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大学入試改革はどこへ [社会]

大学入試センター試験に代わる共通テストの計画が頓挫した。二本柱であった英語の民間試験活用と国語・数学の記述式設問導入のいずれも仕切り直しとなり、大山鳴動して鼠一匹の感がある。前者が批判された背景には文科相の「身の丈」発言が炎上した要素もあるので純粋に制度設計の問題だけとは言い切れないが、後者については明らかに性急に事を進めすぎたようである。50万人を超える受験生の記述式回答をいったい誰が採点するのかと不思議に思っていたら、バイトの大量雇用という驚愕の情報が飛び交って案の定批判の嵐となった。秘匿性や公平性にことさら神経を使う入試現場の苦労を知り尽くした大学関係者にとっては、文科省ご乱心かと呆れ返るレベルである。

document_marksheet_naname.png現行制度の大学入試センター試験は完全マークシート方式で、記述式解答は求められない。マークシート方式の利点は、機械が採点するので処理が早くてヒューマンエラーが入らないことと、正誤がはっきりしているので配点に主観の余地がなく自己採点が容易であることだ(これは受験生が二次試験を受ける大学を決める上で大事な要素である)。逆にマークシート試験の限界は、単純な知識の有無や機械的な解答テクニックに左右されがちで、思考力や表現力を図る指標としては不十分だという指摘が主のようである。

たしかに、論理的思考力や文章表現力を問うなら記述式の設問が向いているだろう。ただし、受験生の地頭のみならず採点者の見識も同時に試される。仮に模範解答を凌駕する見事な答案が出てきたとしても、その真価を見抜ける採点者がいなければ想定正答例からの逸脱と見做され減点されかねない。それではわざわざ記述式にする意味がないばかりか、むしろ逆効果である。現実問題としては、あきらかに優れた答案は記述をざっと眺めただけでわかるし、その逆もまた然りだ。採点者によって最も判断が分かれるのは、成績がボーダーライン上の微妙な答案である。しかし共通テストが大学ごとの個別試験に先立つ一次入試という役割を担っていることを考えると、ボーダーライン前後の答案をどれだけ客観的に評価できるかこそ採点の透明性を確保するキモとなる。結局、現行のマークシート方式のほうがますます現実的に思えてくる。

思考力より知識重視のカリキュラムは詰め込み教育などと批判されたりもするが、知識は思考力の基礎であって軽視できない。テレビのクイズ番組でとてつもなく広く深い知識をこともなげに披露する現役東大生が活躍しているが、彼らは別に詰め込み教育が生んだモンスターではなくて、知的好奇心が人一倍旺盛なせいで誰に言われなくても貪欲に知識を吸収しているのである。物知りな人の話がいつも理路整然でわかりやすいとは限らないが、豊富な知識の使い方をよく心得ている人はおおむね思考力にも表現力にも優れている。かつて詰め込みの反省からゆとり教育が生まれたが、詰め込みをやめれば自発的思考に長けた人材が育つという淡い期待はあっさり外れ、今や再び脱ゆとりに舵を切った。詰め込みかゆとりかという対立軸を設定した時点で、すでに対処を誤っているのだ。育てるべきは好奇心と集中力で、この二つに恵まれた子供(大人も同じだが)は詰め込まれようが「ゆとられ」ようが必ず伸びるのである。

ゆとり教育にせよ共通テストにせよ、文科省肝いりの教育制度改革はなぜか残念な結末に陥りやすい。今回の迷走案件に関して敢えて良かったことを挙げるなら、現行のセンター試験が一次選抜の土俵としてはそれなりに良くできた入試制度だと再認識されたことだろうか。

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