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親ガチャ [社会]

gachagacha.png最近「親ガチャ」という言葉をよく耳にする。転がり出る商品の中身は運に任せるしかないガチャガチャと同じように、親を選べない子供の命運も運次第、という意味だそうだ。愛情と責任感に欠く(または愛情や責任感が過剰な)親に振り回された子供が、我が身の境遇に嘆息しながら「親ガチャで失敗した」などと言ったりするらしい。少しザラッとした語感のドライな言葉だ。

親に向かってそんな物言いを、と眉をひそめる人もいるに違いない。家庭環境に恵まれながら甘えで不満を呟くだけの人もいるだろう。他方で、育児放棄や虐待を生き抜いた人もいる。たいていの人は、その両極端の中間どこかを経験してきたのではと思う。

親も人間だから優しいときがあればやさぐれるときもあると、成長過程のどこかで(またはすっかり成長してから)理解する時が来る。父や母を心から尊敬できるなら、それはとても幸福なことだ。そうでなくとも、人格面では完璧から程遠い親を持ちながら、育ててくれたことには純粋に感謝している人も多いだろう。アンビバレントな想いを密かに抱えつつ、深刻ぶった話をするのは気が進まない。そんなとき、感情的な重さを迂回しちょっと突き放して語る便利なワードが「親ガチャ」ということかもしれない。

選ぶことができないのは、親だけではない。生まれる国も時代も階層も、当人に決定権はない。先日、小室圭さんと眞子さんの結婚会見があった。皇室に生まれるという偶然は、何という崇高で残酷な「ガチャ」であることか。生まれながらに運命づけられた、特権と束縛。王宮という籠の中で育った小鳥には、悪意ある世間の風当たりにひとこと声を上げる自由もない。それがどれほど心の重荷だっただろうかと、驚くほど率直な心のうちを会見で吐露した彼女を見て思った。

人生は一度きりしかない。わずかに残った小遣いをつぎ込んでガチャガチャのレバーを回す子供と同じように、出てきたプラスチックケースの中身が何であれ、それを受け入れるほか道はない。けれど、たとえ期待外れのおもちゃだったとしても、どこかの誰かが時間を費やして企画し製造した商品であることに変わりはない。子供部屋に持ち帰って毎日何となく手に取るうち、いつしか愛着が湧いてこないとも限らない。人生最大のガチャは誕生の瞬間にほとんど終わっているかも知れないが、取り損ねたアタリを空想で追い続けるよりも、手にした小さな宝物を慈しんで生きるほうがいい。

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