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生きる [映画・漫画]

黒澤明監督の『生きる』を基にした英国映画『Living』が公開されている。オリジナルが世界的に知られる不朽の古典的名作だけに、リメイクはハードルが高い。個人的には、カズオ・イシグロが脚本を書いたことにとても関心を引かれた。

buranko.png物語の骨格は、オリジナルをかなり忠実になぞっている。車のフロントガラス越しに見える雨の日の記憶とか、雪の夜にひとりブランコを漕ぐ有名なラストシーンとか、黒澤版へのオマージュに事欠かない。それでいて、映画が醸成する全体的な印象はかなり違う。1950年代の日本と同時代のイギリスを隔てる文化的背景や人物像の違いも大きいと思うが、理由はそれだけではないような気もする。

黒澤映画の前半は不治の病を知り混乱した渡辺の苦悩を描き、後半は渡辺の死後その変貌ぶりを同僚らが回想する。オリジナルより40分短いイシグロの脚本は、どちらかというとその前半部に焦点を当てている。結果として、人が変わったように小さな公園の建設に尽力するウィリアムより、そこに至るまでの彼の煩悶が映画全体の雰囲気を支配する。

ウィリアムは妻を亡くした孤独の中で生き、同居する息子夫婦との関係もぎこちない。お互い伝えたいことを切り出せず、他愛のない会話に逃げ込むシーンのリアリティはイシグロの真骨頂である。ウィリアムにとどまらず、『Living』の登場人物は皆すこし寂し気だ。自暴自棄のウィリアムを場末のパブやストリップ小屋へ案内する作家の男も、死の直前に公園のブランコに座るウィリアムを目撃した警官も、どこか悲しい目をしている。ウィリアムが「生き返る」きっかけを与える快活な部下の女性ハリスすら、転職先で彼女自身の悩みを抱えている。

役所の形式主義に染まり無為の日々を送っていた主人公が、死期を悟り逡巡の末に人生の意味に目覚める。根底にあるテーマは共通だが、単調な仕事一徹に身を削り続けたが故の惨めさがにじみ出る渡辺に比べ、ウィリアムは透明で消え入りそうな寂寥の中を生きている。だがウィリアムが息子にすら明かせなかった余命をハリスに打ち明け、自らを静かに蝕んできた孤独を彼女と分かちあったとき、ついに自身の進むべき道を見出す。

オリジナル版の『生きる』で渡辺を変えるきっかけを与えた小田切は、ハリスほど元上司に深い共感を示さなかった。渡辺にとって救済は主に社会的役割の回復にあったが、ウィリアムを変えたのはより個人的な温もりに近い何かだった。『Living』でカズオイシグロが描く人物が、程度の差こそあれみな同じような哀しみを秘めているのは、潜在的には誰もがウィリアムと同じ苦悩を心の奥底に抱えているからである。

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沈黙の音楽 [音楽]

フェデリコ・モンポウというスペイン(カタルーニャ)の作曲家がいる。19世紀末に生まれたのでオネゲルやミヨーあたりと同世代だが、長寿を全うし1987年まで生きた。父親が鐘を造る職人だったせいか、鐘の音を思わせる美しい不協和音を音符に落とすことに長けた人だ。モンポウの作品の多くはピアノ小品で、『歌と踊り』という愛らしい曲集から『沈黙の音楽』というかなり晦渋な作品群まで、作風の幅が広い作曲家である。

若き日のモンポウはガブリエル・フォーレの音楽に感激し、師グラナドスの推薦状を携えてパリにやって来た。しかし、敬愛する偉大な音楽家との出会いを目前にして、緊張感に耐えられず音楽院の待合室から逃げ出し、自ら弟子入りの機会をふいにしてしまう。極度に繊細で内気な人だったようである。モンポウの内向的な思索性がいちばん顕著に表れているのが、彼の円熟期を代表する『Música Callada』と題された一連の小品集だ。日本語では『沈黙の音楽』と訳されたり『ひそやかな音楽』と呼ばれたりするが、モンポウ自身はこの曲名をスペイン語以外で適切に訳出することは困難と書き残している。

bg_chiheisen_brown.jpg一曲一曲はほんの数分の短い音楽だ。キャッチーな旋律や技巧的なパッセージは一切登場しない。調性と無調のはざまをカゲロウのように移ろい、静けさから立ち現れてはまたすぐに沈黙へ吸い込まれる。それはまるで、世界の終わりに生き残った最後の人間が、砂漠に飲み込まれゆく村に佇む小さな小屋で、聴かせる相手のいないピアノを独り訥々と弾いているかのようだ。時が意味を失った世界で、己の心と向き合うためだけに奏でる曲の数々。『Música Callada』はそんな音楽である。

先日亡くなった坂本龍一さんがスタジオで撮った最期のコンサートをテレビで見た。今年の正月明けくらいだったろうか。『戦メリ』や『ラストエンペラー』のような代表作の合間に、坂本さんは近作の小品を弾いた。その静謐で内省的な音楽が、モンポウの『Música Callada』を少し思わせた。国も時代も作風も全く異なる二人の作曲家が、晩年に到達した精神世界でどこか通じ合うのが面白い。百人百様の喜怒哀楽のもっと深くに、選ばれた人のみが表現することを許された人類共通の心象風景が潜んでいるいうことなのか。

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チャットGPT [科学・技術]

名古屋大学の杉山総長が、卒業式のスピーチでチャットGPTに作らせた祝辞を紹介して話題を呼んだ。その部分を引用させていただく。
みなさん、こんにちは。今日は満開の桜の中、名古屋大学での卒業式に参加していただき、ありがとうございます。この美しい景色とともに、皆さんの人生の新たなステージが始まります。
名古屋大学での学びや経験は、皆さんが将来の人生に必要なものをたくさん備えていることでしょう。今後の道のりが険しい場合でも、この大学で培った知識や技能、そして仲間たちとの出会いや絆を思い出して、自信を持って進んでください。
卒業式は、皆さんの努力と成果をたたえるとともに、これからの未来に向けてのエールでもあります。卒業生の皆さんは、自分自身の力でこの日を迎えることができました。心からおめでとうございます。これから先、皆さんはそれぞれの道を進んでいきますが、この大学での思い出や出会いを忘れずに、より一層の成長を遂げてください。
最後に、この美しい景色とともに、皆さんの未来が輝かしいものでありますように。心よりおめでとうございます。
総長はAI製の祝辞を「それっぽいがきわめて空虚」と評しつつ、AIにできることと人間にしか造り出せないことが共存する社会に飛び込む学生たちへエールを贈った。

ai_write.pngチャットGPTやDeepLなど、AIが捻り出す文章の完成度は確かに驚くほど向上した。学生がレポート作成にAIツールの力を借りることがあれば、逆に設問作成をチャットGPTに任せる教員もいると聞く。AI技術の進歩は、否応なく教育現場に大きな変化をもたらしつつある。そこに無限の可能性を見るか前代未聞の脅威と捉えるか、意見は分かれるだろう。だが私が思うのは、そもそも学校教育で私たちは何を目指してきたのかということである。

杉山総長が読み上げたチャットGPTの祝辞は、とても優等生的である。ほぼ非の打ち所がないが、それでいて何も伝わってこない。それが、杉山総長が評するところの「それっぽいが空虚」ということだ。でももしかすると、私たちが学校教育で強いられてきたこと(そして今の子供たちに強いていること)は、まさにこれだったんじゃないだろうか。自分が何を感じたとか、本当は何を言いたいかと別に、最大公約数的な模範解答が存在する。そしてそれが社会に快適な居場所を確保する早道だと、遅かれ早かれ学習する。私たちの教育システムは、チャットGPTの祝辞のような予定調和の「正答」へ人間の思考回路を固定する、機械学習の壮大な実験装置だったのではなかろうか。

チャットGPTの文章を見事だと思ってしまうのは、AIが人間の知能に近づいたせいというより、逆に私たち自身がもともとAI的な学習を指向する教育に馴染んでいたからである。学生がチャットGPTが吐き出した答えをレポートに出して、それがもし教員の求める理想的な解答だったとしたら、ある意味で学校教育がもたらした必然的な帰結ということかもしれない。

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