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カメを助けるカメ [動物]

speed_slow_turtle.pngひっくり返ってジタバタするゾウガメを見かねて、別種のカメが2匹応援にやって来る。そんな奇跡のようなTwitter動画を見た(ここ)。応援といってもカメがやることなので、不器用にグイグイと押すばかりで効率は悪いが、その一途さがかえっていじらしい。

それにしても驚くべき行動である。野生動物の利他的行動そのものは知られているとは言え、ふつうは同種間に限られるはずだ(そうでないとどう捻っても進化論的な説明がつかない)。自分より一回り図体の大きい「よそ様」のために敢えて奮闘したカメの真意は何か。何らかの本能の誤動作なのか、それともたまたま通り道にゾウガメが転倒していて邪魔だったのか?しかし駆けつけたカメの行動はゾウガメが定姿勢をリカバーするまで一貫していて、偶然とは考え難い。やはり救助の意志をもって駆け付けたのだと思いたい。

ウクライナ東部でロシア軍の侵攻が激化しており、ますます泥沼化の様相を呈している。カメはカメを助け、人は人を殺す。長い進化の歴史の中で、人類はどこで何を間違えたのだろう。

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誤送金問題の余波 [その他]

山口県阿武町の誤送金問題がいろいろ不可解である。町役場は463世帯に各10万円のコロナ給付金を振り込み終えてから、総額4630万円を丸ごと一人の口座に別途送金するという理解不能なミスを犯した。その送金先がよりによって実に厄介な男で、町の返還要請を拒否してオンラインカジノにつぎ込むというあり得ない展開に発展する。ところが、ネットカジノの決済代行業者のほうが何も言わず男のつぎ込んだ総額を町に送り返してきた。事実は小説より奇なり、を地で行くような話である。

casino_chip.pngオンラインカジノなるものをやったことがないのでその仕組みをよく理解していないが、カジノの経営母体は海外にある。所在国の法律に沿って合法的に運営されている会社もたくさんあるそうだが、日本国内から海外のネットカジノを利用することが日本の賭博法に照らして違法性はないのか、人によって言うことが違う。必然的に決済代行業もグレーなビジネスのようで、阿武町の弁護士はそのあたりの弱みを巧妙に突いて業者から金を取り戻したと報道されている。もともとは町側の失態なのだから、この案件に関する限りカジノ代行業者に非があるとは思えないが、下手に法廷闘争に持ち込んで芋づる式に墓穴を掘るよりは、泥をかぶってでもさっさと手を打ちたい。そんな業者の本音が見透かされていたということだ。

実際のところ代行業者がどのくらい自腹を切ったのか、その詳細は(少なくとも今のところは)表に出ていない。ふつうのカジノでテーブルゲームをやるときに現金をチップに替えて賭けるのと同じで、ネットカジノでは代行業者にまずデポジットするようである。例の男はある業者に3500万円ほどデポしたという話だが、そのうちどれくらい既に消費したのかわからない。本人は全額「使った」と証言し、彼の弁護士は(やや奥歯に物の挟まった言い方で)それを全額スッたと解釈したようだが、当人は代行業者に入金したことを「使った」と表現しただけかもしれない。本当に3500万の大半をスッていたのなら代行業者がかなりの大金を肩代わりしたことになるが、それすら手切れ金として必要経費という相場感だったのであれば、それだけこの業界の闇は深いということか。

一方、今回の顛末が日本全国でオンラインカジノとやらへの興味を喚起した一面は否定できない。実際に試してみる人も出てくるかもしれない。業界の市場規模は見当もつかないが、メディアが勝手に宣伝してくれる広告費と思えば、決済代行業者は3500万円くらい喜んで払うということかもしれない。東京キー局のテレビCM放映料は15秒あたり数十万から百万円が相場ということで、連日各局こぞって報道番組やワイドショーでネットカジノの話を丁寧に掘り下げていることを思えば、充分に元を取れているのではないか。

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顔パンツ [社会]

mask_summer_hinyari_woman.pngマスク着用のほうが気持ちが落ち着く若者たちについて以前取り上げた(マスク美人と伊達マスク)。でもポストコロナへの出口戦略に逆らい頑なにマスクを外したくない人が抱える心の深層は、「気持ちが落ち着く」程度の生易しいものではないのかもしれない。マスクをしないとパンツを履いていないみたいな羞恥心に悩まされるとかで、顔パンツなる言葉が聞かれるようになった。今年の流行語大賞にエントリーしてしまうのではないか。

コロナになってから顔の下半分はメイクしなくなった、とはよく聞く話だが、メイクの手間が省けて楽という実用性の問題だけでなくて、マスク込みで顔を仕上げるパッケージが過去2年の間に完成されてしまったということかもしれない。新しい知人はマスク抜きの顔をお互い知らないから、マスクを外すと今まで見せたことのないすっぴんを他人に晒すような不安に襲われるのだろうか。身近な女性に本音を聞いてみたい気もするが、ややデリケートな話題なのでその勇気が出ない。

若い世代ほど、マスク顔しか知らない相手にカミングアウトするストレスに悩まされるようである。若者たちは、クラス替えや卒業・入学はもちろん、社会人になっても交友範囲が流動的で、コロナ後に知り合った友達も多い。一方、歳をとると職場もプライベートも生活圏が固定されている。周囲はコロナ前から互いに見慣れている人ばかりだし、そもそも50のオッサンになると自分の面構えが殺風景だろうがもはやどうでも良い。多感な年ごろの子たちはそうは割り切れないに違いない。

新型コロナが季節性のウイルスとなって「収束」したあと、顔パンツを脱げないナイーブな若者たちは果たしてどうするのだろう。時間が経つほど身の回りはますますマスク下の素顔を知らない人ばかり増えるから、下手をすれば一生カミングアウトの機会を失う。歳を重ねてコンプレックスやプライドがすっかり摩耗した頃、ようやく素顔解禁の決心が着くのだろうか。

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ボタン、ボタン [文学]

war_bakuha_switch_off.png米国SF界の巨匠リチャード・マシスンが1970年に発表した『Button, Button』という短編がある。SFというよりむしろホラーに近い。ある夫婦のもとに不可解な小包が届く。中身は、押しボタンが一つあるだけの奇妙な装置だ。すぐにスチュワードと名乗るセールスマン風の男が夫婦を訪れ、このボタンを押すと大金(5万ドル)が贈られるが、代償として世界のどこかで知らない誰かが死ぬ、と説明する。

謎の装置を巡る夫婦の会話が、物語の大半を占める。半信半疑ながら大金の誘惑にまんざらでもない妻は、見知らぬ他人の命と引き換えに幸福を手にする疚しさを遠回しに正当化しようとする。そんな彼女の独白を冷めた態度で聞き流す夫。嚙み合わない会話の落としどころが見つからないまま、妻は家で独りになったある平日、こっそりボタンを押す。そしてまもなく家の電話が鳴る。

最近ロシアの「核のボタン」を巡る懸念をメディアで耳にしない日はない。マシスンのボタンは、ある意味で核のボタンと似ている。仮に一国の指導者が核のボタンを押すことがあるとすれば、それは自国にとって何らかの利益になると考えるからであり、そしてその「利益」は他国の市民の多大な犠牲の上に成立する。冷戦が終結して久しい今そんな暴挙に出る者はいない、と世界は楽観的に望みをつないできた。でもその希望が再び揺らぎつつある。

電話に出た妻は、仕事帰りの夫が地下鉄事故で死亡したことを知らされる。そして、夫にかけた生命保険金が5万ドルであったことに思い至る。その直後に電話をかけて来たスチュワードに、妻は「死ぬのは知らない人だってあなた言ったじゃない!」と怒りをぶつける。するとスチュワードは答える。
「奥様。ご主人のことをご存じだったと、あなたは本当に思っておられるのですか?」
ここで物語は唐突に終わる。

『Button, Button』はあまり若いうちに読んでもピンとこないかもしれない。しかし夫婦の乾いた会話劇にリアリティを感じる年齢になってから読み返すと、スチュワードの決め台詞に背筋が冷える。それはまた、核のボタンに指をかける誰かの深い孤立と愚かしさを暗示しているようでもある。

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違和感 [社会]

pose_taiiku_suwari_back_man.png渡辺裕之さんに上島竜兵さんと芸能人の予期せぬ訃報が続いた。テレビ番組がこの話を取り上げると、どの局も最後に「どうか一人で悩まないでください。相談先の電話番号は・・・」という決まり文句で話を閉じる。潜在的に自殺願望を抱える視聴者を思い止まらせる効果があるなら、それはそれでいいのだが、どこか喉元に刺さった小骨のような違和感が拭えない。その違和感の理由をずっと考えている。

自ら命を絶つからにはきっと重い事情があったにちがいない、と私たちは考える。経済的困窮とか人間関係とか、明白な要因がある場合も多いだろう。裏を返せば、目前の悩みが解決されれば自殺は防げる、本来なら人生は生きるに値するはずだという価値観の前提がある。一方で(きっかけは何であれ)人生そのものの疲労感や空虚感にもがいている人もいる。理由のない苦しさと人知れず戦う彼らに寄り添うことと、業務連絡のように「いのちの電話」の番号を告知することが、どうしても噛み合わない。疲れたからもう休みたいという人に、どうして疲れたのか相談してみなさい、と諭すことが救いになるだろうか。

ワイドショーで故人の思い出や逸話を振り返るのはいいのだが、悲劇をネタに感動を切り売りするメディアの習性にどことなく居心地悪く感じる人は少なくないのではないか。おそらくメディアに出ている側も少々きまりが悪いのでは、と先日ふと思った。彼らが取って付けたように電話相談を勧める様子が、見え透いた免罪符のように見えたのである。そんなモヤッと感もまた違和感の遠因のような気がする。

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研究の旬 [科学・技術]

jigsaw_puzzle.png研究はある意味で、正解があるかわからないパズルを解くようなものだ。初めにある程度予想は立てるが、ジグゾーパズルのピースがそこそこ埋まるまでどんな絵が現れるかわからない。そもそも絵らしい絵にたどり着かないかもしれないし、ピタリと嵌るピースがどうしても見つからないこともある。それでも、少しずつ空白が埋まっていく研究の日常は、ささやかな発見の喜びがそこかしこに潜んでいる。

だが、ある程度パズルの全体像が見えてきたら、研究のフェーズが変わる。試行錯誤で形の合うピースを探す地道な労働は、そこから立ち現れる完成図のデッサンを推敲する芸術家のような作業にとって代わる。つまり、データを収集したり解析する分析(analysis)プロセスから、論文の構成を考え分析結果を明快なメッセージに昇華させる統合(synthesis)プロセスに移行する。分析と統合の両輪が揃ってはじめて、研究は科学コミュニティと共有可能な「作品」として完成する。

博士(後期)過程の学生と話をするとき、私はよく研究は「生もの」だと説く。手当たり次第にパズルのピースを少しずつ嵌めていく作業は、永遠に小さな達成感に浸り続けることができる。だがこの充足感は危険な誘惑で、「生もの」は旬を過ぎると少しずつ傷んでいく。傷まないうちにパズルの絵を完成できないと、自分で自分のやっていることに飽きてくる。マイブームが冷める前に旬のネタを論文に料理する手際は、研究者にとって最も大事な能力の一つと言っても過言ではない。貴重な食材を調理できず腐らせてしまった(または腐る寸前まで行った)例を、周囲にいくつも見てきた。

コロナ禍で出張が消滅した2年間を逆手にとり、オフィスで集中できる時間をとことん投資し専門書を一冊仕上げた。無事に出版に漕ぎつけたはいいが、本の執筆に夢中ですっかり後回しになっていた2年前の研究ネタが亡霊のように視野の片隅でチラつく。すっかり旬の過ぎた題材を料理する作業は、今一つ上がらないモチベーションとの戦いだ。幸いようやく論文脱稿の目処が立ったからよいものの、いつも若手に説いていた教訓が自分自身に跳ね返ってきたわけである。

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水際対策の科学 [科学・技術]

chakuriku_airplane.png岸田総理がコロナ水際対策のさらなる緩和を予告した。すでに留学生やビジネス目的の入国者について制限の撤廃が始まっており、丸一年間本国で足止めを食らっていた私の研究室の留学生(以前書いた)もようやく先月入国を果たすことができた。一方、観光目的の外国人は今なお日本への入国を許されていない。これが今後段階的に緩和されていくようである。

もっか日本政府が観光客とビジネス関係者を区別するしくみは、入国者の行動・健康管理に責任を持つ国内組織があるかどうかである(留学生の場合はもちろん在籍する大学等が該当する)。入国許可を申請するには、受け入れ組織はそれなりに面倒な書類決済を引き受けないといけない。だから学会参加のため海外研究者が来日したいと思っても、ホスト機関が特別な労を取って許可を取り付けてくれない限り、制度上は「観光目的」となり実現は難しい。

欧米諸国の多くは、観光客を含め往来を原則解禁している。アメリカの場合、出発前一日以内の陰性証明が必須で、さらに外国人は原則ワクチン接種済みが要件となるが、これをクリアすれば観光客も自由に入れる。ヨーロッパでは、ワクチン完了者にはウイルス検査を求めないのが標準になりつつあるようだ。日本はひと手間多くて、出発72時間以内の陰性証明に加え日本到着時の空港内でさらに検査がある。検査結果待ちの列が停滞するとかなり長時間空港で足止めされるケースもあり、経験者には評判が悪いようである。この入国時検査が近く廃止されるのではないかと勝手に予想(期待)している。

理屈の上では、日本国内の感染率(人口当たり新規感染者数)より入国者の感染率のほうが低ければ、海外から持ち込まれるウイルスが日本の感染状況を悪化させるとは考えにくい。具体的には、Σ(入国者数の国別比率)×(各国の平均感染率)×(ワクチンのブレイクスルー率 and/or 入国前検査の見逃し率)のような数値を国内の市中感染率と比較すれば良さそうだ。直近のデータでは、英国や米国の感染率は日本国内の数値とほとんど変わらない(アメリカは2月中旬くらいからずっと日本の数値を下回っていた)。フランスやドイツなどはまだ人口当たりの感染者数が日本の数倍ほどあるので、入国者にワクチンないし事前検査の義務を課す措置は当面は継続せざるを得ないだろうか。

ゼロコロナ政策がまともな解決をもたらさないことは、上海のロックダウンが証明している。ウイルスは必ず入ってくることを前提に、水際でどの程度の「水漏れ」を許容するかという計算が必要だ。感染状況は日々増減するので継続的なモニタリングは必要だが、せっかく正常化に向かう決心をしたついでに政府はそのくらいのデータ分析はやっても損はなかろう。

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日本人の幸福度 [社会]

2020年9月に公表されたユニセフの報告書『レポートカード16-子どもたちに影響する世界:先進国の子どもの幸福度を形作るものは何か(原題:Worlds of Influence: Understanding what shapes child well-being in rich countries)』が面白い(ユニセフのサイト)。身体的健康・精神的幸福度・スキルという3つの観点から国ごとに子供の幸福度を調査した報告書で、日本は身体的健康で堂々の1位を獲得している(とりわけ肥満度が他国より群を抜いて低い)。対照的に、精神的幸福度では38か国中37位という顕著に低い結果が出た。「スキル」は数学・読解力という学力面に加え、すぐに友達ができるかといった社会的スキルも含めた指標である。日本は学力で5位、社会的スキルでは下から2番目とこちらも大きく割れた。

pose_makasenasai_boy.png精神的幸福度は「生活満足度が高い15歳の割合」と「15~19歳の自殺率」の2項目が基準で、日本の場合とくに前者のスコアが低い。健康値がトップなのに心理的な充足度が最低値に近い理由として、日本の若者は自己肯定感が低いと分析されることが多いようである。いろいろな要因が背景にあると思うが、自己主張が歓迎されない日本社会で自分をあけすけに肯定する「ダサさ」が敬遠されがちという側面もあるかもしれない。仮に幸福度の肌感覚が同じくらいでも、大いに盛って「幸福です」と言い切るのか、遠慮がちに「そうでもないです」と答えるか、それ自体が文化的な美学を反映するから単純に同じ設問の回答を突き合わせ比較はできない。

自己肯定感に満ち溢れていればそれで良いのか、という疑問もある。自己肯定感は高く幸せそうだが現状満足型でなかなか伸びない子とか、逆にいつも自己否定的で辛そうだがそれがモチベーションになってがむしゃらに結果を出す子とか、職業柄いろいろなタイプの若者を目にする。ひたすら幸福に生きたいのであれば無限に自己肯定的であるのが一番と思うが、腹をくくって一仕事を成し遂げようと思うとある程度自虐的な性格要素がないと本当の意味で成長しない。たぶんそのバランスを上手に工夫できる人が成功するのであって、単に精神的幸福度が高ければ理想的というわけでもない。人生哲学は下手にバラ色に塗り固めるより、あれこれ悩みながらまだら模様に仕上げる方が、長い目で見れば正解なんじゃないかと思う。

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馬はなぜ走る [動物]

20世紀初頭のドイツに、ハンスという賢馬がいた。どう賢いかと言うと、算数ができるのである。飼い主が出題する簡単な計算問題に、蹄で地面を打ちその回数で正答を繰り出す。トリックらしいトリックが一切見当たらず評判が評判を呼んだが、ついにフングストという心理学者が謎を解いた。蹄が正答数を叩いた瞬間に人間のわずかな所作が醸し出す微妙な雰囲気の変化を、ハンスは敏感に察知していたのだ。飼い主や観衆には出題内容がわからないように実験すると、ハンスはとたんに正答できなくなったのである。群れで暮らす本能が染みついた馬にとって、空気を読む能力はまさに「動物的な勘」の一部というわけだ。

sports_keiba.png競馬の馬はなぜ走るのか、という永遠のテーマがある。鞭で追い立てられているから無理やり走っているのか、それとも本気で仲間を出し抜こうと競っているのか。実際のところは、そのどちらでもないようである。馬が本気で走るのは、本来なら肉食獣の追跡から逃れる時だ。群れの最後尾にいると追いつかれて襲われるリスクが高いから、後れを取らないよう必死で走る。競馬の場合、現実には存在しない捕食者に追われる状況がむりやり演出される。JRA広報誌のコラムによれば、馬はレースに出るのを単に仕事と捉えているのではないか、ということである。「今日もシフトが入ってるのか、しょうがねえ走るぞ」みたいな気分なのか。

つい先日の天皇賞、スタート直後に騎手が落馬しカラ馬となったシルヴァーソニックが、そのまま快走し2位でゴールした。もちろん記録に順位は残らないが、3キロを超えるG1レース最長の長丁場を自らの意志で走り抜いたわけだ。上司の目がないと何となく仕事の手を抜きたくなるのが人間の本音だとすれば、騎手抜きでも本気で完走し2位に食い込むとは見上げた心意気である。ゴール後は勢い余ったか、柵に足を取られて転倒した。真面目過ぎて不器用な実直さが愛おしい。

もちろん、シルヴァーソニックの本心は誰にもわからない。騎手も馬も大事に至らず良かったが、ハンスの時代から変わらぬ馬という動物の繊細さと奥深さを改めて感じるハプニングであった。

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