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昭和ブーム再来 [社会]

building_dagashiya.png若い人たちの一部で、昭和がウケていると聞く。昭和ブームそのものは随分前から散発的に話題に上っていたが、以前は昭和時代に幼少期を過ごした中高年が自分たちのルーツを振り返って和む懐古趣味の世界だった。ところが今は、平成生まれの子たちの一部でじわじわと昭和人気が浸透しているという話である。肌で知らないはずの時代を彼らが「懐かしむ」のは何故か?

生まれた時からデジタル社会に浸って育った世代が、アナログなガジェットをむしろ新鮮に捉えている、という解釈がある。何でもスマホで撮影することが当たり前の現在、その場で画像を確認できないフィルムカメラは、利便性ではとても敵わない。が、失敗作を簡単にデータ消去するわけにいかないからこそ、シャッターを押す瞬間にかける想いは強くなる。現像に出した写真を受け取り開封するときのちょっとしたスリルや期待感は、スマホやデジカメでは味わえない体験だ。使い捨てカメラの需要が最近下げ止まり、フィルムならではの風合いや陰影の美しさが若者に受けて、「写ルンです」の写真をわざわざデジタル化してインスタに上げる人が増えているそうである。

携帯が普及して以降私たちはいつでも誰かと連絡を取れるようになったが、逆に常時スマホに監視されるようになった。待ち合わせの相手がなかなか現れないときヤキモキしながら首を長くする心情は、今の若者には想像もできないかもしれない。一方、既読スルーという言葉がなかったあの頃は、絶えずつながっていないと不安な強迫観念に怯える必要がなかった。情報流通量が爆発的に増大した現代に生まれた若者たちは、情報化社会の恩恵を当たり前のように享受しつつときにその弊害に疲れ、粒子の荒いフィルムカメラ写真のように古ぼけてユルい昭和のおおらかさに憧憬を感じるのかも知れない。

しかし、彼らにとっての昭和はいったい「どの昭和」なのだろう?言うまでもなく、昭和元年と昭和63年では雲泥の差がある。戦後だけでも40年以上続いたのだ。昭和40年代後半に生まれた私にとって、物心ついた頃には『三丁目の夕日』のようなセピア色の昭和はすでに失われていた。昔ながらの銭湯がいま静かに流行っているそうだが、東京郊外の新興住宅地で育った私の周りに銭湯など影も形もなく、洗面器とタオルを小脇に抱えて風呂に通う文化も当然なかった。不在時に宅配便が来れば隣人が預かってくれる習慣はまだ健在だったが、長屋的な人情の濃さは当時すでに絶えて久しかった。オイルショックが起こって高度経済成長が終わり、今日より明日のほうがいい暮らしが待っているという将来への期待感がたぶん翳りはじめていた頃である。やがてバブルの狂騒がやって来るが、私が社会人になるころには泡は弾け散っていた。私が実感していた昭和は下町人情と経済成長の象徴というより、むしろそのほころびが目立ち始めた時代だった。

バブル崩壊後に生まれた若者たちにとっては、昭和の古めかしさや汗臭さを生で体験しなかったからこそ、そこに純化された理想郷の残像を見ているのだろうか。昭和は彼らの親や祖父母が生きた時代で、手が届きそうで届かない家族アルバムのなかの世界だ。昭和生まれの現役世代にとっては、一つ前の大正時代は完全に歴史の彼方にあるので、平成世代が感じるような近過去のノスタルジーを疑似体験する術がない。そう思うと、楽しそうに昭和ブームに興じる若者たちが、少し羨ましくもある。

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