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丁寧な説明 [社会]

building_fukushima_daiichi_genpatsu.png福島第一原発処理水の海洋放出をめぐり、政府は判を押したように丁寧な説明で理解を求める云々と言う。説明はしないよりした方が良いに決まっているが、残念ながら「丁寧な説明」にはたぶん何の効果もない。

世間は、わからないことを理解したいと思う人と思わない人の二種類で成立している。理解したい人は、誰かに説明してもらう前に自分で調べて考える。そうでない人は、説明をされようがされまいが意見を変える気がない(またはもとから関心がない)。だから、そもそも「丁寧な説明」を求める需要自体がどこにもないのである。

福島の原発汚染水はまずALPSという装置で処理され、二次処理を経てほとんどの放射性核種は基準値未満まで取り除かれる。しかし中には技術的に除去の難しい核種もある。最近良く耳にするトリチウム(三重水素)がその代表格で、福島に限らず原子炉の冷却水にはトリチウムを含む水分子が少し混じっている(微量ながら自然界にも存在する)。水から水を化学的に分離することは原理的に困難なので、処理後にどうしても残ってしまうトリチウムは、海水で充分に薄めて放出する。日本政府や東電の言うことがどれほど信用できるかはさておき、海洋放出に当たっては独立した国際機関(IAEA)が調査に来て報告書を出している。あえて安全性に疑義を挟む理由は見当たらない。

それでも何となく不安だ、という人は少なくない。不安に駆られることは別に罪ではない。が、丁寧な説明を受けても不安が解けないのは、説明が足りないからではなくて、当人のメンタルが初めから「科学的根拠」を求めていないのである。だから最低限、理屈のない不安は単に情緒的反応に過ぎないという自覚は持っておいた方がいい。そうすれば、少なくとも間違った言説をSNS等で広めて漁業者の風評被害を拡大させる愚を犯すことはない。

中国政府の強硬姿勢は、言うまでもなく確信犯である。当局の利益にかなうなら、カラスは白いと平然とうそぶくのが中国の外交スタイルだ。黒いカラスを連れてきて説得を試みても埒は明かない。自国内に反日的な機運を醸成してガス抜きをするのは彼らの常套手段だが、どう考えても長期的に持続可能な対策ではないことはたぶん中国もわかっている。そのうち劇薬の効果が薄れた(または効きすぎた)頃に、日本産海産物の禁輸措置はしれっと撤回されるのではないか。

わかりたいと思っていない人に「話せばわかる」と言っても仕方がない。何が真実かに興味がない人に科学的根拠を突きつけても効き目はない。いろいろと残念な話であるが、話が通じない隣人とも共存していかないといけないのが世の常である。

0.1秒 [スポーツ]

sports_starting_blocks.pngブダペストで開催中の世界陸上をテレビで見ていて、短距離種目のフライング検出精度に驚いた。今さらながら調べて分かったのは、号砲から0.1秒以内にスタートブロックに圧力が加わるとフライング判定されるシステムが自動化されているそうだ。音を聞いてから筋肉が反応するまでには、一定の応答時間がかかる。その生理的限界を超える0.1秒以内にスタートしたら号砲前に飛び出したと見做す、という理屈だ。

以前、オンライン越しに楽器のアンサンブルを合わせる難しさについて書いた(『心の同期』)。遅延が0.1秒ちょっとのZoomでは、会話はできても合奏はまるで成立しない。YAMAHAが提供するSyncroomというツールがあって、リモート演奏の遅延をハード的に可能な下限近くまで抑えてくれる。それでも、対面でアンサンブルをする一体感には遠く及ばない。それを考えると、0.1秒は人間の認知機能にとって決して無視できないのでは、という疑問が生まれる。

もっとも、音楽の場合は別の奏者を聞いてから自分の音を出しているわけではない(この話題は別記事『伴奏ピアニスト』で触れた)。心の中で刻むリズムが全員でピタリと合う一体感が、アンサンブルの醍醐味だ。音が物理的に聞こえてから合わせるのでは、間に合わない。初めはわずかな遅延でも、たちまち連鎖し音楽が空中分解する。号砲を聞いてからスタートを切るアスリートは、その点でちょっと事情が違うかもしれない。

とは言え、フライングの0.1秒ルールが本当にフェアかという議論は絶えないようである。不意の外部刺激にコンマ1秒で反応することは難しいとしても、音楽家が心のリズムで精緻なアンサンブルを奏でるとき、0.1秒を優に切る精度でタイミングを図っているはずだ。世界の一流選手はたぶん、On your marksからSetの流れで極限まで高まる緊張感の中で、号砲が響く瞬間に向けて無意識に「リズムを取っている」のではないか。それが結果として号砲の瞬間とピタリと合ってしまったら、確信犯的な故意はないのに、機械的にフライングを取られることになる。タイミングが「音楽的に」完璧であるほど、フライングと原理的に区別されなくなる。素人目には、酷なルールだなと思う。

空に壁はない [その他]

hanabi_sky.pngコロナ禍が明けて、夏の花火大会が戻ってきた。しかし昨今の物価高や人手不足で花火玉のコストや警備の人件費が高騰し、有料化に踏み切ったり開催自体を断念したケースもあったと聞く。びわ湖花火大会では有料観覧席を設ける傍ら、周辺道路の混雑防止のため周囲に高さ4メートルに及ぶ「目隠し用」フェンスを設置したことが議論を呼んだ。遠目でいいから花火を見たい、と楽しみにしていた地域住民の落胆は想像に難くない。

この一件で思い出した話がある。時は1987年、まだ壁が東西を隔てていた当時のベルリンに、日本の花火職人が招かれた。佐藤勲さんという大曲の花火師が指揮を執り、和製花火の打ち上げを披露することになったのである。日本の花火は伝統的に高い技術があって、円筒形に火薬を配置するドイツの方式と違い、球対称に花が開く。そのため、どこから眺めても美しい花火の形が楽しめる。打ち上げ会場はもちろん西ベルリン側だったが、佐藤氏が事前の取材に応じた折、こんなコメントを残した。
ベルリンの地上には壁がありますが、空に壁はありません。日本の花火はどこからみても同じように見えます。西側だけでなく東側の人々も花火を楽しんで下さい。
「空に壁はない」という佐藤さんの言葉は、翌日現地紙の見出しを飾った。夜空を彩る花火に魅せられながら、壁のすぐ向こう側で同じように空を見上げる同胞に心を寄せるひと時。そのとき現地の人々の胸に去来したであろう想いの深さと複雑さは、如何ばかりだったか。ベルリンの壁が崩壊する2年前の出来事であった。

78年目の終戦の日を迎えた。お盆の時期とも重なる毎年8月半ばは、世を去った先人たちに想いを馳せる季節である。花火大会の中には、もともと慰霊や鎮魂の思いを込めて始まったものも少なくないという。財政的事情から有料席を設けること自体が悪いとは思わないが、花火はやはり等しく皆のためにあるべきものだ。どんなに高い壁が作られても、私たちはその向こうに散る大輪の華が見たいと切望する。たぶん、花火が夜空に儚く咲いては消えるたび、心の奥で大切な何かと呼応しているのだと、みな密かに感じているのである。

パリ研修の悲哀 [政治・経済]

Eiffel_tower.png自民党女性局のフランス研修が批判を浴びている。国民が物価高で喘いでいるときに政治家はお気楽に観光かと、やっかみ半分の集中砲火をくらって炎上した。まさかのエッフェル塔ポーズはとりあえず不問に付すとして、無邪気な記念写真を不用意にSNSへ上げてしまったのは明らかな政治的失敗と言える。局長の松川るい氏は、ネット界隈ではルイ16世と揶揄されているそうである。

一般論としては、政治家が海外研修に行くこと自体(内容が伴っているならば)何ら問題はない。原資となった政党交付金は元をたどれば税金だと言われているが、(使い方が真っ当ならば)海外研修の旅費に税金を使うことが悪いわけでもない。ネットに上がった料理の写真を批判する人もいるが、どのみち食事は取らなければならないのだから、美味しいものを食べて来たところで一向に構わない(高級フレンチでなくともお値頃に舌鼓を打てる店はパリにいくらでもある)。セーヌ川ディナークルーズだって、食事の場所が陸から船の上に移動したに過ぎない。松川氏が次女を同行させたと騒がれているが、私費で家族を連れていくことに弊害があるとも思わない。

要はちゃんと意義ある外遊だったかどうかという話だが、旅程表によれば研修は実質6時間だったと週刊誌で報道された。日程は3泊5日だったそうなので実質的な滞在は中2日だが、2日間で6時間とはさすがにユルい。6時間しかやることがないなら、一日短縮して2泊4日で用は足りる。または逆に、もう数日滞在しても良いからさまざまな交流事業を予定ぎっしり盛り込み、さらに見聞を広めたっていい。なぜあんな中途半端なスケジュールだったのか?

研究者の海外出張の場合、国際会議の通常フォーマットでは朝9時(またはより早く)から随時休憩を挟み夕方5時(またはより遅く)まで続く。合間や終了後に空き時間があれば、海外の研究仲間と話が尽きない。普段はできない情報交換で脳内をアップデートする、絶好の機会だ。政治家は学会に出るわけではないので話は違うが、一般人の出張よりも手持ち無沙汰感が強いのはどういうわけか。日本人同士つるんでシャンゼリゼでショッピングする暇があったら、他に現地で会う人はいないのか。

実働6時間の理由は、フランスでやるべき仕事がそれくらいしか思いつかなかったのかもしれないし、フランス側で交流に応じてくれる相手先が計6時間分しか捻出できなかったのかもしれない。(観光目的でなかったのであれば)政権与党の発想力と交渉力はせいぜいその程度だったということになる。何となく悲哀を感じる話である。

スピーキングが苦手な理由 [語学]

全国学力テストの結果が公表され、中学3年生を対象とした英語スピーキングの成績が断トツ低いと話題になっている。正答率はわずか12%あまり、受験者の6割がゼロ回答だったという。外国語を学ぶ過程で、書く・読む・聞く・話すの4要素のうち習得に一番時間がかかるのは一般的に「話す」なので、この結果自体とくに驚くにはあたらない。とはいえ、以前から日本の英語教育メソッドが抱える問題点を改めて浮き彫りにしたと言えなくもない。

なぜスピーキングが難しいかと言えば、自分の思考ペースで作業できるリーディングやライティングと違い、会話は容赦なくリアルタイムで進むからである。その点ではリスニングも慣れるまでは難儀するが、コツを掴んでくると全部聞き取れなくても想像を交えて意味が取れるようになってくる。母国語だって人の喋る言葉をいつも一言一句聞いているわけではないが、半ば無意識に推測で補えるから理解に困らない。聞き漏らした言葉を想像で補完できる洞察力は、リスニング能力の本質と言ってもいいくらいだ。

animal_kangaroo.png一方、スピーキングは想像で誤魔化すわけにはいかない。学力テストを受けた中学生が、頭の中で文章を組み立てる時間的な余裕がなかったと本音を漏らしていた。実はこの生真面目さこそが、日本の英語教育の失敗を示唆しているのである。外国語の初学者にとって、完璧な文章が咄嗟に口をついて出るわけがない。最初は単語の羅列で一向に構わない。それでも意外に通じるというコミュニケーションの成功体験を重ねながら、やがて文法的に正しい言葉が話せるようになればいい。でも、学校の英語教育はそういうノリしろを認めてこなかった。初めから正解を強要する学校教育のプレッシャーが、間違いを恐れて英語を話せない日本人を量産しているのである。

全国学力テストの設問内容は、国立教育政策研究所のサイトで公開されている。スピーキングの問題は、オーストラリアの留学生を動物園に案内するシチュエーションから始まる。象の次はどこに行く?と聞かれて、「We are going to see kangaroos next.」のように答えさせる問がある(設問にカンガルーの絵が描いてある)。もし文章をその場で完成できなければ、「Kangaroos next!」だけでいい。試験としては減点答案かもしれないが、文脈に照らして完璧に通じるという点で実用上は何の問題もない。

スピーキング問題の後半は、ニュージーランドの留学生が日本のコンビニでビニールのレジ袋を提供することに苦言を呈するシチュエーションである。これに対して英語で自由に意見を述べるわけだが、そもそも環境問題に関心がない子は日本語だって答えが出てこないだろうから、かなり敷居の高い問題だ。ちなみに、国立教育政策研究所の模範解答例はこれである。
I like your idea. Many people in Japan use plastic bags. We must change our action to protect environment like people in New Zealand.
なんと優等生的で退屈な解答か。たぶん全然ちがう言い分だってあり得るはずだ。
Okay, bring your eco bag if that makes you happy. But you flew here from New Zealand, right? Isn't it what you environmentalists call "flight shame"? Reality is not as simple as it looks, dude. Stop being a smart ass.
あくまで英語の試験なので主張の内容は問われないはずだが、こんな憎まれ口をたたいてちゃんと点をくれるのか、一度聞いてみたい。