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極度乾燥の冒険魂 [語学]

Superdry.jpg「極度乾燥(しなさい)」というロゴを掲げていたSuperdry という英国のアパレル・ブランドがある。日本人なら二度見必至の人を喰ったロゴだが、日本語を知らない外国人にとって漢字と平仮名は何ら意味を持たないデザインの一部に過ぎない。それにしても、Superdryが極度乾燥と訳されるのはまだわかるとして、カッコつきの「しなさい」とは一体何ごとか。

以下は私の推理だ。Superdryを機械翻訳で和文変換してみるとしよう。この言葉を名詞と取るか動詞と解釈するかによって、ニュアンスが代わる。名詞であれば「極度乾燥」そのままだ。動詞だった場合、主語のない動詞単独の文章は文法的には命令文だから、「Superdry!=極度乾燥しなさい!」となる。文脈不在で名詞か動詞か判断する術がないので、翻訳AIは両者の可能性を含ませて「極度乾燥(しなさい)」と表示したのではないか。カッコ内を読めば動詞で、省けば名詞だ。人間がそのどちらかを選択することを翻訳ロボットは想定したはずだが、何も考えず丸ごと採用されてしまった。機械を使う人間の方が使われる機械より機械的、というトホホな話である。

非漢字文化圏ではきっと、漢字は古代文明の象形文字のように見えて面白いのだろう。日本は逆に、昔からアルファベットの羅列がデザイン的に使われてきた。よく見たら日本語をローマ字化しただけの文章もあれば、意味が分かりそうで分からない奇怪な英語が綴られていることもある。いずれにせよ、アルファベットの羅列にアート性を感じるのは、裏を返せば言語としてのメッセージ性が希薄だからだ。日本人にとって、英語(と西洋言語全般)は依然として意味の良くわからない遠い国の言葉なのである。巷にあふれるアルファベットの記号群は、我が国の英語教育の失敗によって花開いたポップカルチャーと言えるかもしれない。

とはいえ、Tシャツのプリントやカフェのウォールペイントに不可思議なアルファベットを綴るのと、ブランドのロゴそのものに不可解な日本語を刻印するのは、次元の違う問題だ。ロゴは当然ブランドのイメージに直結する。Superdryの創業者は、極度乾燥(しなさい)が日本語話者の目にどう映るか全く確認を取らなかったのか?日本で市場展開する意図は初めからなかったのかもしれないが、イギリス在住の日本人は多いから、下手な日本語を看板に掲げれば瞬く間に失笑が世界に伝わることは目に見えていたはずだ。

さすがに今は極度乾燥(しなさい)は止めて、代わりに「Superdry 冒険魂」に刷新されたようである。意味不明のロゴに挑戦したその心は、実は起業家的な冒険魂の証であったというオチなのか?いずれにせよ、日本語を知らない現地の人々にとっては初めから最後まで何のことかさっぱりわからない話の顛末である。

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ヴィヴァルディの夏 [音楽]

02_Vivaldi.pngアントニオ・ヴィヴァルディの後半生は不遇であった。18世紀初頭のヴェネツィアで人気を博し、彼の作品の多くは生前に楽譜が出版された。だがやがて人気が翳るとパトロンを失い、追い打ちをかけるように音楽の師であり同志でもあった父が世を去った。失意のヴィヴァルディは、齢60を越えてから再起をかけウィーンに渡る。だが、再び花開くことのないままウィーンで63年の生涯を終えた。

その後およそ二百年にわたり、彼の作品の大部分は所在不明となり、一部の学者やマニアを除きヴィヴァルディの名は忘れられていた。再発見のきかっけは偶然訪れた。1926年、トリノ近郊の修道院が、財政再建の一環で所蔵資料の売却を決めた。その鑑定を依頼されたアルベルト・ジェンティリという音楽学者が、送られてきた箱の中に失われたはずのヴィヴァルディの自筆譜を大量に発見し驚愕する。だが篤志家の寄付で入手した楽譜を精査したジェンティリは、楽譜のページが半分ほど欠損していることに気づく。気落ちしたジェンティリであったが、失われた文献資料の片割れがまだどこかに存在するはずだ、と希望を捨てなかった。

楽譜の足取りを丹念に調べ上げたジェンティリは、ついにその片割れの所有者にたどり着く。しかしジェノヴァ貴族の末裔であったこの人物は極めて偏屈な男で、売却交渉は難航する。出版不可・演奏不可という理不尽な条件を飲んでようやく男を説得したジェンティリは、別の篤志家の助力で残り半分の楽譜を手に入れる。その後長い法廷闘争の末ついに出版演奏の権利を勝ち取ったが、その頃ムッソリーニ政権下のイタリアは暗い戦争の陰に覆われ始めていた。世界の大半がヴィヴァルディを「再発見」するのは、第二次大戦が終わってからのことである。

ヴィヴァルディでとりわけ有名な作品はやはり『四季』だろう。個人的には『夏』が一番好きだが、夏という表題と似合わず、この曲はとにかく暗い。『四季』の中で全楽章が一貫して短調なのは『夏』だけだ。灼熱の日差しの中まるでヤル気が出ず、しかも嵐の到来を予感させる北風に不安が募る一楽章。近づく遠雷と飛び交うハエに気が滅入る二楽章。案の定ついに嵐が襲い掛かり大雨が大地に叩きつけられる三楽章。という具合に、身も蓋もない。

ヴィヴァルディは夏が大嫌いだったんだろうか。それとも、イタリアの夏ってこんな風なのか?私たち日本人が想像する夏の印象は、もっと明るい。空にもくもくと聳え立つ入道雲。競うように鳴き交わす蝉の声。麦わら帽子とか虫取り網とか、昭和に幼少期を過ごした世代にとって、夏はノスタルジーに満ちている。

だが、近年の夏はちょっと様子が違う。ジリジリと照り付ける陽光は、身の危険を感じるほどだ。夏場になると、熱中症で搬送される高齢者や子供のニュースが後を絶たない。かと思えば、集中豪雨が各地を襲い、深刻な浸水被害をもたらす。なんかちょっとヴィヴァルディが描いた夏のおどろおどろしさに近づいて来た気がしないでもない。

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ヘンリー王子の羅生門 [映画・漫画]

1995年公開の『ユージュアル・サスペクツ』という映画がある。裏社会の抗争がらみとみられる船舶爆破事件が起こった。唯一の生存者である詐欺師の男と彼を尋問する刑事のやり取りが、事件の背景を少しずつ紐解いていく。やがてカイザー・ソゼと呼ばれる冷酷無比な黒幕の存在が浮かび上がるが、そのミステリアスな正体をめぐり登場人物の見解はまちまちで、謎はむしろいっそう深まる。

しかし映画の幕切れに至り、まさかのどんでん返しが待ち構えている。主人公によるウソの証言というミステリーの禁じ手が使われているので、オチがフェアではないという論議はあったように記憶している。が、綿密に張り巡らされた伏線が一気に回収されるラストは圧巻で、大半の人は気持ちよく騙された。

mon_gate_asia_open_half.png『ユージュアル・サスペクツ』の隠れたテーマは、真実の重層性である。この映画が出世作となったブライアン・シンガー監督は、黒澤明監督の『羅生門』から受けた影響を認めている。芥川龍之介の短編『藪の中』を下敷きにした映画『羅生門』は、平安時代の強盗殺人を題材に、語り手ごとに食い違う「真実」の曖昧さを描いた。

面白いことに、事件の当事者三人はいずれも被害者の武士を殺したのは自分だと語る。殺人の罪を逃れることよりも、無意識に己の役回りを見栄えよく粉飾するナルシシズム的美学が勝っているのである。映画には事件をこっそり目撃していた四番目の人物(芥川の原作には登場しない)が存在し、彼の証言により当事者の虚飾がつまびらかに暴かれる。が、この人物もまた自らに不都合な事実を隠そうとしていた。

英国王室を去った(追い出された)ヘンリー王子の暴露本『スペア』が発売され、話題を呼んでいる。書かれていることがウソかホントかと報道を賑わせているが、真相は何かという議論にあまり意味はない。ヘンリー王子にとっては紛れもない「真実」も、他の当事者にとっては継ぎはぎだらけの言い訳に過ぎないかもしれない。読んだわけではないが、『スペア』はたぶんヘンリー王子が脚色したロイヤルファミリー版『羅生門』なのである。

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今日の新規感染者数 [科学・技術]

graph10_oresen1.pngテレビのニュース番組はいまだにコロナ新規感染者数を天気予報のように日々報道している。これ、そろそろ止めてもいいんじゃないか。知りたい人はネットで簡単に確認できるから、いちいちテレビに教えてもらうまでもない。

とくに「先週の同じ曜日と比べて〇人増えました」が余計である。感染が急激に拡大・縮小する一時期を除けば、データの揺らぎを見ているに過ぎないから一喜一憂しても仕方がない。それにGWとか年末年始のように検査機関がまとまった休みに入る時期は、データの増減そのものが全く意味をなさない。どうしても感染者数を伝えたいなら、データの推移をもっと大局的に分析して見せないと情報価値はない。

例えば、この正月前後の新規陽性者データの変化をみると、いったんベコっと凹んでまた戻っている。この凹みが実際の感染実態を反映していないことは、皆わかっているはずだ。にもかかわらず、先週の同じ曜日と比べて云々という無駄な分析が機械的に繰り返されるのはなぜか。データそのものは嘘をつかないが、解釈はいくらでも誤解がまかり通る。意図して騙そうとしているわけでなくとも、不用意な分析は誤ったメッセージを伝える。

第8波で国内のコロナ死者数が過去最多を更新したと騒がれている。データ上はその通りだが、それは本当のところ何を意味するのか?検査で見えていない感染者が第7波以上に多いから死者数も増えるのだ、とメディアの「専門家」は指摘する。その程度の推測は素人でもできる。

この一カ月で一万人規模のコロナ死者数を記録したそうだ。ふつう国内の死者数は冬場の一ヵ月で十数万人ほどなので、その一割弱相当ということになる。小さくない数値ではあるが、極端に多いわけでもない。それに、今のコロナ死者はもともと基礎疾患を抱えていた患者に多いようなので、コロナで亡くなった一万人がそっくり例年の統計に上積みされるとは限らない。そのあたりをもっと丁寧に分析すれば、直近のコロナ・リスクをもっと客観的に評価できるかもしれない。そういう考察を「専門家」から聞きたい。

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デジタル楽譜と譜めくり問題 [音楽]

computer_tablet.pngスマホやタブレット端末の普及とともに電子書籍の利用が拡大したように、楽譜のデジタル化も進んでいる。電子版の楽譜を販売するサイトは山ほどあるし、著作権の切れたクラシック曲の楽譜データを大掛かりにアーカイブするプロジェクト(IMSLP)もある。では、ダウンロードしたPDFの譜面を演奏家はどうやって利用しているんだろうか。書籍をKindleアプリで読むように、iPadを譜面台に載せて演奏するのか?案外、結局プリントアウトして紙の譜面を使っているアナログな人も多いんじゃないか?

知り合いのフルート吹きで、iPad上のデジタル譜面を愛用している人がいる。ページ縦送りが可能なアプリを使うと、曲の進行に応じて楽譜を上下に少しずつスクロールできるので、譜めくりの煩わしさをを回避できるそうである。確かに、紙の譜面はページの変わり目でバサッとめくらないといけないので、休みのないプレストの曲なぞ弾いているとタイミングが難しい。慌ててつい力が入りすぎると、競技カルタさながらの勢いで譜面が吹っ飛び大惨事となる。タブレット上の譜面はそのストレスを軽減する効能を期待できそうだ。

ただし、ピアニストにとってはそう簡単にはいかない。ピアノの譜面は二段(場合によっては三段以上)あるから、必然的にページをめくる頻度が高くなる。室内楽はもっと大変で、例えばピアノ五重奏だとピアニストは六段のスコアを見ながら弾くので、縦スクロールなどしようものなら間違いなく目が回る。横にめくっていく場合、紙の譜面は左右に並べて場所を稼げる分むしろ利があって、タブレットは一面一枚以上は収まらないから譜めくりは紙よりさらに忙しい。タブレットとワイヤレス接続したペダルで譜めくりを遠隔操作するツールもあるようだが、ピアノはそもそも演奏にペダルを使うので足が空いていない。ピアニストにとっては、譜面のデジタル化は譜めくり問題の解決にはあまり役に立たないのである。

演奏会の舞台では、ピアニストの横によく譜めくり役が座って控えている。先日、ジョン・アダムズのピアノ協奏曲『Must the Devil Have All the Good Tunes?』のコンサート動画を見た。クセの強い曲名(『悪魔は全ての名曲を手にしなければならないのか?』と訳されるようだが、本来は『名曲がこぞって悪魔の手に落ちてなるものか』という反語的ニュアンスではないか)の真意はさておき、ファンキーでとても面白い曲である。興味深かったのは、ピアニストが譜面台にタブレットを置いて演奏していたことである。譜めくり担当は、ほぼ休みなく座ったり立ち上がったりを繰り返し画面をタップする。iPadはタップが弱いと反応しなかったり、触れる位置を間違えると思わぬ挙動をしかねないので、紙の譜面をめくるより神経を使いそうである。

それで思い出したのが、ユジャ・ワンがラヴェルの『左手のための協奏曲』をタブレットを見ながら弾く別の動画である。曲名の通り右手がずっと空いているので、自分で軽々と譜めくりしながら弾いていた。コンサート本番でタブレットを使うピアニストを見たのはそれが初めてで、若い世代にはそれが当然なのかと驚いた。もっとも、アダムスのような現代曲は別にして、彼女ほどのピアニストが定番の名作コンチェルトを暗譜していなかったことも別の意味で驚きではある。蛇足ながら、ユジャ・ワンはアダムスの前述曲を初演したピアニストであり、同曲のCDも出している。

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希望は光速を超えるか [科学・技術]

0kei.png東海道新幹線は開業当時「ひかり」と「こだま」の二本立てであった。「こだま」はもともと新幹線以前に東京大阪間を走っていた在来線特急の愛称で、これを新幹線の各駅路線が継承した。一方「ひかり」は東京と新大阪間を(当初)4時間で駆け抜け、当時の常識を超える超特急であった。光波は音波より遥かに速く空間を駆け抜けるから、「こだま」を超える特急が「ひかり」を名乗るのは確かに物理的に筋が通っていた。

ところが後に、「ひかり」をさらに凌ぐ新幹線計画(当初「スーパーひかり」計画と呼ばれた)が浮上した。相対論によれば、有限の質量をもつ物質を光速以上に加速することは不可能だ。10年ほど前、OPERAという国際素粒子実験プロジェクトが光速を越えて伝わるニュートリノを発見したと報告し、業界を騒がせたことがある。しかし実験装置の不具合(ケーブルのゆるみ)に起因する誤検知だったことが後に発覚し、報告は撤回された。

超光速で進む仮想粒子は理論上は存在し、タキオンと呼ばれる。タキオンは虚数の質量を持ち、通常の素粒子とは対照的に、絶え間なく超光速で運動し光速以下に減速することはできない。何より驚くべきことに、仮にタキオンが実在すれば、一定の実験設定下で過去に情報を送ることができる。昨日の自分に通信したり明日の誰かからメッセージが届くことも、理屈の上では可能になる。ある種のタイムマシンが実現するわけだ。

仮称スーパーひかり号は「のぞみ」としてデビューした。光より速く駆け抜けるものがあるとすれば、それは希望だ、という落としどころが憎い。「のぞみ」がタキオンだとすれば、未来からの伝言を私たちに届けてくれるかもしれない。永い進化過程のどこかで時間の概念を手にして以来、不確かな未来にくよくよ悩む唯一の動物が人類だが、同時に将来の希望を糧に今を乗り越える力を持つのも私たちだけなのである。

世界は先行きが見えない不安の中で2023年を迎えつつある。もし未来から届く手紙があるなら、それは世界がこれから良い方向に変わっていくという一縷の「のぞみ」を抱かせるものであってほしい。

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