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ハンマー、ダンス、バイバイン [映画・漫画]

sweets_kurimanju.pngドラえもんに『バイバイン』という話がある。最後の一つとなった大好物の栗まんじゅうを前に悩むのび太に、ドラえもんが助け船を出す。取り出したのはバイバインなる薬で、1個の栗まんじゅうに一滴ふりかけると5分後に2個に増える夢の道具だ。一つ食べて一つ残しておくと、さらに5分後また2つに分裂する。最後の一つをとっておく限り、無限に栗まんじゅうを食べ続けられるわけだ。ただし、放っておくと2つが4つに、4つが8つに、と加速度的に増えていく。容赦なく増殖を続ける栗まんじゅうが、やがてのび太をピンチに陥れることになる。

新型コロナウイルスが急速に再拡大している。人が動き始めればそうなることは理屈ではわかりきっていたが、憎たらしいほどセオリー通りだ。The Hammer and Danceなどと名付けた人がいたが、厳格なソーシャル・ディタンスングやロックダウン(=ハンマー)でひとまず感染拡大の勢いを抑え込んでおき、そのあと慎重に行動規制を緩和してゆき制御可能な範囲で感染を許す(=ダンス)。この繰り返しで乗り切る他ない。

ハンマーの手加減が難しい。弱すぎると効き目が薄いし、強すぎれば社会のあちこちが壊れ始める。ハンマーの破壊力が強大であればあるほど効果絶大かといえば、そうでもない。一部の欧米諸国は厳しいロックダウンを課したが、多くの人は真面目に耐えていても法の眼をかいくぐる不届き者が必ずおり、規制が長引けば我慢できない輩がどんどん感染を広め、結局イタチごっこだ。日本でも特措法を厳格化せよという声は根強いが、法規制を強化すればそれだけ社会が整頓されるという期待はたぶん甘い。結果として問題の根がアンダーグラウンドに潜れば、感染制御はかえって難しくなる。

ダンスの方は、日本語の語感にちょっと馴染みにくい。恋ダンスとかバブリーダンスとかを思い浮かべると何やら楽しそうだが、ここでは意味が違う。むしろ「付かず離れず」とか「駆け引き」のニュアンスに近いのではないか。お互いちょっと気になる二人が探り合いばかりであと一歩踏み込めない状況を、They are dancing around each other. みたいに言うことがある。社会の動きを締めすぎず緩めすぎず、ウイルスを相手にぎりぎりの駆け引きを演じるのがダンスのフェーズだ。少しでもステップを間違えれば、相方にぶつかったり足を踏まれたりする。失敗のダメージが大きいと、またハンマーからやり直しだ。

ほとんどいなくなったように見えても、油断した瞬間からぐんぐん増え始める。ウイルスの薄ら寒い不気味さが何かに似ていると思っていたが、バイバインだ。のび太は満腹で食べきれなくなった栗まんじゅうをママに献上し、それでも残るとしずちゃんとジャイアンとスネ夫に救援を頼むが、どうしても最後に一つ余る。「ハンマーとダンス」に疲れてヤケになったのび太は、残ったまんじゅうを裏手のゴミバケツに捨て知らん顔を決め込む。ドラえもんに問いただされのび太が白状したときには、ゴミバケツから溢れた栗まんじゅうの山で裏庭が占拠されていた(結構ホラーだ)。ドラえもんがロケットで栗まんじゅうを宇宙に送り出すところで、話は唐突に終わる。『ドラえもん』でオチらしいオチを持たないエピソードは珍しく、博識の藤子・F・不二雄すらバイバインの対処に妙案が思い浮かばなかったようである。

栗まんじゅうがその後どうなったのか、諸説ある。遠からず全宇宙が栗まんじゅうで充満するという人もいれば、ロケットが光速近くまで加速すれば相対論効果で5分が無限に近い時間に伸び、増殖が事実上止まるという説もある。はたまた栗まんじゅうの総重量が天体規模になると自己重力で凝集し、そのサイズをシュバルツシルト半径が上回った時ブラックホール化するという主張もある(アンサイクロペディアが詳しい)。幸いにしてバイバインは空想の産物だが、新型コロナのハンマーとダンスは喫緊の現実課題である。解決の糸口がないままゴミバケツに放り込んで見て見ぬ振りをすると、知らぬ間に取り返しのつかない事態に陥りかねないのは、栗まんじゅう問題と変わらない。

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