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AIの描く絵は創造か [その他]

ai_paint.pngひと月ほど前、米国コロラド州で催された絵画コンテストのデジタルアート部門優勝作品が、実はAIで描かれた絵だったということで話題になった。作者が用いたのはMidjourneyという画像生成AIで、希望のお題を文章で入力するとそれに相応しい絵の画像を出力してくれるということである。一枚の絵は最短1分で仕上がるそうだが、件の作者は満足のいく絵を得るまでに何百枚と試行錯誤したそうだから、それなりの手間はかけたわけだ。

それって反則だろ、という批判はもちろんあり得るわけだが、より本質的な問題提起は「AIの創造性は人間を超えるのか」という疑問である。しかし創造性とはそもそも何なのか? AIが絵を描くというと、ベレー帽をかぶったアンドロイドが絵筆をふるうような光景を目に浮かべる人もいるかもしれないが、もちろんそうではない。膨大なデータベースから素材を取捨選択し、お題に近い構図で組み合わせたり加工したりして新しい画像を生み出す技術がMidjourneyである。作品の最終型はオリジナルだが、元々の素材は既成品だ。Midjourneyに限らずAIが描いたとされる絵が大抵、初めて見る美しい画だけどどこかで見たような既視感を与えるのは、そのせいだ。クリスチャン・ラッセンの絵を見て受ける印象に近い。

素材が借り物だったらクリエイティブと言えないかというと、必ずしもそうではない。芸術はもともと、コピーと創造の組み合わせでできている。100%コピーだったら剽窃だが、逆に100%創造では誰の琴線にも触れない。知ってるけど知らない、と思わせるバランスの妙が名人芸なのである。ポップスの楽曲のコード進行のほとんどはバッハの音楽で既に使い古されているが、それでも世代を超えて愛される唯一無二の名曲は今もたくさん生まれている。その意味では、Midjourneyが吐き出した画像をクリエイティブと呼んだって別に構わない。

ただAIそのものはツールに過ぎず、それを使うのは人間である。Midjourneyは注文生産を行う職人であって、発注する人間のアイディア次第で出来上がる作品は全く違う。素人が見てもゴッホの絵がゴッホだとすぐに判るのと違って、AIの画は変幻自在でないといけない。優れたAI技術はクリエイティブであり得るかもしれないが、ゴッホがゴッホでありピカソがピカソであるようなオリジナリティを発揮する余地はない。Midjourneyが絵を描けない人の想像力を可視化するツールだとするなら、ツール自体がオリジナリティを持ってしまうと、それはむしろ邪魔だからである。

『星新一賞』という理系文学賞があって、面白いことに「人間以外(人工知能等)の応募作品も受付けます」と応募規定に明記されている。実際に創作過程の一部にAIを使った作品が入賞したこともあるが、選考を勝ち抜いた作品は実際のところ大部分は人間が書いたそうだ。猿がイタズラにタイプライターを打ち続けて偶然シェイクスピアが生まれる可能性があるかという有名な仮説があるが、猿どころかAIが自ら物語を創作する日もまだ遠いようである。

物語の面白さとは何か、絵画が人を惹きつける魅力は何か、音楽が心を打つ理由は何か。誰もが日々経験していることばかりなのに、誰もそのわけを説明できない。AIは入力と出力の最短距離を見出す経験値のマシンに過ぎないから、芸術に夢中になる理由を私たち自身がうまくAIに教えられない以上、AIが主体的に独創性を発揮することもまずあり得ない。

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300号記事 [その他]

この記事で300本目のブログ記事となる。前回のキリ番200号が昨年の9月18日付だったので、ほぼ一年前だ。今読み返すと、200号記事はこういう期待で締めくくっていた。
300回目のコラムに到達する(と思われる)来年の今頃は、どんな世界になっているだろう。ウイルスが消えてなくなるとは思わないが、ワクチンも治療薬も適宜ルーチン化され、外食とか旅行とか当たり前のことが当たり前にできる世の中に戻っていてほしい。
治療薬のルーチン化はまだ遠そうだが、一年前に比べると外食も旅行もかなりコロナ前に近づいてきた。コロナが終息したからではない。つまるところ皆コロナから逃げ回るのにいい加減疲れたのである。欧米に比べると日本のマスク着用率の高さは今も際立つが、にもかかわらず第7波で世界最悪クラスの新規感染者数を経験した。「コロナ優等生」と言われた日本のアドバンテージが消滅した今、かつて囁かれていたファクターXももはや過去の伝説と化したようである。

昨年10月に書いた『第5波は結局何だったのか』というコラムが、なぜか今もじわじわとアクセス数を稼いでいる。東京オリンピック開会直前にピークを迎えた第5波は、開催準備に海外から訪れた裏方やメディアが持ち込んだのではないか、という仮説を提示した。半ば洒落のつもりだったが、東京五輪が引き金でデルタ株の亜種が世界に広がったのではという研究が一月ほど前に発表されたので、あながち的外れでもなかったのかもしれない。

過去100回で一番アクセスを稼いだのは、『日本に来られない留学生の話』であった。本来であればとっくに入国許可が出ているはずの留学生に、一年以上にわたり門戸を閉ざした日本政府の対応に批判が高まっていた頃の話である。さすがに留学生の足止め問題は解決されたが、一般外国人の入国は(段階的に緩和されているとは言え)今も入国者数制限やビザ免除停止など制約が残っている。何となくずるずる鎖国をしていたいというメンタルは、江戸時代から綿々と受け継がれてきた日本社会のミームなのか。

mask_hazusu_man.pngとは言えコロナ鎖国が長びいているのは日本だけではない。中国は今も入国後の隔離を含む厳しい水際対策を課している。ゼロコロナ政策に出口がないことは今や明白で、日本は遅ればせながら長く暗いトンネルから脱しつつある。残る課題は一億総マスク生活をいつまで続けるかだが、欧米圏がパンデミックから一抜けしつつある昨今、ひとつ確かなことがある。コロナが終わった時にマスクを外せるのではなくて、マスクを外した時にコロナが終わるのである。その踏ん切りがつかない限り、私たちが以前のようにマスクを気にせず街を歩ける日は永遠に来ないだろう。

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追悼エリザベス女王 [海外文化]

king_oukan.png大学生の頃、当時留学していた友人を訪ねてイギリスを旅行した。ロンドンでは自然史博物館にハマり、ストーンヘンジに行く途中に泊まったソールズベリーでは街の教会で誰かが練習していたパイプオルガンの荘厳さに圧倒された。ソールズベリーで宿泊したB&Bで、部屋のいたるところに王室の肖像写真が掲げられていたのを覚えている。日本の民宿で皇室関連の写真が並んでいるのを見たことはないので、英国初体験の若造にとっては新鮮な驚きだった。

その後イギリスには仕事で何度か訪れている。6年前の出張の際、帰国日に時間が空きバッキンガム宮殿まで散歩したことがある。すると宮殿前の広場が見物人でごった返している。何が行われているのか首を伸ばしてみたが、何も見当たらない。そばにいたどこかの国のツアーガイドに何事かと聞いてみたが、よくわからないが何かが起こるらしい、というまるで要を得ない返答が返ってきた。しばらく待っていると、やがて礼装に身を包んだ騎馬隊と歩兵隊の連隊が現れ、恭しく引かれた空の馬車が宮殿に吸い込まれていった。後から知ったがその一週間ほど後に宮殿でエリザベス女王90歳の祝賀行事が開かれたので、おそらくそのリハーサルの一部だったのではないかと思う。

ダイアナ妃事故死直後の英国王室をフィクションで描いた『クィーン』という映画があった。元皇太子妃の悲劇に冷ややかなエリザベス女王に世間の批判が集まり、王室廃止論まで飛び出した頃の話だ。映画の中で、宮殿前に追悼に集まる群衆の前に現れる女王のシーンがある。刺々しい視線に満ちた微妙な空気に戸惑うエリザベス女王に、一人の少女が小さな花束を差し出して言う。
「これはあなたのために、女王様。」
王室の伝統を守りつつ家族の一員であり一人の人間であった女王の苦悩と孤独は、いかばかりだったか。七十年という長大な在位期間を全うしたエリザベス女王の献身に改めて深い敬意を覚える。

女王は死去の二日前、トラス新首相任命の際にカメラの前に姿を見せた。もし任命前に亡くなっていたらいろいろややこしかったのではと思うと、これだけは自身最期の公務として果たさなければという強いご意志だったのか。人生の引き際まで気高く責任感に満ちた方だったのだと思う。

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国葬問題 その2 [政治・経済]

安倍元総理の国葬問題を取り上げた前回のブログはほぼブラックジョークだったので、今回はもう少し真面目に考えたい。戦後、国葬が執り行われた首相は吉田茂氏しかいない。吉田茂と安倍晋三のお二人と他の総理経験者との間に明確な一線が引けるのだとしたら、それはいったい何だろう?官房長官は安倍元総理が国葬に相応しい理由として、憲政史上最長の在職期間、選挙期間中の非業の死、さまざまな業績、の三つを挙げている。

個人的には、安倍さんの最大の功績は外交にあると思う。積極的に外遊に乗り出し、米豪印とクアッド創設に向け尽力し、他国の元首が軒並み手を焼いたトランプ元大統領と良好な関係を築いた。国際外交の場で日本の首相が積極的に存在感を発揮した例は、他にあまり記憶がない。安倍さんの英語スピーチを聞くと話慣れていないのが明白だったから、英語が流暢な人ではなかったはずだ。仕事の話は通訳がいるから良いが、プロが訳す程でもない雑談にこそ人柄がにじむこともある。それでも胸襟を開いて他国のリーダーの信頼を勝ち取る、意志と努力の人だったのだと思う。だから、関連各国から元首やそれに準ずる政治家が大勢弔問に訪れる大掛かりな儀式を行うことは、安倍さんに相応しい見送り方に思える。

三千日を超える在職期間については本当にご苦労様でしたと思うが、国葬の話になったとき「長けりゃいいのか?」という反論がほとんど聞かれないのが不思議だ。首相は直接選挙で選ばれる大統領とは違う。お膝元の選挙区を除けば、国政選挙で首相本人に投票した人はいない。在職期間が長いのは与党が強かった(というか野党が弱かった)ことと党内で安倍さんに適う政敵がいなかったのが理由であって、在任中ずっと国民が首相個人に信任を与えていたとは限らない。歴代内閣と比較し第二次安倍内閣の支持率は確かに高水準にあったがときどき不支持率が上回ったし、小泉内閣の支持率はもっと高かった。それに第一次安倍内閣の末期は、参院選の自民党惨敗とか閣僚の相次ぐ不祥事でいろいろ大変だった。

calender_himekuri.png「非業の死」が国葬の理由の一つに挙がることに、微妙な違和感を覚える。仮に病死だったとしても首相の業績は何ら変わらないはずだが、亡くなり方次第で国葬になったりならなかったりするのか?そもそも襲撃犯の動機は安倍氏の政治信条とは何の関係もなかったから、道半ばで不穏分子の凶弾に倒れた愛国的政治家というセンチメンタリズムで物語を整理することは難しい。むしろ、後味の悪い旧統一教会問題が雨後の筍のように噴出している。

支持率急落中の岸田総理にとっては、自民党保守派と世論の板挟みで頭を抱えていることだろう。早く9月27日が過ぎて嵐が去ることを、日々カレンダーをめくりながら願っておられるのではないか。

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国葬問題 [政治・経済]

安倍元総理の国葬に賛否が割れている。安倍さんの業績を評価する人の中にも、国葬には首をかしげる人が少なくない。国庫支出の法的根拠が曖昧なまま閣議決定した「お手盛り感」が、何となく不信感を醸しているようである。

簡単な解決法がある。費用を全額、旧統一教会に負担してもらえばいい。もともと銃撃事件の遠因を作った当事者なのだから、むしろ筋が通っている。

landmark_nihon_budoukan.png政府によれば、日本武道館で行われる国葬の費用は二億五千万円ほどだそうである。銃撃犯の山上容疑者の母は一億円近い献金を旧統一教会につぎ込んだそうなので、敬虔な信者数人分の献金を充てれば済む話である。要人警護にはるかに高額の支出を伴うという話があるが、それも話は簡単で、警備全般も旧統一教会に丸投げすればコストはかからない。教会は選挙で政治家を当選させるため甲斐甲斐しく働く信者ボランティアをたくさん抱えている。彼らを警護要員に抜擢すれば、演説する安倍元総理の周りでぼんやりしていた警察官たちよりも、ずっと献身的な働きをするに違いない。

愛国心あふれる保守派で知られた元総理の葬儀を、韓国発のカルト教団が粛々と執り行う。草葉の陰のご当人は当惑なさるかもしれないが、お祖父様の時代から続く教会や関連団体との長い蜜月を考えれば、必ずしも不思議な話ではなかろう。岸田総理は火消しに躍起になっておられるようだが、何だかんだ言いつつ結局教会とのパイプを切れない政治家ばかりなのであれば、いっそのこと堂々と頼ってしまった方がよほど潔い。

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