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心の免疫 [科学・技術]

まずは虚心坦懐に次の文章を読んでほしい。

…私は反射的に神戸市保健所に駆けつけたのですが、深夜の保健所は全職員が出務し、マスコミまでが入り乱れ騒然とした場面は今でも明確に私の脳裏に残っています。12時間後、当院は神戸市内で第一号の発熱外来を立ち上げ24時間体制で疑い患者さんの受け入れを開始しました。感染症病床(1種2床、2種8床)は半日で埋まり、24時間後には感染拡大期に使用する最大の病床数であった36床を超え、感染症病棟を埋め尽くす勢いで患者さんは増加し続けました。48時間後には患者さん受け入れのために確保していた病床をも占拠し、一般の患者さんが入院している病床にまであふれそうな勢いになりました。…

hospital_gyouretsu.pngこれはフィクションではない。ただし、新型コロナの話でもない。神戸市立医療センター中央市民病院が発行する広報誌「しおかぜ通信」平成21年6月の特集号、当時感染拡大が懸念されていたH1N1新型インフルエンザの対応にあたった医師のコラムである。10年以上前にここまで緊迫した状況が国内で起こっていたことを、ご存知だっただろうか?私は全く知らなかった。上の文章の続きは『5月17日、厚生労働省、神戸市保健所などと協議し、軽症例は在宅での治療に切り替える方針が出された事により、医療体制の崩壊は寸前のところで回避されましたが、以降も増え続ける発熱外来の患者さんに当院は24時間体制で診療に当たってきました』とある。とても教訓に富んでいる。

2009年の新型インフルエンザはずっと昔に流行したウィルスとほぼ同型で高齢者に免疫があり、それも医療崩壊を阻止できた背景にあったのかもしれない。もともとこのコラムにたどり着いたきっかけは、季節性インフルエンザでなぜ医療崩壊が起きないのかという素朴な疑問であった。季節性インフルエンザ由来の疾患で亡くなる人は国内で年間推計1万人、世界で25万から50万人とされる(厚労省サイト参照)。新型コロナの現時点の死者数よりずっと多いにもかかわらず、季節性インフルエンザが先進国の医療崩壊を起こしたことはない。したがって武漢やイタリア北部で起きた(そして今ニューヨークで起きつつある)問題は、単純に重篤の肺炎患者が急増して医療のキャパシティを圧迫したからとは考えにくい。風邪やインフルエンザと違う「新型コロナウィルスの怖さ」は、無症状や軽症の患者が多い反面いったん肺炎が重症化すると進行が早いという毒性の二極化だ、と最近よく言われる。前者が無自覚に感染を拡大し後者の患者を増産している、というシナリオだ。この仮説について少し考えたい。

二極化の根拠として、専門家会議が発表した「症状のある感染者のうち約80%が軽症・14%が重症・6%が重篤」なる数字がメディアで注目される。感染者の8割は風邪程度の症状でも2割は絶対に入院なんです、と力説する専門家もいる。警鐘を鳴らす心はわかるが、そんな二重人格のようなウィルスの特性が医学的に説明できるのか?(できるのかも知れないが今のところ答えが見つからない)そもそも、専門家会議の挙げる数字が国内の感染実態を踏まえた分析なのかはっきりしない。と言うのは、この数値はWHOと中国の合同報告書(PDF)の結論(mild to moderate 80%, severe 13.8%, critical 6.1%)にピタリと符合するので、これをそのまま引用している気配があるからだ。WHO報告書は武漢を含む中国の2月下旬における調査結果であって、致死率が10%を超えたイタリアは重篤6%では済まないはずだし、逆に致死率が1%弱のドイツなどでは重症・重篤者の比率はもう少し低いと考えるほうが自然だ。重篤化率や致死率は、ウィルスの毒性だけでなく医療体制ふくむ各国の社会状況にかなり左右される。

コロナ致死率の高い国々で、医者や看護師への感染が深刻化していると伝えられる。イタリアでは60人以上の医師が新型肺炎で亡くなり、スペインは感染者の1割以上が医療従事者だと報道された。本来医療機関は院内感染に入念な防止策を取っているはずで、季節性インフルエンザなら医療従事者はみなワクチンを打っているだろうし、簡便な検査キットが普及しているので患者の特定がルーチン化している。しかし新型コロナは、実態がつかめていなかった初動段階で院内感染の防止対策が遅れた国が多かった。インフルエンザと違って誰も抗体を持たずワクチンもないから、その意味で医療スタッフは丸腰でウィルスに立ち向かう他ない。しかも抗生物質が効く細菌性肺炎や治療薬のあるインフル起源のウィルス性肺炎と違って、新型肺炎は重症化すると有効な治療の手段が尽きる。もともと病院は、さまざまな病因で抵抗力の低下した患者が集まる場所だ。罹患した医療従事者を介していったん感染が広がれば、気がついた時には病院全体が治療不可能な肺炎患者であふれかねない。

医療崩壊が起きてしまった国で致死率が跳ね上がるのは、市内肺炎の患者が爆発的に増えた結果のように見えていたが、むしろ制御不能に陥った院内感染の連鎖が死者を大量生産しているのではないか。そう考えると、社会全体では新型肺炎で亡くなる数は(一般の肺炎死亡者数と比べ)必ずしも多くないにもかかわらず、医療施設が未曾有の機能停止に追い込まれた謎に説明がつく。対策として病床数確保のようなハード面の整備も大事だが、その大前提として医療現場の感染防止とそのための行政支援が不可欠と思われる。韓国は軽症者を収容する施設を病院外に作り、ドイツはホームドクターが患者と病院の仲立ちとして機能していると聞く。見えざる感染源となる軽症患者を病院から遠ざけた国が、深刻な院内感染の端緒を断つことに成功し、結果として新型コロナ致死率を低く抑えている。

日本は(本来の意図は何であれ)コロナ検査対象を戦略的に絞っており、実際の感染者は間違いなくもっと多いが、結果として感染者が無自覚に外を歩き回ることはあっても医療機関に押し寄せたりはしない。つまりウィルスを(仮に社会から隔離できなくても)病院から締め出すことで、新型肺炎の犠牲者数をかろうじてコントロールできている。しかし東京を中心に陽性患者が急増しており、院内感染事例もちらほら出ている。軽症・無症状感染者を医療機関がむやみに受け入れ院内感染の暴走を許す事態だけは、絶対に避けなければならない。さもないと、日本もイタリアと同じ道を辿ることになる。

冒頭で紹介したコラムは、2009年新型インフルがやがて季節性インフルエンザの一つとして定着することを予想し(実際そうなった)、緩やかに集団免疫を獲得した社会がウィルスを怖がらずに受け入れることを説き、それを「心の免疫」と呼んでいる。新型コロナも、いずれ同じように季節性のウィルスとして末永く付き合っていくことになるかも知れない。これを最悪のシナリオと呼ぶ人もいるが、その時までには多くの人が罹患して免疫を持ち、やがてワクチンや治療薬も開発され、医療崩壊のリスクは大幅に低下しているだろう。院内感染の負の連鎖が解かれて重篤患者が減り、また現在は統計に現れていない未検査の感染実態が最終的に把握されれば、新型コロナの致死率は今の数値より必ず下がる。結局ウィルス本来の毒性は季節性インフルエンザとさして変わらなかった、というオチもあり得る。今後数週間や数ヶ月で何が起こるにせよ、現実を冷静に分析し将来を見据えることが大切だ。気持ちを前向きに整えるため「心の免疫」がきっと役に立つ。

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