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隣のレジは早い [宗教]

ある日街角で、ただ一言
おまえも死ぬぞ
と書かれた張り紙が目に入ったら、大抵の人はギョッとして二度見するのではないか。本当にあった掲示物だが、悪戯でも呪文でも恐喝事件でもない。郡上市の願蓮寺というお寺の門前に一頃貼られていたメッセージで、2018年お寺の掲示板大賞(詳細はここに)に輝いた問題作である。

ojizousan.pngお寺の掲示板大賞は仏教伝道協会が主催するコンテストで、ツイッターやインスタで投稿を募り「標語内容の有難さ・ユニーク・インパクト等」をもとに受賞作が選ばれるとのことである。上述の物騒な大賞以外にもユニークな入選作が目白押しだ。「行き先をググれば行き方がわかる。往き先を念ずれば生き方がわかる。」とあざといくらい技巧的な作品もあれば、「ボーッと生きてもいいんだよ」みたいな相田みつを路線のユルいポエムも健闘している。「No ご先祖、No LIFE」とかベタなパクリ作品もあるが、言われてみれば生物学的に反駁の余地のない真理を突いているではないか。本家タワーレコードも真っ青だ。

個人的に一番ウケた傑作は「隣のレジは、早い。」だ。確かに、一番空いているレジを選んだはずが、隣の列にあとから並んだおばちゃんが先に会計を済ませている、といった事象が私の周りで不思議と多いのである。こんなことで何となく損をした気分になるのは、解脱への道のりはまだまだ長いということこか。お釈迦さまの時代にレジがあったか定かでないが、人類の変わらぬ煩悩を生活の一コマで鋭く切り取る視点が冴えている。

私が住む愛知県は寺や神社が多いことで知られ、その数何と8000を超え全都道府県中1位を誇る。近年になって開発が進んだ住宅地に住んでいるせいかあまり寺社仏閣に囲まれている実感はないのだが、逆に言えば昔ながらの地域では犬も歩けば坊様に当たる高密度かもしれない。とは言え地域社会とのつながりがかつてより希薄な昨今、寺や神社にお世話になるのは初詣と法事くらい、という人は多いのではないか(私もその一人だ)。ふだん縁が薄いせいで、お寺のお参りでうっかり柏手を打ちそうになったり、法事で焼香が1回か3回かわからなくて前の人の作法をこっそり真似したり、ちょっと気まずい体験の持ち主もいるだろう(私もその一人だ)。ちなみに焼香の回数は宗派によって違うらしい。

寺から足が遠のきがちな現代人に少しでも立ち止まってもらおうと、境内の掲示物に斬新な工夫をこらす住職があちらこちらにおられる。お寺の掲示板大賞は、SNSを活用してそんな地道な努力を全国に紹介する試みとして面白い。おまえも死ぬぞ、とかパンチが効きすぎて悪ノリぎりぎりだが、隅に小さく「釈尊」と添えられているから立派な仏の教えである。仏教には生死一如という言葉があり、生があるから死があるように死があるから生があるのであって、いずれ訪れる死を直視すればこそ生きる重さや輝きを知る、いうようなことらしい。語り出せば言葉が尽きない死生観を極限まで濃縮した金言が「おまえも死ぬぞ」であり、科白のインパクトはもとより余白の深さが染みる。

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天皇と教皇 [宗教]

jujika.png米国では11月末近くの木曜日は感謝祭(Thanksgiving)で全国的に休日となり、実家に帰り家族総勢で七面鳥をつつく恒例イベントである。日本の盆暮れのような雰囲気だ。アメリカに住んでいた頃、現地で帰る実家もない私たちを感謝祭に招いて下さった地元のご夫婦が何組かいた。その一人に空軍大佐を退役した紳士がおり、見るからに強面で現役時代は相当怖い人だったに違いないが、私たちが彼の子供と同世代だったせいかとても親身に気にかけてくれ、今でも交流が続いている。彼は毎日曜日に礼拝に行く敬虔なプロテスタントでもあり、誘われて教会に行ったこともある。軍人にして真摯なクリスチャンというのは一見哲学が相容れないようだが、実際のところ米国では珍しくない。私自身は全く宗教的な人間ではないので心中は想像する他ないが、軍隊という死を間近に感じる特殊な組織にいるからこそいっそう信仰を必要とするということかもしれない。

多くの日本人にとって宗教はあまり身近ではなく、とくにキリスト教やイスラム教のような一神教はとっつきにくいと感じる人が多いのではないか。しかしこの2宗教の信者を合わせると世界人口の半数を超え、世界標準から見れば宗教色の薄い日本のほうが特殊な国である。キリスト教とイスラム教は生まれも育ちも違うソリの合わない宗教と誤解されることもあるが、ユダヤ教以来一続きの歴史の中から現れたいわば兄弟分である。コーランにはちゃんとイエスの名が登場し、(イスラム流の解釈が加わっているが)預言者の系譜に名を連ねる主要人物の一人として一目置かれている。神様へアクセスする作法はちがっても、歴史的経緯からみれば聖書のヤハウェ(エホバ)とイスラム教のアッラーは同じ神である(アッラーはアラビア語で「the God」と言っているだけで固有名詞ではない)。ただしキリスト教の視点に立つと、後から興ったイスラム教の神をイエスの「父」と同一視できない信者も少なくないから、クリスチャンとムスリムの神が同じか否かという問題は真剣な神学論争の的になる。紆余曲折の史実と伝説が渾然一体となって宗教の基礎が出来ている以上、割り切れない矛盾をいかに受け止めるかという葛藤もまた信仰の一部のようである。

ユダヤ・キリスト・イスラムの3宗教はいずれも最初の預言者アブラハムをルーツに持つが、その先から系統が分かれる。アブラハムにはイサクとイシュマエルという二人の息子がいるが、イサクの系列がユダヤ教からキリスト教へとつながるとされ、一方イスラム教はイシュマエルの子孫がアラブ人となったと伝える。後継者問題が宗教対立の全てではないが、正統性に関わる認識の違いは往々にして問題をややこしくする。初期のイスラム教がスンニ派とシーア派に分派した背景にも、ムハンマドの後継者を巡る対立があった。正統性と言えば、日本の天皇継承問題も込み入った課題を抱えている。明治以来の皇室典範は継承権を男系男性に限っているが、愛子妃は女性だが男系なので歴史を遡れば持統天皇のように即位の前例はある。伝統遵守か男女同権かという議論になりがちだが、むしろ比較的最近制定された皇室典範が必ずしも日本古来の伝統をそのまま代表しているわけではないところに議論の余地があるのかもしれない。

11月は天皇即位関連の儀式とローマ教皇訪日という滅多に見られないイベントが重なった。天皇と教皇はその文化的・宗教的基盤は違えども、人々の精神的支柱として努力を惜しまない立ち位置は共通している。一方で国政の現場は「桜を見る会」問題で紛糾中だ。まつりごとには関わらないが象徴として頂点に立つ人の志に感銘を受けるとともに、内閣府のシュレッダーの性能と予約状況がよくわかった一ヶ月だった。

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