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チャットGPT [科学・技術]

名古屋大学の杉山総長が、卒業式のスピーチでチャットGPTに作らせた祝辞を紹介して話題を呼んだ。その部分を引用させていただく。
みなさん、こんにちは。今日は満開の桜の中、名古屋大学での卒業式に参加していただき、ありがとうございます。この美しい景色とともに、皆さんの人生の新たなステージが始まります。
名古屋大学での学びや経験は、皆さんが将来の人生に必要なものをたくさん備えていることでしょう。今後の道のりが険しい場合でも、この大学で培った知識や技能、そして仲間たちとの出会いや絆を思い出して、自信を持って進んでください。
卒業式は、皆さんの努力と成果をたたえるとともに、これからの未来に向けてのエールでもあります。卒業生の皆さんは、自分自身の力でこの日を迎えることができました。心からおめでとうございます。これから先、皆さんはそれぞれの道を進んでいきますが、この大学での思い出や出会いを忘れずに、より一層の成長を遂げてください。
最後に、この美しい景色とともに、皆さんの未来が輝かしいものでありますように。心よりおめでとうございます。
総長はAI製の祝辞を「それっぽいがきわめて空虚」と評しつつ、AIにできることと人間にしか造り出せないことが共存する社会に飛び込む学生たちへエールを贈った。

ai_write.pngチャットGPTやDeepLなど、AIが捻り出す文章の完成度は確かに驚くほど向上した。学生がレポート作成にAIツールの力を借りることがあれば、逆に設問作成をチャットGPTに任せる教員もいると聞く。AI技術の進歩は、否応なく教育現場に大きな変化をもたらしつつある。そこに無限の可能性を見るか前代未聞の脅威と捉えるか、意見は分かれるだろう。だが私が思うのは、そもそも学校教育で私たちは何を目指してきたのかということである。

杉山総長が読み上げたチャットGPTの祝辞は、とても優等生的である。ほぼ非の打ち所がないが、それでいて何も伝わってこない。それが、杉山総長が評するところの「それっぽいが空虚」ということだ。でももしかすると、私たちが学校教育で強いられてきたこと(そして今の子供たちに強いていること)は、まさにこれだったんじゃないだろうか。自分が何を感じたとか、本当は何を言いたいかと別に、最大公約数的な模範解答が存在する。そしてそれが社会に快適な居場所を確保する早道だと、遅かれ早かれ学習する。私たちの教育システムは、チャットGPTの祝辞のような予定調和の「正答」へ人間の思考回路を固定する、機械学習の壮大な実験装置だったのではなかろうか。

チャットGPTの文章を見事だと思ってしまうのは、AIが人間の知能に近づいたせいというより、逆に私たち自身がもともとAI的な学習を指向する教育に馴染んでいたからである。学生がチャットGPTが吐き出した答えをレポートに出して、それがもし教員の求める理想的な解答だったとしたら、ある意味で学校教育がもたらした必然的な帰結ということかもしれない。

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