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ズートピア:差別と偏見について [映画・漫画]

figure_fuhyou_higai_uwasa.pngコロナ禍の不満や不安が、世界でアジア系への偏見や差別を生んでいるという。通りすがりの人から何となく避けられるといった話はあちこちで聞くし、罵声を浴びせられたり中には傷害事件に巻き込まれる深刻な事例もある。確かにウイルスの出処は中国だったが、その後ほどなくしてイタリア北部で感染が急拡大し、あっという間にヨーロッパそして全世界に広がった。武漢の収束以降、感染者数の推移を見る限り東アジア諸国は(もちろん日本を含め)一貫してコロナ対応の優等生だ。トランプ元大統領はChinese Virusと連呼していたが、実際のところ過去一年せっせと感染を広げてきた震源地はどこなのか?だが、今日書きたいのはそういうことではない。

『ズートピア』というディズニーのアニメ映画がある。一行で要約すれば、天真爛漫なウサギと皮肉屋のキツネが反目しながらも友情の絆を深めていく物語、ということになる。しかし『ズートピア』の本質は差別と偏見を描いた寓話で、その点においてかなりリアルで重い話だ。差別とは特定のグループに向けられた社会の圧力のことで、偏見とは個々人が心の底に抱える心理的バイアスを言う。偏見が差別の構造を生み、差別はいったん広まると偏見を正当化する。偏見と差別はそうやって相互に強化していくので、社会から完全に駆除することは難しい。

ズートピアなる世界は、草食動物と肉食動物が仲良く共存する理想郷である。しかし、草食動物は無意識下で肉食動物への本能的な恐れを抱えている。そしてある事件をきっかけに、両者を隔てる心の壁が顕在化する。『ズートピア』の作者は、弱肉強食の食物連鎖ピラミッドをひっくり返し、マジョリティである草食動物を社会的強者に据える。電車の座席で偶然隣に座ったトラから距離を取るように、そっと娘を引き寄せるウサギの母親。かすかに悲しげな表情を隠せないトラの男性。束の間のシーンだが、目に見えない偏見が目に見える差別として社会に固定されていく瞬間を、鋭く切り取っている。映画が公開された2016年の2月はパリ同時多発テロの直後だったので、イスラムの人々へ向ける眼差しが厳しくなった現実と『ズートピア』の世界が、時にギョッとするほどよく似ていた。

米国コロラド州に住んでいたある日、勤め先の大学が開いた交流イベントでトルコ人留学生のスピーチを聞いた。当時は2001年の9・11テロからまだ間もない頃で、彼は在学中にテロの速報を目の当たりにした。イスラム教徒の学生が集う学内施設に駆けつけると、そこは重苦しい空気に沈んでいる。屋外に気配を感じて外を見ると、見慣れない学生の一群が取り囲んでいるではないか。スピーチで彼は「なんてこった、俺の人生は終わりだ」と思ったと冗談めかして語ったが、実際その瞬間は本気でそう感じていたのかも知れない。しかし外で待っていた学生たちは、「あなた達は私たちの変わらぬ友人です、それを伝えに来ました」と手に抱えた花束を差し出してきたという。

偏見が消しがたい心の闇だとしても、闇を自覚することでそこに光を取り戻すこともできる。アジア系への差別はコロナ前からあったし、コロナ後もなくなりはしないだろうが、手を差し伸べる人は社会のどこかに必ずいる。傷ついたり救われたりを繰り返しながら、社会全体はたぶん、少しずつでもより住みやすい世界に変わろうとしているのだと思いたい。

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