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スピーキングが苦手な理由 [語学]

全国学力テストの結果が公表され、中学3年生を対象とした英語スピーキングの成績が断トツ低いと話題になっている。正答率はわずか12%あまり、受験者の6割がゼロ回答だったという。外国語を学ぶ過程で、書く・読む・聞く・話すの4要素のうち習得に一番時間がかかるのは一般的に「話す」なので、この結果自体とくに驚くにはあたらない。とはいえ、以前から日本の英語教育メソッドが抱える問題点を改めて浮き彫りにしたと言えなくもない。

なぜスピーキングが難しいかと言えば、自分の思考ペースで作業できるリーディングやライティングと違い、会話は容赦なくリアルタイムで進むからである。その点ではリスニングも慣れるまでは難儀するが、コツを掴んでくると全部聞き取れなくても想像を交えて意味が取れるようになってくる。母国語だって人の喋る言葉をいつも一言一句聞いているわけではないが、半ば無意識に推測で補えるから理解に困らない。聞き漏らした言葉を想像で補完できる洞察力は、リスニング能力の本質と言ってもいいくらいだ。

animal_kangaroo.png一方、スピーキングは想像で誤魔化すわけにはいかない。学力テストを受けた中学生が、頭の中で文章を組み立てる時間的な余裕がなかったと本音を漏らしていた。実はこの生真面目さこそが、日本の英語教育の失敗を示唆しているのである。外国語の初学者にとって、完璧な文章が咄嗟に口をついて出るわけがない。最初は単語の羅列で一向に構わない。それでも意外に通じるというコミュニケーションの成功体験を重ねながら、やがて文法的に正しい言葉が話せるようになればいい。でも、学校の英語教育はそういうノリしろを認めてこなかった。初めから正解を強要する学校教育のプレッシャーが、間違いを恐れて英語を話せない日本人を量産しているのである。

全国学力テストの設問内容は、国立教育政策研究所のサイトで公開されている。スピーキングの問題は、オーストラリアの留学生を動物園に案内するシチュエーションから始まる。象の次はどこに行く?と聞かれて、「We are going to see kangaroos next.」のように答えさせる問がある(設問にカンガルーの絵が描いてある)。もし文章をその場で完成できなければ、「Kangaroos next!」だけでいい。試験としては減点答案かもしれないが、文脈に照らして完璧に通じるという点で実用上は何の問題もない。

スピーキング問題の後半は、ニュージーランドの留学生が日本のコンビニでビニールのレジ袋を提供することに苦言を呈するシチュエーションである。これに対して英語で自由に意見を述べるわけだが、そもそも環境問題に関心がない子は日本語だって答えが出てこないだろうから、かなり敷居の高い問題だ。ちなみに、国立教育政策研究所の模範解答例はこれである。
I like your idea. Many people in Japan use plastic bags. We must change our action to protect environment like people in New Zealand.
なんと優等生的で退屈な解答か。たぶん全然ちがう言い分だってあり得るはずだ。
Okay, bring your eco bag if that makes you happy. But you flew here from New Zealand, right? Isn't it what you environmentalists call "flight shame"? Reality is not as simple as it looks, dude. Stop being a smart ass.
あくまで英語の試験なので主張の内容は問われないはずだが、こんな憎まれ口をたたいてちゃんと点をくれるのか、一度聞いてみたい。

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消える消しゴム [語学]

タイのドンキで売られていた「よく消える消しゴム」の英訳が振るっている、というSNSの投稿に笑った。
Eraser that disappears often.
いや「よく消える」ってそういうことじゃなくて、と突っ込みつつ、確かに訳としてはちゃんと成立している。地元スタッフが自動翻訳に放り込んだらこれが出て来たのかもしれない。

bunbougu_keshigomu.pngそこでふと疑問に思ったのだが、「よく消える消しゴム」という日本語はそもそも文法的に正しいのだろうか。似た語句に「よく切れるハサミ」や「よく書けるペン」などがある。ならば本来は「よく消せる消しゴム」と言うのが正しいのではないか?消える消しゴムと言うと失踪癖のニュアンスを払拭できないが、消せると言えばその誤解は排除できそうである。

しかし考えてみると、「切れる」「書ける」「消せる」はいずれも「切る」「書く」「消す」という動作を伴う他動詞から派生している。他方、「消える」は動作の主体が不在の自動詞である。「字を消せる」のか「字が消える」のか、消しゴムの見方次第で言い方が変わる。「切る」や「書く」は対応する自動詞が存在しないので、このような言い換えができない。ハサミやペンにはない、消しゴムの特権だ。

「消える」と似た例として、見るという動詞は「物を見る」と「物が見える」の二通りの言い方ができる。「よく見える眼鏡」は「よく消える消しゴム」と同じ語感だ。ただし切れるハサミや書けるペンのように「よく見れる(見られる)眼鏡」という他動詞型の表現は、なぜか眼鏡には馴染まない。消せると消えるのいずれの用法も可能な二刀流が成立するのは、思いつく限り消しゴムだけだ。消しゴムは日用品界の大谷翔平なのである。

あれこれ書いているうちに何か文法的な結論が出るかと思ったのだが、むしろ落としどころがわからなくなった。日本語は奥が深い。

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Don't worry, I'm ... [語学]

butai_stage_small.pngとにかく明るい安村さんが、トレードマークの一発芸「安心してください、はいてますよ」で英国のオーディション番組『Britain’s Got Talent』を席巻した。現地ではTonikaku略してTonyと名乗り、歯に衣着せぬ辛口コメントで知られる審査員Simon Cowellに「君は最高に面白い」と言わしめた。準決勝で敗退したものの審査員が選ぶワイルドカードに選出され、まさかの敗者復活で決勝に進んだ。優勝は逃したが、ワイルドカードで白羽の矢が立ったこと自体、優勝候補というより最強の余興芸人としてお座敷に指名がかかったと解釈すべきだろう。

彼の決め台詞は、英語で「Don't worry, I'm wearing」となった。他動詞のwearに目的語が不在なので、英語としては文法的におかしい。ところが、むしろ英語ネイティブには違和感があるがゆえに、彼が「I'm wearing.」と決めるたび観衆が「... Pants!!」と叫んで文章を完成させるルーチンが誕生し、却って会場一体で盛り上がるノリが完成したと分析する人もいる。英語のwearは、パンツはもちろん上着も帽子も眼鏡も身に着けるもの全般に使うので、確かに目的語不在では意味が曖昧だ。日本語の場合、パンツをはく(穿く)・上着を着る・帽子をかぶる・眼鏡をかける、とアイテムごとに動詞が変わるので、「はいてますよ」だけで目的語が容易に想起される。

ちなみに、英語には自動詞のwearも存在する。意味が全く違い、擦り減って無くなるといったニュアンスを持つ言葉だ。My patience is wearing thin(私の我慢もそろそろ限界だ)とかThe battery is wearing out(バッテリーがぼちぼち切れる)のように使ったりする。「I'm wearing」を無理やり自動詞として訳せば、「俺もいい加減ボロボロだよ」みたいになるんではなかろうか。人気の浮き沈みが激しい一発芸の芸人にとっては、ちょっと笑えない含意かもしれない。とくに安村さんのファンではないが、束の間とは言え異国まで行って大いに人々を沸かせたのだから、末永く頑張ってほしい。

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新幹線の車内放送 [語学]

以前は最低月一回くらいは東京出張が入っていたが、コロナ禍に入ってからの二年間、全くというほど新幹線に乗る機会を失った。昨年後半あたりから少しずつ国内外を移動する日々が戻りつつあるが、久しぶりに東海道新幹線に乗って気付いた変化がある。車内の英語アナウンスである。

school_housouiin_girl.pngコロナ前は、軽い英国アクセントの車内放送(実際に音声を入れたのはオーストラリアの人らしいが)を聞き慣れていたのだが、それがなくなった。代わりに、発音は模範的だがイントネーションが微妙に引っかかる不思議な英語音声が流れるようになった。おそらくコンピュータの合成音声なのではないか。駅に停車するごとに発車時刻を言うので、事前の録音では無数の組み合わせが必要となり現実的でないが、機械の自動読み上げなら簡単にプログラミングできる。

入力した文章をコンピュータが流暢に読み上げる技術は日進月歩と思うが、それでもどこか不自然で居心地が悪い。音声版の「不気味の谷」を越えそうでまだ越えられていないということか。英語に先立ち流れる日本語アナウンスもやはりどこかぎこちないから、これもたぶん自動音声だろう。

一方、逆の変化もある。以前はネイティブが吹き込んだ録音で済ませていたセリフを、車掌が生アナウンスで英語をしゃべるようになった。まもなく新横浜駅に停車します、左側の扉が開きます、のような放送に続き、We will soon make a brief stop at Shin-Yokohama. The doors on the left side will open.などと言うアレだ。車掌の堂々たる和風アクセントとはいえ、噛まずにすらすらと喋っているから立派である。コロナ中に運行本数が減り勤務時間に余裕ができた機会を利用して、JR東海は乗務員の英語研修でもやったんだろうか?

生身の人間が話す日本語訛りの英語と、機械的に合成されたネイティブっぽい英語、そのどちらがより「本物の」英語に近いだろうか。車内販売のコーヒーを片手に、そんなことを考えたりする。ちなみに、以前は5枚一組だった新幹線のコーヒーチケットが、いつの間にか4枚綴りになっていた。新幹線の利用頻度が減った客のニーズに合わせたのか、これもコロナ禍がもたらした変化の一つかもしれない。

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極度乾燥の冒険魂 [語学]

Superdry.jpg「極度乾燥(しなさい)」というロゴを掲げていたSuperdry という英国のアパレル・ブランドがある。日本人なら二度見必至の人を喰ったロゴだが、日本語を知らない外国人にとって漢字と平仮名は何ら意味を持たないデザインの一部に過ぎない。それにしても、Superdryが極度乾燥と訳されるのはまだわかるとして、カッコつきの「しなさい」とは一体何ごとか。

以下は私の推理だ。Superdryを機械翻訳で和文変換してみるとしよう。この言葉を名詞と取るか動詞と解釈するかによって、ニュアンスが代わる。名詞であれば「極度乾燥」そのままだ。動詞だった場合、主語のない動詞単独の文章は文法的には命令文だから、「Superdry!=極度乾燥しなさい!」となる。文脈不在で名詞か動詞か判断する術がないので、翻訳AIは両者の可能性を含ませて「極度乾燥(しなさい)」と表示したのではないか。カッコ内を読めば動詞で、省けば名詞だ。人間がそのどちらかを選択することを翻訳ロボットは想定したはずだが、何も考えず丸ごと採用されてしまった。機械を使う人間の方が使われる機械より機械的、というトホホな話である。

非漢字文化圏ではきっと、漢字は古代文明の象形文字のように見えて面白いのだろう。日本は逆に、昔からアルファベットの羅列がデザイン的に使われてきた。よく見たら日本語をローマ字化しただけの文章もあれば、意味が分かりそうで分からない奇怪な英語が綴られていることもある。いずれにせよ、アルファベットの羅列にアート性を感じるのは、裏を返せば言語としてのメッセージ性が希薄だからだ。日本人にとって、英語(と西洋言語全般)は依然として意味の良くわからない遠い国の言葉なのである。巷にあふれるアルファベットの記号群は、我が国の英語教育の失敗によって花開いたポップカルチャーと言えるかもしれない。

とはいえ、Tシャツのプリントやカフェのウォールペイントに不可思議なアルファベットを綴るのと、ブランドのロゴそのものに不可解な日本語を刻印するのは、次元の違う問題だ。ロゴは当然ブランドのイメージに直結する。Superdryの創業者は、極度乾燥(しなさい)が日本語話者の目にどう映るか全く確認を取らなかったのか?日本で市場展開する意図は初めからなかったのかもしれないが、イギリス在住の日本人は多いから、下手な日本語を看板に掲げれば瞬く間に失笑が世界に伝わることは目に見えていたはずだ。

さすがに今は極度乾燥(しなさい)は止めて、代わりに「Superdry 冒険魂」に刷新されたようである。意味不明のロゴに挑戦したその心は、実は起業家的な冒険魂の証であったというオチなのか?いずれにせよ、日本語を知らない現地の人々にとっては初めから最後まで何のことかさっぱりわからない話の顛末である。

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キイュイヴ [語学]

food_peking_duck.png北京はカナ表記ではペキンだが、英字ではふつうBeijingと綴られる。しかし、北京大学はPeking University、北京ダックはPeking duckである。中国都市名のアルファベット表記に標準が二通りあって、以前はウェード式(北京=Peking)を採用していたが、あるとき中国政府がピンイン式(北京=Beijing)に切り替えたというのが公的な事情のようだ。発音を外国語で正確に表す難しさが、英字表記のブレを生む。

ChinaとかJapanのように、現地語の呼称と直接関係のない英語名が国名として定着しているケースもある。日本語にも英国とか米国など独特の呼称で外国名を表現する慣習があるが、これはもともと英吉利とか亜米利加のように(無理矢理感は否めないとは言え)外国語の表音を真似ようとした名残である。現地の言葉を尊重するなら日本の英名はNihonまたはNipponとするべきと思うが、その場合はニホンとニッポンのどちらが正統かという別の問題が発生する。これは「どちらでもいい」というのが公式見解のようである。漢字にすれば同じなので読み方は自由でも混乱はないということかと思うが、英字アルファベットに転記すると別の固有名詞に見えてしまう。漢字を知らない外国人に、NihonとNipponは同じと納得してもらうのは容易ではないかもしれない。結局、実用的にはJapanと呼んでおくのが明快で便利ということか。

ロシアのウクライナ侵攻をめぐり、欧米の報道ではKievの代わりにKyivと綴るほうが一般的になりつつあるようである。ムソルグスキーの『展覧会の絵』最終曲がふつう『キエフの大門』と呼ばれるように、国外ではウクライナの首都はずっとキエフという名称が馴染んでいた。しかしKievはロシア語起源の呼称であり、ウクライナ語の名を英字アルファベットに転記するとKyivになる。ソ連崩壊後の1995年にウクライナ政府はKyivを公認表記に定めたそうだ。カタカナではキーウと書かれることが多いが、Youtubeでウクライナ語の発音を聞いてみると「キイュイヴ」のように聞こえる。外国人には容易に真似しづらい難度だが、とくに現在のような情勢下で母国の都市を何語で表現するべきか、現地の人々にとって極めて大切な問題にちがいない。

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ピークアウト [語学]

枕詞で「感染拡大が止まりません」と言うニュースキャスターが少なくない。嘘ではないが、ちょっと浅薄な表現かなと思う。感染者数は依然として増えてはいるものの、実効再生算数はだいぶ前から減り続けている。つまり感染拡大の速度は鈍ってきているわけで、「止まりません」というほど悲観的な状況でない。2月上旬をピークに新規感染者数は減少に向かうという見立てもあるようで、本当にそうなるのか誰にもわからないが、希望的観測としては早く落ち着いてほしい。

graph10_oresen1.png新規感染者数が山場を越えると「ピークアウト」したなどと言ったりする。試しにちょっとググるとこれは和製英語だという見解が大勢を占め、このニュアンスでpeak outと言うのは誤用という意見が主流だ。peakを動詞で使うときは関数などが最大値を取る意味になり(the function peaks at x=3)、頂点が突き出るイメージを強調するためにpeak outと言うことはあるが、山場を越すニュアンスとは違うということである。同じ発音でpeek outという全く別の言葉があって、物陰から外を覗く意味のほかスマホがポケットからぴょこっと顔を出している場合にも使える。outが飛び出すイメージを喚起しているわけだ。

ただ、日本語で言うピークアウトが必ずしも英語として間違いとは言い切れない。昨年の夏の話だが、アメリカ国立衛生研究所(NIH)所長のコメントにこんな表現がある(参考)。
This is going very steeply upward with no signs of having peaked out.
Thisとは(今や懐かしい)デルタ株の新規陽性者数のことで、明らかに「頭打ちになったという兆候はない」という意味でピークアウトと言っている。他にも、(私の誤読でなければ)株価の動向が天井を打ったという文脈でピークアウトを使う記事はいくつか見つかる(例1例2)。いずれの例でも完了形になっているのがミソで、「have peaked」と言うだけでピークは過ぎた読めるところを、敢えてoutで強調している。

outには物理的に「外」を意味するほか、ものが消えて無くなる意味合いでも使う。吹雪で視界が真っ白になるwhiteoutとか、停電で真っ暗になるblackoutがその例だ。論文を書くときに重宝するout関連の言い回しがいろいろあって、二つ以上の効果が相殺してチャラになるcancel out、数値を平均しデータの凸凹が取れるaverage outなどはよく使う。本来なら、ピークは越えることはあっても消えることはない。それでも敢えてpeak outと言いたくなるのは、コロナの高波が早く消え去ってほしいという人類共通の願いが図らずも滲み出すせいかもしれない。

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日本人には敷居の高い地名 [語学]

先日マツコ&有吉の番組を見ていたら、口に出して行ってみたい言葉の一つに「スリジャヤワルダナプラコッテ」が登場した。1985年にコロンボから遷都されたスリランカの首都である。高校の頃、地理の先生が「スリランカの首都は、もうコロンボではありません。スリジャヤワルダナプラコッテです」と口酸っぱく教えてくれた。当時は遷都からまだ数年後で、旬の時事ネタだったせいかもしれない。生徒の反応は「え?スリジア何?」という具合で、「では10回復唱しましょう。はい、スリジャヤワルダナプラコッテ、スリジャヤワルダナプラコッテ・・・」と特訓が始まった。おかげであれから30年以上たった今なお、私はスリジャヤワルダナプラコッテを一切噛まずに暗唱できる。

外務省のサイトによると、正式には「スリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ」と区切るようである。もし意外な区切りの地名コンテストがあるなら、その頂点を極めるのはアフリカ最高峰キリマンジャロではないか。キリマン・ジャロでも、キリ・マンジャロでもない。「キリマ・ンジャロ」が正しい。現地の言葉で輝ける山という意味だそうだ。アフリカの言葉や人名が「ン」で始まることは珍しくない。その実例をいくつか覚えておけば、しりとりの禁じ手「んで終わる語」から奇跡の復活を遂げる秘密兵器に使えるかもしれない。

南太平洋に浮かぶ島国バヌアツにErromangoなる島があり、迷える子羊たちの耳にはこれが「エロ漫画」に聞こえるそうである。もっとも、格式正しきブリタニカによれば「Eromanga」とも綴ると明記されており、素直にローマ字読みすれば紛れもなくエロマンガだ。一説によると、島を訪れたクック船長に住民がヤムイモを提供したとき、現地語で「美味しい食べ物」を意味する言葉を島の名前と勘違いしたのがErromangoの語源ということである。

dinosaur_quetzalcoatlus.pngさらに謎めいていることに、オーストラリア中部クイーンズランド州にもEromangaという地名が存在する。こちらは「熱風吹きすさぶ土地」を意味するアボリジニ語に由来すると考えられているそうで、地理的・言語学的な隔たりから考えてバヌアツの同名の島と関連があるとは思えない。エロマンガ盆地という広大な大地があり、中生代に形成された地層が眠る。ここで見つかった巨大な翼竜の化石が、つい最近ニュースになった。太古の生物に何ら関心もなかったであろうネット民たちが、「エロマンガ内海を飛んでいた巨大翼竜発見」という破壊力全開の見出しにざわついたようである。

少し前にも、エロマンガ盆地で見つかった世界最大級の竜脚類の化石が、ティタノサウルスの新種と判明したばかりだ。ちなみに『メカゴジラの逆襲』に登場する怪獣チタノザウルスは、ティタノサウルスと綴りは全く同じだがもちろん赤の他人だ。エロマンガにせよティタノサウルスにせよ、エキゾチックな固有名詞が文化圏を超えて偶然に一致することは、意外に珍しくないようである。

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サヨナラって言います? [語学]

ホームラン・ダービーの結果は残念だったものの、大谷翔平選手の快進撃がすごい。ある日のゲームで打ち上がった彼のホームランボールを追い、「ウヮーオ、サ・ヨ・ナ・ラ!」と大興奮する現地の中継映像を見かけた。何のこっちゃ、と苦笑した人は多いと思うが、日本語と言えばアリガトとサヨナラくらいしか知らないアメリカ人は珍しくないので、大目に見てあげれば良い。

aisatsu_sayounara.pngところで、私たちは普段「さよなら」ってそんなに言うだろうか?最も世界で知られた日本語のわりに、当の日本人はさほど使わない言葉のような気がする。仕事帰りに席を立つときは「お先に」「お疲れ様」、友達どうしでは「じゃ」とか「またね」、かしこまった場では「失礼いたします」辺りが一般的ではないか。私自身、さよならと最後に発声したのがいつだったか、正直のところ思い出せない。「さよなら」は、敢えて口にするにはちょっと重い響きがある。恋人同士が別れるときなどに相応しい言葉だ。

「さよなら」を英語にGoogle翻訳してみると「Goodbye」が出てくる。ある意味で正しい訳だなあと思うのは、日本人が誰でも知っている英単語「Goodbye」も、日常的にはあまり聞かれない挨拶のような気がするからだ。電話を切る間際などに短く「Bye」と言うことは良くあるが、日々別れ際によく耳にするのは「See you」とか「Have a good day/evening」あたりだろうか。Goodbyeは一見して語感が軽めだが、もとを辿れば「God be with you(神が共に御坐すように)」が語源だそうで、宗教的な色合いが強くちょっと敷居の高い挨拶である。仏語に「Adieu」というヘビー級の惜別の辞があるが、ここにも神(dieu)が宿って少し近寄りがたい。

教科書に載っている定番のフレーズが、必ずしもネイティブが好んで使う表現とは限らない。「Thank you」への答えは「You're welcome」だと英語の授業で習ったはずだが、これは「ありがとう」に対して「どういたしまして」と答えるのに等しい。完璧に通じるからそれで良いと言えば良いのだが、私たちは日常会話で「どういたしまして」と本当に言っているだろうか?ありがとうに対しては「いえいえ」だったり無言の会釈だったり、もっと簡便に済ませるほうが普通ではないか。アメリカで「Thank you」と言ったら、返ってくる言葉はたぶん「No problem」とか「Sure」あたりが多いと思う。個人的には、発音が簡単な「Sure」を愛用している。

毎日のように使う言葉ほど、重く改まった表現は徐々に敬遠され、軽くて短いフレーズに収斂していく。でも、そこに込められる人の気持ちまで薄くなる一方というわけでもない。「またね(日本語)」「See you(英語)」「Au revoir(仏語)」「再見(中国語)」のように、いずれもまた会うことを念押しする別れの言葉が、国を問わず好んで使われる。単なる偶然の一致だろうか?

コロナ禍で、普段会えていたはずの人に長い間会うことの叶わない日々が続いた。「またね」と手を振りながら、また会える機会のかけがえのなさを想って胸が疼く。人類は長い歴史の中で、伝染病や戦争のように人と人を引き裂く苦難を幾度となく体験してきた。その辛い記憶が、私たちが何気なく使うことばを無意識に選び、日々の悲喜交々をひそかに彩っているのかも知れない。

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チャレンジ [語学]

dictionary.png菅総理とバイデン大統領の初顔合わせが、つつがなく終了した。中日新聞の一面記事を読んでいたら、会談後の会見でバイデン大統領が「東シナ海や南シナ海の問題で中国の挑戦を受けて立つ」と強調したとあり、びっくりした。挑戦を受けて立つなんて挑発的なことを、首脳の共同会見で普通言うだろうか。もともと発言が不安定で周辺をヤキモキさせていたバイデンさんが、ついにトランプ化したかと思わず戦慄したが、大統領が実際に言ったフレーズを確認すると「take on the challenges from China」である。「中国の挑戦に対処する」とか「中国がもたらす難題に取り組む」くらいが適当なニュアンスではなかろうか。

もし「take up the challenges」だったら、進んで挑戦を受ける響きがあったかもしれない。一方「take on」は、売られた喧嘩を買うトーンは控えめではないかと思う。それに加え、英語のchallengeは和製英語で言うチャレンジ(挑戦)と少し違う。ボクシングの挑戦者は確かにchallengerと言うが、英語のchallengeは必ずしも試合や決闘のような対立の構図を前提にしておらず、一筋縄ではいかない厄介な問題全般の意味で広く使われる。政策決定や科学技術の現場で、解決を要する重要課題をgrand challengesなどと呼び、努力目標を可視化することがよく行われる。

ついでに言えば、「新しいことにチャレンジする」と言うときのチャレンジも誤訳を誘発しやすい。例えば格式高い茶会に招待されてビビる外国人に「Challenge it!」と言っても、多分通じない。下手をすると、茶を愛でる文化風習に意義を申し立てよ、みたいな意味合いになって、言われた方はますます引いてしまうだろう(正しくはたぶん「Give it a try」あたりが無難か)。

「mentally challenged persons」や「physically challenged persons」という表現があって、それぞれ知的障碍者・身体障碍者のことである。最も標準的な表現はおそらく「persons with intellectual/physical disabilities」だが、それよりやや持って回った語感か。日本語のチャレンジ感覚では絶対に出てこないニュアンスである。この延長で「vertically challenged(小柄な)」「horizontally challenged(太めの)」「socially challenged(引っ込み思案な)」など、悪ノリに近いジョークも含め無数の応用例が存在する。

〇〇challengedという言い方は、基本的にはあたりの柔らかい婉曲表現である。しかし裏を返せば、心身能力や体型や性格に関する社会的標準を暗に設定し、標準からのズレを揶揄する上から目線のニュアンスも感じる。多様性を重視する昨今の価値観からは、むしろ逆行しているのではないか。そのうちナントカchallegedという言い回しそのものがchallengeされて、徐々に使われなくなっていくかも知れない。

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