィル・スミスのビンタ問題 [海外文化]

figure_oufuku_binta.pngウィル・スミスがアカデミー賞表彰式の場でクリス・ロックにビンタを食らわせ騒動になった。ロックがスミスの妻ジェイダの短髪をネタにしたことに怒りを爆発させたということである。ジェイダ・ピンケット・スミスは脱毛症を患っていたことをインスタ等で公表していた。ウィル・スミスへの同情論と、理由はなんであれ暴力に弁解の余地はないという批判が交差し、賛否両論が盛り上がっている。

同情論はクリス・ロックへの批判の裏返しである。コメディアンなのだから際どいジョークで笑いを取るのは仕事のうちだが、とは言え病気で頭髪を失った人の容姿をからかうのは許されるのか?お笑いに求めるOKとNGの線引きには、個人の価値観はもちろん文化的な受容度の違いもある。英国コメディ界のヒーローMr. Beanは老人や病人も容赦なくイジるので、日本人の感覚ではほぼ放送禁止レベルかと思われるような危ないネタもある。とは言え、スミスを刺激したクリス・ロックのジョークはアメリカでも好意的には受け止められていないようである。確信犯で笑いを取ったのなら下衆な話だが、そもそも彼はピンケット・スミスの脱毛症を知らなかったという話もある。

ウィル・スミスへ批判的な意見の方は、単に暴力反対というほかにいくつか別の観点があるようだ。愛する妻を侮辱され腹を据えかねた、というシナリオは同情論を煽る反面、その直情的な思考回路そのものを疑問視する論者も少なくない。スミスの行為を男性=庇護者という時代遅れのマッチョ社会観と見るフェミニズム的批判があれば、黒人と暴力が結び付けられがちな人種偏見をスミス自ら助長したと指摘する人もいる。ハリウッドの頂点を極める大スターが「格下」のコメディアンを公衆の面前で叩いたという事実も後味が悪い。平手打ちの被害そのものより、「あのウィル・スミス」が「あの流れ」でやらかしたが故に図らずも浮かび上がったメッセージ性にいろいろ物申したい人が多いようである。

クリス・ロックが問題のジョークをかましたとき、気丈ながら傷ついた表情を隠しきれない妻ジェイダの隣で、普通に笑っているウィル・スミスの映像が残っている。その直後に彼は立ち上がってビンタしに行き、席に戻った後も大声で悪態をついた。あれは本当にクリス・ロックへの純粋な怒りだったのか?それとも、つい笑ってしまった己の失態を大袈裟なパフォーマンスで取り繕いたかったのか?本来ウィル・スミスが取るべきだった態度は、ロックのネタにニコリともせず、黙って妻の手を握ることではなかったのか。あの出来事の直後、デンゼル・ワシントンがウィル・スミスを諭した言葉が「気をつけた方がいい。最高の瞬間にこそ悪魔は忍び寄ってくる。」だったと言う(しびれるセリフだ)。あのときウィル・スミスに取りついた悪魔とは、強すぎる家族愛が冷静な判断を曇らせたことだったのか、それとも本人が標榜するほどには強くなかった愛を妻に見透かされる恐怖だったのか。

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