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オッペンハイマー:原著編 [科学・技術]

アカデミー賞の受賞者が発表され、日本では『君たちはどう生きるか』や『ゴジラ-1.0』の受賞が話題を呼んでいるが、今年最大の注目は何と言っても7部門を席巻した『オッペンハイマー』であった。原爆開発責任者の半生を描いた映画だけに、国内世論を気にしたか日本での配給が決まるまでかなり時間を要した(3月下旬にようやく封切られることになった)。映画のネタ本は、 Kai BirdとMartin J. Sherwin共著『American Prometheus』という大部で濃密な伝記である。映画は半月後まで見られないので、今回は原著の話を書きたい。

hat_nakaore.png『American Prometheus』はオッペンハイマーの誕生から死までを克明に描いたノンフィクションである。とてつもない量の資料から浮かび上がるオッペンハイマー像は、複雑で一筋縄では行かない人物だ。幼少期から早熟の秀才だったが、今で言う発達障害を思わせるぎこちない言動に事欠かなかった。マンハッタン計画を率いるオッペンハイマーは誰もが認めるカリスマ性に輝いていたが、極度のストレス下で冷静な判断を誤る危うさが彼自身をやがて苦境に追い込む。やわらかい物腰の中に暖かい思いやりを見せる時があれば、人を見下したような自信と傲慢さが同僚の反感を買うこともあった。終戦直後は時の人としてもてはやされるが、赤狩りの狂気が吹き荒れた1950年代、オッペンハイマーは政敵ルイス・ストロースの異常な敵意と執念に追い詰められる。

マンハッタン計画は、ナチスドイツの原爆開発に対する強い危機感から始まった。ユダヤ人であったオッペンハイマーが感じていたであろう使命感は想像に難くない。だが彼を含め、マンハッタン計画のため米国全土から集められた頭脳は、本来は軍事産業と縁もゆかりもない自然科学者たちだった。核分裂の原理を兵器に応用する前代未聞のプロジェクトには、当時まだ黎明期であった現代原子物理学の深い知識を要したからである。もともとは自然の成り立ちを解き明かす純粋な目的のもとで育まれた叡智が、大量破壊兵器の開発に惜しげもなく注ぎ込まれた。トリニティ実験に立ち会った科学者たちは、彼らが解き放った魔物の恐ろしい破壊力を目にして、ただ言葉を失った。

ドイツ降伏後、日本に対する原爆投下の是非について科学者たちの意見は割れた。無警告で原爆を実戦使用することに反対する署名活動も行われた。オッペンハイマー自身は投下反対の立場ではなかったが、すでに敗戦が濃厚な敵国に原爆を用いる正当性に疑念を持っていたようである。しかしオッペンハイマー自身は、原爆投下の政治的決定に関与を許される立場にはなかった。

オッペンハイマーの心に、原爆開発の指揮を執った事実が生涯暗い影を落とし続けたことは疑いない。終戦後、トルーマン大統領との面会の場で「私の手は血塗られているような気がします」と呟いたと伝えられている。他方で、彼は原爆開発を主導した功績を恥じることはなかった。戦後日本を訪れたオッペンハイマーは、心情の変化について問われこう答えた。
I do not think coming to Japan changed my sense of anguish about my part in this whole piece of history. Nor has it fully made me regret my responsibility for the technical success of the enterprise.
この歴史的な出来事に関わり私が感じてきた苦悶が、日本を訪れたことで変わったとは思いません。(原爆開発)事業の技術的成功で果たした私の責任を後悔するに至ったということもありません。
これに続き、少し謎めいた言葉を残している。
It isn’t that I don’t feel bad. It is that I don’t feel worse tonight than last night.
申し訳ないと思う気持ちがないという意味ではありません。ただ、その気持ちが日々強くなっているわけではない、ということです。
破格に明晰な頭脳に恵まれた彼すら、自身の内面が抱える矛盾を整理しあぐねていたようである。

被爆国に生まれ育ち広島と長崎の惨禍を知る私たちにとって、オッペンハイマーの評価は難しい。戦後の彼は戦術核論者ではあったが、米ソの対立を煽りかねない戦略核には懐疑的で、とくに水爆開発には明確に反対した。自身の信念ゆえ政府のタカ派に公然と異を唱えたオッペンハイマーは、その点で米国内に今も根強い素朴な原爆肯定論とは大きく立場が異なる。結果的にマッカーシズムの犠牲者として表舞台から姿を消したが、そうでなかったらオッペンハイマーはきな臭い冷戦の世界にどんな影響を与えていただろうか? それが光だったのか闇だったのかにわかに想像が及ばない曖昧さが、オッペンハイマーという人物の本質を物語っているように思える。

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中秋の名月 [科学・技術]

tsukimi_jugoya.png先週金曜日(9月29日)は、中秋の名月であった。中秋の名月とは、旧暦(太陰太陽暦)の8月15日(十五夜)に見られる月のことである。太陰暦の一ヵ月は、新月に始まり次の新月直前で終わるので、月半ばの15日頃に必ず満月を迎える。ところが、各種報道が「今年の中秋の名月は満月でしたが、次に満月を楽しめる中秋の名月は7年後です」などと言う。中秋の名月が、半月や三日月になったりすることがあり得るのか?

結論から言えば、もちろんそんな極端なことは起こらない。しかし厳密な意味での満月は、月が地球を挟んで太陽と真反対を通過する一瞬に過ぎない。その一瞬が十五夜の日に起こることもあれば、年によって1から2日ズレることがある。その理由は、月の公転軌道がわずかに楕円形だからである。軌道が真円から少し歪んでいるせいで、必ずしも軌道周期のど真ん中で満月の位置に到達するわけではない。さらに、満月の瞬間と日付が変わる時刻とのタイミング(月の公転と地球の自転の位相関係)にも依存する。

ともあれ1から2日はわずかな月齢の差に過ぎないので、たいていの人の目には充分満月に見えるだろう。日常感覚では、中秋の名月はいつも「だいたい満月」と言って別に間違っていない。TVニュースで「次の満月は7年後です」と科学トリビアを持ち出しても悪くはないが、澄まし顔でこれを言うキャスター当人は何故だろうと思わないのだろうか?疑問に思ってすらいない様子なのが、かえって不思議である。

研究費の取れ高 [科学・技術]

我が国はイグノーベル賞の受賞者を17年連続で輩出しているのだそうである。主流からかけ離れた異色の研究を許容する包容力がある限り、日本の研究体力は健在だ。ただ、国内ではあまり知られていなかった成果を海外の人がせっせと発掘してくれる構図が興味深い。(個人的な経験に照らしても)非主流の研究を一番面白がって聞いてくれるのは、大抵海外の人だ。国内とくに研究費を配分する立場にいる人たちには、あまりそういう思考文化がない。

生命科学・医学分野の科研費支給額とその成果の「取れ高」を調べた論文が話題を呼んだ(筑波大プレスリリース)。投資効率としては、高額研究費を少数精鋭に措置するより、少額課題を多数に振り分けるほうがコスパが良いそうである。見栄えの良い大木ばかり選んで植えても害虫が大発生すれば全滅してしまうが、多様なタネを少しずつ蒔いておけばそのどれかが生き延びやがて巨木に育つ。生物多様性と同じで、さまざまな種が共存する生態系のほうが環境の変化に強いのである。

science_hakase_shippai.pngさらにこの論文によれば、研究費を受給する研究者にとっては額が大きい方が成果も上がるが、高額研究費(五千万円以上)になると頭打ちになり、ノーベル賞級の研究はむしろ創出されにくくなるという。億円単位のプロジェクトでしか実現できない研究ももちろんあるが、大型プロジェクトになると参加人数も増える。必然的に研究者はマネージメントに時間を取られ、サイエンスに割く知的投資は目減りする。

研究資金が無限にあるわけはないし、課題解決型の研究開発支援も大事なので、限定的な選択と集中はもちろん必要である。でも、選択と集中はやりすぎると費用対効果でむしろ逆効果というわけだ。

いわゆる10兆円ファンド(国際卓越研究大学)はかつてない規模の選択と集中で、一抜けした東北大はまだいいが、落選組は仕切り直しのために今後も膨大な時間と労力を費やすことだろう。そうやって国内の名立たる大学が疲弊していくかたわら、海外の研究コミュニティはどんどん先へ進んで行く。トップ論文の引用数で日本は今年も順位を下げたそうだが、鼻先のニンジンを追って鞭打ち走らされる現状を思えば、世界に水をあけられるのも無理もない。

誰もが「今」重要だと考えている研究ほど、賞味期限は短い。10年後や50年後の不確かな未来に備えるためには、モノになるかわからない研究に対する幅広い先行投資はどうしても必要なのである。

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論文査読あれこれ [科学・技術]

shimekiri_report_hakui_man.png理由はわからないが、ここ何か月か論文の査読(review)依頼がやたらと来る。所謂プレデター系ジャーナルはさておき、普段お世話になっている主要誌からだけでも次から次へと打診のメールが舞い込む。夏休み前に仕事を片付けてしまいたい駆け込み投稿が殺到しているのか?なるべく受けてあげたいが、相次いで4件の査読(うち1件は二部作だったので実質5編)を引き受けいい加減しんどいので、直近では新規依頼を断っている。このブログを読んだエディターの方々は事情を察してしばらくご遠慮下さればと密かに願うところだが、ほとんどは海外からの依頼なのでここで呟いても効果はなさそうだ。

自分がエディターとして査読を依頼する立場のときは、時になかなか引き受け手がなく困り果てることもある。担当論文の分野が自分の専門にピタリと合致するとは限らず、場合によっては相応しい査読者の名前がほとんど思い浮かばない。著者自身が希望する査読者候補に適任者がいれば良いが、好意的な評価をくれそうなダチをリストにぶっこんできがちなのは著者の人情で、過去に著者と共著歴の多い人など中立的なコメントが期待できない場合は候補から外す。担当論文の引用文献からピックアップしてみたり、関連分野の国際会議のプログラムをググッて同じような研究をしている人を探し出したりする。マニアックな論文だと、同業者にたどり着くまでかなり難儀することもある。

査読依頼を断りがてら、代わりに査読をやってくれそうな候補者を挙げてくれる人がいる。エディターとしては、次の一手を探す労力が効率化できてとても助かる。だから、逆に自分が査読の断りを入れざるを得ないときは、なるべく別の適任者を挙げるようにしている。身代わりに差し出された人には歓迎されないかもしれないが、もちろん依頼を受けるかどうかは本人が決めてくれればいい。でも、あまりに査読依頼が立てつづくと代替候補を考えてあげるのも面倒になってくる。頼んでくるエディターに罪はないので申し訳ないが、断りの返事が素っ気なくてもどうか気を悪くしないでほしい。

論文査読は報酬ゼロのボランティア作業だが、自分が論文を書いたら誰かに査読してもらうわけだから相互利益の原則で成り立っているシステムだ。それでも論文一本を読み込んでコメントをまとめるにはそれなりの時間と労力を投資するので、どうせなら独創的で自分も勉強になるハイクオリティ論文が回って来れば嬉しい。査読依頼を取捨選択せざるを得ないときは、アブストラクトや著者名から察して面白そうな論文かどうかをどうしても考えてしまう。自分が投稿した論文も、一読に値すると思ってもらえるかどうか、査読の入り口からすでに勝負が始まっている。ある意味、文学誌の編集者に原稿を送り続ける作家の卵のような地道な営業を、研究者は生涯やり続けているのである。

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チャットGPT その2 [科学・技術]

先日担当したオムニバス講義でレポート課題を出したついでに、試しに課題を丸ごとチャットGPTに解かせてみた。例によってサクサクと回答を返して来たが、科学的事実の明らかな誤認は見られなかった反面、饒舌なわりに質問の本質にはまったく触れていない、ほぼ零点答案だった。ネットで簡単に答えが見つからない出題だったので、チャットGPTにとっては学習機会に恵まれないトピックだったものと思われる。人間でも苦し紛れにこういう回答するヤツ確かにいるよな、と思わず笑ってしまった。

security_keibi_robot.png質疑応答形式の課題をチャットGPTに投げると、ある程度決まった応答パターンがある。回答の前文で自分なりに質問の要約を整え、そのあと箇条書きで複数のポイントを次々と連ねていくのが典型例だ。そこが理路整然として知的に見える所以だが、同時にチャットGPT流「誤魔化し」の流儀でもある。仮に答を知らない(相応しい知見が訓練データに見当たらなかった)問であっても、回答の冒頭で質問を微妙に言い換えてしまうことで、まず自分の土俵に引き寄せる。続いて箇条書きが綿々と続くのは、そのうち一つ二つでも質問者のツボにはまれば「すげぇ」とポジティブに評価されるからだ。ある意味、占い師のテクニックと同じである。誰にでも当てはまりそうな運勢や性格診断を言い連ねるうち、見透かされたような錯覚を相手に与えるアレである。

チャットGPTは間違っていることもあるから気をつけなさい、と注意喚起する人が多い。それはそうなのだが、むしろ間違ってはいないが一番聞きたかった本題に答えていないことの方が多い。生成AIの宿命として、膨大なデータはあるが知らないことを自分で考える能力はない。従来の機械学習ならその限界を隠し切れずすぐにぼろが出ただろうが、チャットGPTは巧妙に論点をずらし立て板に水さながら「それっぽい」論陣を張ることで、知ったかぶりで煙に巻くハッタリが実にうまいのである。

それをチャットGPT自身がどう捉えているのか興味があり、「チャットGPTの能力の本質とは、自分で理解していない事柄を饒舌にはぐらかす技術と理解して差し支えないでしょうか?」という意地悪な問いを投げてみた。以下がその回答である。
チャットGPTの能力を「自分で理解していない事柄を饒舌にはぐらかす技術」と表現することは一般的な見方ではありません。チャットGPTは、大量のテキストデータを学習して言語の統計的なパターンを把握し、それに基づいて文章を生成することができます。しかし、それは統計的な予測に基づくものであり、意味の理解や深い理解を持っているわけではありません。
チャットGPTは、与えられた文脈に基づいて一貫した応答を生成することができますが、その応答は学習データに含まれるパターンに従ったものです。GPTはあくまで統計的なモデルであり、自己学習したパターンを元に生成された応答を提供するだけです。
一方、人間の理解能力は、経験、知識、直感、論理的思考などさまざまな要素に基づいて形成されます。人間は抽象的な概念や文脈を理解し、柔軟な思考や創造性を発揮することができます。
したがって、チャットGPTの能力を「自分で理解していない事柄を饒舌にはぐらかす技術」と表現することは、その能力を過大評価する可能性があります。AIは特定のタスクにおいて驚異的な能力を発揮する一方で、人間の理解能力や洞察力とは異なる制約や限界も持っています。
そこそこ謙虚な答えで好感が持てるが、最終段落で「その能力を過大評価する可能性があります」と言い出したところを見ると、どうも褒められたと勘違いしている様子だ。チャットGPTが皮肉を理解する日はまだ遠いようである。でも人間にもやっぱこんなヤツいるよな、とまた笑えてきた。

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スパムフィルタの話 [科学・技術]

spam_mail.png数年前に職場のメールがそっくりマイクロソフトのシステムに移行した。体感として大きく変わったことは、スパムフィルタの性能が劣化したことだ。正確に言えば、スパム検出精度はむしろ上がっているかもしれないが、過剰判定が後を絶たないのである。当初は職場内の業務連絡まで迷惑フォルダに振り分けられたりしていた。一つ一つ「迷惑メールでない」とフィルタを教育し、改善しつつあるものの、今でもときおり仕事関連の重要メールがスパムの烙印を押され見失いそうになる。

スパムフィルタのアルゴリズムに詳しくはないが、日進月歩の進化を遂げているのは明らかだ。送信IPのブラックリストのような従来の手法も残っていると思うが、今はメール本文の「スパムっぽさ」を自動判定するベイジアンフィルタが普及している。しかし100%完璧な判定は不可能なので、いくらか見逃しがあったり、逆に過剰検出が起こったりする。

時々フィルタに取りこぼされたスパムメールが受信メールに紛れ込むくらいは、手動削除で対応しても大した手間ではない。しかし、大事なメールがたとえ一通でもスパムに振り分けられ視界から消えてしまうのは、大変困る。結果として、定期的に迷惑メールフォルダを自分の目で精査するルーチンが欠かせない。その労力を考えると、そもそも何のためのスパムフィルタなのかよくわからない。

スパムかどうか判断に迷ったら、フィルタは受信者の判断に委ねるべくとりあえず通常メールに振り分けてほしい。見逃しはある程度許容しても良いから、スパムでないメールをスパムと判断する過検出は絶対に避ける、そんなふうに判定誤差を非対称に処理してほしい。しかし、ベイジアンフィルタはたぶん見逃しと過判定を原理的に区別できない。AI技術の潜在的な脅威は先日の広島サミットでも話題に挙がったようだが、所詮はツールなので今のところまだ得意不得意にかなりムラがあるようである。

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チャットGPT [科学・技術]

名古屋大学の杉山総長が、卒業式のスピーチでチャットGPTに作らせた祝辞を紹介して話題を呼んだ。その部分を引用させていただく。
みなさん、こんにちは。今日は満開の桜の中、名古屋大学での卒業式に参加していただき、ありがとうございます。この美しい景色とともに、皆さんの人生の新たなステージが始まります。
名古屋大学での学びや経験は、皆さんが将来の人生に必要なものをたくさん備えていることでしょう。今後の道のりが険しい場合でも、この大学で培った知識や技能、そして仲間たちとの出会いや絆を思い出して、自信を持って進んでください。
卒業式は、皆さんの努力と成果をたたえるとともに、これからの未来に向けてのエールでもあります。卒業生の皆さんは、自分自身の力でこの日を迎えることができました。心からおめでとうございます。これから先、皆さんはそれぞれの道を進んでいきますが、この大学での思い出や出会いを忘れずに、より一層の成長を遂げてください。
最後に、この美しい景色とともに、皆さんの未来が輝かしいものでありますように。心よりおめでとうございます。
総長はAI製の祝辞を「それっぽいがきわめて空虚」と評しつつ、AIにできることと人間にしか造り出せないことが共存する社会に飛び込む学生たちへエールを贈った。

ai_write.pngチャットGPTやDeepLなど、AIが捻り出す文章の完成度は確かに驚くほど向上した。学生がレポート作成にAIツールの力を借りることがあれば、逆に設問作成をチャットGPTに任せる教員もいると聞く。AI技術の進歩は、否応なく教育現場に大きな変化をもたらしつつある。そこに無限の可能性を見るか前代未聞の脅威と捉えるか、意見は分かれるだろう。だが私が思うのは、そもそも学校教育で私たちは何を目指してきたのかということである。

杉山総長が読み上げたチャットGPTの祝辞は、とても優等生的である。ほぼ非の打ち所がないが、それでいて何も伝わってこない。それが、杉山総長が評するところの「それっぽいが空虚」ということだ。でももしかすると、私たちが学校教育で強いられてきたこと(そして今の子供たちに強いていること)は、まさにこれだったんじゃないだろうか。自分が何を感じたとか、本当は何を言いたいかと別に、最大公約数的な模範解答が存在する。そしてそれが社会に快適な居場所を確保する早道だと、遅かれ早かれ学習する。私たちの教育システムは、チャットGPTの祝辞のような予定調和の「正答」へ人間の思考回路を固定する、機械学習の壮大な実験装置だったのではなかろうか。

チャットGPTの文章を見事だと思ってしまうのは、AIが人間の知能に近づいたせいというより、逆に私たち自身がもともとAI的な学習を指向する教育に馴染んでいたからである。学生がチャットGPTが吐き出した答えをレポートに出して、それがもし教員の求める理想的な解答だったとしたら、ある意味で学校教育がもたらした必然的な帰結ということかもしれない。

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10年問題 [科学・技術]

nagedasu_hakui_man.png任期付き研究職の10年問題が議論になっている。有期雇用が5年(研究職は特例で10年)を超えると無期転換申込権を得る改正労働契約法が2013年に施行され、その当時から有期雇用であった研究者は10年目を迎える今年3月にその節目を迎える。しかし一部の研究機関ではその直前で契約を終了する「雇い止め」を行い、結果として相当数の任期付き研究者が職を失うと懸念されている。

雇い止めは、誰も得をしない。研究者当人は職を失い、雇用機関は貴重な研究戦力を失い、中長期的には日本全体にとって科学技術力の衰退を意味する。もともと有期労働者の雇用を守るのが法改正の趣旨だったが、大学や研究機関としては無期転換を認めたくても無い袖は振れない。任期付き研究者の雇用財源は科研費などの外部資金であり、資金に年限が切られているから原理的に無期雇用を保証できない。一方、国から大学に下りてくる基盤的経費は毎年1%ずつ減らされ続けているから、大学が自前で人件費を拡充する余裕はない。国の政策と立法が噛み合わない矛盾が、10年問題の本質である。

アメリカの大学に勤めていた時、初めの2年をポスドクとして過ごした後、同じ職場でリサーチサイエンティストに昇格した。これは外部資金による半無期雇用の研究職で、研究機関によって呼称は違うが米国では一般的なポジションである。「半無期」の意味は、安定的な雇用は保証されていないが決められた任期もないということだ。資金が途切れたら失職するリスクは契約に明記されているが(契約時に説明してくれた事務担当者から「私も同じ立場だし普通のことよ」と言われた)、ボスや自分自身の外部資金をつないで人件費を賄い続けられる限り、ポストが継続的に与えられる。もちろん、10年後に問答無用で追い出されるようなことはない。

このように米国の研究現場には有期でも無期でもないグレーゾーンで働く無数の研究者がいて、研究の生産性に少なからぬ貢献を果たしている。対して日本はというと、終身雇用を指向する文化が今なお根強いせいなのか、半無期雇用システムがあまり歓迎されていない気配がある。その空気感がおそらく10年前の労働契約法改正の背景にあった。

研究費の規模とか、外部資金で自分自身の給与が捻出できる慣習など、日米間にはいろいろ制度的な違いがある。アメリカの仕組みがそのまま日本で通用するわけではないが、少なくとも10年縛りの弊害は明らかだから、早急に労働契約法を再改正したほうがいいんじゃないか。

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中止か失敗か [科学・技術]

space_rocket_hassya.pngH3ロケットの打ち上げが中止された。メインエンジンが正常に起動後、固体燃料ブースターに着火信号が送られなかったそうである。制御系が異常を検知して非常停止したとのことで、もっか原因調査中らしい。年度内の打ち上げを目指すという報道も聞こえてくるので、設計変更を余儀なくされるほど大きな問題ではないことを願う。

打ち上げ中止を説明するJAXAの会見のなかで、ちょっと面白いことが起こった。共同通信の記者が、打ち上げは「失敗」だったとJAXAに言わせようとずいぶんと食い下がった。しかし、深刻なトラブル(爆発とか)を回避すべく安全装置が役目を果たした事象を「失敗」とは言わない、というのがJAXAの立場だ。対して共同通信の記者は、想定外の異常が発生したこと自体を「一般に失敗と言います」と言い放った。

人間は神様ではないので、あらゆる不備の可能性を完璧に想定しておくことはできない。だから不測のトラブル発生を見込んだ上で、それを最小限に抑えるため何らかの安全装置をシステムに組み込んでおく。とくにロケットのような高度に複雑なメカは、最善を尽くしてもなお何らかの不具合はつきものだ。強引に打ち上げて海の藻屑と化したりすれば、取り返しがつかない。だから大事を取るのは当たり前で、ロケットが予定通りに打ち上らないことは珍しくない。大事を取ることを、一般に失敗とは言わない。むしろ、かくも愚鈍な記者を会見に送り込んでしまった共同通信社の判断の方が、明らかな失敗である。

打ち上げ前、大手メディアはH3ロケットに対する期待感が支配的であった。これには個人的に少し嫌な予感があり、いざ打ち上げが上手くいかなかったときに掌返しをされるのではと危惧していた。かつての日本では、オリンピックやワールドカップで日の丸を背負い勝負に挑む選手たちを大いに持ち上げ、いざ期待に沿う結果が出ないと激しくバッシングする光景がよく見られた。そういうヒステリックな反応は今では少なくなったとはいえ、社会から完全に消滅したわけではない。打ち上げ中止会見でのできごとから察するに、一部メディアはまだ昭和の温度感のなかで生きているようである。

共同通信以外も、失敗と認めないJAXAや失敗と書かないメディアを批判する言説が散見される。組織体質の問題と見たいようだが、もともと工学的観点から失敗でも何でもないのだから論点がずれている。文系ジャーナリストの理系リテラシー不足ということかもしれない。今回の打ち上げ中止案件は、日本のロケット技術水準より日本の(一部の)ジャーナリズムが抱える問題点を鮮明にあぶり出した気がする。

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今日の新規感染者数 [科学・技術]

graph10_oresen1.pngテレビのニュース番組はいまだにコロナ新規感染者数を天気予報のように日々報道している。これ、そろそろ止めてもいいんじゃないか。知りたい人はネットで簡単に確認できるから、いちいちテレビに教えてもらうまでもない。

とくに「先週の同じ曜日と比べて〇人増えました」が余計である。感染が急激に拡大・縮小する一時期を除けば、データの揺らぎを見ているに過ぎないから一喜一憂しても仕方がない。それにGWとか年末年始のように検査機関がまとまった休みに入る時期は、データの増減そのものが全く意味をなさない。どうしても感染者数を伝えたいなら、データの推移をもっと大局的に分析して見せないと情報価値はない。

例えば、この正月前後の新規陽性者データの変化をみると、いったんベコっと凹んでまた戻っている。この凹みが実際の感染実態を反映していないことは、皆わかっているはずだ。にもかかわらず、先週の同じ曜日と比べて云々という無駄な分析が機械的に繰り返されるのはなぜか。データそのものは嘘をつかないが、解釈はいくらでも誤解がまかり通る。意図して騙そうとしているわけでなくとも、不用意な分析は誤ったメッセージを伝える。

第8波で国内のコロナ死者数が過去最多を更新したと騒がれている。データ上はその通りだが、それは本当のところ何を意味するのか?検査で見えていない感染者が第7波以上に多いから死者数も増えるのだ、とメディアの「専門家」は指摘する。その程度の推測は素人でもできる。

この一カ月で一万人規模のコロナ死者数を記録したそうだ。ふつう国内の死者数は冬場の一ヵ月で十数万人ほどなので、その一割弱相当ということになる。小さくない数値ではあるが、極端に多いわけでもない。それに、今のコロナ死者はもともと基礎疾患を抱えていた患者に多いようなので、コロナで亡くなった一万人がそっくり例年の統計に上積みされるとは限らない。そのあたりをもっと丁寧に分析すれば、直近のコロナ・リスクをもっと客観的に評価できるかもしれない。そういう考察を「専門家」から聞きたい。

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