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羽生さんの離婚問題 [その他]

ice_skate_kaiten.png羽生結弦さんが突然離婚を発表し、巷を驚かせた。結婚報告から4か月に満たない急展開も予想外だったが、離婚の理由として過剰な取材や誹謗中傷被害を訴えたことも衝撃であった。私生活まで無遠慮に踏み込まれた心中を察するととても気の毒だが、だからと言っていきなり離婚か?と多くの人が首を捻ったに違いない。

圧倒的な人気と実力を誇る羽生さんは、熱狂的なファンが多い反面、何かとケチをつけたがるアンチも現れるし、中にはストーカー化しかねないファンもいるだろう。彼はずっと以前から、賞賛と中傷が入り乱れる喧噪に耐えて来たはずである。ただ今回の案件がこれまでと違うのは、彼一人の世界で閉じる問題ではなくなったことだ。家族を守るという人生初の命題に羽生さんが選んだ解決策は、家族を解消する究極の選択肢だった。とてもストイックで少しぎこちない、現役時代の彼の印象そのままと言えなくもない。

羽生さんは自己プロデュースに長けた人である。スケートリンク上の彼は一貫した美学を追求し、虚構の世界で独り舞う彼にファンは陶酔した。そう考えると彼にとって結婚とは、リンクを降りた実生活をいかにプロデュースするかという未知の難題だったのではなかろうか。社会の過剰な関心からお相手を守るのが至上命題なら、いろいろな対処策があり得たと思うが、彼の美学に適う最適解は離婚以外に見つからなかったようである。

もちろん夫婦二人の間で何があったのかは他人の測り知るところではないし、とくに(元)奥様の心中は一切表に出てきていない。羽生さんより8歳上という彼女の目に、事の顛末はどんなふうに映っているのだろう?類稀なスケーターが演出する哀しく美しい世界観を共有していたのか、それとも強すぎる世界観を共有し続ける限界を見つめていたのか。二人の人間の美学が完全に一致することがあり得ない以上、そのずれを許容することでしか夫婦は成立しない。もし奥様だけがそれに気付いていたのだとしたら、シングルで頂点を極めたフィギュアスケーターがペアやアイスダンスの舞台で同じように輝けるとは限らない、ということだったのかもしれない。

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宝塚問題とミルグラム実験 [社会]

宝塚歌劇団のパワハラ問題が論議を呼んでいる。規律や礼儀作法の厳格さは昔から知られていたが、自殺者が出たことでその妥当性が改めて問われているようである。学校でも体育会系の部活にありがちな厳しい「指導」がもやは時代に合わないと言われて久しく、基本的な問題の構造は宝塚に限った話ではない。チームワークに規律は不可欠だが、密室内の上意下達に依存した「指導」は得てして暴走する。なぜ似たようなできごとが繰り返されるのかを考えるとき、私が思い起こすのはミルグラム実験だ。

ミルグラム実験とは、米国の心理学者ミルグラムが1960年代に実施した有名な心理学実験である。俗称アイヒマンテストとも呼ばれ、ナチス政権下でユダヤ人虐殺の実務を主導したアイヒマンを念頭に、権威者の影響のもとで凡庸な人間が冷酷な殺人を犯すに至る心理状況を検証しようとした。

science_machine_denatsukei.pngミルグラム実験では、被験者は別室の「生徒」を電気ショックで罰する役割を与えられる。生徒に設問を与え、誤答するたびパネル上のスイッチから電気を流す仕掛けだ。回を重ねるごとに電圧が上がり、スピーカー越しに聞こえる悲鳴が次第に切迫していく。たいていの被験者は戸惑うが、実験の責任者は平然と被験者に続行を指示する。良心に耐えかね実験を中断した被験者もいたが、実に6割を超える被験者が、促されるまま電圧450Vに至る最終段階まで実験を完遂した。

実際には実験の「生徒」はサクラで、電流は一切流れておらず、苦痛の悲鳴は演技に過ぎなかった。とは言え、どこにでもいる善良な市民が、致死相当の電気ショックを無実の第三者に与えることを拒否しない、という実験結果は議論を巻き起こした。服従の心理などと整理されることもあるが、ミルグラム実験の被験者は強制も恫喝もされていない。6割超の被験者は、なぜ途中で止めなかったのか?「生徒」の悲鳴を聞いて、引きつった笑い声をあげる被験者もいたという。電圧のつまみを回す恐怖は、倒錯した快楽と表裏一体ではなかったか?権威(実験の責任者)を盲信し自らを思考停止に追い込むことで、心の闇が囁く残虐な誘惑を正当化しようとしたのではないだろうか。

宝塚や体育会系の部活には、アイヒマンにとってのヒトラーのような眼に見える権威は存在しない。代わりに、先輩から後輩へ脈々と受け継がれる不可侵の伝統がある。後輩がやがて先輩になった時、かつて自身の受けた「指導」を行使する権利を進んで享受する。それが微弱な電流で終わるのか、命を危険にさらす高電圧までエスカレートするのか。ミルグラム実験の結果が暗示する人間の性を思えば、いつか「指導」の針が振り切れるのは、むしろ時間の問題だったとも言える。

宝塚のような組織において、規律と作法を伝える伝統が重んじられる必然性は理解できる。しかし、たとえ伝統は真っ当だったとしても、その正統性に守られていると過信すると人間は盲信と思考停止の罠にハマる。つまるところ、各々が自身の心の闇を見据え暗い誘惑から目を背けることでしか、たぶん問題の根源は解決しない。

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大谷翔平のグローブ [スポーツ]

大谷翔平選手が、全国の小学校に総計約6万個のグローブを寄贈すると発表した。スケールのデカい話だが、今回書きたいのはそのこと自体ではない。大谷選手がインスタで公開した日英併記のメッセージに興味を引かれたのである。次のような下りがある。
このグローブを使っていた子供達と将来一緒に野球ができることを楽しみにしています!
これに相当する英文はこれである。
I’ll be looking forward to sharing the field one day with someone that grew up using this glove!
基本的な文意は共通するものの、いくらかニュアンスが違う。

sport_baseball_glove.png日本語は「子供達と将来一緒に野球ができること」というほのぼの感が前面に出ていて、(イチロー選手がやっているように)高校球児を指導に来て一緒にキャッチボールに興じるような印象をうける。一方英文は「このグローブを使って育った誰かといつか共に球場に立つこと」と言っているから、むしろメジャーリーグでガチな試合の緊迫感を分かち合いたいのではと思わせる。大谷選手が書いた原文は日本語と思うが、英訳の過程で「子供達」という不特定多数の意味合いが薄まり単数形の「someone that grew up...」に化けたのはなぜか?機械的な直訳ではまず出てこないニュアンスの変化で、日本語と英語の双方をよく理解している誰か(水原さんか?)が意図して訳出してこうなったはずである。

日本語のメッセージを見た第一印象として、6万個のグローブを使う子供のうち実際に大谷選手と「将来一緒に野球ができる」子はごく僅かだろうなあ、と思った。もちろん、リップサービスとしては充分成立する。ただ、本当に将来メジャーリーガーになって大谷選手と(彼の現役中に)対戦できる人材となると、それこそ通算で数人いるかいないかのレベルだ。そこまであからさまに対象を限定してしまうと、リップサービスとしても無理がある。

邪推だが、大谷選手はわざと日本語と英語で建前と本音を使い分けたのかもしれない。日本は人を才能で特別扱いしたがらないある種の平等至上主義が根強いので、「選ばれし誰か」よりも「子供達」全体に語り掛ける方がウケがいい。そこで、日本語では無難な公式メッセージを発しつつ、英語には(彼の意を汲んだ水原さんの助けを借りて)密かな本音を込めたのではないか。大谷さんは本心では、いつかメジャーの球場で「大谷選手のグローブ、昔使いました」と言ってくれる若手選手に出会いたいんじゃないだろうか。

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なめとこ山の熊 [文学]

animal_bear_character.png宮沢賢治は、他者の命を犠牲に生を紡ぐ生物界の掟に真正面から向き合った人である。『よだかの星』のよだかは、飲み込んだ虫が喉元を通過するたび、自身が奪う小さな命を思って胸がつかえる。生きるために不可欠な殺生の罪について考え続け、その行く末に安らぎの地平を見出そうとする葛藤の軌跡が、宮沢賢治作品のそこかしこに垣間見える。

『なめとこ山の熊』は、そんな宮沢賢治が到達した独特な世界観の結晶である(青空文庫で読める)。小十郎という熊取り名人の猟師となめとこ山に住む熊たちの生き様が、朴訥とした語り口に時折ハッとする美しい情景描写を散りばめながら綴られる。物語の中盤、銃を構える小十郎に一頭の熊がこう問いかけるくだりがある。
「おまえは何がほしくておれを殺すんだ」
「ああ、おれはお前の毛皮と、胆のほかにはなんにもいらない。それも町へ持って行ってひどく高く売れるというのではないしほんとうに気の毒だけれどもやっぱり仕方ない。けれどもお前に今ごろそんなことを言われるともうおれなどは何か栗かしだのみでも食っていてそれで死ぬならおれも死んでもいいような気がするよ」
「もう二年ばかり待ってくれ、おれも死ぬのはもうかまわないようなもんだけれども少しし残した仕事もあるしただ二年だけ待ってくれ。二年目にはおれもおまえの家の前でちゃんと死んでいてやるから。毛皮も胃袋もやってしまうから」
果たして二年後、熊は律儀に約束を果たす。住処の前で息絶え横たわる熊を前に、小十郎は思わず両手を合わせるのだ。

小十郎と熊は、端から平和に共存することの叶わない宿命を生きている。しかしその残酷な運命を分かち合っているからこそ、両者は不思議な共感の絆で結ばれている。小十郎の足元を見て熊皮を二束三文で買い取る町の商人と対照的に、熊と小十郎の関係はどこまでも対等で誠実だ。年老いた小十郎はある日、大きな熊の襲撃に遭う。そのとき熊は「おお小十郎おまえを殺すつもりはなかった」と呟き、小十郎は「熊どもゆるせよ」と心に言い残し息絶える。やがて小十郎の亡骸の周りに山の熊たちが集結し、厳粛な敬意をもって小十郎を弔う場面で物語は幕を下ろす。

今年、全国各地で熊の襲撃による人的被害が記録的な件数に上っているという。やむなく地元のハンターが熊を駆除すると、地域外の人間から「なぜ殺した」と浅薄な苦情が相次ぐそうだ。そこでふと思い出したのが、『なめとこ山の熊』だ。宮沢賢治が描く世界は現代の日本と遠くかけ離れているとは言え、彼が考え続けた思索の深さと温かみは、今なお心に重く刺さるものがある。

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