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Noと言い切りすぎる日本人 [海外文化]

バブルの頃だったか『Noと言える日本』のような本が流行った。裏を返せば、日本人は普段Noを言えない(言いたがらない)、少なくとも海外からそう見られている、という共通認識があるようだ。

food_zei4_gaisyoku.png思い当たる原因の1つは単純な誤訳だ。「ええ」や「はい」や「そうですね」を軒並みYesで置き換えると、思わぬ誤解のもとだ。これらの言葉は肯定の意味だけでなく単なる相槌にも使われるから、英語のYesと同義ではない。
「夕飯どこに行こうか。がっつり焼肉とか?」
「そうですね・・・。」
「廻る寿司もいいかな?」
「はい。」
「新しくできたイタリアンの店も試してみたいね。」
「ええ。」
これを全部Yesで代用すると、「人の話を聞いてるのか!」ということになりかねない。日本人の癖に慣れている人なら聞き流してくれるが、そうでないと何を聞いてもYesを返す壊れたロボットのように思われるかも知れない。

和を重んじる日本人は、せっかくの提案を断ると相手が気を悪くするのではと気を回し、曖昧な相槌で会話をつなぐ。一方アメリカなどでは、気に入らない提案は普通に断ればいい。
「夕飯どこに行こうか。がっつり焼肉とか?」
「いやいや、今日は胃の調子悪いから脂っこいのはNG。」
「じゃ、廻る寿司がいいかな?」
「あ、魚は嫌い。」
「新しくできたイタリアンの店も試してみようか。」
「イタリアンできたの?ピザ食いに行こうか!」
個人的な好みで提案を断っても、断られた方が気を悪くすることは普通ない。胃の不調で焼き肉にダメ出ししたのに何でピザはOK?とか勘繰られ微妙な空気になることもない。アメリカで生活すると、日本に比べ人付き合いの温もりがドライで、初めは少し面食らうことがある。しかし、空気を読まなくていい気楽さに慣れてくると、逆に居心地がいい。

しかし面白いことに、仕事の場では日本人の方がアメリカ人を相手にドライに攻める場面をしばしば見かける。アメリカ人同士の議論の仕方を観察していると、皆もちろん意見ははっきり主張するのだが、闇雲に言いたいことを押し通そうとしているわけではない(人によるが)。日本語は曖昧な言語で英語は論理的だ、みたいな言説が昔からあるが、曖昧か論理的かは話者の問題であって言語の建て付けとは関係ない。英語にも断定を避ける表現は山ほどあるし、「If I understand correctly,」とか「Correct me if I’m wrong.」とか自分が勘違いしている可能性の予防線を張る常套句もよく使われる。米国大統領選のディベートのように、相手をやり込めた者勝ちの論戦ばかりではない。攻撃的な自己主張に眉をひそめる人は、国を問わず大勢いるのである。

研究者業界には、ある程度英語が話せてそこそこ外国人と話慣れている日本人は多い。が、敢えてトーンを抑えるニュアンスを自在に使いこなすには、相応に洗練された英語力が要求される。このことに自分で気付いていないと、議論の流れを睨みながら主張の硬軟を使い分ける判断が効かず、意図せず白黒がはっきり出すぎてしまう。そのため、ようやく噛み合い始めた議論のさなか、突然日本人出席者が「空気を読まず」破壊的な論説をぶち込んでくる、という珍事が起こる。Noと言える日本どころか、言わなくて良かったはずのNoを言い切ってしまうのだ。

意見の違う相手の立場を尊重し合うことで信頼が築かれていくのは、万国共通だ。その意味で日本人の謙虚さは世界に通用する美徳だから、言葉の壁さえ乗り越え言いたいことを適切な温度で主張できれば、世界の人はちゃんと耳を傾けてくれる。私はようやくその境地の輪郭が見えてきたが、到達にはまだ遠い。

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