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ここ私の席ですが [海外文化]

ジョージア駐日大使が電車内の優先席に腰掛ける動画をツイッターに上げ、非難のコメントが相次ぐ出来事があった。大使はこれに対し、空いている車内で優先席に座ることに問題はなく「大切なのは、必要とする方が来たときに率先して譲る精神です」と反論した。この顛末で思い出したことがある。

フランスで高速鉄道(TGV)に乗り込むとき、たまにこんなことが起こる。自分の予約した座席で、見知らぬ女性が一人悠然と読書している。慌てず騒がず「ここ私の席ですが」と呟くと、彼女はニコリとほほ笑んで別の席に移動する。TGVは全席指定なので、彼女はもちろん別の席に切符を買ってある。だが自席より気に入った座席を見つけると、とりあえず陣取って誰も来なかったらラッキー、誰か来たら自分の席に戻ればいいだけ、という算段なのである。西洋的な合理主義とでも呼ぶべきか。

日本の新幹線だと滅多にそういうことは起こらない。勘違いで違う席に座ってしまい指摘されることはあるかもしれないが、指摘する方もされる方もちょっと気まずい。日本は見知らぬ他人どうしが言葉を交わす事態をなるべく回避しようとする奥ゆかしい文化がある。スーパーのレジで「レジ袋が入用な方はこれをカゴに入れてください」のような札が用意されていることがあって、レジ袋下さいという一言すら店員にかけたくない人にわざわざ配慮しているのだ。まして「そこ私の席ですが」なんて見ず知らずの人に言いたくないし、逆に他人にそう言わせるのも忍びない。

densya_silverseat.png「空いている優先席」問題は、席を必要としている人に譲るか否かという道徳論に陥りがちだが、問題の本質はたぶん少し違うところにある。車内が空いているのに優先席を遠巻きにする美学は、他人同士の距離感をできるかぎり保っておきたい日本文化の一部なのである。席を譲るのは純粋な善意の行為なのに、なぜか漠然とした気恥ずかしさを感じる日本人は案外多いのではないか?「どうぞ」「どうも」で結ばれる他人どうしの邂逅によって、つかのま暗黙のタブーを破ったかのような罪の意識が胸をよぎるからである。

そんな苦手意識の反動で、たとえガラガラな車内でも若い健常者が優先席に腰掛けていると厚顔無恥なヤツと思いがちだ。ジョージア駐日大使はこれを「理屈のない不要な圧力」と一刀両断しているが、問題の根はもう少し雅で奥が深い。肝心なのは譲る心だという大使の主張は何ら間違っていないと思うが、在日経験の長い彼すら日本文化の機微を理解するのは容易でないようである。

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父の日 [その他]

父の日や母の日が近づくたび、胸の奥がかすかにざわつく。

bouquet_fathers_day.png父と母の決別が濃厚になった頃、私は一人1Kのアパートに引っ越した。育った実家はやがて無人になり、取り壊された。だから父や母にその後それぞれ会いに「行く」ことはあっても、親元に「帰る」実感はなかった。そんな微妙な心の距離感を持て余している間に、父も母も他界した。私は冷たい親不孝者だったなと思う。

父が世を去った翌年、父の日が迫る6月のある日ふと小文を綴ったことを思い出した。ブログ化する以前の『尾張の☆は歌うか』に書いた記事で、今回はその復刻掲載でお茶を濁すことにする。



買い物に出かけると、あちらこちらに「父の日」の謳い文句を目にする季節になった。

昨年(注:2007年)の暮れ、何の前触れもなく父が急逝した。その一週間前から風邪をこじらせ、無理を押して出かけた出張の直後だったと、あとから聞いた。仕事などほどほどにして緩やかな老後を送ってよい歳ではあったが、いつ心臓が止まるかと気を揉むほどの高齢でもなかった。過去に重病を患った経験もなかったから、本人は自分の体力を過信していたのかもしれない。

一報を聞いて駆けつけた先は、搬送先の病院から遺体を移された葬儀場だった。まだ空っぽの白木の祭壇の前に、経帷子をまとった父が横になっていた。表情には苦しんだ気配もなく、耳を近づければ微かな寝息さえ聞こえそうな気がした。だが、じっと見つめているとその姿はまるで精巧に作られた蝋人形のようで、つい前日まで生きていた気配は不思議なほど希薄だった。かつて父として存在していたはずの何かは突然どこに消えてしまったのかと、とりとめもない考えが頭に浮かんでは消えた。死ぬと魂が体を抜け出すという信仰は、古の人々の意外に即物的な実感から発しているのかも知れないと思った。しかし、こじんまりとした葬儀場は霊魂が漂うには殺風景に過ぎるのか、部屋の空気は無機質でひんやりとした現実の佇まいに沈んでいた。

通夜と告別式には思ったよりずっと大勢の参列者が訪れた。独身寮以来という旧友の方々が親身に手伝って下さり、私が生まれる前の父の思い出を語った。通夜では父より10歳は若いであろう会社員らしき男性が、焼香のあとに身じろぎもせず父の遺影を見つめていた。会社の後輩らしきこの男性にとって、父はどんな存在だったのだろうと思った。高度成長期に大手メーカーに就職しそのまま定年まで勤め上げた父は、あの世代に典型的な日本型サラリーマンだった。いま思えば、現役時代には平日の大部分を過ごしていた職場の父を、私は一度も見たことがなかった。途切れることなく訪れる参列者に黙礼を返しながら、家族が知らない父の顔について私は考えていた。

私は大学院生のころ実家を出て独り暮らしをはじめ、それからすでに10年以上が過ぎた。その間に父と私の生活はそれぞれ大きく変わった。独立して以来、父と顔を合わせる機会は年に数えるほどだった。私がアメリカに住んでいた4年間は行き来はほとんど絶えていたが、父は一度だけ一人で私たち夫婦を訪れ、一緒に車で国立公園を巡った。アリゾナの赤い大地に口をあける雄大な峡谷が眼前に開けた瞬間、父はまるで子供のように喜びの声を上げカメラを構えた。旅の終わりの日、空港で出発ゲートに吸い込まれていく父に手を振りながら、父は昔からこんなに小さかっただろうかと私は思った。

父が世を去ったあと、日常生活に大きな変化が訪れたわけではない。喪失感や悲しみはもちろんあるけれども、育ち盛りに肉親を失くした子供たちのそれとは比べるべくもない。今までは考えたこともなかったが、人生の半ばにさしかかってから親を亡くすこということ、それは喪失感というよりむしろ漠然とした恐怖に近い。通夜が始まる少し前、祭壇の前で父の亡骸を見つめるうち、ふと冷たくて重い粘液がみぞおちの辺りを沈んでいくような奇妙な感覚を経験した。そのとき心をよぎったのは、父は逝った、次は自分の番が来るのだ、という暗く冷厳な予感だった。人はいつか死ぬという自明の理を、この時ほど冷ややかな現実として間近に感じたことはない。子は親の背を見て育つというが、親の背中が目の前から永遠に消え去ったとき、子は初めてその先に待ち受ける深淵を覗き込む。父は最期の瞬間まで私の視界から死の闇を遮り立ちはだかっていたのだと、私はそのときようやく気が付いた。

※初出『尾張の☆は歌うか』2008年6月7日付

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チャットGPT その2 [科学・技術]

先日担当したオムニバス講義でレポート課題を出したついでに、試しに課題を丸ごとチャットGPTに解かせてみた。例によってサクサクと回答を返して来たが、科学的事実の明らかな誤認は見られなかった反面、饒舌なわりに質問の本質にはまったく触れていない、ほぼ零点答案だった。ネットで簡単に答えが見つからない出題だったので、チャットGPTにとっては学習機会に恵まれないトピックだったものと思われる。人間でも苦し紛れにこういう回答するヤツ確かにいるよな、と思わず笑ってしまった。

security_keibi_robot.png質疑応答形式の課題をチャットGPTに投げると、ある程度決まった応答パターンがある。回答の前文で自分なりに質問の要約を整え、そのあと箇条書きで複数のポイントを次々と連ねていくのが典型例だ。そこが理路整然として知的に見える所以だが、同時にチャットGPT流「誤魔化し」の流儀でもある。仮に答を知らない(相応しい知見が訓練データに見当たらなかった)問であっても、回答の冒頭で質問を微妙に言い換えてしまうことで、まず自分の土俵に引き寄せる。続いて箇条書きが綿々と続くのは、そのうち一つ二つでも質問者のツボにはまれば「すげぇ」とポジティブに評価されるからだ。ある意味、占い師のテクニックと同じである。誰にでも当てはまりそうな運勢や性格診断を言い連ねるうち、見透かされたような錯覚を相手に与えるアレである。

チャットGPTは間違っていることもあるから気をつけなさい、と注意喚起する人が多い。それはそうなのだが、むしろ間違ってはいないが一番聞きたかった本題に答えていないことの方が多い。生成AIの宿命として、膨大なデータはあるが知らないことを自分で考える能力はない。従来の機械学習ならその限界を隠し切れずすぐにぼろが出ただろうが、チャットGPTは巧妙に論点をずらし立て板に水さながら「それっぽい」論陣を張ることで、知ったかぶりで煙に巻くハッタリが実にうまいのである。

それをチャットGPT自身がどう捉えているのか興味があり、「チャットGPTの能力の本質とは、自分で理解していない事柄を饒舌にはぐらかす技術と理解して差し支えないでしょうか?」という意地悪な問いを投げてみた。以下がその回答である。
チャットGPTの能力を「自分で理解していない事柄を饒舌にはぐらかす技術」と表現することは一般的な見方ではありません。チャットGPTは、大量のテキストデータを学習して言語の統計的なパターンを把握し、それに基づいて文章を生成することができます。しかし、それは統計的な予測に基づくものであり、意味の理解や深い理解を持っているわけではありません。
チャットGPTは、与えられた文脈に基づいて一貫した応答を生成することができますが、その応答は学習データに含まれるパターンに従ったものです。GPTはあくまで統計的なモデルであり、自己学習したパターンを元に生成された応答を提供するだけです。
一方、人間の理解能力は、経験、知識、直感、論理的思考などさまざまな要素に基づいて形成されます。人間は抽象的な概念や文脈を理解し、柔軟な思考や創造性を発揮することができます。
したがって、チャットGPTの能力を「自分で理解していない事柄を饒舌にはぐらかす技術」と表現することは、その能力を過大評価する可能性があります。AIは特定のタスクにおいて驚異的な能力を発揮する一方で、人間の理解能力や洞察力とは異なる制約や限界も持っています。
そこそこ謙虚な答えで好感が持てるが、最終段落で「その能力を過大評価する可能性があります」と言い出したところを見ると、どうも褒められたと勘違いしている様子だ。チャットGPTが皮肉を理解する日はまだ遠いようである。でも人間にもやっぱこんなヤツいるよな、とまた笑えてきた。

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Don't worry, I'm ... [語学]

butai_stage_small.pngとにかく明るい安村さんが、トレードマークの一発芸「安心してください、はいてますよ」で英国のオーディション番組『Britain’s Got Talent』を席巻した。現地ではTonikaku略してTonyと名乗り、歯に衣着せぬ辛口コメントで知られる審査員Simon Cowellに「君は最高に面白い」と言わしめた。準決勝で敗退したものの審査員が選ぶワイルドカードに選出され、まさかの敗者復活で決勝に進んだ。優勝は逃したが、ワイルドカードで白羽の矢が立ったこと自体、優勝候補というより最強の余興芸人としてお座敷に指名がかかったと解釈すべきだろう。

彼の決め台詞は、英語で「Don't worry, I'm wearing」となった。他動詞のwearに目的語が不在なので、英語としては文法的におかしい。ところが、むしろ英語ネイティブには違和感があるがゆえに、彼が「I'm wearing.」と決めるたび観衆が「... Pants!!」と叫んで文章を完成させるルーチンが誕生し、却って会場一体で盛り上がるノリが完成したと分析する人もいる。英語のwearは、パンツはもちろん上着も帽子も眼鏡も身に着けるもの全般に使うので、確かに目的語不在では意味が曖昧だ。日本語の場合、パンツをはく(穿く)・上着を着る・帽子をかぶる・眼鏡をかける、とアイテムごとに動詞が変わるので、「はいてますよ」だけで目的語が容易に想起される。

ちなみに、英語には自動詞のwearも存在する。意味が全く違い、擦り減って無くなるといったニュアンスを持つ言葉だ。My patience is wearing thin(私の我慢もそろそろ限界だ)とかThe battery is wearing out(バッテリーがぼちぼち切れる)のように使ったりする。「I'm wearing」を無理やり自動詞として訳せば、「俺もいい加減ボロボロだよ」みたいになるんではなかろうか。人気の浮き沈みが激しい一発芸の芸人にとっては、ちょっと笑えない含意かもしれない。とくに安村さんのファンではないが、束の間とは言え異国まで行って大いに人々を沸かせたのだから、末永く頑張ってほしい。

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衛星かミサイルか [社会]

war_missile.png北朝鮮が偵察衛星を打ち上げると予告し、想定期間早々に実行してみたものの、ロケットごと黄海に墜落し失敗に終わったようである。興味深いのは周辺国やメディアの反応で、北朝鮮が本当は何を打ち上げようとしていたのか、見解が分かれたままだ。

日本政府は一貫して弾道ミサイルだったと見做している。北朝鮮ってそういう国だからという言い分だが、破壊措置命令を出す以上、ヤバいものが飛んでくるというくくりにせざるを得なかったものと思われる。一方、今回は北朝鮮の宣言どおり偵察衛星を上げるつもりだったと分析する専門家もいる。衛星と称する弾道ミサイルと呼んでみたり、カッコつきの「衛星」だったり、または明言を避けて飛翔体と言ったり、メディアによって伝え方にだいぶ差がある。

いずれにせよペイロードが違うだけで、どうせ失敗したのだからどちらでもよいと言えばよいのだが、一連の報道のなかで一つちょっと驚いたことがあった。とあるテレビ局が、同じニュースの中でミサイルと言ったり衛星と言ったり、表現がブレているのである。自分が伝えている内容が明らかに自己矛盾していも、気にならないのだろうか。それとも、そもそもミサイルと衛星の区別がついていないか?

完全に公正中立な情報というものは存在しない。だから、立場が一貫している限り、報道内容が多少「偏って」いても別に構わないと思う。だが、内容を咀嚼しないまま情報をただ垂れ流しているのだとしたら、主要メディアとしてはいささか稚拙な印象を拭えない。

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