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ドラえもん50周年 [映画・漫画]

『ドラえもん』の連載が始まったのが1970年1月、来年で50周年を迎える。生みの親の藤子・F・不二雄氏が他界してなお毎年のように長編映画が作られる類まれな国民的漫画が、ついに半世紀の節目を迎える。オリンピック・イヤーなどと浮かれている場合ではない。

Draemon1.pngとくに初期・中期のドラえもんがいい。単行本で言えば30巻くらいまでが黄金期か。ドラえもんはもともと、結構おっちょこちょいで危なかしかった。のび太からどら焼きにつられて宿題代行を請け負う羽目になったドラえもんが、苦肉の策でタイムマシンを使い数時間後の自分自身を大量招集したあげく、内輪揉めでボコボコにされる話がある。他にも近所の猫に恋して骨抜きになったり、ネズミ怖さに正気を失い地球破壊爆弾なる物騒な代物を取り出したり、諌めるのび太の方が大人びて見えるエピソードに事欠かない。それがドラえもんの愛嬌であり、ロボットらしからぬ人間臭さの源であった。のび太にとっては単なるお目付け役を超えた存在だったからこそ、体を張ってでも未来に帰るドラえもんを安心させようとしたのである。ところで話は逸れるが、家庭用ロボットが大量破壊兵器にアクセスできる未来世界の安全保障体制はいったいどうなっているのか。核拡散への懸念が広がる昨今の国際政治事情に重ねると、将来に何やらキナ臭い不安を禁じ得ない。

しずちゃんはフェミニスト受けが悪いようである。主要登場人物の中では紅一点で、男子が憧れる可愛い女の子という記号を演じていると言われればそうかも知れないし、入浴シーンが無駄に多いのも事実である。とは言えしずちゃんがいつも風呂に入っているのは単に本人が風呂好きだからであって、他人にとやかく言われる筋合いはない。そもそもしずちゃんは人に媚びる性格ではないし、優しいときも怒るときも自分の価値観に芯が通ってブレない。男友達には基本的に等距離で接するし、あの出来杉君さえことさら特別視はしない(のび太が勝手に嫉妬しているだけである)。ちびまる子の親友たまちゃんと並んで、小学生としては相当に人間のできた少女である。

ジャイアンの暴力的な性格は弁明の余地がない。しかし内面はかなり複雑な少年であり、繊細なガラスの心の持ち主でありながら、義理を重んじここぞという場面で骨太な男気を発揮する。母親にはめっぽう弱いが、妹思いの優しい兄の側面も持ち合わせる。だから『さようならドラえもん』でのび太にけんかを売ったジャイアンは、事情を知ってわざと負けたとのだ私は密かに信じている。非力なのび太を相手に大したダメージを受けていなかったジャイアンが、ドラえもんが駆けつける頃合いを狙ったかのように突然降参するのは、偶然にしては出来すぎていないか。

スネ夫はもっぱら「強きを助け弱きをくじく」ネガティブな印象が強い。高慢とかズルさとか自己顕示欲とか、大人社会でも「ああこんなやついるよな」という負の性格要素を一手に引き受けている。その意味では、話に絶妙なリアリティを添える重要な役回りだ。仮にスネ夫のいない『ドラえもん』を思い浮かべてみると、筋立てとしては成り立ったとしても何か物足りない気がする。

『ドラえもん』の主人公はドラえもんだと思っている人がいるかも知れないが、のび太が主役である。1巻はのび太の部屋の引き出しからいきなりドラえもんが飛び出して来るところから始まるように、のび太の視点で展開する物語だ。テストはいつも0点、運動神経もゼロ、ジャイアンにはいつも追いかけられ、スネ夫にはバカにされる。これだけ容赦ない設定を与えられながら、のび太には不思議と屈折した悲壮感がない。しずちゃんのパパをして「人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことのできる」と言わしめたように、素顔ののび太は根が優しくて心の真っ直ぐな少年である。物語に表立って現れることは少ないが、のび太の基本的なタチの良さが『ドラえもん』の衰えぬ人気を支える安定感の礎なのだと思う。

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