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最初の一滴 [社会]

sports_ouen_soccer.pngドイツに勝って、コスタリカに負けた。ワールドカップのグループステージが突入した波乱の展開はさておき、現地で応援する日本サポーターの映像を興味深く見守っている。几帳面にゴミを片付けて回る様子が話題を呼んでいるが、書きたいのはそのことではなく、ノーマスクで楽しそうに絶叫する彼らの姿である。誰もマスクをしない文化圏に飛び込めば、母国ではマスクを手放せない日本人も即座にそこに乗っかることができる。これを確認できて少しホッとした。

コロナ禍前半の頃は、日本人のマスク着用率の高さは明らかに重症化や死亡件数の抑制に貢献した。しかしその代償として、ノーマスクで歩きまわることに罪悪感を感じる空気感が社会全体に浸透してしまった。ワクチンと自然感染のハイブリッド免疫なる言葉が頻繁に聞かれるようになり、人口の一定割合が実際に感染を経験しないと集団免疫に到達できないことは明らかなようである。防御から共存へとコロナ局面がシフトしつつある今、(以前も書いたが)コロナが終わった時にマスクを外せるのではなくて、マスクを外した時にコロナが終わるのである。私たちの仮想敵はもはやウイルスではなく、「同調圧力」に対する内なる恐怖心との戦いへと変化しつつある。

同調圧力が有効に働く限り、相当数の人々が一斉にマスクを外す決意を固めるまで街からマスクが消えることはない。その意味で、一億総マスク社会は強固な安定状態にある。逆に、いったん変化が始まればあとは雪崩を打ったように様相が変わるだろう。0℃を越えるとき氷が一気に水へ融けるように、大規模な相転移が起こるに違いない。カタールのワールドカップは、一面に張った氷が解け始める最初の一滴になるかもしれない、と中継を観戦しながらふと思った。

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返品天国のクリスマス [海外文化]

shopping_black_friday.pngアメリカでブラックフライデーと言えば、感謝祭(Thanksgiving)に続く大セールの日である。11月の第4木曜日、親族が集まってターキーを食べながらテレビでまったりとアメフト観戦するのが感謝祭の王道だが、その翌日は早起きして開店と同時に超特売品めがけて突っ走る。Black Tuesdayなら1929年の大恐慌を象徴する株価大暴落の日だが、火曜日が金曜日に代わるだけで意味合いがガラリと変わるのが面白い。フライデーの方のブラックとは、セールが繁盛して店が黒字になるからということだ。いつ頃からか、日本でもこれにあやかってブラックフライデーを謳うセールをよく目にするようになった。本来は感謝祭とセットのはずだから、セールだけぶち上げるのは単なる便乗商法のような気がしないでもない。

自分ですっかり忘れていたが、以前のブログ『コロラドの☆は歌うか』復刻企画を不定期でやっている。今回は第3弾として「返品天国のクリスマス」を再掲しようと思う。ブラックフライデーのCMを見ていてふと思い出した、米国滞在時のささやかなエピソードである。



小さい頃クリスマス・プレゼントといえば、欲しいおもちゃを一つだけ選んでサンタさん (か両親かは結果論上どうでもよろしい)に託したものでした。私の小学生時代は家庭向け電子ゲームが出回り始めた頃で、友達が持っていたインベーダーゲーム(死語)欲しさに狂おしい日々を送り、12月25日の朝ついに枕元にゲームの箱を発見した嬉しさはとても言葉では言い表せません。日本に比べキリスト教の浸透度が遥かに強いここアメリカのクリスマスは、もちろん年間を通じ最大の祭典の一つであることに変わりはありませんが、 商業化の徹底度においてもまた他の追随を許さぬ凄まじさがあります。クリスマスに先立ち一ヶ月に渡って繰り広げられるクリスマス商戦はエスカレートの一途を辿っています。その火蓋が切って落とされる感謝祭翌日には、大手スーパーが軒並み大セールに打って出ることがもはや伝統と化し、品数限定の目玉商品を狙って朝の5時から人々が列を作ります。

渡米した年の12月25日、知り合いのアメリカ人夫婦がクリスマス・ディナーに招いてくれました。そのお宅の子供夫婦と孫が全員集合した賑やかなパーティで、なかなか楽しかったのですが驚いたのはプレゼントの数です。天井まで届くかという巨大なツリーの袂には、大小さまざまの無数のギフト・ボックスが山積みになっていました。それを子供たちが片っ端から開けていき、出てきたプレゼントをしばし眺めたかと思うと次の箱のラップをびりびりと破き始めます。その光景は、心待ちにしていた贈り物をついに手に取った子供というより、ベルトコンベアの前で黙々と作業をこなす労働者を思わせました。彼らのもう片方の祖父母の家では輪をかけて大量のプレゼントが待っていると聞いたときには、思わず言葉を失ったものです。

アメリカ人のクリスマスプレゼントに対する価値観は、基本的に「質より量」志向であります。『賢者の贈り物』を書いたオー・ヘンリーはアメリカ人だったはずですが、 あのつましい美学はどこへやら、毎年クリスマス時期になると誰も欲しがらないガラクタが大量に流通しては片端から消費されていきます。

ただ厳密に言えば、実際に「消費」されているとすら限りません。というのは、クリスマスが過ぎるとあちこちのスーパーのカスタマー・センターに長蛇の列ができ、返品する品物を両手一杯に抱えた人々でごった返すからです。 ここアメリカは消費者天国で、レシートさえあればたとえ開封されていようが使われていようが、大抵のものは返品が可能です。返品できるのは買った当人に限りません。ご丁寧にもギフト・レシートなるものが存在し、プレゼントが気に入らなければ添えられたその紙切れと一緒に購入店(か同じチェーンの最寄店)に行くと、即座に交換ないし換金することができます。贈り物を選んでくれた相手に失礼のような気もするのですが、プレゼントにギフトレシートを付けること自体、贈った当人が初めから返品の可能性を想定していることになります。

アメリカ人にとってクリスマスプレゼントはいまや、経済的見地から見事に合理化された形式的な儀式に過ぎないのかもしれません。バーゲンでなければ誰も買わないようなプレゼントを次々と開封するクリスマスの米国人は、印刷済みの近況報告しかない年賀状の山をめくり続ける元旦の私たちとある意味でよく似ています。

ポール・オースターの短編に『オーギー・レンのクリスマス・ストーリー』という作品があります。クリスマスストーリーのネタに困った作家が行きつけのタバコ屋で愚痴ったところ、店の主人オーギーがとっておきの実話を教えてやると申し出ます。街角で日々定点観測の写真を撮り溜める風変わりな趣味を持つオーギーは、昼飯代と引き換えにこんな体験談を語って聞かせます。

ブルックリンでタバコ屋を営むオーギーは、一人きりで迎えたクリスマスの朝にふと、万引き少年が落として行った財布を返しに届けることを思いつきます。免許証の住所を頼りに訪ねたアパートで出会ったのは、その少年の祖母でした。目の見えないこの老女は、オーギーを久々に帰宅した孫と思い込み大喜びをします。成り行き上オーギーは孫のふりをする羽目になり、近所の店で食材を調達して戻ってくると祖母はひそかに取って置いたワインを持ち出し、二人きりのクリスマス・ディナーがささやかに開かれます。

オーギーはしかし、件の孫息子の仕業と思われる盗品のカメラがアパートのバスルームに積まれているのを見つけてしまいます。どういう出来心かそのカメラを一つ失敬して帰ったオーギーは後に罪悪感を感じ、数ヵ月後未使用のカメラを返しに再び老女のアパートを訪れます。だがその部屋は既に別人の住処となっており、老女の足取りは途絶えていました。持ち帰ったカメラを持て余したオーギーは、まるで罪滅ぼしのように街角を行き交う人々を撮り続ける日課を自らに課すようになったのです。

飽食の米国社会とは無縁の切なさに満ちたこの物語は、しかしこの国の現実の暗部を正確に切り取っています。オーギーがクリスマスの日に自分自身に贈る盗品のカメラは、もはや物質的な価値しか持たなくなったクリスマス・プレゼントの究極のメタファーであり、不埒な孫の帰りを待つ貧しい祖母の一途な想いと鋭い対照をえぐり出しています。その文脈の延長には、オーギーがカメラを返しに行くシーンが返品天国アメリカにあっていっそう象徴的な意味を帯びています。『オーギー・レンのクリスマス・ストーリー』は、コマーシャリズムで染まったこの国の12月25日を、社会の裏側から静かに皮肉った辛口の御伽噺と読むこともできます。

つい昨年(注:2004年)のクリスマス、以前招いてくれた一家が再度私たちを招待してくれました。巨大なツリーと莫大な量のギフト・ボックスは相変わらずでしたが、プレゼントの山に混じって一枚の絵がそっと置いてあることに気がつきました。 ワニをコミカルに描いたその絵は、落ち着いた緑を基調としたポップで可愛らしい作品です。誰への贈り物かこっそり聞いてみると、なんと小学生のサムが祖父母のために描いた自作だと聞いて驚きました。彼の画才にも脱帽しましたが、それ以上に絵を受け取る祖父母はきっと高価な名画を贈られるよりもずっと嬉しかっただろうと思います。孫とクリスマスを祝うために盲目の祖母が大事に取っておいたワインのように、サム君のワニの絵はどんな高額のギフト・レシートも及ばぬ、尊い贈り物だったに違いありません。

※初出:『コロラドの☆は歌うか』番外編2005年2月26日付 一部加筆修正

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素晴らしい発表をありがとうございます [海外文化]

日本で開かれた国際会議に出ていて気付いたことがある。講演者の発表につづき質問に立った日本人が、決まって律儀に感謝の言葉で切り出すのだ。
Thank you very much Professor Smith for your nice presentation. My question is ...
これがもしアメリカ人なら、大抵もっとくだけてこうなる。
Bill, great talk. I'm just wondering...
褒め方に文化的な温度感にちがいがあるのは当然で、日本人は概して謙虚で礼儀正しい。しかし私が講演者なら、Thank you very muchよりシンプルにgreat talkと言われた方が、真心がこもって嬉しい。

論文のレビュー(査読)をしていて似たような状況に出会うことがある。丁寧なコメントをつけてくれたレビュワーに著者が回答の冒頭で一言礼を述べることは普通にある。しかし(アジア系の著者に多いのだが)過剰なくらいThank youが連発される回答文書を見かけることが少なからずある。数十項目に及ぶ一問一答がすべて判を押したように「Thank you for your comment」の決まり文句で始まっていて面食らったこともある。形式的な謝辞や賛辞は乱発すると誠意が失われ逆に印象が悪化することに、思いが至らなかっただろうか。いちど私が査読した論文で、別のレビュワーが再査読の際に「この著者は表向き礼儀正しいが口先だけで、こちらの改訂コメントを軒並みスルーしている」と怒りのリジェクト宣言を突きつけた現場を目撃したことがある。

figure_talking.png日本はもともとあまり議論をしたがらない文化圏だと言われる。人と違う意見を持つことに漠然とした恐怖感をもち、他人の意見に公然と異を唱えると「空気を読めない」と受け止められがちな風土がある。ただし研究者は特異な人種で、根っからの議論好きで相手の主張に反駁することを厭わない人も多い。だが面白いことに、慣れない英語を話す局面になると日本人らしい奥ゆかしさが急浮上する場面をしばしば見かける。「Thank you for your nice presentation」はたぶんその一例で、本当にナイスなプレゼンだったかどうかはさておき、質問はしますが挑発的な意図はないんですと暗に予防線を張っているのだ。

欧米人に「空気を読む」という概念は希薄なので、異を唱えられた方もそれを個人的挑発とは受け止めない。それでも、彼らと同じ土俵でアグレッシブな討論に臆せず入っていくのは、日本で生まれ育った私たちにはハードルが高い。その「ビビり感」がThank you連発の心理的背景にある気がする。

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第8波の先 [政治・経済]

コロナ新規感染者数がじわじわと増加し、第8波がどうのと盛んに言われるようになった。感染再拡大が始まった(全国の実効再生産数が1を超え始めた)のは10月半ばだ。忘年会とも送別会とも関係のないこの時期に何が起こったかと振り返ってみれば、季節の変化で換気をしづらくなった要因もあるかもしれないが、一つピタリと符合する出来事は10月11日に始動した全国旅行支援である。人が動けば感染リスクが高まるのは当たり前で、わざわざ第8波に油を注いでいるに等しい。ただデルタ株以前とは状況が違うので、感染拡大を承知で旅行業界を支援するのが政府の覚悟なら、ハッキリそう言えば良い。

bed_making.pngここ数か月、国内外の出張先で気付いたことの一つは、連泊の際に客室清掃を毎日やってくれなくなったホテルが少なからずあることだ。ホテル側の言い分は、従業員の感染防止(10月に泊まった米国の某ホテルの例)だったり環境への配慮(先週泊まった東京の某ホテルの例)だったりいろいろだが、本音はスタッフの人手不足でハウスキーピングが回らないせいではないかと推察する。人員整理でコロナ禍を切り抜けたホテルが、急回復する需要に見合うだけの増員を確保できない。古巣に戻って来ないかつての従業員たちは、今どうしているのだろう。インフレが進む米国では雇用は売り手市場となり、より給料の高い職に労働力が流出しているのかもしれない。が、ちっとも給与の上がらない日本はたぶん事情が違う。

日本の場合、パンデミック以前からホテル業界の人手不足は始まっていたようである。観光庁が外国人観光客の誘致に力を入れ、東京オリンピックを睨んでインバウンドの急伸が見込まれていた。そこにコロナがやって来ていったん冷や水を浴びたが、脱コロナに向けて国内の旅行需要が回復すると同時に、長い「鎖国」が明けて海外からの来訪者がどんどん戻りつつある。必要な労働力が都合よく湧いて出るわけはないので、急激に伸びる観光需要に供給が追い付かず、もともとホテル業界が抱えていた構造的な問題が改めて表面化したものと思われる。

水際対策の緩和により、パンデミックで入国できなかった海外の出稼ぎ労働者も戻りやすくなる。しかし、昨今の円安が海外の人々にとって日本で働くメリットを薄めている。第8波後の経済回復まで睨むなら、国内の人手不足を補うため海外からやって来る働き手を積極的に確保しなければ、社会のあちこちが回らなくなるのではないか。円安のリスクは物価高に注意が集まりやすいが、中長期的な悪影響はもっと根が深い。法務大臣の失言に右往左往する以外に、政府がまずやるべきことはたくさんあるんじゃなかろうか。

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民主主義の危機? [政治・経済]

アメリカ中間選挙の結果が判明しつつある。選挙期間中、民主主義の危機という言葉が何度も飛び交った。言うまでもなく、二年前の大統領選の結果を未だに受け入れようとしないトランプ元大統領とその支持者たちを指している。

民主主義の対極は専制政治である。トランプ氏がクーデターでも起こしたのなら話は別だが、「票が盗まれた」とかいろいろ駄々をこねつつもバイデン大統領に座を譲るほかなかった。その意味で米国の民主主義はきちんと機能している。問題の本質は、なぜトランプ氏が今も一定数のアメリカ人から熱烈な支持を得ているのかである。どんな無茶苦茶な人物でも、多数が投票すれば権力を手にするのが民主主義だ。ポピュリズムが民主主義の一部である以上、民主主義の危機というより民主主義そのものが抱える限界が露呈しているところが、アメリカ政治問題の核心である。

royal_gyokuza.png税金は安いほうがいい、でも福祉は手厚くないと困る。この二つをともに実現できると「民意」に迎合する政治家がいたら、それは詐欺師である。自国経済が豊かになればいい、そのためには他国を犠牲にしてもいい、とぶち上げて人気を取る政治家が当選したら、良好な国際関係を損ない長期的には自国に不利益をもたらす。衆愚政治というと言葉は悪いが、民主主義は決して最良の政治体制ではない。もし聡明で徳のある君主がいるなら、国が栄え国民が幸せになる理想の政治形態はたぶん君主制だろう。だが、とんでもない人物が王座につけば計り知れない悲劇が起こる。最善には程遠いが最低限持続可能な唯一の政治システムが、民主主義なのである。

中間選挙では劣勢と言われていた民主党が意外な健闘を見せているようだ。それがトランプ人気の翳りを意味するのだとすれば、アメリカがポピュリズムへ傾倒しすぎる風潮に眉をひそめる人たちが、思いのほか多かったということかもしれない。保守にせよリベラルにせよ、極端に走れば必ず現実から乖離する。両極の合間の落としどころを考え続ける人たちが、民主主義の理性を支えているのである。

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それ、逆です [その他]

美術館の名画に缶詰の中身をぶちまけるクレイジーな環境活動家があちこちに出没している。展示中の絵画は大抵ガラスで保護されているので幸い本体は損傷は免れているが、当人たちは唯一無二の芸術作品をかけがえのない地球にたとえて世間を挑発しているつもりのようである。

bijutsu_art_paint.png彼らは決まってゴッホやフェルメールなどの定番の名作をターゲットにする。衆目を集めるには誰もが知る名画を狙うのが近道かもしれないが、環境破壊反対のメッセージとしてはいささか知恵が浅い。地球環境問題を意識する難しさは、身の回りで起こっていることが地球全体に及ぼす影響を想像しづらい無自覚性にある。どうせ狼藉を働くなら、トマト缶をぶちまけても汚損なのか芸術の一部かわからない前衛作品を選んでみてはどうか(決して煽っているわけではない)。傍目にわかりづらいが実は大変な損害が起きている、という意味でより相応しいメタファーのはずだ。

モンドリアンのとある作品が77年間にわたり上下逆に展示されていたのではという疑惑が話題を呼んでいる。縦横の線をモチーフにした幾何学的な作風で知られる画家だけに、素人目にはどちら側が上でも下でも違和感がない。気付いた学芸員もすごいが、四分の三世紀にわたり気付かれずにいた絵画自身も相当なものである。ひっくり返ったまま70年以上人々の目を楽しませてきたのなら、それはそれで「正しかった」のではという気もする。

一方、77年間も地球温暖化対策を放置したらきっと取り返しのつかないことになりそうだ。地球環境問題になぞらえるには、芸術はあまりに多様で奥が深い。

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