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さんぽセル [社会]

さんぽセルという商品が話題を呼んでいる。ランドセルに装着するキャスター付きの伸縮式器具で、伸ばせば重いランドセルをキャリーケースのように引くことができ、縮めると普通のランドセルに戻る。小学生のアイディアをもとに開発・商品化されたが、これにネットでバッシングが相次いだことで賛否両論を巻き起こした。大人の子供じみた批判に子供が大人びた反論を展開した顛末が、あちこちで紹介されている。

school_textbook_omoi_girl.pngさんぽセル開発の背景には、そもそもランドセルが子供には重すぎるという問題提起がある。私自身は、小学生の頃ランドセルが重くて大変だったという記憶はあまりない。そういうものだと思って気にしなかっただけかもしれないが、以前より今の小学生の方が物理的に重いランドセルを背負わされているのは事実のようだ。小学校の教科書のページ数は、平成の中盤から後半にかけて顕著に増えている(文科省資料)。ゆとり教育が終わったことと関係しているのかと思うが、近年さらにページ数が増したという情報もあり、ランドセルは重くなる一方だ。薪を背負って勉強していた二宮金次郎も大変だったが、今の小学生もそれに匹敵する肉体的負担を強いられているのではないか。

ペーパーレス化が進む世相とうらはらに、教科書は相変わらず紙媒体のままだ。コロナ禍の2年間で、学校教育でのタブレット活用が進んだのではなかったか。ふつうに普及しているIT技術を上手に活用すれば、教科書はむしろ大幅に軽くできるはずで、ますます分厚くなる理由がわからない。初等教育現場でもデジタル化とかSDGsとか教えているはずと思うが、未来を担う世代を育てるはずの小学校で、教材そのものが時代から完全に取り残されているのは残念というほかない。

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個人情報の話 [社会]

尼崎市全市民の個人情報が入ったUSBメモリを委託業者の関係社員が紛失するという「事件」が起きた。泥酔して路上に寝ている間に、カバンごと失くしたということである。後日スマホの位置情報から無事に回収できたそうだが、なぜ見も知らぬ私有地内にカバンが放置されていたのか本人は記憶がないという。学生のころ飲むと気持ちよさそうに路上に寝てしまう友人がいたが、件の人物はそれなりに責任ある仕事を請け負っている社会人である。会見では関係者がパスワードの桁数を明かしてしまうという珍事も起きた。いろいろと残念な事件である。

kojinjouhou_rouei_businessman.png個人情報保護法が成立したのが2003年、全面施行が2005年である。今では厳しい個人情報管理は常識となり、USBを持ち出せる管理体制自体があり得ないと指摘する街の声も聞く。もともとデータプライバシー意識の高まりが法制化の背景にあったと思うが、結果として腫れ物に触るように個人情報を扱う今の状況がより強固なデータ管理を社会に要求する相乗作用が進んでいるようである。もし尼崎の事件が起こったのが20年以上前だったら、ローカルニュースにすらならなかったのではないか。もっとも、当時のデータ媒体で40万人超の個人データを簡単に持ち運べたかどうかは別の話だ。

ただアナログデータしかなかった時代も、個人情報漏洩の問題が皆無だったわけではない。高校の卒業生名簿や卒業アルバムを買い取る業者がいて、決して応じないように、という通知が出身校の同窓会から来たことがある。1990年代だったはずだ。どういう需要があるのか詳しくは知らないが、それを思い出したきっかけはテレビの犯罪報道などで見かける加害者や被害者の「若すぎる」写真だ。近影が見つからなかったのか、とっくに成人している人物なのに卒業アルバムから切り出したと思しき過去の肖像写真をしつこく使い回す。報道関係者が何らかの手段で入手したのだと思うが、あれって個人情報管理としては問題にならないのか?加害者ならまだしも、殺人事件の被害者に了解を取ったはずはあるまい。

メディア側は、公益性云々という弁明を展開するのかもしれない。社会の側に他人のプライバシーを掘り返したがる需要があるということである。自分の個人情報が晒されたくないのと同じくらいの熱量で、他人の個人情報には無関心でいられないのが、人間の業ということなのか。

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どこからでも切れます [その他]

20年ほど前、アメリカで携帯を契約しに行った時の話。スマホ全盛の今から想像もできない無骨なデザインの携帯(ガラケーどころでない旧式の電話)を購入したのだが、初期設定のためプラスチックケースから取り出そうとした若い店員が、ハサミを片手に苦戦を始めた。どういうわけか、とにかくパッケージが開けづらい。「こいつどうしても開けてほしくないのか」と呟きながら大格闘の挙句、ようやく取り出した携帯の周りにはバラバラに崩壊したケースの残骸が無残に散らばっていた。代わりましょうかと途中で口を挟もうとしたが、彼があまりに真剣で言い出せなかった。たぶん私が交代しても結果にたいした違いはなかっただろう。

cooking_pack_tare_syouyu.png日本製品はあらゆる意味で洗練されていて、ふつうパッケージも開けやすいよう随所に工夫されている。ただ、考えすぎて裏目に出た残念な例もある。たとえば、弁当の調味料などを入れる小袋にありがちな「こちら側のどこからでも切れます」というアレだ。表面が乾燥していればいれば問題ない。しかし、ドレッシングとしてサラダに同梱されている場合などは、野菜の水分のせいでツルツルに滑る。どこからでも切れるはずが、どこからも切れない。結局、ハサミを持ち出して自分で切る。私がぶきっちょな事実は否定しないが、不器用な人でも使い勝手がいいものを作るのが発明ではないのか。

昔はこの種の小袋には一か所切れ目が入れてあったはずだ。今もそのタイプは少なくない。それで何の支障もないからである。切れ目をいれず「どこからでも切れる」ようにしてみたところで、何か便利になったか。むしろユーザにひと手間増やしてしまう迷惑を、これを開発したどなかたかは頭をよぎりもしなかったか?「どこからでも切れます」をやめろとは言わないが、せめて緊急脱出装置として切れ目をひとつ入れておいてほしい。

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働かないおじさん [社会]

sleep_gorogoro_ojisan.png働かないおじさん、というワードが静かに話題を呼んでいるらしい。そこそこ高給取りなのに生産性の低い中高年を差して言うようである。勤務時間中に休憩してばかり、PCに向かうと仕事と無関係のネットサーフィンばかり、ITスキルが低くて使えない、その割に周囲には上から目線で威張りくさる。安月給で働き者の若者からとくに評判が悪いようである。

でもたぶん、いろいろな問題が一緒くたになっている。働く気がないのか、それとも働く能力がないのか。本当に働いていないのか、そう見えているだけなのか。中高年だけの問題なのか、あらゆる世代が抱える課題なのか。今の世相に固有の問題なのか、昔からある話なのか。もとを辿れば社会全体の経済的余力の問題ではないか、というのが今日の話だ。

仕事が早くて的確な人がいれば、遅くてダメな人もいる。でも、どんな人も等しく食べていかないといけない。「社会を支える人」よりも「社会が養わなければいけない人」のほうが多いので、その不均衡を埋めるメカニズムがないと社会は回らない。高度成長期の日本は、右肩上がりの経済が不均衡を吸収できた。終身雇用制に守られ、仕事ができる人もできない人も安定した将来が約束されていた。当時だって「働かないおじさん」はそこかしこに潜んでいたに違いないが、誰も気にしていなかったのである。

しかし経済が低迷すると、社会はその余裕を失う。仕事ができる若者とそれほどできない中高年がパイを奪い合う(と若手が感じる)とき、「働かないおじさん」問題が顕在化する。本当にサボっているオジサンは論外として、本人なりにずっと頑張って来たし今も頑張ろうとしている凡庸なおじさんにとって、体力も能力も勝る若手から「お前はなぜ働かないのか」と詰め寄られたとき、職場における自身の「価値」をどう弁護すべきか。社会は本来、実力主義の公平性と年功序列というセーフティーネットを同時に許容しなければならない。だが停滞する経済のもとでは、その矛盾を吸収するのりしろがうまく確保できない。

コロナ禍から急速に経済が回復しつつある世界の中で、日本はいまだに出遅れている。際限なく円安が進んでも、一向にゼロ金利政策から抜け出すことができない。この状況が改善しない限り、「働かないおじさん」は叩かれ続けるのではないか。

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私はロボットではありません [科学・技術]

friends_robot.pngGoogleのサイトなどでログイン情報を入力して送信しようとすると、「私はロボットではありません」というチェックボックスにクリックを求められることがある。たしかに、私はロボットではない。不正アクセスを排除するセキュリティ機能の一部なのはわかるのだが、正直なところ軽い苦手意識がある。

チェックの自己申告だけで済む場合は良いが、ときどきタイル状に写真がいくつも現れて「信号機の画像を全て選択して下さい」のような課題を課される。これが結構むずかしい。明らかに信号機とわかる画もあるが、片隅に写ってるこれもしかして信号か?みたいな微妙な設問も少なくない。しかも小さくぼんやりした画像が多くて老眼の身には敷居が高い。時々クリアに失敗するのはのは私だけだろうか。それとも私はもしかしてロボットだったのか?

人間のふりをするAIを判定しふるい落とすという点で、これは一種のチューリングテストである。深層学習によるパターン認識の能力が上がっていけば、やがてこの程度のフィルターでは不正アクセスをブロックできなくなる日が来るのではないか。いたちごっこで画像テストの難易度がますます上がっていくと、老いて視力も認知能力もおぼつかくなった生身の人間はどんどん脱落するだろう。人間は衰えてロボットと見分けがつかなくなり、進化するAIが画像テストをあっさり突破する。アラン・チューリングは、そんなトホホなシンギュラリティを果たして予見していただろうか?

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ピアノロール [音楽]

omocha_orugooru.pngピアノロールをご存じだろうか?今ではもっぱらDTM用語として使われるが、もともとは自動ピアノの記録媒体として用いられた巻き取り紙のことである。紙上にパンチされた無数の穴の位置が鍵盤の場所とタイミングを制御し、基本的にはオルゴールのシリンダーが回るのと同様の原理で自動演奏を行う。

初期の自動ピアノは19世紀に存在したようだが、本格的に市場を席巻するのは20世紀に入ったころである。ピアノラ(pianola)と呼ばれたりplayer pianoと言われたりしていた。機械が奏でる音楽に何の価値があるのかという当然の疑問はあろう。カート・ヴォネガットの初期作品に『プレイヤー・ピアノ』というディストピア小説があり、自動ピアノは機械が人間の存在価値を駆逐する非情な近未来世界を象徴する。

とは言え自動ピアノをそこそこ愛した音楽家もいた。ストラヴィンスキーが機械演奏を念頭に書いた『ピアノラのための練習曲』という短い曲があり、機械が「練習」をする必要があるのかはともかく、この作曲家の乾いた作風が無機質な自動ピアノと絶妙にマッチしている。人間の手には演奏不可能な曲だが、のちに2台ピアノ版やオーケストラ用の編曲が出て、生身の人間が演奏する機会もある。それなりに面白い曲である。

ピアノロールは当初職人が手作業でパンチしていたそうだが、ピアニストの演奏を直接ロールに記録する技術が開発された。player pianoの対義語か、reproducing pianoと呼ばれることが多い。録音技術がまだまだ未熟であった20世紀初頭、ピアノラがあれば名ピアニストの演奏をいつでも再現できる貴重な記録媒体として人気を博したそうである。ラフマニノフ、スクリャービン、ドビュッシー、ラヴェルほか、当時活躍した錚々たる作曲家・ピアニストがこぞってピアノロールに演奏を残している。とてつもなく貴重な歴史的記録のはずだが、実はピアノロールは客観的な記録媒体としての信憑性は必ずしも保証されていない。

実際に残されたピアノロールを再生すると、技術的に人間業とは考えにくい「上手すぎる」演奏が立ち現れる例が存在する。そもそもピアノロールの記録方法自体が不正確で、適宜修正を入れる職人が必須だったのだが、修正のついでにミスタッチを直したり音を足したりと大いに盛るプロセスが職人技の一部だったのではないか、という話がある。巧妙な加工で仕込まれた動画がフェイクニュースを煽る昨今と同じく、百年前の人たちも当時の最新技術をちゃっかり悪用してフェイクを作りこんでいたのかもしれない。

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和傘と洋傘 [その他]

鳥の翼と蝙蝠の翼は遺伝的には無関係だが、羽ばたいて飛ぶという機能が同じなので似たような形状に進化した。このような例を収斂進化という。ジャイアントパンダとレッサーパンダがともに笹を主食とし前足に第6指を持つのも、地味ながら驚くべき収斂進化の一例である。本来はレッサーパンダが「元祖」パンダであることは以前触れた(パンダの話)。

tsyuyu_kasa.png昔から関心を持っているがいまだに結論の出ていない疑問がある。和傘と洋傘は歴史的に同じルーツを持つのか、それとも独立に開発された収斂進化なのか?材質は違えども、畳んだ傘をバサッと開く基本構造は驚くほどよく似ている。

固定式のパラソルは紀元前から存在したようだが、開閉式の洋傘は13世紀のイタリアが発祥と言われる。当時はもっぱら日傘として使われていたようである。洋傘が雨を防ぐ用途に普及したのは意外に最近で、18世紀のことだ。もともと女性のアイテムだった日傘を紳士用雨傘に転用することを思いついた英国人は、当初笑い者になったという逸話がある。それ以前の欧州では、雨が降れば濡れて歩くのが当たり前だったのだ。

一方、開閉可能な和傘が日本史に登場したのは鎌倉時代とされている。ほぼ同じ頃イタリアで発明された開閉型の洋傘とのつながりを思わせる痕跡はない(洋傘が日本に入って来たのはもう少し後の時代のようである)。どうやら収斂進化のようだ。和傘は鎌倉時代にはすでに日傘と雨傘いずれの需要もあったそうなので、現在のような雨傘文化は西洋より日本がはるかに先行していたことになる。梅雨も台風もないヨーロッパと違い、雨露をしのぐニーズが高い日本の気候が独自の和傘文化を育んだということか。

傘が手放せない鬱陶しい季節がやって来た。折り畳み傘の小型化や軽量化の技術開発は進化を続けているものの、傘としての基本的な機能や構造は太古の昔からほとんど変わらないまま、現代でも老若男女問わず欠かせない日用品であり続けている。これほど人類史に深い爪痕を残した発明品が、ほかにどれほどあるだろうか。少なくともイタリアと日本には開閉型の傘を独立に開発した天才的な職人が存在したはずで、歴史の教科書に名を留めるべき偉人だと思うが、不幸なことに誰もその名を知らない。

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午後の恐竜 [文学]

Tyrannosaurus.png『午後の恐竜』という星新一の短編がある。星新一と言えばユーモアと皮肉のきいたオチで読者を唸らせるショートショートの達人だが、もう少し長めでちょっとシリアスなテーマを扱った短編もたくさん書いた。『処刑』しかり『午後の恐竜』しかり、異彩を放つ傑作が少なくない。

街を闊歩する恐竜たちを見上げ子供らがはしゃぐ不可思議な場面で幕を開ける。いったい何が起こっているのか、誰にもわからない。恐竜は蜃気楼のように実体がなく、触れることができない。そこら中に原始の植物がはびこり、空には翼竜が飛び交っているが、すべて立体映像のように儚く無害だ。次第に恐竜は姿を消し、代わりにマンモスのような哺乳動物が跋扈する。目まぐるしく時代が進み、やがて原始人が現れる。あたかも進化の歴史を早送りで再現するショーが繰り広げられているかのようだ。そして地球史がついに現代に追いついた夕暮れ時、物語は衝撃的な結末で幕を閉じる。

1968年に発表された『午後の恐竜』は、テーマパークのパレードを眺めているような祝祭感を装いながら、通底するのは冷戦期の緊迫した時代の空気である。一歩間違えれば容易に世界を破壊し得る核兵器の脅威。人は死の直前に一生の記憶が走馬灯のように頭をよぎると言うが、『午後の恐竜』で描かれるのは地球全史を網羅する壮大な「世界の臨死体験」だ。子供たちが嬉々として無害な恐竜と戯れる間に、世界は破滅に向かって猛然と突き進んでいく。

米ソが軍拡競争に邁進していた当時、人々は何食わぬ顔で当たり前の日常を送りながら、一皮むけばその深層に黙示録的な不安が潜んでいた。でも裏を返せば、どんな暗鬱な時代にも人々の変わらぬ暮らしがあり、日々のささやかな喜怒哀楽であふれているということでもある。ロシア軍に破壊されたウクライナの街で、かろうじて全壊を免れた自宅に暮らす市民がせっせと花壇の手入れをする様子をテレビで見た。そのとき思い出したのが『午後の恐竜』である。これは世界の終わりの話ではなくて、人々のたくましい知恵と生命力についての物語だったのか、と初めて気付いた。

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