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安楽死の権利 [社会]

medical_anrakushi.pngテレビの報道番組を何気なく見ていたら、安楽死の特集をやっていた。日本では認められていないが、スイスのように一定の条件下で安楽死が合法とされている国もある。番組が取材したのは、事故の後遺症や進行性の難病に苦しみ安楽死を求めてスイスを訪れた人たちだ。親族や友人に見送られながら死を迎える人や独り静かに旅立つ人がいれば、直前に迷いを見せ中断を言い渡される人もいる。もちろん、余命幾ばくもない病を抱えながら、苦痛を受け入れ命を全うする道を選択する人もいる。

自殺を罪として裁く法律は日本にはないが、自殺幇助は犯罪である。犯罪でない行為をアシストしただけで罪に問われるのは非合理な気もするが、これにはいろいろ法学論争があるようだ。ざっと調べたところ、命の決定権に他者が介入すべきでない、という漠然とした倫理観に落ち着く解説が多い。だが見方を変えれば、本来は個人のものであるべき死生観に国家が恣意的に踏み込んでいる、という批判もあり得る。

仮に安楽死が合法化されると、安易に死を選ぶ人が増えるという指摘がある。ただ「安易」かどうかは当事者の訴えにじっくり耳を傾けないと判断できない話で、一般論として整理するのは難しい。また、安楽死の合法化は死を望まない難病患者に対する謂われなき偏見を生む、という懸念を上述の番組の中で聞いた。他者には何の脅威でもないはずの個人の権利が、同質性を指向する社会によって静かに排除される。同性婚や夫婦別姓の問題に似た同調圧力の陰が、ここにも垣間見える。

死の選択は重い決断である。安楽死の是非について、誰もが納得する回答は存在しない。だから安楽死が合法の国でも、耐え難い苦痛・治療の不可能性・本人の自発的な意思確認、などさまざまな条件をクリアする必要がある。社会の側が注意深くハードルを設定した上で、あとは個人の選択に委ねられる。先日、ALS患者に対する嘱託殺人で医師が京都地裁から懲役刑を言い渡される判決が出た。安楽死が違法の日本でそのニーズがアングラに潜り、結果として本来厳格に適用されるべき倫理規範が法で守られなかったのだとすれば、現行法制度の矛盾を示唆する皮肉な事件である。

安楽死の問題とは、究極的には当事者の死を選ぶ権利を社会が制度的に容認できるか、ということである。容認できない社会が未熟ということではないが、日本が少なくとも成熟した議論が成立する国であってほしいと思う。

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セクハラ町長 [社会]

kaisya_nigate_joushi_man_woman.png岐南町町長のセクハラ・パワハラ問題が報道を賑わせている。岐南町ホームページに調査報告書が載っているが、問題発言・問題行為の指摘は99件に及ぶ。下の名前を「ちゃん」付けで呼ぶという微妙な案件から、抱きつく・尻を触るといった完全アウトな蛮行まで、この方お一人だけでセクハラ事例集完全版が出版できそうだ。

一般論としては、セクハラのラインを超えるかどうかは、受け止める側の心象次第だという意見もある。「ちゃん」付けで呼ばれた人が気分を害さなければ、たぶん誰も問題にしない。が、尻を触るような上司から「ちゃん」で呼ばれたら、大抵の人は気持ち悪がるだろう。セクハラをするから人望がないのと同時に、人望がないから何を言ってもハラスメントになるのである。

とはいえ、ハラスメント防止のガイドラインを決める以上、客観的に適用可能な善悪の基準を定めておく必要がある。基準が緩すぎると被害者が泣き寝入りする羽目になるし、逆に厳格すぎると冤罪につながりかねない。ハラスメント被害者に寄り添う時代の流れは基本的に正しいと思うが、際限なくコンプラのハードルを上げ続けることで社会の正義が自ずと実現するわけでもない。

問題の町長は昭和の価値観から抜けられない人物とあちこちで評されており、ある意味ではその通りだが、別に昭和の時代がこういう人ばかりだったわけではない。件の町長の問題は、そもそも人間として「ちゃんとしてない」ことに尽きる。人として真っ当であることの価値は、昭和も令和も基本は何も変わっていない。

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マルハラ [社会]

computer_message_app.pngZ世代の子たちは、LINEで送られてきた文章が「。」で終わっていると恐怖を覚えるのだという。マル・ハラスメント略してマルハラという言葉まであるそうだ。旧世代には想像のつかない心理だが、何がそんなに怖いのか? 日本語に句読点が導入された明治時代以来、「。」をくらって絶命した犠牲者は一人もいないはずだ。

そもそも「。」がなければ文章が区切れないから読みにくい、と私たち旧世代は考える。しかし若い子たちは、そもそもLINEで長文を打たない。短い言葉やスタンプをこまめに送信するので、文章を区切る必要がない。必要がないところに敢えて「。」をぶっこんでくると、逆に背後の意図を感じてしまう。スタンプや絵文字と違って感情を伝える機能を持たない「。」は、その無機質さゆえに静かな拒絶や冷たい怒りを表しているように見える。というのが彼らの恐怖の深層のようである。

若者たちもレポートや社内文書などで堅い文章を書くときは当然「。」を使うに違いない。一方で内輪のコミュニケーションで使う言葉は標準的な日本語とは別の言語へと進化を始め、彼らは器用にそれを使い分けているのだ。若者のスラングが上の世代に理解できないのは時代を問わず世の常だが、句読点の省略のような文章表現の基盤をも揺るがすレベルの変容は、あまり聞いたことがない。

かつて日本語は文語体が口語体からかけ離れていた時代があったが、明治の文豪たちが言文一致運動を起こして現在の文体に統一された。ところが今、Z世代はスマホ上のコミュニケーションに特化した「超口語体」を使いこなし、日本語の新体系を生み出そうとしている。2020年代は明治の言文一致に匹敵する日本語の変革期だった、と未来の言語学者が宣言する日が来るかもしれない。

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君たちはどう鍋を食うか [社会]

大阪公立大学の講義中に鍋をつつく学生が現れた、というネットニュースの見出しを見て、学級崩壊もそこまで来たかと思わず唸った。が、記事を読み進めると、どうもそういうことではないらしい。この講義を担当する増田聡教授のSNSに、こうある。
「オレの授業なら授業中に鍋やっていいよ」と言い続けてきたがようやくほんまに鍋やってくれた学生(一回生)が現れました。やー大学とはこんなふうに手間暇かけて自由であることのディテールを確認する空間であるべきやと思うねん。自前でそれをやる見所のある若者たちである。がんばってくれたまえ
何を言っているのか、よくわからない。鍋を食べたければ、授業をサボって誰かの部屋にでも集まって盛り上がればいい。そっちのほうが、よほど自由だ。

nabe_chanko.png昔は一般教養の授業をサボる学生はちっとも珍しくなかった。毎週出席する学生の方が少ないので、いつもいる学生同志はすぐに仲良くなった。普段はガラガラの教室が、期末試験の時期だけ入りきれないくらいごったがえす。この大学には学生がこんな大勢いたのか、と驚いた。率直に言って、出席率と成績はあまり関係がない。授業に来なくてもやたら出来る連中もいれば、単位を落としまくって留年する学生もいた。

勉強するもしないも学生次第だから、講義に顔を出さなくてもあからさまに叱る教員はいなかった。良し悪しは別として、当時はそれが大学の自由だった。食材やカセットコンロをわざわざ教室に持ち込む面倒くさい「自由」など、アホらしくてだれも思いつきもしなかった。

今の学生は、総じて真面目である。私たちの世代が学生だった30年前に比べ、授業の出席率はずっと高い。毎回出席を取られそれが単位に必須の講義であれば、イヤでも来ざるを得ない。でも、大学で自由を確認したい増田教授は、まさか出席など取っておられないだろう。自由を謳うのであれば、オレの授業が退屈なら来なくていい、代わりに他所で勉強するもしないも君たち次第、と言えばいいだけの話だ。

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悪くありませんから [社会]

sports_ball_amefuto.png日大アメフト部の大麻問題を巡り、廃部まで取りざたされている。連帯責任を取らされる学生が可哀想、という街の声を聞きながら、ふと山一證券の社長会見を思い出した。1997年秋、当時の野澤社長が山一の自主廃業を発表する会見の中で「私らが悪いんであって、社員は悪くありませんから!」と涙したアレである。

違法薬物だけならただちに廃部の話が持ち上がることもなかっただろうが、危険タックル問題で組織のあり方を問われた経緯があるだけに、相変わらずの隠蔽体質にもはや弁解の余地なしと批判されている。違法薬物に手を出したのは当該学生個人の犯罪だが、それを把握した大学側が情報をなかなか表に出さなかったのは組織が抱える問題である。社員は悪くなくとも経営陣がダメなら会社が持たないのと同じで、仮に大半の学生が悪くなくても大学運営がグダグダであれば廃部という話が出るのも不思議ではない。

学生に連帯責任を負わせるのはおかしいから廃部に反対という議論は、部員の心情を慮れば共感したくなるものの、問題の本質はそこではない。アメフト部は組織としては日大に属し、学生は大学運営に関与しない。学生は部の存続問題に何ら(連帯)責任を問われる筋合いはないが、廃部という経営判断を阻止できる立場にもない。山一の時は、社員が気の毒だから廃業はおかしいという問題提起は(少なくとも社会の側からは)なかった。それと同じで、学生が不憫だから廃部を止めろという理屈も組織論としては成立しない。

山一證券社長の「社員は悪くありませんから」発言は、会見を見た当時は何じゃこりゃと思ったが、少なくとも社長自ら上層部の非を認め一般社員をかばおうとしたわけである。日大執行部が会見で泣き出すカオスを見たいわけではないが、廃部するにせよしないにせよ、翻弄される学生に寄り添う人間味のカケラくらいは示してもいいんじゃないかと思う。

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宝塚問題とミルグラム実験 [社会]

宝塚歌劇団のパワハラ問題が論議を呼んでいる。規律や礼儀作法の厳格さは昔から知られていたが、自殺者が出たことでその妥当性が改めて問われているようである。学校でも体育会系の部活にありがちな厳しい「指導」がもやは時代に合わないと言われて久しく、基本的な問題の構造は宝塚に限った話ではない。チームワークに規律は不可欠だが、密室内の上意下達に依存した「指導」は得てして暴走する。なぜ似たようなできごとが繰り返されるのかを考えるとき、私が思い起こすのはミルグラム実験だ。

ミルグラム実験とは、米国の心理学者ミルグラムが1960年代に実施した有名な心理学実験である。俗称アイヒマンテストとも呼ばれ、ナチス政権下でユダヤ人虐殺の実務を主導したアイヒマンを念頭に、権威者の影響のもとで凡庸な人間が冷酷な殺人を犯すに至る心理状況を検証しようとした。

science_machine_denatsukei.pngミルグラム実験では、被験者は別室の「生徒」を電気ショックで罰する役割を与えられる。生徒に設問を与え、誤答するたびパネル上のスイッチから電気を流す仕掛けだ。回を重ねるごとに電圧が上がり、スピーカー越しに聞こえる悲鳴が次第に切迫していく。たいていの被験者は戸惑うが、実験の責任者は平然と被験者に続行を指示する。良心に耐えかね実験を中断した被験者もいたが、実に6割を超える被験者が、促されるまま電圧450Vに至る最終段階まで実験を完遂した。

実際には実験の「生徒」はサクラで、電流は一切流れておらず、苦痛の悲鳴は演技に過ぎなかった。とは言え、どこにでもいる善良な市民が、致死相当の電気ショックを無実の第三者に与えることを拒否しない、という実験結果は議論を巻き起こした。服従の心理などと整理されることもあるが、ミルグラム実験の被験者は強制も恫喝もされていない。6割超の被験者は、なぜ途中で止めなかったのか?「生徒」の悲鳴を聞いて、引きつった笑い声をあげる被験者もいたという。電圧のつまみを回す恐怖は、倒錯した快楽と表裏一体ではなかったか?権威(実験の責任者)を盲信し自らを思考停止に追い込むことで、心の闇が囁く残虐な誘惑を正当化しようとしたのではないだろうか。

宝塚や体育会系の部活には、アイヒマンにとってのヒトラーのような眼に見える権威は存在しない。代わりに、先輩から後輩へ脈々と受け継がれる不可侵の伝統がある。後輩がやがて先輩になった時、かつて自身の受けた「指導」を行使する権利を進んで享受する。それが微弱な電流で終わるのか、命を危険にさらす高電圧までエスカレートするのか。ミルグラム実験の結果が暗示する人間の性を思えば、いつか「指導」の針が振り切れるのは、むしろ時間の問題だったとも言える。

宝塚のような組織において、規律と作法を伝える伝統が重んじられる必然性は理解できる。しかし、たとえ伝統は真っ当だったとしても、その正統性に守られていると過信すると人間は盲信と思考停止の罠にハマる。つまるところ、各々が自身の心の闇を見据え暗い誘惑から目を背けることでしか、たぶん問題の根源は解決しない。

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ライドシェア問題 [社会]

岸田首相がライドシェア解禁に前向きな意見を表明した。諸外国ではとっくに社会に根付いているサービスだが、日本の現行法ではいわゆる白タクで違法である。タクシー業界の反発で法改正が進まなかったと言われるが、昨今の慢性的なドライバー不足が社会問題化し、ついに政府が重い腰を上げた。

欧米でウーバーやリフトが普及した背景の一つは、タクシーの評判が芳しくないことである。運転手が無愛想で運転が荒いのは当たり前、(私自身は悪い体験はないが)ぼったくり被害のうわさも後を絶たない。一方ライドシェアサービスは、運転者の評価を乗客があらかじめ確認でき(逆にドライバーも乗客の評価を確認できる)、料金は事前登録クレカの前払いで完了する明朗会計である。地図アプリのナビのおかげで、ドライバーは現地の地理に精通している必要もない。本来はプロのサービスであるタクシーへの信頼が薄い文化圏では、制度設計がクリーンであればアマチュアドライバーの代替サービスでも歓迎される。ウーバーが急成長した秘訣の一つは、そのニーズを読んだ慧眼にあると思う。

car_taxi_wagon.png一方、日本はタクシーが提供するサービス水準の高い国である。車内は清潔で運転手は概して礼儀正しく、客を乗せながらスマホで友人と大声で電話することもなければ、無茶な割り込みでクラクションを鳴らされることもなく、もちろんボッタくりは起こり得ない。以前のように、タクシー乗り場に必ず空車が待っていて、呼べばすぐ迎車がやって来るのが当たり前であれば、素人ドライバーが提供するライドシェアを望む需要はとくに存在していなかったのである。しかし、コロナ禍を経てタクシー業界の人手不足が顕在化した今、マーケットに巨大な空隙が突如出現した。

法改正が進んだとして、日本にウーバーが根付くだろうか?利用の仕組みはGOのような既存のタクシー配車アプリと変わらないから、使い勝手はすぐに馴染むだろう。課題があるとすれば、日本人が有料サービスに対して要求するハードルの高さである。タクシーのサービス水準が高い事実そのものが、良く言えば日本のおもてなし文化、悪く言えば顧客優位社会の象徴とも言える。ライドシェアはある意味、売り手と買い手が人間的に対等な欧米社会の商慣行が前提のシステムだ。それを日本型のマーケットに移植したとき、素人ドライバーのサービスと上から目線の顧客のあいだで微妙な摩擦が頻出しないか、少し気がかりである。

ウーバー慣れした外国人観光客にはライドシェアはたちまち重宝されるだろうが、利用者が旅行客だけではマーケットは成立しない。ライドシェアサービスが日本人の「お客様は神様」マインドにすんなり受け入れられるのか、ある種の社会実験として興味深い。

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幸福の代償 その2 [社会]

コロナ禍が始まった3年半前の記事(これ)で、ル=グウィンの『オメラスから歩み去る者たち』のことを書いた。
『ゲド戦記』を書いたアメリカの作家アーシュラ・ル=グウィンの短編に『オメラスから歩み去る者たち』という不思議な作品がある。オメラスとは犯罪や戦争と無縁な平和に満たされた架空の街で、人々が思い思いに夏の到来を祝って集う華やいだ日常が綴られる。だがこの街の一角にただ一人、その幸福を分かち合うことの許されない孤独な子供がいる。子供は窓のない小部屋に幽閉されたまま劣悪な環境に放置され、気遣いの言葉一つかけてもらうことすら叶わない。オメラスで育つ少年少女は遅かれ早かれそんな街の秘密を知り、当然ながら憤りや悲しみに震える者もいる。だが彼らはやがて、子供が置かれた現実を直視することを止める。何故なら、不幸な子供の犠牲の上にこそ街の平穏な秩序が支えられていると気付いているからだ。もし子供を救い自由のもとに解き放てば、オメラスの人々が享受する幸福の日々は遠からず終わりを告げる。
ハーバード大サンデル教授は、この物語を題材にベンサムが言う「最大多数の最大幸福」の是非を問いかけた。多数の幸福と引き換えに少数の犠牲を容認するベンサムの理論は、民主化が行き届いた現代社会では到底受け入れられない。しかし、ル=グウィンはベンサム理論の教材として『オメラス』を書いたわけではない。
ただ、ル=グウィンの思考の源泉はもっと深いところにある。オメラスの人々は賢人でも聖人でもなく、欲も弱さも併せ持った私たちと同じ人間だ。彼らは至上の幸福を手にしながら、心の底ではその幸福がいつ潰えるかと怖れている。御伽話のような桃源郷を信じるほどウブではないから、幸福を維持するには相応の代償が必要だと考える。作者は、幽閉された子供がどうやって社会の幸福に奉仕しているのか、その仕組みについては一切触れない。なぜなら、子供の犠牲が続く限り社会の安寧が担保されると人々が「信じている」こと、その盲目的な信念の裏に潜む秩序崩壊への怖れこそが、物語の本質だからだ。
これを書いた時は、コロナ禍初期に社会を覆いつつあった漠然とした恐怖に『オメラス』を重ねていた。いま再びオメラスを持ち出したのは、最近巷を賑わせている全く別の事件を想起させるからだ。ジャニー喜多川氏の性加害問題である。

audience_smartphone.png事件が大きく取り上げられたきっかけは、BBC制作のドキュメンタリー番組だった。海外ジャーナリズム発の告発がなかったら、日本の大手メディアは今なお沈黙を貫いていたかもしれない。ジャニー氏の性犯罪疑惑はかつて告発本でたびたび取り上げられ、民事訴訟の事実認定ではジャニーズ事務所が敗訴した。しかしテレビ局や新聞社は未必の故意により隠蔽に加担し続けた。その理由は、商業的にジャニタレを手放せないメディアの忖度と説明される。その要素はもちろんあるだろうが、問題の根源はもう少し深い気がする。

被害を訴えた元タレントに対する誹謗中傷が後を絶たないと言う。「知りたくもなかった事実」に苛立ちを感じる人が、ジャニーズのファンにすら(むしろファンだからこそ)一定数いるのである。自分の愛する心地よい世界が、おぞましい犯罪と引き換えに成立していると知った時、それを断罪するより必要悪として受け入れることを選ぶ。『オメラス』の世界で人知れず幽閉されていた子供は、日本に実在していたのである。

ジャニーズ問題をメディアがスルーし続けた理由の一部は、それが「社会が求めていない」報道だったからではないか。ストイックに真相を追求する心あるジャーナリストも少くないはずだが、メディアの大半は市場価値の薄いコンテンツに見向きもしない。結果として社会の沈黙は続き、犠牲者は救われなかった。事件を黙殺したメディアがジャニーズ事務所と共犯だとすれば、醜い現実を受け入れるより知らないフリを好む社会も、完全に潔白とは言えないはずだ。

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丁寧な説明 [社会]

building_fukushima_daiichi_genpatsu.png福島第一原発処理水の海洋放出をめぐり、政府は判を押したように丁寧な説明で理解を求める云々と言う。説明はしないよりした方が良いに決まっているが、残念ながら「丁寧な説明」にはたぶん何の効果もない。

世間は、わからないことを理解したいと思う人と思わない人の二種類で成立している。理解したい人は、誰かに説明してもらう前に自分で調べて考える。そうでない人は、説明をされようがされまいが意見を変える気がない(またはもとから関心がない)。だから、そもそも「丁寧な説明」を求める需要自体がどこにもないのである。

福島の原発汚染水はまずALPSという装置で処理され、二次処理を経てほとんどの放射性核種は基準値未満まで取り除かれる。しかし中には技術的に除去の難しい核種もある。最近良く耳にするトリチウム(三重水素)がその代表格で、福島に限らず原子炉の冷却水にはトリチウムを含む水分子が少し混じっている(微量ながら自然界にも存在する)。水から水を化学的に分離することは原理的に困難なので、処理後にどうしても残ってしまうトリチウムは、海水で充分に薄めて放出する。日本政府や東電の言うことがどれほど信用できるかはさておき、海洋放出に当たっては独立した国際機関(IAEA)が調査に来て報告書を出している。あえて安全性に疑義を挟む理由は見当たらない。

それでも何となく不安だ、という人は少なくない。不安に駆られることは別に罪ではない。が、丁寧な説明を受けても不安が解けないのは、説明が足りないからではなくて、当人のメンタルが初めから「科学的根拠」を求めていないのである。だから最低限、理屈のない不安は単に情緒的反応に過ぎないという自覚は持っておいた方がいい。そうすれば、少なくとも間違った言説をSNS等で広めて漁業者の風評被害を拡大させる愚を犯すことはない。

中国政府の強硬姿勢は、言うまでもなく確信犯である。当局の利益にかなうなら、カラスは白いと平然とうそぶくのが中国の外交スタイルだ。黒いカラスを連れてきて説得を試みても埒は明かない。自国内に反日的な機運を醸成してガス抜きをするのは彼らの常套手段だが、どう考えても長期的に持続可能な対策ではないことはたぶん中国もわかっている。そのうち劇薬の効果が薄れた(または効きすぎた)頃に、日本産海産物の禁輸措置はしれっと撤回されるのではないか。

わかりたいと思っていない人に「話せばわかる」と言っても仕方がない。何が真実かに興味がない人に科学的根拠を突きつけても効き目はない。いろいろと残念な話であるが、話が通じない隣人とも共存していかないといけないのが世の常である。

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衛星かミサイルか [社会]

war_missile.png北朝鮮が偵察衛星を打ち上げると予告し、想定期間早々に実行してみたものの、ロケットごと黄海に墜落し失敗に終わったようである。興味深いのは周辺国やメディアの反応で、北朝鮮が本当は何を打ち上げようとしていたのか、見解が分かれたままだ。

日本政府は一貫して弾道ミサイルだったと見做している。北朝鮮ってそういう国だからという言い分だが、破壊措置命令を出す以上、ヤバいものが飛んでくるというくくりにせざるを得なかったものと思われる。一方、今回は北朝鮮の宣言どおり偵察衛星を上げるつもりだったと分析する専門家もいる。衛星と称する弾道ミサイルと呼んでみたり、カッコつきの「衛星」だったり、または明言を避けて飛翔体と言ったり、メディアによって伝え方にだいぶ差がある。

いずれにせよペイロードが違うだけで、どうせ失敗したのだからどちらでもよいと言えばよいのだが、一連の報道のなかで一つちょっと驚いたことがあった。とあるテレビ局が、同じニュースの中でミサイルと言ったり衛星と言ったり、表現がブレているのである。自分が伝えている内容が明らかに自己矛盾していも、気にならないのだろうか。それとも、そもそもミサイルと衛星の区別がついていないか?

完全に公正中立な情報というものは存在しない。だから、立場が一貫している限り、報道内容が多少「偏って」いても別に構わないと思う。だが、内容を咀嚼しないまま情報をただ垂れ流しているのだとしたら、主要メディアとしてはいささか稚拙な印象を拭えない。

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