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ウソ800 [映画・漫画]

未来に帰ったはずのドラえもんがのび太のもとに戻って来る『帰ってきたドラえもん』というエピソードがある。宿敵モリアーティと共に滝へ転落死したはずのシャーロックホームズが生還する『空き家の冒険』と双璧を成す、史上稀にみる驚愕の復活劇だ。

ドラえもんが去って以来、部屋で抜け殻のような日々を送るのび太。心配するママに促され家を出たのび太に、駆け付けたジャイアンが「今そこでドラえもんに会った」と興奮気味に話しかける。予期せぬ朗報に有頂天になるのび太だったが、実はエイプリルフールのネタに過ぎなかった。こみあげる悔しさと淋しさに、自室で大泣きするのび太。そのときふと、「がまんできないことがあったら、これを開け。その時、君に必要なものが出てくる」とドラえもんから託された不思議な箱のことを思い出す。

science_mess_flask_full.png箱を開けると、「ウソ800(エイト・オー・オー)」という飲み薬が入っていた。これを飲んでしゃべると、しゃべったことが全てウソになる。いい天気だと言えばいきなり雨が降り、雨が降ると言ったとたん陽射しが戻る。ウソ800のおかげでスネ夫とジャイアンに意趣返しを果たしたのび太だったが、我に返るとただ虚しさが胸に募る。「ドラえもんは帰ってこないんだから。もう、二度と会えないんだから」と呟くのび太の眼から、再び涙があふれ出す。そして、この何気ない独白にウソ800が反応しもたらされる、奇跡の結末。それをここで敢えて説明する必要はないだろう。

言ったことが全てウソになるのなら、裏を返せばなんでも願いが叶うことになる。その意味で、ウソ800はドラえもんの道具の中でも最強無敵の部類に入る。ドラえもんの道具は便利だが、使う人間がドジだったり欲が勝ちすぎたりして、結局残念なオチが待っているのが定番の展開である。『帰ってきたドラえもん』はそんないつもの路線を覆し、のび太が想像もしなかったハッピーエンドで終わる異色の作品と言える。そのせいで、(コナン・ドイルの『空き家の冒険』と同じく)仕掛けがいくらかご都合主義のような気がしないでもなかった。

だが最近、藤子・F・不二雄氏が伝えたかったのは少し違うことだったのかもしれないと思うようになった。歳をとるにつれ、身近な誰かが「もう帰ってこない、もう二度と会えない」ところへ去ってしまう体験が少しずつ増えていく。大人になった今『帰ってきたドラえもん』を読み返すと、張り裂けるようなのび太の苦しさを丁寧に描くコマの数々が、いっそう胸に沁みる。

物語冒頭ののび太は、ドラえもんの不在を頭では理解しているが、心で受け止めることができない。だからジャイアンの虚言にたやすく踊らされ、どん底に突き落とされる。秘密道具でジャイアンとスネ夫を懲らしめるささやかな目的を達したのび太だったが、そこに安らぎを見出すことはできなかった。現実から目を背ける限り心の穴を埋めることはできないと、のび太はそのとき悟ったはずである。

ウソ800のない世界を生きる私たちにとって、『帰ってきたドラえもん』のような奇跡が訪れることはない。ただのび太もハッピーエンドを狙って取りに行ったわけではない。むしろ「もう、二度と会えないんだから」と自分に言い聞かせることで、現実を受容し前へ一歩踏み出す覚悟を決めようとしていたのである。「その時、君に必要なものが出てくる」と言い残したドラえもんの本当の意図は、たぶんそこにあったのだ。

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AppleのCM [音楽]

figure_break_hammer.pngAppleがiPad Proの新モデルリリースに合わせ公開したCMが波紋を広げている。巨大なプレス機で楽器やアート作品やカメラやゲームキャラなどを圧縮破壊し、最後に極薄のタブレット一枚に生まれ変わる、というストーリーだ。小さなiPad一つに何でも詰まってますよと言いたいのはわかるが、アーティストやクリエイターへの敬意に欠くとか悪趣味だと不評が相次いだ。AppleはCMの出来の悪さを認め、謝罪に至ったようである。

プロ・アマを問わず、音楽をやる人にとって楽器は分身のようなものだ。たとえ他人の持ち物であっても、楽器がぞんざいに扱われているのを見るといたたまれない気持ちになる。まして、楽器を破壊するなど論外だ。問題のCMでは冒頭でトランペットがぐにゃりとひしゃげ、次いでアップライトピアノがバキバキと圧し潰される。敬意がどうのという道徳論以前に、楽器を弾く人にとっては映像が生理的に耐えられないのである。

私自身はiPad miniを愛用しているで、そのポテンシャルはよくわかる。ずっと以前は、興味のある論文は逐一コピーし綴じてキャビネットで整理し、必要に応じ取捨選択して持ち歩いていた。紙媒体では段ボール何箱ぶんにもなるであろう文献が、今はタブレット一つの中にすっぽり収まる。どこにいても思いついた時に見たい論文がすぐ見返せるのは、とても便利だ。iPadで読む電子書籍も重宝している。出先で本を読む際に重い単行本を持ち歩かなくて済むのがメリットだ。紙の本固有の質感や読みやすさには適わないが、身近な書店で売っていない洋書をクリック一つで瞬時に入手できる利便性は革命的だ。

ただ音楽に関しては、タブレットの恩恵を感じたことがない。たしかに再生装置としては申し分ないだろうし、DTMを使いこなす人にとっては便利かもしれない。だが、(ちゃちな鍵盤アプリを別にすれば)iPadは楽器の代用にはならない。楽器を弾く充足感は、身体感覚と一体化している。いかにデジタル・ツールとしての機能が先鋭化したところで、物理的には薄っぺらな板一枚である以上、タブレット端末がピアノやトランペットして機能する日は永遠に来ない。

美術や写真や映画など、芸術ジャンルの多くは「作る」と「鑑賞する」の双極で成立している。音楽は、それに加えて「(誰に聴かせるでもなく)演奏する」という第三極が存在する。曲を作る楽しみと聴く喜びに限れば、iPadにできることは多いだろう。でもそれは、音楽体験のほんの一部に過ぎない。たとえ下手の横好きでも音楽を演奏する至福は何にも代えがたいし、そこにタブレット端末が貢献できる余地はない。AppleのCM制作に関わったチームは、たぶん楽器を弾く愉悦を知らない人ばかりだったんじゃないかと思う。

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名も知らぬパリの老婦人に贈る感謝の言葉 [その他]

東京下町のとある居酒屋が「Japanese language only」と店頭に貼り紙を出しているというニュースを目にした。「外国人お断り」ではなく、「日本語に限る」と書いたところがミソだ。国籍や人種で客を選別するといろいろ角が立つが、語学力はひとえに本人の努力次第だから誰も差別はしていない。今ではそこそこ(またはかなり流暢に)日本語を話す外国人は少なくない。もっぱらインバウンド需要で経営が成り立っている観光地の店ならともかく、地元客メインの居酒屋が軒並み英語メニューを整備しておく余裕はないだろうし、その合理性があるとも思えない。

英語メニューでふと思い出したのが、私自身が昔パリ5区のカフェで体験した出来事だ。15年前の話だが、旧サイト「尾張の☆は歌うか」に綴った何と言うことのないエピソードを再掲する。



ピエール・マリー・キュリー大学(注:現在はソルボンヌ大学の一部)は、セーヌ川左岸のカルチエ・ラタンと呼ばれる一帯、閑静な佇まいながら学生や地元の人々の活気に溢れる魅力的な地域の一角にある。大学の周囲には小さなカフェが至るところ軒を連ね、昼食に繰り出すとどの店を選べば良いものか選択に困るくらいである。

キュリー大学で開かれたある会議に参加した最終日、日本人の同僚とふらりと入ったカフェは地元民と思しき人々で賑わっていたが、メニューを華麗に彩る単語は隅から隅までフランス語で、時折FromageやJambonといった理解可能な孤島がぽつりぽつりと浮かぶ謎の海を漂う地図無き航海に等しい。困ったときの救世主「Croque monsieur」や「Salade Niçoise」が全く見当たらない、外国人観光客に一切媚びない見事な品揃えに思わず唸っていると、同僚の一人がフランスでは決して口にしてはいけない禁句をウェイターにぶつけるのが耳に入った。
Do you have an English menu?
すかさず店のオヤジが(流暢な英語で)切り返す。
Non, NO ENGLISH MENU. You're in FRANCE. You must learn FRENCH. OK?
誇り高きパリジャンの店主は最後の「OK?」を私たち一人ひとりの顔を覗き込みながら人数分きっちり念押しすると、ずかずかと厨房へ去っていった。

food_canard_steak.png窮地に立たされた私は必死にメニューの暗号解読に取り掛かったが、気が付くと別の同僚が隣のテーブルの女性に声をかけ、単語を指差しながらその意味を聞き出している。隣のテーブルはその女性と彼女の母の二人席で、ランチもほぼ終盤に差し掛かるところだったが、私の目はふと初老の母が突いている鴨肉らしき一品に釘付けになった。同僚の質問が一息付いた頃合を見て、彼女のランチとメニューを交互に指しながら私はその料理の正体を尋ねた。英語が必ずしも得意でないその上品な老女は、私の質問を理解するや美しい碧眼をきらりと輝かせ、それがフランスのとある地方で育った鴨を焼いた特別な料理であり、他の追随を許さぬ逸品であることを片言の英語でとくとくと語り始めた。これではもはや迷う余地はない。

やってきたウェイター(幸いにして先ほどのオヤジとは別人)に件の鴨料理を注文すると、焼加減はどうするかねと尋ねてくる。上等な肉はレアで頂くのが良いに決まっているが、なにぶん出張中の身上、万が一腹を壊しては面倒くさい。大事を取ってミディアムを頼んだところ、先ほどの老婦人が傍らで激しく首を横に振っている。鴨をミディアムで食すなど愚の骨頂、とまでは言わなかったが、とくかくレアに限る、早く注文を訂正しなさい、と言い放ったかと思うと、私が答えるのも待たず自分でウェイターを呼びとめ、早口のフランス語でさっさとレアに変更してしまった。

口をぽかんと開ける私に目もくれず、彼女は何事もなかったようにデザートのクレーム・ブリュレーを美味しそうに味わっている。ほどなくして、美しくレアに仕上がった鴨肉のローストが私の目の前に現れた。口に運んだ初めの一切れが舌の上で起こしたささやか奇跡、その上品で豊穣な味わいを正しく伝える表現力を、私は残念ながら持ち合わせていない。

このどうということはない小さなエピソードを書くことにしたのは他でもない、ネタに尽きて困った挙句の苦肉の策だが、しかしパリで偶然隣り合わせた老婦人への感謝の念の深さは紛れもない本物である。あのときの母娘がこの稿を読む可能性はどう考えても絶無だが、二人が席を立つとき私が呟いたたどたどしいMerci beaucoupは、果たして私の想いを届けてくれただろうか?ガイドブックには決して載らない小さなカフェでめぐり合った一皿16ユーロの鴨料理は、パリの街角に潜む小さな魔法のごとく、一瞬にして皿の上から姿を消したことは言うまでもない。

※初出『尾張の☆は歌うか』2009年9月24日付



フランス人の研究仲間にこのノーイングリッシュ親爺の話をすると、偏狭な中華思想の権化たるフランス人のステレオタイプに辟易としているのか、そういう輩は困ったものだ顔をしかめる。ただ私としては、このオヤジに悪い印象は持っていない。おかげで隣のテーブルと思いがけない交流が生まれたし、なによりも料理が絶品だった。今思い返すとあれはたぶんMagret de canard(鴨の胸肉)だった。フランスの料理で一番好きな一品を問われれば、私は迷うことなく鴨マグレのポワレを挙げる。

四十の手習いでフランス語を習い始め、10年以上が経つ。錆びついた脳細胞はものを覚えた端から忘れていく有様ではあるが、学び続ける理由の一つはあの時の体験だ。現地の言葉が少しでもできれば、街のそこかしこに眠る小さな宝物に出会うチャンスが増える。日本にやって来る海外の旅行客にとっても、それはきっと同じことだ。

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