SSブログ

けん玉ギネス記録 [その他]

ミシュランといえば、言わずと知れたレストラン・ホテル格付けの権威である。タイヤメーカーがグルメ界の頂点に君臨する実情は一見すると奇妙だが、ミシュランガイドはもともとフランス国内旅行の無料ガイドブックに過ぎなかった。自動車が一般に普及し始めた20世紀初め、ドライバーが愛用する旅のお供としてその歴史が始まったわけである。

奇妙といえば、ビール会社が世界記録を認定するギネスブックも不可思議な伝統である。ギネスブックのルーツは、ギネスの社長が狩猟に出かけた際に一番早く飛べる鳥は何かと議論が始まり、その答えがどこにもみつからなかった出来事に由来するという。これがのちに「世界で一番〇〇なのは?」というパブ定番の議論ネタを解決する本のアイディアを産み、通称ギネスブックとして知られるようになった。ビールの売り上げに貢献しているか定かでないが、ビール醸造の会社が世界記録集の出版を手掛けた背景はアイルランドのパブ文化に端を発するのである。

オリンピックで世界記録を出すのは並大抵のことではないが、ギネスブックの敷居はそこまで高くはない。競技種目があらかじめ決まっているオリンピックと違い、ギネスブックは自分で新種目を造ることができる。他の誰も挑戦しないマニアックな記録に挑戦すれば、一般人がギネスブックに載ることも夢ではない。試しにギネスワールドレコーズの日本版オフィシャルサイト(ここ)を覗いてみたところ、ダイソンの掃除機で50メートルを掃除する最速タイムという記録が紹介されていた(22.31秒で床に散布された重曹の99%を回収できたそうである)。世界最速も何も、50メートルを全力疾走で掃除しようと思った人が人類史上かつて誰もいなかっただけの話ではないか。もちろん、要は掃除機メーカーのキャンペーンである。

omocha_kendama.pngここ数年にわたり、NHK紅白歌合戦がけん玉連続成功数のギネス記録にチャレンジしてきた。ご自身がけん玉道四段という三山ひろし氏が演歌を熱唱する裏で、ずらりと居並ぶ名人たちが次々と技を決めていく。2022年の紅白では127人のギネス記録を達成したので、昨年末は128人で新記録に挑んだ。その場では無事記録達成と思われたが、直後のビデオ判定で16番目の挑戦者が技を外していたことが判明し、チャンレンジ失敗となったそうである。2023年の紅白は、ジャニーズ不在とけん玉騒動に見舞われた回として歴史に刻まれることだろう。

何かを始める決心よりも、いったん始めた何かを終える決断のほうが時として難しい。けん玉ギネス記録はその好例だ。しかし新記録なるものは毎回ハードルが上がっていくから、必然的に成功率は下がり続けいつか失敗するに決まっている。これを機にNHKが目を覚まし、無謀で無意味なけん玉プロジェクトを今後放棄するのであれば、16番氏の失敗も結果的に報われるだろう。たぶんけん玉チャレンジに限ったことではなく、迷走する紅白のあり方そのものを見つめ直す好い機会のような気がする。

共通テーマ:日記・雑感

おわりではじまり [その他]

tatemono_jinja.png大晦日が元旦に変わる瞬間は、旧年の終わりであると同時に新年の始まりでもある。欧米圏では一年の締めくくりにカウントダウンで大はしゃぎし、元旦は疲れ果て昼まで寝ている。一方、三が日におせちやら初詣やら各種イベントが立て込んでいる日本(や旧正月を祝うアジア諸国)は、来るべき一年を祝う機会として襟を正し正月を迎える。文化の違いか宗教観の差なのか、ゆく年を華々しく見送る人がいれば、くる年を厳粛に迎える人がいる。

と書きつつ、個人的には齢とともに新年関連イベントがだんだん億劫になってきた。もともとかなりぐうたらな冬休みを送っているクチだが、巷で盛り上がる年末年始の祝祭感にいまひとつ乗れなくなって久しい。でも、密かにそう思っているのはたぶん私だけではない。TV各局が競って流す賑やかな年末特番の中で、テレ東系列局が綿々と放映する『孤独のグルメ』が異彩を放っている。年の瀬と何の関係もない緩くマニアックなドラマが毎年大晦日に再放送されるからには、そこに一定のニーズがあるはずだ。旅先で訪れた名もなき名店で独り舌鼓を打つ松重豊さんの幸せそうな姿が、年末の喧騒をしばし忘れさせてくれる。

例年は晩夏の夜中にひっそりと咲く我が家の月下美人が、昨年は一度も花をつけなかった。そうかお前もぼちぼち人生の曲がり角、先が見えてやる気が出なくなったか、と勝手に親近感を覚えていた。ところが今朝、その月下美人の鉢植えに小さな新芽が顔を出しているのを発見した。窓から差し込む元旦の陽射しを浴びて、真っ直ぐ伸びる健気な新芽が眩しかった。

共通テーマ:日記・雑感

羽生さんの離婚問題 [その他]

ice_skate_kaiten.png羽生結弦さんが突然離婚を発表し、巷を驚かせた。結婚報告から4か月に満たない急展開も予想外だったが、離婚の理由として過剰な取材や誹謗中傷被害を訴えたことも衝撃であった。私生活まで無遠慮に踏み込まれた心中を察するととても気の毒だが、だからと言っていきなり離婚か?と多くの人が首を捻ったに違いない。

圧倒的な人気と実力を誇る羽生さんは、熱狂的なファンが多い反面、何かとケチをつけたがるアンチも現れるし、中にはストーカー化しかねないファンもいるだろう。彼はずっと以前から、賞賛と中傷が入り乱れる喧噪に耐えて来たはずである。ただ今回の案件がこれまでと違うのは、彼一人の世界で閉じる問題ではなくなったことだ。家族を守るという人生初の命題に羽生さんが選んだ解決策は、家族を解消する究極の選択肢だった。とてもストイックで少しぎこちない、現役時代の彼の印象そのままと言えなくもない。

羽生さんは自己プロデュースに長けた人である。スケートリンク上の彼は一貫した美学を追求し、虚構の世界で独り舞う彼にファンは陶酔した。そう考えると彼にとって結婚とは、リンクを降りた実生活をいかにプロデュースするかという未知の難題だったのではなかろうか。社会の過剰な関心からお相手を守るのが至上命題なら、いろいろな対処策があり得たと思うが、彼の美学に適う最適解は離婚以外に見つからなかったようである。

もちろん夫婦二人の間で何があったのかは他人の測り知るところではないし、とくに(元)奥様の心中は一切表に出てきていない。羽生さんより8歳上という彼女の目に、事の顛末はどんなふうに映っているのだろう?類稀なスケーターが演出する哀しく美しい世界観を共有していたのか、それとも強すぎる世界観を共有し続ける限界を見つめていたのか。二人の人間の美学が完全に一致することがあり得ない以上、そのずれを許容することでしか夫婦は成立しない。もし奥様だけがそれに気付いていたのだとしたら、シングルで頂点を極めたフィギュアスケーターがペアやアイスダンスの舞台で同じように輝けるとは限らない、ということだったのかもしれない。

共通テーマ:日記・雑感

カルディ店頭のコーヒー [その他]

カルディ・コーヒーファームという全国チェーンの食料品店がある。その名の通り本来はコーヒー豆を売る店だが、輸入食品の品揃えが多彩なことで知られ、ちょっと珍しい食材を求めに来店する客がメインではないかと思う。個人的には、ハーブティーとワインとマンゴージュースを目当てに時おり買い物に行く。

カルディで必ず売っているCelestial Seasoningsという米国コロラド州拠点のハーブティー・ブランドがある。現地に住んでいたころどのスーパーでも売っていたのでいつも買っていたし、ボールダーにある本社の工場見学に行ったこともある(製造ラインで稼働するロボットは日本製だと聞いた)。日本で買うのはいくらか割高だが、絵本の一ページのようなパッケージが懐かしい。

cafe_coffee_beans.pngコロナ前はよく、カルディの店頭で無料コーヒーが小さな紙コップに注がれ振舞われていた。とくにカルディで買い物のない日も、そばを通ればコーヒー目当てに立ち寄り軽くウィンドウショッピングしていたものである。しかしコロナ禍になって試飲サービスが中止になり、コロナが5類扱いに格下げになった今年5月以降も一向に再開の兆しがなかった。梅雨が明け暑い夏が到来し、熱中症リスクの注意喚起も手伝いノーマスクで歩く人が着実に増えた。それでも、かつて店員さんが立ちっぱなしでコーヒーを淹れてくれていた店頭の小さなデスクは、頑なに無人のまま放置されていた。

ところが一ヵ月前くらいだったか、カルディのコーヒーサービスがついに再開した。三年ぶりに味わうカルディの試飲コーヒーは、以前と変わらずブラック党には少し甘すぎる。しかし、私がこれを待ち望んでいた本当の理由は、率直に言えばコーヒーの味とは関係ない。クィっと飲み干したちまち空になった紙コップの底を見つめながら、ああこれでようやくコロナが終わった、と思った。私にとってコロナ禍の終息とは、5類変更でもピークアウトでもなく、カルディが再び店頭でコーヒーを振舞い始めた時だと密かに決めていたのである。

共通テーマ:日記・雑感

ロックアウト [その他]

ロシアのウクライナ侵攻に続いて、今度はハマスとイスラエルの戦争が勃発した。気の滅入る速報ばかりニュースのヘッドラインを埋め尽くし、ブログを更新する気力も起こらない。誰かに頼まれて書いているわけでもないのでしばらく放置して何ら支障はないのだが、こういう時のために『コロラドの☆は歌うか』復刻企画があることを思い出した。

暗い世相なので、渡米後まだ間もない頃に書いたお気楽な記事を掘り起こすことにする。現地でアパート入居の当日に遭遇した、トホホな出来事の顛末である。



私は生涯に一度だけパトカーに乗ったことがあります───というとずいぶん昔の出来事に聞こえるかもしれませんが、何のことはない、つい昨年(注:2002年)のことです。しかも、日本では一度も厄介になったことのないパトカーに、アメリカに着いて一週間も経たないうちにお世話になってしまいました。念のため付け加えておきますが、何ら法に触れる行為に及んだわけではありません。私のしでかした間違いは、自分のアパートから一歩踏み出してドアを閉めた、ただそれだけだったのです。

その日は、アパートの契約をして入居した当日でした。一通り新居の内装と設備の点検を済ませ、付き添ってくれた研究室のボスが帰った後に、デジカメで部屋の写真を撮りまくっていました。家の写真を撮ったのは、1ヵ月半後コロラドにやって来ることになっていたオクサンの不安
 (隣家は10km先、四方は人影のない砂漠で、
 穴の開いたブリキのバケツが突風に吹かれて
 庭先をカラカラと転がっていき、…)
を払拭しておく必要があったからです。私の住まいは勤務先の大学が経営するアパートで、隣家は10kmどころか壁をはさんだ10cm先にありますし、窓の外には青々とした芝生(最近水不足のせいで色あせ気味ですが)が広がり、壁には大学のネットワークに直結するイーサネットのジャックまで付いています。

部屋の中を一通り撮り終えたので、アパートの表構えをフィルムに収めることにしました。左手にデジカメを持ち表に出て玄関のドアに右手をかけた瞬間、私はこのドアがオートロックであったことを思い出しましたが、自分で何をしているのか意識する間もなく、私の右手は躊躇うことなく扉を閉めていました。

その後どのくらいの時間だったか、これは何かの間違いではないか、初日早々に自分の家から締め出されるなど馬鹿なことがあっていいものか、という思いが頭をぐるぐる駆け巡っていましたが、玄関は押しても引いてもびくともせず、ポケットには鍵はおろか小銭一枚入っておらず、手元にあるのは当面の状況打開にはおよそ役に立たないデジカメ唯一つです。

とにかく、何とかしなければいけないことは分かっていました。既に夕方6時半をまわっていたので、閉まっているだろうと思いつつアパートの管理事務所に回ってみましたが、案の定そこは既に真っ暗で鍵が下りていました。入居当日では、助けを求めるにも顔見知りの隣人がいるわけもありません。契約時の説明で、時間外に担当者と連絡を取る際の携帯番号を書いた紙を渡されたのですが、その時の書類一式はそっくりアパートの部屋の中でした。それを部屋に取りにいけるくらいなら、初めから誰も困りはしないのです。

car_patocar_america.png途方にくれた挙句に天啓のようにひらめいたアイディアは───というのは嘘で、じつは事態に気付いた直後からうすうす意識しつつ極力回避したかった選択肢なのですが───大学直属のポリスに助けを求める、ということでした。担当者の携帯にも連絡を取れない夜中などは、大学の警察に連絡をつけなさいという管理事務所の指示を私は覚えていました。もちろんポリス・デパートメントの連絡先も部屋の中でしたが、私はたまたまキャンパスを移動中に警察の建物を見かけてその場所を知っていました。
しかし、とにかく私は気が進まなかったのです。もし一度でも、渡米早々不器用な英語で警察に話をつけに行くはめに陥ったことのある人なら、それも自分のアパートを開けてくれという情けない頼みごとのために出向いたことがあるのなら、私がその時どれほど気後れしていたか分かっていただけると思います。おかげで旅疲れも時差ぼけもすっかり吹き飛んでしまいました。

意を決して出かけたポリス・デパートメントの受付は、人気がなくがらんとしていました。カウンターは既に閉まっていて、緊急用のインターホンだけが冷たく私を見据えていました。この期に及んで私は未だ心を決めかね、用件のある方はマイクに向かって話すようにと書かれたパネルを穴が開くほど見つめていると、突然スピーカーが"CAN I HELP YOU, SIR?"とがなりたて思わず飛び上がりそうになりました。カメラで私の一挙手一投足を監視されていると気付いて私はますます気力が減退しましたが、なんとか気を取り直しインターホンに向かってしどろもどろに事情を説明しました。すると、行って開けてあげるからそこで待ちなさいということでしたので、少しホッとして硬いベンチに腰掛け誰かが出てくるのを待ちましたが、一向に動きを見せる気配がありません。私が英語を聞き間違えたのか、ここに居座っていてはいけないのかと不安になってそわそわし始めたころ、突然またスピーカがガリガリ鳴り出しあともう少し待てという指示が飛んだかと思うと、また延々と居心地悪い沈黙が続きました。永遠に近い3,40分が過ぎたころついに出てきたのは若い警官で、表に回してあったパトカーの後部座席に乗るよう指示されました。

日本ではどうか分かりませんが、パトカーの前後の座席の間は見るからに頑丈そうな透明のアクリル板で完璧に仕切られています。おそらく、いかなる銃弾もこの板を貫通することは出来ないのでしょう。そしてもちろん、後部座席のドアは内側から開けることが出来ません。私はますます惨めな気分になってきました。キャンパスから私のアパートまではものの数分でしたが、その時の私はきっと、出来心でつまらない罪を犯して捕まった気弱な犯罪者のような顔をしていたに違いありません。

アパートの駐車場に付くと、警官はゆっくりとパトカーを降り、後部ドアを開けてくれました。何かにつけ警官の動作がのろいので内心じれったかったのですが、のろい理由は彼が常に私の挙動から目を離さず、また決して私の前を歩こうとしなかったからです。私が突然銃を抜くような気配を醸していたとはおよそ思えないのですが、自宅でロックアウトされたアホな一日本人のために命がけの緊張感で鍵を開けに行く彼に、なんだか申し訳ない気分がしてきました。

警官はアパートのマスターキーを持っていました。後から知ったのですが私のようなケースは結構頻繁に起こるらしく、比較的治安の良いこの町では大学のアパートの鍵開けが大学の警察の主要な仕事の一つなのかもしれません(他人事ではないが、少し笑える)。鍵が開くと私は部屋に置いてあったパスポートを警官に見せ、彼は無線を使って私が確かにこの部屋の住人であることを確認すると、あっさり一件落着しました。吹き飛んでいた疲れと時差ぼけがその後どっと舞い戻ってきたことは、言うまでもありません。

これが、事の顛末です。あまりに馬鹿馬鹿しいので滅多に人に話したことはなかったのですが、アメリカでパトカーに乗った日本人はさほど多くないと思われるので、今振り返れば貴重な体験だったのかもしれません。この事件に懲りて、わたしはキッチンからリビングに行く時すら玄関の鍵を肌身離さず持ち歩くようになりました。いつ出来心で外に出てしまうか、知れたものではないからです。この強迫症的な習慣から抜け出せたのは、ずいぶん後になってから───予めドアの内側のノブのつまみを45度回しておけばオートロックを解除できることにようやく気が付いたとき───でした。

(初出:『コロラドの☆は歌うか:番外編』2003年1月31日付)

共通テーマ:日記・雑感

ジャニーズ会見は何だったのか [その他]

syazai_kaiken.png性加害問題に端を発するジャニーズ事務所の会見(二回目)が、予想の斜め上を行く迷走ぶりであった。どこから突っ込んでいいのか分からないほどだ。

一部記者の不規則発言で会場が荒れたとき、それを諫めようとした井ノ原氏の言い分が賛否を呼んだ。怒号が飛び交うカオスを「小さな子供たち」に見せたくないと彼は訴えたが、そもそもこの会見を見たがる子供がどれ程いただろうか?ジャニタレが出演しようとしまいと、記者会見はふつう大人向けのコンテンツである。

イノッチ個人は別に嫌いではないが、咄嗟に24時間テレビ的な安っぽい感動演出を記者会見にブチ込むのは、一流タレントの脊髄反射なのかもしれないがいささか趣味が悪い。ところが、その芝居がかった立ち回りをわざわざ拍手で称える記者たちがいた。芸能事務所と一部メディアがいかに浮世離れしたファンタジーの世界で共生しているのか、その一端が垣間見えた。

会見の後、指名NG記者の写真入りリストが存在していたことが暴露された。生半可ありそうな話だっただけに、驚きより脱力感を覚えた人も多かったに違いない。ジャニーズ側の言い分によれば、コンサル会社が用意したNG資料を井ノ原氏が見つけ問いただしたところ、ではNGリストの記者は会見後半で指名しますと回答があったそうである。

4時間超続いた一回目の会見に対し二回目は2時間で終わることが決まっていたのだから、同じ時間配分であれば「後半」指名分は時間切れで実現しないことは自明である。要は、コンサル会社がNG記者の指名は行いませんと暗に仄めかし、ジャニーズ事務所側もそれを黙認した、と自ら認めているわけだ。残念を通り越して、いたく滑稽な顛末である。

共通テーマ:日記・雑感

空に壁はない [その他]

hanabi_sky.pngコロナ禍が明けて、夏の花火大会が戻ってきた。しかし昨今の物価高や人手不足で花火玉のコストや警備の人件費が高騰し、有料化に踏み切ったり開催自体を断念したケースもあったと聞く。びわ湖花火大会では有料観覧席を設ける傍ら、周辺道路の混雑防止のため周囲に高さ4メートルに及ぶ「目隠し用」フェンスを設置したことが議論を呼んだ。遠目でいいから花火を見たい、と楽しみにしていた地域住民の落胆は想像に難くない。

この一件で思い出した話がある。時は1987年、まだ壁が東西を隔てていた当時のベルリンに、日本の花火職人が招かれた。佐藤勲さんという大曲の花火師が指揮を執り、和製花火の打ち上げを披露することになったのである。日本の花火は伝統的に高い技術があって、円筒形に火薬を配置するドイツの方式と違い、球対称に花が開く。そのため、どこから眺めても美しい花火の形が楽しめる。打ち上げ会場はもちろん西ベルリン側だったが、佐藤氏が事前の取材に応じた折、こんなコメントを残した。
ベルリンの地上には壁がありますが、空に壁はありません。日本の花火はどこからみても同じように見えます。西側だけでなく東側の人々も花火を楽しんで下さい。
「空に壁はない」という佐藤さんの言葉は、翌日現地紙の見出しを飾った。夜空を彩る花火に魅せられながら、壁のすぐ向こう側で同じように空を見上げる同胞に心を寄せるひと時。そのとき現地の人々の胸に去来したであろう想いの深さと複雑さは、如何ばかりだったか。ベルリンの壁が崩壊する2年前の出来事であった。

78年目の終戦の日を迎えた。お盆の時期とも重なる毎年8月半ばは、世を去った先人たちに想いを馳せる季節である。花火大会の中には、もともと慰霊や鎮魂の思いを込めて始まったものも少なくないという。財政的事情から有料席を設けること自体が悪いとは思わないが、花火はやはり等しく皆のためにあるべきものだ。どんなに高い壁が作られても、私たちはその向こうに散る大輪の華が見たいと切望する。たぶん、花火が夜空に儚く咲いては消えるたび、心の奥で大切な何かと呼応しているのだと、みな密かに感じているのである。

共通テーマ:日記・雑感

ターミナル [その他]

友人が出張先からの帰りにフライトのキャンセルが相次ぎ大変な目に遭った話を聞き、かつて自分自身もそんな体験を『コロラドの☆』に書いていたことを思い出した。今読み返すと、米国同時多発テロからまだ4年後の当時、空港のセキュリティが厳格化しピリピリしていた空気感が思い出される。保安検査が厳しいのは今も変わらないが、世界の往来が回復しつつある今、コロナ禍中はシャッター街さながら寂れていた空港が活気を取り戻している。そんな昨今の変化に思いを馳せつつ、米国から日本に出張する途上でハマった18年前の記憶を掘り起こしてみた。



car_towing_car_airplane.pngデンバー国際空港でユナイテッド航空893便に乗り込んだとき、初め私はツイていると思いました。ちょうどエコノミー席最前列で足をゆっくり伸ばせる上、全席モニターが着いている機体だったので見たい番組を自分で選べるのです。出発時刻を過ぎても飛行機は動く気配がありませんでしたが、それは毎度のことで大して気にしてもいませんでした。いそいそと機内誌の番組表に目を通し、サンフランシスコまでの2時間半はアニメ『インクレディブルズ』を見て時間をつぶすことにしました。するとしばらくして機内アナウンスが入り、ハイドロナントカに問題が発見されタンクの交換部品を調達中につき遅延が見込まれると知らされました。東京への乗り継ぎ便に間に合うか一抹の不安が過ぎりましたが、別段深刻に受け止めてはいませんでした。この時点で私はまだ、行く手に待ち受ける長い長い苦難の旅を知る由もなかったのです。

30分ほどして再び入ったアナウンスによると、タンクの代替品が手に入ったのでもっか交換中とのことでした。乗客がそわそわし始めたせいか予定を繰り上げ機内上映を始めるとのことでしたので、私は早速ヘッドホンをセットしモニターのスイッチを入れました。

ミスター・インクレディブルが家族に隠れてスーパー・ヒーロー稼業を再開したころ、部品の交換を終了したものの問題が解消しないという不吉なアナウンスが流れました。予定していた東京便への乗り継ぎに間に合わない様相が濃くなってきたので、私はヘッドホンを置いて通路を戻り、乗降口付近で打ち合わせをしていた地上係員に乗り継ぎ便の変更を打診してみました。返ってきた答えは迅速・明瞭かつ絶望的でした。サンフランシスコを発つ東京便は他社便も含め全て満席だというのです。折り悪く、この日は春休み初日でアメリカ中の空港が人々でごった返していたのです。今回の日本行きはそもそも2日間の国際会議に出るための出張で、日本到着が一日遅れれば会議の半分を棒に振ることになります。問題のハイドロナントカ(要するに用語がわからなかったのですが油圧系か水循環系か何かだと思います)が早く直ることを祈り、サンフランシスコで後発の日本便のキャンセル待ちが捕まるだろうかとつらつら考えながら、とりあえず自分のシートに戻りました。

ミスター・インクレディブルが敵に捕らわれ絶体絶命の危機を迎えたあたりから、どうもこの飛行機は永遠に飛ばないのではないかという予感がしてきました。オクサンに電話をかけて状況を伝えると、スケジュール管理に万事手落ちのない彼女はすでにユナイテッドのWWWサイトで事態を把握していました。東京行きのユナイテッド便は1時発が最後だと知らされましたが、その時すでに時計は10時半を回り、西海岸との時差を考えても今日中にアメリカを出られる可能性は怪しくなってきました。ユナイテッドはすでに飛行機の乗降口を開放していたので、私は後発のサンフランシスコ便の手配をするため荷物を担いで飛行機を降りました。おかげでミスター・インクレディブルの脱出劇を見損ねましたが、自分自身の脱出作戦を練ることが当面の優先事項です。

ユナイテッド航空のカスタマーサービスのカウンターで、疲労の色を隠せない大柄のおじさんが私を迎えました。おじさんがしばしキーボードを叩いたすえ口走った言葉に、私はぞっとしました。今日中に(日付は翌日ですが)東京にたどり着く可能性が潰えたことは言うに及ばず、この日のサンフランシスコ行きは夜8時発の便まで満席だというのです。空港に丸半日カンヅメなど、考えただけでもうんざりでした。しかし、冬眠返上で残業を続けた熊のような顔をしたおじさんにそれ以上食い下がるのも気の毒で、彼の勧めに従い早い便のキャンセル待ちを駄目もとで狙ってみることにしました。

次のサンフランシスコ便は、3時9分にデンバーを発つことになっていました。その便のゲート前に陣取り、ユナイテッドの係員がやってくるのを待ちました。出発1時間ほど前に、温和な面持ちのおばちゃんがカウンタに登場しました。しどろもどろに事情を説明する私をおばちゃんは怪訝そうな顔で見つめていましたが、コンピュータに何かを打ち込んだかと思うとあとで呼ぶので待てと言うので、そばの椅子に腰をかけました。しばらくすると搭乗案内のアナウンスが入り、ややおいて座席変更とキャンセル待ちの客を順番に呼び始めました。

しかしアメリカ人は日本人の名を発音するのが下手で(当然ですが)、流れるアナウンスを一字一句集中して聞いていないと自分が呼ばれても気がつかない恐れがあります。MAではじまる名前がぎこちなく発音されるたびにこれはもしや自分のことではないか、カウンタに行って確認したほうがいいのではないか、私はソワソワし放しでおちおち本を読むこともできません。ただその一方で、キャンセル待ちなどそもそも宝くじのようなもの、期待するだけ損だという諦観が鉛のように心の底に沈んでいました。

ですので、本当に自分の名が呼ばれた時、私は一瞬耳を疑いました。ほとんど駆け出さんばかりに搭乗口に向かうとそこに立っていたのは先ほどの優しげなおばちゃんで、私の顔を見るなりあらうまくいったのねと顔を輝かせ諸手を挙げました。私はもう少しでこのおばちゃんとハグをし肩を叩き合うところでした。

サンフランシスコの空港に着くとユナイテッド航空のカウンタで宿の手配をしてもらい、空港近くのモーテルにチェックインしました。テレビを点けると、たまたまスピルバーグ監督の『マイノリティ・リポート』が流れていました。この映画の凄みは、極度に管理社会化した近未来都市の見事な作り込みようで、個人情報は網膜のスキャン・データと共に政府機関により徹底管理され、人々はどこに行っても瞬時にアイデンティティを特定されてしまいます。現在の米国社会でこれに一番近い世界をあえて挙げるなら、それは空港です。写真付きIDがなければまずチェックインできず、どこの誰がどの便に乗っているのか完全に把握されています。乗るべき乗客が一人でも搭乗していなければ名指しでアナウンスがかかり、本人が現れるかその人物の預け入れ荷物を下ろすまで飛行機は離陸しません。また昨今では外国人は入国審査で指紋と写真のスキャンが義務付けられ、ますます『マイノリティ・リポート』の世界に似てきました。この物語の舞台は予知情報に基づく犯罪の未然予防システムを司る政府機関ですが、安全への渇望が強固な管理社会化を容認していく社会背景は、9/11以後のテロリズム対策が空港セキュリティ強化を推進してきた現実とよく似ています。情報管理の強化が人々の自発的な選択というより、背後に国家最高権力の思惑がちらついているあたりも、映画は現実を不気味に暗示していると言えます。

翌日目覚めてシャワーを浴び、備え付けのドライヤーを片手に鏡の前に立ったとき、ブラシはユナイテッドに預け放しのスーツケースの中にあることを思い出しました。髭を剃ろうとして、シェーバーも同じく手元にないことに気がつきました。おかげでボサボサ頭に無精髭のむさ苦しい有様で空港に向かう羽目になりましたが、昨日からのトラブルそのものに比べればどうということもありません。

東京便の機内では、スピルバーグの『ターミナル』を上映していました。旧ソビエト圏の某国からやってきたある男が、祖国で勃発したクーデターのためパスポートが失効し、ニューヨーク・JFK空港で入国を拒否され立ち往生します。空港で立ち往生の経験なら私自身記憶に新しいところですが、ろくに英語を話さない『ターミナル』の主人公は異国の地で陥った奇怪な境遇に実に果敢に立ち向かいます。初日の晩から待合室のベンチを破壊し即席のベッドをあつらえる大胆さなど、控えめな日本人には到底真似できぬ、逞しい生存本能であります。

ところで、飛行機の中では必ず映画を上映するのになぜ空港には映画館がないのでしょうか?足止めを食らった乗客に無料チケットを配れば、いい時間つぶしになるはずです。そしてもし私が映画館のマネージャーだったら、そのうち一館はヘッドホンで各国語バージョンが聞ける『ターミナル』を上映するでしょう。旅慣れず言葉も話せない外国人が事情もわからず途方に暮れ、その上疲れた航空会社職員に邪険に扱われて絶大なストレスに参ってしまった時、トム・ハンクス演じるこの人物の素朴な勇気がきっと心に染みるはずです。要塞のごとく金属探知機に囲まれ殺伐とした現代の空港にあって、それは無力感に打ちひしがれた旅行者のためのオアシスになるに違いありません。

出張先に一日遅れで着いたおかげで、ほとんどとんぼ返りの旅程でした。帰りの成田エクスプレスの中で、今度からは万一に備えヘアブラシとシェーバーは手荷物のほうにしまっておこうと考えていました。しかしその「万一」が予想を絶して早くやって来ることなど、その時考えもしませんでした。私の七難八苦の旅は、まだ終わっていなかったのです。

(初出:『コロラドの☆は歌うか:番外編』2005年3月29日付)


もともとこの記事は二話連続の前半部であった。結果として二日に満たなかった日本滞在後に乗った帰国便がまた遅れ、さらなる冒険を強いられた続編があったのだが、続編のファイルを紛失し何を書いたか覚えていない。ただもしこの経験で得た成果が一つあるとすれば、このとき以後空の旅で遭遇する大抵のトラブルには全く動じなくなったことである。

共通テーマ:日記・雑感

父の日 [その他]

父の日や母の日が近づくたび、胸の奥がかすかにざわつく。

bouquet_fathers_day.png父と母の決別が濃厚になった頃、私は一人1Kのアパートに引っ越した。育った実家はやがて無人になり、取り壊された。だから父や母にその後それぞれ会いに「行く」ことはあっても、親元に「帰る」実感はなかった。そんな微妙な心の距離感を持て余している間に、父も母も他界した。私は冷たい親不孝者だったなと思う。

父が世を去った翌年、父の日が迫る6月のある日ふと小文を綴ったことを思い出した。ブログ化する以前の『尾張の☆は歌うか』に書いた記事で、今回はその復刻掲載でお茶を濁すことにする。



買い物に出かけると、あちらこちらに「父の日」の謳い文句を目にする季節になった。

昨年(注:2007年)の暮れ、何の前触れもなく父が急逝した。その一週間前から風邪をこじらせ、無理を押して出かけた出張の直後だったと、あとから聞いた。仕事などほどほどにして緩やかな老後を送ってよい歳ではあったが、いつ心臓が止まるかと気を揉むほどの高齢でもなかった。過去に重病を患った経験もなかったから、本人は自分の体力を過信していたのかもしれない。

一報を聞いて駆けつけた先は、搬送先の病院から遺体を移された葬儀場だった。まだ空っぽの白木の祭壇の前に、経帷子をまとった父が横になっていた。表情には苦しんだ気配もなく、耳を近づければ微かな寝息さえ聞こえそうな気がした。だが、じっと見つめているとその姿はまるで精巧に作られた蝋人形のようで、つい前日まで生きていた気配は不思議なほど希薄だった。かつて父として存在していたはずの何かは突然どこに消えてしまったのかと、とりとめもない考えが頭に浮かんでは消えた。死ぬと魂が体を抜け出すという信仰は、古の人々の意外に即物的な実感から発しているのかも知れないと思った。しかし、こじんまりとした葬儀場は霊魂が漂うには殺風景に過ぎるのか、部屋の空気は無機質でひんやりとした現実の佇まいに沈んでいた。

通夜と告別式には思ったよりずっと大勢の参列者が訪れた。独身寮以来という旧友の方々が親身に手伝って下さり、私が生まれる前の父の思い出を語った。通夜では父より10歳は若いであろう会社員らしき男性が、焼香のあとに身じろぎもせず父の遺影を見つめていた。会社の後輩らしきこの男性にとって、父はどんな存在だったのだろうと思った。高度成長期に大手メーカーに就職しそのまま定年まで勤め上げた父は、あの世代に典型的な日本型サラリーマンだった。いま思えば、現役時代には平日の大部分を過ごしていた職場の父を、私は一度も見たことがなかった。途切れることなく訪れる参列者に黙礼を返しながら、家族が知らない父の顔について私は考えていた。

私は大学院生のころ実家を出て独り暮らしをはじめ、それからすでに10年以上が過ぎた。その間に父と私の生活はそれぞれ大きく変わった。独立して以来、父と顔を合わせる機会は年に数えるほどだった。私がアメリカに住んでいた4年間は行き来はほとんど絶えていたが、父は一度だけ一人で私たち夫婦を訪れ、一緒に車で国立公園を巡った。アリゾナの赤い大地に口をあける雄大な峡谷が眼前に開けた瞬間、父はまるで子供のように喜びの声を上げカメラを構えた。旅の終わりの日、空港で出発ゲートに吸い込まれていく父に手を振りながら、父は昔からこんなに小さかっただろうかと私は思った。

父が世を去ったあと、日常生活に大きな変化が訪れたわけではない。喪失感や悲しみはもちろんあるけれども、育ち盛りに肉親を失くした子供たちのそれとは比べるべくもない。今までは考えたこともなかったが、人生の半ばにさしかかってから親を亡くすこということ、それは喪失感というよりむしろ漠然とした恐怖に近い。通夜が始まる少し前、祭壇の前で父の亡骸を見つめるうち、ふと冷たくて重い粘液がみぞおちの辺りを沈んでいくような奇妙な感覚を経験した。そのとき心をよぎったのは、父は逝った、次は自分の番が来るのだ、という暗く冷厳な予感だった。人はいつか死ぬという自明の理を、この時ほど冷ややかな現実として間近に感じたことはない。子は親の背を見て育つというが、親の背中が目の前から永遠に消え去ったとき、子は初めてその先に待ち受ける深淵を覗き込む。父は最期の瞬間まで私の視界から死の闇を遮り立ちはだかっていたのだと、私はそのときようやく気が付いた。

※初出『尾張の☆は歌うか』2008年6月7日付

共通テーマ:日記・雑感

謎の飛行物体だらけ [その他]

前々回のコラムで、アメリカの戦闘機に撃墜された中国の気球のことを書いた。その後、気球一式の残骸を回収した当局が「複数の偵察(情報収集)装置を駆動することが可能な太陽電池パネル」と「通信傍受と位置情報取得が可能なアンテナ」を確認したと当初発表していた。偵察装置そのものを発見したという断言を巧妙に避けているのが作為的だなと思っていたが、気球の積載物本体の引き上げに成功したのはつい数日前のようである。そのうち詳しい情報が出てくるものと期待する。

装置にはプロペラと舵が搭載され、飛行パターンは風向と一致していなかったそうだ。奇妙な話である。件の気球はあくまで気球で、飛行船ではなかった。先日も書いたが、直径60mとされるバルーンがまともに偏西風を受け吹き流されている状況で、希薄な成層圏の空気中をちゃちなプロペラで風に逆らい容易に方向転換できるだろうか(プロペラが実は自家風力発電用の風車ならまだ筋が通る)。風向きを読んで高度を制御するほうが賢明な戦略に思えるが、気球がバラストを積んでいたという話は聞かない。同様の気球は中米や南米でも目撃されたという。中国がコスタリカやコロンビアを偵察する動機があるなら話は別だが、むしろその神出鬼没ぶりの実態こそ、気球の飛行経路がまるで制御できていない証左という気がしないでもない。

alien_grey.pngその後、アラスカやカナダ北部や五大湖上空で不審な飛行物体が次々と撃墜されている。飛行高度はまちまちで、形状も円筒形だったり八角形だったり、私たちの頭上はなんと奇怪な飛翔体で満ち溢れていることか。これらの正体はまだよくわかっていないが、どうやら特段に悪意のない物体らしいとの分析のようである。撃墜にどれほどの経費が費やされているのか知る由もないが、要はあつものに凝りてなますを吹いているだけということである。

米国政府の会見で、地球外生命体の仕業という兆候はないと念を押されるのを聞いて、笑ってしまった。ジョークなのか本気なのかよくわからないところに、素朴で愛おしいアメリカ人の美質が垣間見える。いっそのこと、数々の飛翔体は実は宇宙人の先遣隊だったとフェイクニュースをでっち上げてしまってはどうか?異星人の侵略と聞けば、人々は米中対立などもはやどうでもよくなるに違いない。周辺国の脅威が増すと国全体がワンチームに染まるのが人間の性とすれば、宇宙戦争の危機と聞けばむしろ全地球が団結し世界平和に向かうだろう。

共通テーマ:日記・雑感