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セクハラ町長 [社会]

kaisya_nigate_joushi_man_woman.png岐南町町長のセクハラ・パワハラ問題が報道を賑わせている。岐南町ホームページに調査報告書が載っているが、問題発言・問題行為の指摘は99件に及ぶ。下の名前を「ちゃん」付けで呼ぶという微妙な案件から、抱きつく・尻を触るといった完全アウトな蛮行まで、この方お一人だけでセクハラ事例集完全版が出版できそうだ。

一般論としては、セクハラのラインを超えるかどうかは、受け止める側の心象次第だという意見もある。「ちゃん」付けで呼ばれた人が気分を害さなければ、たぶん誰も問題にしない。が、尻を触るような上司から「ちゃん」で呼ばれたら、大抵の人は気持ち悪がるだろう。セクハラをするから人望がないのと同時に、人望がないから何を言ってもハラスメントになるのである。

とはいえ、ハラスメント防止のガイドラインを決める以上、客観的に適用可能な善悪の基準を定めておく必要がある。基準が緩すぎると被害者が泣き寝入りする羽目になるし、逆に厳格すぎると冤罪につながりかねない。ハラスメント被害者に寄り添う時代の流れは基本的に正しいと思うが、際限なくコンプラのハードルを上げ続けることで社会の正義が自ずと実現するわけでもない。

問題の町長は昭和の価値観から抜けられない人物とあちこちで評されており、ある意味ではその通りだが、別に昭和の時代がこういう人ばかりだったわけではない。件の町長の問題は、そもそも人間として「ちゃんとしてない」ことに尽きる。人として真っ当であることの価値は、昭和も令和も基本は何も変わっていない。

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マルハラ [社会]

computer_message_app.pngZ世代の子たちは、LINEで送られてきた文章が「。」で終わっていると恐怖を覚えるのだという。マル・ハラスメント略してマルハラという言葉まであるそうだ。旧世代には想像のつかない心理だが、何がそんなに怖いのか? 日本語に句読点が導入された明治時代以来、「。」をくらって絶命した犠牲者は一人もいないはずだ。

そもそも「。」がなければ文章が区切れないから読みにくい、と私たち旧世代は考える。しかし若い子たちは、そもそもLINEで長文を打たない。短い言葉やスタンプをこまめに送信するので、文章を区切る必要がない。必要がないところに敢えて「。」をぶっこんでくると、逆に背後の意図を感じてしまう。スタンプや絵文字と違って感情を伝える機能を持たない「。」は、その無機質さゆえに静かな拒絶や冷たい怒りを表しているように見える。というのが彼らの恐怖の深層のようである。

若者たちもレポートや社内文書などで堅い文章を書くときは当然「。」を使うに違いない。一方で内輪のコミュニケーションで使う言葉は標準的な日本語とは別の言語へと進化を始め、彼らは器用にそれを使い分けているのだ。若者のスラングが上の世代に理解できないのは時代を問わず世の常だが、句読点の省略のような文章表現の基盤をも揺るがすレベルの変容は、あまり聞いたことがない。

かつて日本語は文語体が口語体からかけ離れていた時代があったが、明治の文豪たちが言文一致運動を起こして現在の文体に統一された。ところが今、Z世代はスマホ上のコミュニケーションに特化した「超口語体」を使いこなし、日本語の新体系を生み出そうとしている。2020年代は明治の言文一致に匹敵する日本語の変革期だった、と未来の言語学者が宣言する日が来るかもしれない。

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追悼 小澤征爾 [音楽]

昔の話だが、生前の母がいっとき成城の小さな教会を借りて子供たちに英語を教えていたことがある。その縁で教会のクリスマスイベントに呼ばれた母が、地元在住の小澤征爾さんの姿を見つけた。皆でクリスマスキャロルを歌う段になると、小澤さんが自ら「じゃあ、ぼく指揮するわ」と立ち上がり、場を盛り上げたそうである。地域イベントなのに世界のオザワの棒で歌えるなど、何と贅沢なクリスマスプレゼントか。小澤征爾は立ち昇るオーラと庶民的な気さくさのギャップがすごい、と母が感心していた。

tsue_sennin.png一期一会のコンサートを聴きに訪れるだけの聴衆にとっては、指揮者はオーケストラのセンターで踊り魔法の杖を操る花形だ。しかし指揮者の仕事の大半は、コンサートが始まる前に終わっている。オーケストラは一人一人が音楽的個性とプライドを持つ厄介なプロ集団だ。指揮者はそんな相手を束ねて一つの楽曲をまとめ上げなければならない。指示が細かすぎれば嫌われるし、創る音楽が浅ければバカにされる。指揮者は音楽家であると同時に、プロジェクトマネージャでもある。知識が豊富で頭が切れるだけではプロジェクトのリーダーが務まらないのと同じで、音楽的才能はピカイチでも烏合の衆を惹きつけるカリスマ性を備えていなければ、指揮者として成功を極める可能性はおそらくない。

今でこそ世界のクラシック音楽界で活躍する日本人は珍しくないが、小澤征爾さんはその草分けだった。クラシックは欧州の伝統芸能だから、日本の梨園や角界に似てとても保守的な世界だ。ウィーンフィルが最近(1997年)まで女性の正団員を採用しなかったことは有名である。ベルリンフィルも、80年代くらいのコンサート映像を見ると大半が白人男性である。東洋人に西洋音楽が分かるものか、と平気で言われていた時代に、小澤さんは音楽を奏でる心に国境などないことをタクト一本で証明し続け、少しずつ偏見を塗り替えて来た。

2016年に小澤征爾さんがベルリンフィルを振った際、コンサートマスターの樫本大進さんを聞き手にインタビューで語る映像を見たことがある。小澤さんが「あなたのとこのオーケストラ、やっぱりすごい(中略)こう、弦の粘りがね」と言うと、樫本さんが驚いて「それは(小澤さんが)要求するからですよ」と答えるくだりがある。指揮台に小澤征爾が立つと、天下のベルリンフィルすら音が変わる。世界最高の管弦楽団と今や対等に渡り合い、お互いに深い敬意を払う関係を築いた世界のオザワの到達点を見る思いがした。

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