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スパムフィルタの話 [科学・技術]

spam_mail.png数年前に職場のメールがそっくりマイクロソフトのシステムに移行した。体感として大きく変わったことは、スパムフィルタの性能が劣化したことだ。正確に言えば、スパム検出精度はむしろ上がっているかもしれないが、過剰判定が後を絶たないのである。当初は職場内の業務連絡まで迷惑フォルダに振り分けられたりしていた。一つ一つ「迷惑メールでない」とフィルタを教育し、改善しつつあるものの、今でもときおり仕事関連の重要メールがスパムの烙印を押され見失いそうになる。

スパムフィルタのアルゴリズムに詳しくはないが、日進月歩の進化を遂げているのは明らかだ。送信IPのブラックリストのような従来の手法も残っていると思うが、今はメール本文の「スパムっぽさ」を自動判定するベイジアンフィルタが普及している。しかし100%完璧な判定は不可能なので、いくらか見逃しがあったり、逆に過剰検出が起こったりする。

時々フィルタに取りこぼされたスパムメールが受信メールに紛れ込むくらいは、手動削除で対応しても大した手間ではない。しかし、大事なメールがたとえ一通でもスパムに振り分けられ視界から消えてしまうのは、大変困る。結果として、定期的に迷惑メールフォルダを自分の目で精査するルーチンが欠かせない。その労力を考えると、そもそも何のためのスパムフィルタなのかよくわからない。

スパムかどうか判断に迷ったら、フィルタは受信者の判断に委ねるべくとりあえず通常メールに振り分けてほしい。見逃しはある程度許容しても良いから、スパムでないメールをスパムと判断する過検出は絶対に避ける、そんなふうに判定誤差を非対称に処理してほしい。しかし、ベイジアンフィルタはたぶん見逃しと過判定を原理的に区別できない。AI技術の潜在的な脅威は先日の広島サミットでも話題に挙がったようだが、所詮はツールなので今のところまだ得意不得意にかなりムラがあるようである。

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グローバルサウス [政治・経済]

sekaichizu.png広島でG7サミットが開かれているが、G7の対立軸としてグローバルサウスという言葉がよく聞かれる。新興国全般を指す語で、その語源は途上国の多くが「南半球」にあるからとよく説明されるが、あまり的確ではない。実際には、インドはもちろん東南アジアの大半とアフリカの北半分、中東と中米のすべてと南米の一部は、赤道より北側に位置している。ちゃんと調べたわけではないが、国の数でも総人口でもグローバルサウス諸国の過半数は北半球に属しているのではなかろうか。たぶん、(オーストラリアやニュージーランドを除く)先進国目線で「自分たちより南にある国々」くらいの相対的な地理感覚でサウスとまとめているに過ぎない。

従って、サウスとノースを分ける基準は南北半球ではなく、むしろ低緯度と中高緯度の違いを象徴していると考えた方が良い。ナイルやメソポタニアなど古代文明は低緯度帯に栄えたが、現代の先進国はもっぱら中高緯度に集中している。それは何故なのか、という地政学的な分析は誰か既にやっているかもしれないが、素人が想像するに、冬場の気候が厳しい環境で持続可能な文明を構築するには、相応の科学技術力と経済力を育まざるを得ないということではないか。北欧諸国がおしなべて世界トップクラスの高福祉国家であるのは、極寒の冬で命をつなぐためには生活水準の最低ラインを高く設定せざるを得ないからと想像する。

その仮説に立つと、南半球でも赤道から遠い(うんと南にある)国々は先進国であるべきという理屈になる。しかし現実には、南北非対称な経済格差が存在する。その理由はおそらく、北極海の周囲を大陸がぐるりと取り囲んでいる北半球と違い、南半球の中高緯度は南極大陸を除くと海ばかりで人が住めないからではないか。アフリカ大陸は最南端でも南緯35°に届かず、それより高緯度側(南側)に土地を持つ国はオーストラリアとニュージーランド、そしてチリとアルゼンチンだけだ。アルゼンチン以外の三国はOECD加盟国で、アルゼンチンも百年前は世界有数の経済大国であった。「先進国は中高緯度で育つ」という即席理論は、確かに南半球でも成立しているのである。

もし南半球に人が住める大陸がもっと多かったなら、そこには欧米や日本と互角に渡り合う先進国がひしめいていたかもしれない。そんな世界でどのような国際情勢が立ち現れるのか、想像も及ばない。一つだけ確かなのは、その世界で新興国を「グロバールサウス」と呼ぶ人は誰もいないはずということである。

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似ていて違う [音楽]

music_acostic_guitar.pngエド・シーランが著作権侵害で訴訟を起こされたが、5年超にわたる審理のすえ原告の訴えは退けられ、勝訴した。彼の『Thinking Out Loud』がマーヴィン・ゲイの『Let’s Get It On』をパクったと指摘されたのである。私はこのジャンルに全く疎いが、YouTubeでググると簡単に聴き比べができる。確かに曲の雰囲気は似ているが、少し違う意味でどちらも美しい。突き詰めれば、音楽におけるオリジナリティとは何かという問題に行き着く。

元曲とされた『Let’s Get It On』は、単純化すればC→Em→F→Gのコードにメロディーを載せていく。一方シーランの『Thinking Out Loud』はC→C/E→F→Gとなり、2番目がやや違うがほぼ同じコード進行で、ベースラインも同一である。その骨格を構成するトニック→サブドミナント→ドミナントのパターンは、西洋音楽では基本中の基本だ。バッハの平均律第一巻、ニ長調プレリュードの出だし2小節も(ベースラインを含め)同じパターンだ。バロック音楽の時代から変わらず愛され続けた、いわば鉄板素材である。

使い古されたコードを流用するだけの音楽は陳腐で退屈だが、突飛で聞き慣れない音列をただ連ねても誰の心にも響かない。新しさと懐かしさが絶妙に共存する奇跡が名曲の条件である。何気なく嗅いだ香りが思いがけず古い記憶を呼び起こすように、ふと耳に入った音楽が言葉にならない遠い既視感を呼び起こすとき、人の心のひだをそっと揺さぶるのである。

ブラームスの第一交響曲最終楽章のテーマが、ベートーヴェンの第九『歓喜の歌』に少し似ている。それを指摘されると、ブラームス本人は「そんなことはどんなアホにでもわかるよ」と答えた。逆ギレのようでいて、もちろんブラームスが言いたかったのはそこではない。どこか似てるけど本質は違ってそれぞれ良い、その繰り返しが音楽史を豊かに彩ってきたのである。

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フェイブルマンズ [映画・漫画]

歳を取るにつれ映画をわざわざ見に行くのが億劫になり、海外出張に行く機内のつれづれにふと思い立って見ることが多くなった。4月いっぱいベルギーの大学に滞在する機会があり、往路の機内で見たのが前回のコラムで触れた『Living』である。今回は、復路のお供に選んだ『フェイブルマンズ』の話をしたい。

468B3D83-B7B7-4300-AFCC-383A0FF45162.pngスピルバーグ監督の最新作『フェイブルマンズ』は、監督本人の生い立ちをベースにした半自伝的映画である。それだけの予備知識から、一人の映画少年がハリウッドで脚光を浴びるに至るサクセスストーリーかと思っていたら、全くそうではなかった。もちろん、映画作りに魅せられた少年が主人公であることに変わりはない。だが、物語が描き出す核心は彼の成功ではない。

少年サミー・フェイブルマンの父は、有能なエンジニアである。優しく家族思いな反面、理系オタクの魂が見え隠れし時に独走する。コンサートピアニストを道半ばで諦めたサミーの母は、芸術家らしい奔放な明るさと繊細な脆さを併せ持つ、父と対照的な女性だ。父の8mmカメラでフィクションを撮る面白さに目覚めたサミー少年は、初めは妹たちを相手に、のちに友人たちを巻き込み、フィルムに虚構のリアリティを記録する趣味に没頭する。

現実指向の父は、絵空事を映像化するサミーの才能を認めつつ、そこに趣味以上の価値を認めようとしない。だがサミーの映画作りは、思いもよらぬ形でサミーとフェイブルマン一家の運命を変えていく。家族キャンプの実録をカメラに収めたサミーは、編集作業中にフィルムに映り込んだ母の予期せぬ一面を発見する。彼だけが気付いた家庭の小さなほころびは、幸福を絵に描いたような6人家族の平穏が静かに崩壊していく前兆だった。

サミーは高校で学生イベントの撮影を担当するが、その完成披露を見たある学生がサミーに詰め寄る。スポーツ万能でスクールカーストの頂点に君臨する彼は、映像が賛美する自身のヒーロー像に予想外の反応を示した。他人には決して見せなかった彼の内なる苦しさを、サミーは知らないうちにフィルムに焼き付けていたのだ。映画は単に絵空事を綴るメディアではなく、目に見える真実と隠れた真実の多層性をまるごと語る力がある。それを自覚したせいか否かはさておき、両親に反発していた思春期のサミーはやがて、父と母それぞれが一人の人間として抱える心の葛藤を素直に受け止めるようになる。

映画の幕切れ、サミーはジョン・フォード監督とつかのま面会の機会を得る。伝説の名監督は、オフィスの壁にかかる絵画を指してサミーにこんな話をする。
これは覚えておきたまえ。地平線が下にあれば、面白い。上にあっても、面白い。地平線が真ん中だと、まったくもってつまらん。
フォード監督本人は、構図の基本をレクチャーしただけかもしれない。だがその含意はたぶんもう少し深い。初めから直線で二等分された調和は、何も生み出さない。調和が乱れているからこそ、人生に陰影と魅力が生まれる。それは若きサミーにとって感動的な啓示であり、同時に救済でもあった。

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