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8月のラピュタ [映画・漫画]

Laputa.jpg先週の金曜ロードショーで『天空の城ラピュタ』を放映していたそうだ。見損ねたが、原爆記念日と終戦記念日のはざまの『ラピュタ』は、今年は少し考えさせられるものがある。

宮崎駿作品で『ラピュタ』が一番好きと言う人は少なくないようである。初期の宮崎作品は『未来少年コナン』や『カリオストロの城』のようなバリバリの冒険活劇だったが、やがて『トトロ』や『宅急便』など子供目線で周囲の世界を丁寧に描く作品群を経て、『もののけ姫』『千と千尋』『ハウル』のような深遠で混沌とした幻想絵巻へと変遷していく。『ラピュタ』はその過渡期にあって、それらすべての要素をバランスよく味わえるお得な作品と言える。海賊ドーラというお茶目なヒールと、ドーラの気弱な息子たちの存在も人気の一因に違いない。

その意味で『ラピュタ』が極上のエンタメ作品であることは衆目の一致するところであるが、ラピュタが世界を破滅させ得る軍事要塞であることが明るみになった終盤、物語はシリアスな結末を迎える。ラピュタの兵器を目覚めさせたムスカは「ラピュタは滅びぬ・・・ラピュタの力こそ人類の夢だからだ」と言い放つ。しかし、シータにとって先祖のルーツであり、パズーにとっては憧れの目標だったはずのラピュタを、二人は捨て身で破壊する決断をする。

今年の8月6日、広島の原爆慰霊式で挨拶した湯崎広島県知事の言葉が深い洞察に満ちている。こんな一節がある。
ウクライナ侵略で世界が突然変わった訳ではありません。世界の長い歴史の中で,理不尽で大量の死を招く暴力は,悪により,しかし,時に正義の衣をかぶりながら,連綿と繰り返されてきました。現在の民主国家と言われる国でさえ完全に無縁とは言いにくいかもしれません。
 人間の合理性には限界があるという保守的な見方をすれば,この歴史の事実を直視し,これからもこの人間の性(さが)から逃れられないことを前提としなければなりません。
 しかしながら,力には力で対抗するしかない,という現実主義者は,なぜか核兵器について,肝心なところは,指導者は合理的な判断のもと「使わないだろう」というフィクションたる抑止論に依拠しています。本当は,核兵器が存在する限り,人類を滅亡させる力を使ってしまう指導者が出てきかねないという現実を直視すべきです。
持てる力を放棄するには、勇気がいる。騙されて自分だけ丸腰にされるのではという疑心暗鬼から、力を手放すことができない。だから銃規制反対論者や核抑止論者は、力を持ち続ける理由を「みんなそうだから」と正当化する。だが抑止論が保証する平和は、不安定で際どい均衡の上でしか成立しない。手元に置いた武器はつねにその持ち主を誘惑するからだ。つまりムスカの言う「人類の夢」だ。

『ラピュタ』が放映される日は「バルス祭り」なるイベントが恒例行事になったようである。物語の山場でシータとパズーが唱える滅びの呪文「バルス」を、視聴者がツイッターで唱和するらしい。物語ではムスカの野望は阻止され、世界は救われた。しかし現実世界には、まだ無数のラピュタが徘徊している。

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