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チップの話 [海外文化]

最近アメリカに出張すると、レストランで支払うチップの相場が以前より上がっていることに気付く。現地に住んでいた20年前はチップは15%程度が標準で、気前よく弾んでも18%か20%あたりが上限だった。今は、カード決済時に選ぶチップのレートが18%、20%、22%の三択だったりするので、18%でも下限と見做さされるようである。そもそも価格のベースが上がっているうえにチップの割合が上昇し、日本から行く身にとってはさらに円安が響き、とにかく出費がかさむ。

アメリカ在住に時おり書いていたコラム『コロラドの☆は歌うか』で、チップの話題を取り上げたことをふと思い出した。上記の事情で情報はいくらか古いが、ここ20年の変化を振り返る意味も含めて再掲する。



money_tip_restaurant.png過去百五十年にわたり積極的に欧米文化を吸収してきた日本人が、どういうわけか決して受け入れることのなかった生活習慣の一つが、チップである。レストランやホテルを初めタクシーや美容院に至るまで、ところ変われば相場も異なり、臨機応変にさじ加減を按配する芸当はチップ文化の外で育ったわれわれにとって簡単に真似できるものではない。アメリカの場合、レストランでは食事代の15%がチップの相場とされるが、$26.83 × 0.15のような掛け算は並の人間の暗算能力を超えている。日本人がテーブルを囲んで必死で計算している光景は現地人の目にはなかなか見もののようだが、生まれたときからチップの文化に慣れている欧米人はいちいち計算などせず、勘定書を見ればおおよそのチップの額が自動的に思い浮かぶものらしい。15%という数字はあくまで標準値で、ウェイター/ウェイトレスのサービスに満足すれば20%くらいに弾んだりする。アメリカに住んで2年半もたてば勘定書を眺めておおよそチップの額の見当はつくが、うっかり少なめに置いて店員をがっかりさせるのは忍びなく、結局マジメに15%を暗算する習慣から未だ脱していない。

チップ(tip)の語源は諸説あるようだが、もっともポピュラーなものは、18か19世紀頃のイギリスでの話、とあるカフェないしパブが「To Insure Promptness(迅速さを保証するために)」と書いた箱を店先に用意し、怠けがちな店員に機敏なサービスを促す駄賃を募ったという逸話だ。最後のPromptnessはPrompt serviceだったりPerformanceだったり幾つかバリエーションがあるが、いずれにせよチップは心地良いサービスへのささやかな投資と考えられ、その頭文字をとってTIPとしたということである。ただし、「Take it, please」を略してTIPにしたという(今ひとつ味気ない)説もあるようで、真偽の程は定かでない。
私のボスは常々、バーで気分よく飲む秘訣は「最初の」飲み物を注文するときにチップを弾むことだと説く。バーテンダーは、気前の良い客の顔はカウンターを去るまできっちり覚えていて、ビールを注ぐ手元も自ずと寛大になるという算段らしい。それ に比べてレストランでは食事が済んだあとにチップを置くのが流儀で、客と店員の力関係はバーのような先行投資型の駆け引きとは微妙に異なり、チップはサービスの質をコントロールするよりむしろサービスを評価する賞罰に近い。従って店員は最後まで客の機嫌を損ねまいと愛想を振りまく理屈になるが、もともと陽気なアメリカ人のこと、ウェイトレスがフレンドリーだからといってそれがチップ目当てなのか単に本人の性格なのか判然としない。時には無愛想で気の利かないウェイトレスにあたることもあるが、現地の人はチップを多少上乗せすることはあっても、わざと減額することは(余程のことがない限り)あり得ない。

われわれ日本人は、チップを置くたびに何だか損をした気分がする。観光地のレストランでは時々15から18%のチップを初めから勘定に加えてあることがあり、要するにチップに慣れない外国人が払い忘れないよう先手を打っているのだが、客としては騙されているようでいい気持ちはしない。また寿司屋のように単価の高いレストランの場合二人で50ドルは軽く越え、二言三言交わしただけのウェイターに対して10ドル近いチップを渡すのは何だか理不尽な気がする。それでも、こちらの寿司屋で働いていた知人によれば、アメリカ人は勘定がいかに高くとも15%の標準ラインはきっちり守るのだそうだ。チップをケチることはすなわちサービスに対する明確な不満の表明であり、それがいわれのない苦情であれば彼らの仕事に対する不当な侮辱ということになる。これはもちろんレストランに限らない。ホテルを出掛けに部屋に残す1ドルは悪気がなくともつい忘れがちだが、ハウスキーパーにとってはチップが置いて「ない」事実が辛辣なメッセージになりうるのだ。
チップを受け取る職種は裏を返せば雀の涙の基本給で働く労働者階級で、彼らは文字通り客のチップを糧に生活していると言ってよい。英和辞典でチップを引くと心づけとか祝儀といった訳語が出てくることがあるが、実際はそんな生易しいものではない。チップは正当な労働の対価なのである。チップの語源はそもそも略語でもなんでもなく、tipという単語にもともと遣い走りに握らせる幾ばくかの報酬を意味する古い用法があるとの説もある。つまるところ、これがチップの本来の意義に一番近いかもしれない。

原則は原則としてさておき、チップがかかりそうなのに払わなくてよい状況も実は結構ある。例えばファーストフード類のセルフサービスの店ではチップをおく必要はないが、その割にはレジのカウンターにチップ用の壷が置いてあることが多い。大抵の客は無視するが、たまに釣りの小銭をそのまま放り込んでいく人を見かける。モーテル(必要最小限のサービスを備えた主に車旅行者向けの安い宿泊施設)はハウスキーパーへのチップは不要とされ、試しに一ドル置いておくと夕方部屋に帰って来た時そのまま残っていたりする(もちろん受け取られる場合もある)。
空港のシャトルバスに乗ると、運転席の横に「チップ歓迎」というパネルが張ってあることがある。これも無視してとくに差し支えないのだが、重いスーツケースの積み込みを頼んだ場合などに、チップを手渡すと運転手は嬉しそうな顔をする。わずかな臨時収入自体に大した意味はなくとも、見知らぬ人が自分の仕事振りに感謝してくれたと思えば誰だって嬉しいに違いない。営業用ではない本心の笑顔で迎えられる一ドル札は、単なる一ドル以上の価値があるのだ。
チップは欧米圏における経済システムの一部であると同時に、ときにささやかな善意をそっと伝えることもある。それは、ガイドブックには載らないチップ文化の奥深さだと言えよう。

(初出:『コロラドの☆は歌うか』2005年1月12日付)


読み返して気付いたが、私自身はホテルの1ドルチップを置かなくなった。コロナ禍後はそもそも原則連泊時のハウスキーピングをやらないホテルが増えたせいだが、キャッシュレス決済が浸透して小額紙幣の持ち合わせがなくなりがちな(買い物でお釣りをもらう機会がなくなった)事情も大きい。シャトルのドライバー向けチップはなるべく用意するようにしているが、これもやらないアメリカ人は増えたように思う。UBERのようなネット前払いのライドシェアが一般的になり、支払い方の慣習が変わったせいもあるかもしれない。UBERでもドライバーへチップを払うオプションはあるが、アプリ経由のネット決済で完結するので紙幣を用意する必要がない。

先月の米国出張で、滞在先のホテルが用意する無料の空港送迎シャトルを利用した。往路で偶然、コロラド在住時のボス(バーでチップの払い方を教えてくれた当人)とシャトルに乗り合わせた。降車時にこっそり様子を伺うと、運転手からスーツケースを受け取る際に彼はちゃんとチップを渡していた。紙幣の持ち合わせがないというのも、つまるところは言い訳に過ぎない。いくらキャッシュレスが定着した世の中になろうと変わらないものは変わらないのだと、改めて感じ入る瞬間であった。

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自民党総裁選 [政治・経済]

senkyo_title.png自民党総裁に石破さんが選出された。第一ラウンドが終わり議員票と党員票ともに高市さんにリードを許した時点で、議員票のウェイトが大きい決選投票では石破さんに勝ち目は薄かろうと思っていたから、開票結果を見てかなり驚いた。

石破さんは、顔つきが怖いことをよく自虐ネタにしている。私自身は、石破さんの顔を怖いと思ったことはない。アンパンマンに似ているという声もちらほら聞こえるくらいだから、政治家としてはむしろ愛嬌のある面構ではないか。個人的には、高市さんが会見で見せるわざとらしい作り笑いのほうに苦手感がある。ただ彼女がそういう風に生きてきた証としてあの笑顔があるのだとしたら、他人がとやかく言う筋合いはないかもしれない。

当初は本命視された小泉さんは、三位に沈んだ。議員票では辛うじて最多得票だったが、党員票で伸び悩んだ。政策面でこの人らしいツッコミどころを存分に披露してしまい、ネット界隈でボコボコにされ他人事ながら少し気の毒だった。小泉さんは思索の人ではなく、反射神経の人なのである。確かに総理候補としては、たぶん経験も思慮もまだ足りない。とは言え、発言がはじける場面ばかり取り上げて批判されるものの、普通にまともなことも言っている。知的レベルが低いなどと記者にディスられたときは、下手に出て器用に切り返していた。少なくともこの記者よりは小泉さんの方が明らかに知性的である。

石破さんはむしろ思索の人で、答えの出ない問をとくとくと話し続けるのがお好きだ。そのせいで、この人が喋っていると政治家というより学者のように見える。しかし組織のトップは考え続けるより決断するのが仕事である。石破さんがどんな総理になるのか、いろいろな意味で楽しみだ。

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ドライブ・マイ・カー [映画・漫画]

海外出張帰りの機内で、濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』を観た。2021年カンヌ映画祭を皮切りに数々の映画賞を受賞した、言わずと知れた話題作である。3時間近い長尺をひたすら静かな会話劇が紡ぐ作品だが、その長さを感じさせない不思議な吸引力がある。

主人公の家福は舞台俳優兼演出家で、チェーホフの舞台稽古をつけるため広島にやってくる。様々な外国語が飛び交う多言語劇が彼の演出の特徴で、出身国がまちまちの役者たちが各々の第一言語(手話の使い手もいる)で台詞を語る。一見すると会話がまったく噛み合わないので、稽古で読み合わせに挑む役者たち自身、初めは戸惑いを隠せない。だが立ち稽古に進んでいくにつれ、言語を超えた感情の交歓が不意に訪れ、言葉が通じないはずの役者どうしが深い共感で繋がってゆく。

家福は、数年前に亡くした妻に複雑な思いを抱き続ける男である。彼は妻の不倫に気付いていたが、それを彼女に問い詰めることはなかった。見て見ぬふりで維持される仲睦まじい夫婦の平穏が、家福にとってかけがえのない毎日だったのである。そんな日々が妻の予期せぬ病によって唐突に絶たれた後も、家福は妻の秘密に心の内で向き合おうとはしない。妻の不倫相手であった高槻という若い俳優が、彼の舞台のオーディションに現れるまでは。

高槻は家福と対照的に奔放で軽い男である。彼は家福に対し、家福の亡き妻への好意をあけすけに認める。直情的な高槻は、しかし同時に己の弱さをも率直に受け入れる真っすぐな男でもある。そんな高槻の言葉が、胸の内に閉ざされた傷からずっと眼を背けてきた家福の心に、そっと波紋を広げる。

car4_red.png稽古場まで家福を送り迎えするのは、演劇祭の主催者が雇った運転手のみさきである。寡黙でぶっきらぼうだが運転の腕は確かなみさきは、初めは愛車の運転を託したがらなかった家福の信頼を得るに至る。北海道の寒村で粗暴な母親のもとで育った彼女は、自宅を襲った災害でその母を失って以来、天涯孤独の身上を生き抜いてきた。母への鬱屈した想いに揺れた暗い思春期から逃げ延びたさつきと、妻に対し揺れる感情を自ら封印してきた家福。『ドライブ・マイ・カー』の終盤は、似た者同士の二人が互いに少しずつ心を開いていく静謐で美しいロードムービーへと昇華していく。

私は村上春樹の同名小説を読んでいないが、多言語劇というモチーフは原作にない濱口監督のオリジナルだという。一見するとちぐはぐで異様な劇中劇だが、ある意味で日常にありふれたコミュニケーション不全のメタファーでもある。母国語で身近な人と話していても、しばしば会話が噛み合わない。他愛もないすれ違いに過ぎないときもあれば、深い断絶が潜んでいるときもある。理解できない背後の真実を恐れ曖昧にやり過ごすと、小さな異物感が徐々に堆積しやがて心を蝕んでいく。家福が演出する多言語劇の混沌は、図らずも彼自身が抱える葛藤の象徴でもあった。だからその混沌が浄化されるチェーホフの舞台の幕切れは、映画の中で家福の救済として描かれるのである。

自分の車を運転する(ドライブ・マイ・カー)という行為はたぶん、自ら人生をコントロールしたいと思う衝動の暗喩でもある。家福が初めみさきに愛車を運転させたがらなかったのは、人生の決定権を他人に委ねることを本能的に恐れたからだ。だが家福はみさきの運転に身を委ねることで、亡き妻に対する愛情と怒りをようやく真正面から受け入れるようになる。

映画は、ひとり車を走らせるみさきが新たな人生へ踏み出した暗示で終わっている。『ドライブ・マイ・カー』というタイトルが主語を欠いている理由は、それが家福だけでなくみさきに訪れた変化も見つめた物語だからだと、観客は最後の最後に気付く仕掛けになっている。

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パワハラ知事 [政治・経済]

5_kinki5_hyougo.png斎藤元彦兵庫県知事のパワハラ疑惑が問題になっている。兵庫県政と言えば、10年前に政務活動費の不適切支出で名を馳せた野々村竜太郎元県議の号泣会見(やっと議員になったんですぅ!)を思い出す。クセ強で芝居がかった野々村氏とは対照的に、百条委員会で顔色一つ変えず挑発にも乗らない斎藤知事の冷静沈着ぶりは、ある意味プロの技である。

問題発覚のきっかけは県庁職員による匿名の内部告発だったが、県が調査で告発者を特定して懲戒処分を下し、その後告発者が自死していたことが明るみに出た。これを問われると、斎藤知事は一貫して告発は誹謗中傷であって公益通報ではないと反論する。ご本人は本心から「嘘八百」と思っているのだろうが、知事がどう思うかは問題の核心ではない。誹謗中傷とは根拠のない不当な非難のことであるが、根拠がなかったのかどうかは第三者に検証を委ねなければ客観性が担保されない。告発された当事者(=知事)の影響下で告発者を処分する行為が制度的に許されるなら、為政者による粛清を法的に容認しているに等しい。

野々村元県議や、最近では都知事選で一世を風靡した石丸伸二氏と明確に違うのは、斎藤氏は会見の場で感情が乱れたり質問者をディスったりしないことである。このあたりは、総務官僚出身の斎藤知事が霞が関で培った処世術というか官僚的習性なのだろうかと推察する。一方、彼が県庁職員からかなり煙たがられていたことは間違いなさそうである。数々の「おねだり」を含め、県職員のアンケート調査から出て来た諸案件は(個々の伝聞情報の蓋然性は別にして)知事に対する不信と反感に満ちている。

斎藤知事は、官邸主導の官僚支配を県政レベルで再現したかったかのようにも見える。強大な権力に裏打ちされたトップダウンを最善のモデルと考えていたのかもしれないし、使われる立場から使う立場に転身することで積年のルサンチマンを開放したかったのかもしれない。いずれにせよ、中央省庁の組織文化を地方自治体に移植しようとすれば拒否反応が起こるのは目に見えている。休日や深夜に知事から指示が飛ぶという苦情がアンケートで相次いだそうだが、霞が関の悪しき伝統が普通の世間では通用しないことを斎藤知事はもう少し自覚しておくべきだったかもしれない。

県庁内部でトップと現場のあいだにここまで敵対関係が醸成されてしまえば、問題が表面化するのはいずれにせよ時間の問題だっただろう。全国的に官僚出身の知事が珍しくないことを考えると、今回のパワハラ案件は斎藤知事個人の特異性による要素が大きいとは言え、ひょっとすると今回のような問題は兵庫県庁だけの話ではないかもしれない。

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400(+3)号記事 [その他]

bg_room_syosai_book.jpgブログ400回目でいったん過去百回を振り返るつもりだったのだが、気が付いたら403号記事になっていた。前回キリ番の300号記事(2022年9月14日付け)から、2年弱をかけて到達したことになる。それに先立つ200号から300号までは約1年しか要しなかったので、記事を上げる頻度が半減したことになる。パンデミックの最中はほぼ週二ペースで更新していてたのだが、今は週一前後の通常営業に戻っている。当時のコラムを自分で見返すとどことなく鬱屈した記事が多く、出口の見えないコロナ禍で悶々とした空気感を思い出す。

300回の記事はこう締めくくった。
残る課題は一億総マスク生活をいつまで続けるかだが、欧米圏がパンデミックから一抜けしつつある昨今、ひとつ確かなことがある。コロナが終わった時にマスクを外せるのではなくて、マスクを外した時にコロナが終わるのである。その踏ん切りがつかない限り、私たちが以前のようにマスクを気にせず街を歩ける日は永遠に来ないだろう。
半ば皮肉のつもりで書いたのだが、2年前よりはかなり減ったものの、今でも猛暑のなかマスク着用を欠かさない几帳面な人は少なくない。コロナの波は相変わらず寄せては返す状態ではあるが、罹っても以前のように疫病神に呪われたような悲壮感はない。熱が出てインフルかコロナかわからないけどまあいいや、みたいな話も普通に聞かれるようになった。片目をつぶって付き合うくらいのいい加減さが、面倒臭い隣人をやり過ごす術である。

過去100記事でアクセス数をもっとも稼いだのは、『サンタの憂鬱(後編)』であった。コロナ中の2020年冬に始めた年一度のクリスマスシリーズで、もともとはサンタとルドルフの掛け合い漫才的な軽いフィクションだったが、それに飽きた3年目にちょっと真面目な短編風にシフトしてみたのが『サンタの憂鬱』三連作だった。家庭は裕福だが心の内に孤独感を抱える少女が、アイデンティティ・クライシスに悩むサンタといっとき心を通わせる、という設定である。彼女には一年後の続編『ルドルフの憂鬱(後編)』にも再登場してもらった。何気なく始めたサンタとルドルフシリーズは、毎年クリスマスが近づくと後先を考えず思い付きで話をでっち上げるので、年々収拾がつかなくなりつつある。

でも今振り返って、ふと気付いたことがある。『サンタの憂鬱(前編)』で、サンタは天職と思っていたプレゼント配送業に初めて迷いを覚え、足元が揺らぐような不安に悩む。そんなサンタを前に、普段は皮肉屋でイタズラ好きなルドルフは、思いのほか頼もしいバディの一面をのぞかせる。フィクションの体裁を借りつつ、私は無意識に過去の自分を思い返していたのかもしれない。博士課程の最後の年、ポスドクの就職先が見つからず研究職を諦めるべきか悩んだかつての自分が、公園でひとり黄昏れるサンタとどことなく重なる。ルドルフはたぶん、苦境の私に手を差し伸べてくれた多くの恩人たちの面影が凝縮されているのである。

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白ゆりのような女の子 [映画・漫画]

『サザエさん』にしろ『ドラえもん』にしろ、何十年の時を経ても漫画の登場人物は歳を取らない。家族や友だちのあいだで展開される物語は時代が変わっても本質は変わらないから、昭和でも令和でもカツオやのび太は小学生読者から同世代として受け入れられる。その普遍性を損なわないよう、おそらく作者が意図的にストーリーから時代性を排除しているのではないかと想像する。

valentinesday_itachoco2.pngしかし、時にその不文律が破られることもある。例えば『ドラえもん』の初期に発表された『白ゆりのような女の子』というエピソード。太平洋戦争最後の年の初夏のこと、のび太のパパが学童疎開で遭遇したできごとを振り返るシーンで物語は始まる。食糧難の厳しい暮らしに喘ぐある日の夕暮れ、川辺で美しい少女からチョコレートをもらった思い出を、遠い目で語るパパ。確かに、本エピソード初出の1970年当時小学生だったのび太にとって、父は幼少期に戦争を経験した世代である。少女の名も素性も知らないパパのために、のび太とドラえもんはタイムマシンでその現場を確かめに出かける。

首尾よく疎開中のパパを見つけた二人だったが、『ドラえもん』の常として次々と想定外の事態が降りかかる。肝心の少女は一向に現れず、監督する教師のしごきに耐えかねた幼きパパは「おかあさん、ぼく死んじまいたいよ」と涙をこぼし、川に入水する。物陰からその様子を見て「話がちがう」と泡を喰ったのび太は、成り行き上自分で「白ゆりのような女の子」を演じ父に手を差し伸べる羽目になる。長い年月を経て純化されたパパの美しい記憶を損ないたくなかったのび太とドラえもんは、パパに少女の正体を明かすことなく真実を封印するのだった。

『白ゆりのような女の子』は、ナンセンスなギャグが冴えわたると同時に丁寧な伏線が仕込まれ、数多ある『ドラえもん』のエピソード中で間違いなく佳作の部類に入る。それでいて、かなりシリアスなシーンが見え隠れする作品でもある。「少女」に出遭った時のび太の父が川にいた本当の理由を、パパ自身はのび太とドラえもんに一切語らなかった。敢えて触れなかったのか、忌まわしい記憶を無意識に閉じ込めていたのか、真相は分からない。だが、パパの心のひだにまで踏み込んだそのさり気ないリアリティにこそ、藤子・F・不二雄がこの物語を描いた本当の理由があったように思う。

1933年生まれの藤子・F・不二雄氏は、のび太のパパと同世代である。『白ゆりのような女の子』で描かれた学童疎開の情景は、多かれ少なかれ作者本人の体験が反映されていても不思議はない。漫画の中で、疎開先の寺の住職が「もう、勉強どころじゃないんだ。子供まで食料づくりにかり出して・・・日本はどうなるんじゃろう。」と嘆く一コマがある。畑仕事でしごかれる子供たちの労苦は、藤子氏の実体験そのものだったのかもしれない。そして、辛さのあまり入水自殺の誘惑に駆られたパパの場面も、完全なフィクションではなかったのかもしれない。

『ドラえもん』の中で太平洋戦争が描かれるエピソードは、『白ゆりのような女の子』と『ぞうとおじさん』の二作を除くとほとんど見当たらない。父や叔父世代が戦争体験を語る物語は、やがて同時代性を失う運命にあると藤子・F・不二雄氏はよく自覚していたのだと思う。だが『白ゆりの・・・』と『ぞうと・・・』の二作がいずれも力のこもった忘れがたい作品であることを思えば、そのタブーを破ってでも藤子氏が伝えたかったメッセージがきっとあったはずである。

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五輪ルーレット [スポーツ]

パリオリンピックが期間後半に入った。今回のオリンピックの特色は、「誤審」疑惑がやたらと巷を騒がせていることである。完璧な人間はいないので審判が間違えることもあるに違いないが、ルールを熟知しないギャラリーが勝手に曲解しているケースもあるだろう。素人にその判断は難しいが、自国の選手が惜敗するとアレは誤審だった(本当は私たちが勝っていた)とつい言いたくなるのは、世界共通のようである。

roulette.pngさて誤審とは別問題だが、柔道混合団体戦の決勝で登場した「疑惑のルーレット」が物議を醸している。日本とフランスが六試合を終え三勝三敗で並び、タイブレイクを託す階級を抽選したところ90キロ超級の再戦が決まった。ここぞという決定戦でフランスが誇る強豪リネールに白羽の矢が立つ出来過ぎた展開に、開催国フランスが出来レースを仕込んだのではという疑惑が噴出した。

6階級のうちどれが選ばれるか、ランダムにくじを引けば確率は6分の1である。サイコロを一回振って特定の目が出る確率と同じだ。すごろくのコマを進めるとき、1の目は出るなと願ってサイコロを振ったら運悪く1が出てしまった、くらいの残念感だ。普通に偶然の範疇で、不正があった証拠にもなかった根拠にもならない。もし抽選システムに不審な操作の痕跡でも見つかったなら話は別だが、そうでなければ疑念を抱く理由は何もない。

私たちは、確率が示す数値を冷静に受け入れるのが苦手である。偶然の中に存在しない意図を見出したり、逆に必然に逆らう一縷の望みに願いをかけたりする。そうでなければ、確率的に胴元必勝が分かり切っている宝くじを買う人はいないし、勝ち目のないギャンブルに手を出す人もいない。オリンピックはもちろんギャンブルではないが、それでも少なからず運不運が支配する非情な世界である。一握りの勝者が手にする栄光の陰には、最善を尽くしたがあと一歩及ばず涙を飲んだ選手が無数にいる。敗者は多かれ少なかれ偶然の犠牲者でもあり、その意味で決して弱者ではない。

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フランスではいつも何かが [海外文化]

gaisenmon.pngフランスでは、いつも何かが壊れている。7年前パリの大学に半年ほど滞在した際、研究棟にはフロアの二部屋にしかエアコンが装備されていなかった。そして、そのうちの一つはずいぶん前から故障していた。夏場は各オフィスで扇風機がフル稼働するが、それでも耐えられない猛暑日には唯一エアコンが稼働する会議室が避難所と化し、同僚がノートパソコンを手にわらわらと集結したものである。

パリ滞在中に住んでいた大学所有のアパルトマンは、大きな窓の取っ手が壊れていた。管理人に事情を話すと、数週間が過ぎたころ突然スタッフが部屋に現れ修理を始めた。ところが持参した部品が間違っていたことが判明し、何も直らないまま引き上げた。結局、部屋を退去するまで窓が密閉することはなかった。秋が深まる前に帰国したのは幸運だったかもしれない。

駅に並ぶ券売機のうち一台や二台はまともに動作していない、といった事態は日常茶飯事である。あるとき券売機の前で四苦八苦していると、不慣れな外国人を助けようと地元の若者が声を掛けてくれた。彼が操作してみたものの原因は不慣れな私たちではなく機械故障と判明し、皮肉交じりに「フランスへようこそ!」と笑った。いつも何かが壊れている毎日こそフランスらしさであると、フランス人自身よく自覚しているのである。

滞在先の大学内に食堂があったが、不味いことで有名だった。周囲の同僚は誰もそこには行かず、ランチはキャンパス外でテイクアウトのサラダやサンドウィッチを買って近所の公園で食べることが多かった。近所の公園といってもその名をLes Arènes de Lutèceと言い、一世紀に造られた小ぶりの円形闘技場跡である。観光客には知られていないローマ時代の史跡が地元民の憩いの場になっているところ、パリという街の奥深さが垣間見える。

パリオリンピックが始まった。試合を巡る悲喜交々の陰で、選手村の飯がイマイチとか、選手を輸送するバスが遅れるとか、運営の不備を指摘する声がちらほら漏れ聞こえる。ネットで拡散される情報は誇張も多いと思うが、少しでもパリの暮らしを知る人なら「まあ、そんなもんだろうな」と普通に納得するのではなかろうか。

ただ私がパリの暮らしで思い出すのは、不具合を永遠に放置するテキトーさと同時に、その中で逞しく生きる人たちのおおらかさである。券売機の青年は言うまでもなく、オフィス相部屋のベトナム系女性は私のためにどこからともなく扇風機を調達してくれたり、基本みんな優しかった。ものごとが想定通りに動かないのが想定内、何だかんだあっても皆であれこれやっているうち結局何とかなる。それがフランス人的精神の神髄であり、フランスという国の繁栄の礎ではないかと思う。

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怪物 [映画・漫画]

SNS全盛の昨今、あからさまなフェイクにせよ独りよがりな義憤にせよ、毎日のように誰かが誰かを責めている。ふと、昨年公開された是枝裕和監督の映画『怪物』のことを書きたくなった。ソーシャルメディアを描いた作品ではないが、ネットでも地域社会でもそこに立ち現れる人間の本質は変わらない。

senro.png『怪物』は火事の場面で始まる。劇中でその後二度同じ火事のシーンが登場し、それを合図に同じ時系列が視点を変えて繰り返される。一回目は息子の不可解な行動の裏に担任の暗い陰を疑う母親の視点から、二巡目はその担任教諭の視座から、そして最後は少年自身の目線から。芥川の『藪の中』現代版のようでもあるが、三者は単なる事件の証言者に留まらない。当事者はそれぞれ大切な何かを守ろうと必死で、そのせいで知らないうちに誰かを追い詰め傷つける。

子供を思う一心で母親は小学校の隠蔽体質に毅然と立ち向かうが、糾弾された教師の眼に母親は理不尽なモンスターペアレントに映る。少年は予測不能な言動で大人たちを翻弄し、結果として母と学校の対立を助長する。しかし物語の三周目に至り、小さな胸に募る想いを表現する術を知らない少年の内面が、少しずつ明らかになる。

少年が通う小学校の校長は、最近身近に起こった悲劇のせいで常に無気力で心を閉ざしている。母親の訴えも担任教師の抗議も、彼女の心には響かない。しかし、少年が唯一本心を打ち明けた大人は、ほかならぬこの校長であった。学校組織の頂点で自己保身にしか関心のないように見える校長と、組織の底辺で誰にも守られずもがく少年。対極にいるはずの二人を引き寄せた唯一つの共通点は、各々誰にも言えない秘密に独り心を引き裂かれる、どうにもならない苦しさだった。

私たちはできごとや人物を限られた情報から判断し、曖昧な虚像はしばしば推測や想像で強化され独り歩きする。ただ、『怪物』はそれを声高に告発する映画ではない。むしろ他者に届かない微かな声に耳を傾け、そしてじっと寄り添う。云うなれば、言葉にならない生きづらさを抱えた少年(たち)と彼らを不器用に支えようとする大人たちの、すれ違いと歩み寄りの物語である。

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大山鳴動して・・・ [政治・経済]

senkyo_bako.png東京都知事選は小池百合子氏の三選で決着した。50人を超える有象無象の候補、候補者ポスター掲示板の権利売買事件など、前代未聞のカオスで始まった選挙戦は、現職続投という地味な結末に落ち着いた。大山鳴動して何とやらの感がある。

当初は小池氏と一騎打ちかと注目された蓮舫氏は、彼女のモットーである「二位じゃダメなんですか」どころか三位に沈む結果に終わった。蓮舫氏は徹頭徹尾、昔ながらの野党の人である。自分が正しいと信じることを貫きさえすれば政治家は務まる、とピュアに信じておられるのではないか。一国会議員であれば、それはそれで役割を全うできるかもしれない。だが都知事は巨大な役所を動かす仕事である。役所には役所を回す論理があり、(小池百合子流に言えば)モメンタムがある。大義名分の良し悪し以前の問題として、運転の仕方が分からない人にドライバーを任せたくないと民意は直観するのである。野党は未だにそれが分かっていない。

蓮舫氏に代わって二位に躍進したのが、元安芸高田市長の石丸伸二氏である。どこからともなく颯爽と現れ、歯に衣着せぬ弁舌を武器に善戦したが、落選したとたんメディアやコメンテーターを塩対応で切り捨てるブラック石丸モードにスイッチが入った。質疑応答が面倒くさくなると勝手に仕切り直して自分の土俵に引き寄せ、議論のための議論に持ち込むタイプである。しかし有権者は別に政治家に論争を吹っ掛けたいわけではない。石丸氏はひろゆき氏的な立ち位置ならそれなりにネット界隈で人気を取るかもしれないが、落選にイラついて気が緩んだか都知事の器ではないと自ら露呈してしまった。

小池百合子氏もイラつきを隠すのが不得手な人だが、記者会見の気に入らない質問にも一通り外交的に対応しようとしている。どこか腹黒そうでアンチも多いが、石原氏・猪瀬氏・舛添氏と受け継がれた人物像をなぞると、都知事ってこんなものかと何となく得心してまう。学歴詐称疑惑とかいろいろ問題を抱えながら小池氏が都知事選を制したのは、素人っぽい正義漢より仕事ができそうなワルのほうがマシ、と考える都民が少なくなったからではないか。かく言う私自身は東京都民ではないので、あくまでお気軽な部外者の感想に過ぎない。

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