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真鍋さんの話 [科学・技術]

earth_nature_futaba.png真鍋淑郎博士がノーベル物理学賞を受賞したという一報が飛び込んできた。気候科学分野がノーベル物理学賞の対象になったことに、とても驚いている。オゾン層破壊の解明に寄与した研究が、ノーベル化学賞の対象に選ばれたことはある。でも物理学賞は基礎科学指向が強く、地球科学のような応用分野には縁が遠いと思っていた。

何よりも、その受賞者の一人が真鍋さんだったことがとても嬉しい。真鍋さんの世代の気象学者の中には、戦後間もない混乱期の日本を離れ、米国に渡り活躍の場を得た方が何人もおられる。その系譜に連なる荒川昭夫、真鍋淑郎、柳井迪雄といった大先生の名は、現代気象学の黎明期にあって世界の最先端を切り開き、後進に計り知れない影響を与えた綺羅星のごとき巨人たちである。

その巨人の一人が、私の所属する大学に特別待遇で招かれしばし滞在したことがあった。当時既に80歳に近かったはずの真鍋さんは、小柄な体格のどこにそんな体力を秘めているのか不思議なほどエネルギッシュな方だ。セミナーで講演を始めると、スクリーンの前を所狭しと歩き回り、時間超過を意に介さず熱く語り続ける。真鍋さんの最も有名な業績は、地球気候の成り立ちをシミュレーションで再現する方法論を考案した研究で、その基礎は1960年代に遡る。現代のスパコンとは比べ物にならない当時の計算機に立ち向かうためには、その欠点をカバーする深い物理的洞察が要求される。真鍋理論の真髄の一つは湿潤対流調節という着想で、雲を含む対流が大気の熱的構造を形作る過程をシンプルで美しい表現で再現する。

真鍋さんは、気候システムという複雑怪奇な巨木に絡みつく枝葉を削ぎ落とし、中央に屹立する幹を見据えることにこだわり続けた人だ。計算機の急速な高速化にともない気候モデルが精緻化の一途を辿る21世紀にあって、真鍋さんは必ずしも常に時代の先端で旗を振ってきたわけではない。真鍋さんご自身の口から、歯痒さに近い想いを聞いたこともある。数値モデルのスペックが高度化していくことは必然的な技術の進歩だが、同時にその根底に流れる決して変わらない物理の本質がある。長いキャリアを通じて頑なにその本質を見つめ続けてきた真鍋さんだからこそ、最高の敬意をもってノーベル賞授与につながったのだと思う。その意味で、真鍋さんは今回の朗報を驚きつつも心から喜んでおられるに違いない。

10年以上前だが真鍋さんが名古屋を再訪された際、私のオフィスにひょいと顔を出して「マスナガさん、また来ました」と朗らかに握手を求められたことがある。無名の若輩者の名前を覚えてくださっていたこと、本来はこちらから挨拶に伺うべき非礼を意にも介さず訪ねて下さったことに、ひどく恐縮した。私の名前については、単にオフィス前のネームプレートを読んだだけかも知れない。そうだとしても、私を一人前の研究者として扱ってくれる気遣いが嬉しく、その日は一日ずっと幸せな心地だった。研究者としては届くはずのない高みにおられる真鍋さんに近づけることが一つあるとすれば、誰にでも分け隔てなく同じ目線で接する心の広さだと、肝に銘じていたい。

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