SSブログ

父の日 [その他]

父の日や母の日が近づくたび、胸の奥がかすかにざわつく。

bouquet_fathers_day.png父と母の決別が濃厚になった頃、私は一人1Kのアパートに引っ越した。育った実家はやがて無人になり、取り壊された。だから父や母にその後それぞれ会いに「行く」ことはあっても、親元に「帰る」実感はなかった。そんな微妙な心の距離感を持て余している間に、父も母も他界した。私は冷たい親不孝者だったなと思う。

父が世を去った翌年、父の日が迫る6月のある日ふと小文を綴ったことを思い出した。ブログ化する以前の『尾張の☆は歌うか』に書いた記事で、今回はその復刻掲載でお茶を濁すことにする。



買い物に出かけると、あちらこちらに「父の日」の謳い文句を目にする季節になった。

昨年(注:2007年)の暮れ、何の前触れもなく父が急逝した。その一週間前から風邪をこじらせ、無理を押して出かけた出張の直後だったと、あとから聞いた。仕事などほどほどにして緩やかな老後を送ってよい歳ではあったが、いつ心臓が止まるかと気を揉むほどの高齢でもなかった。過去に重病を患った経験もなかったから、本人は自分の体力を過信していたのかもしれない。

一報を聞いて駆けつけた先は、搬送先の病院から遺体を移された葬儀場だった。まだ空っぽの白木の祭壇の前に、経帷子をまとった父が横になっていた。表情には苦しんだ気配もなく、耳を近づければ微かな寝息さえ聞こえそうな気がした。だが、じっと見つめているとその姿はまるで精巧に作られた蝋人形のようで、つい前日まで生きていた気配は不思議なほど希薄だった。かつて父として存在していたはずの何かは突然どこに消えてしまったのかと、とりとめもない考えが頭に浮かんでは消えた。死ぬと魂が体を抜け出すという信仰は、古の人々の意外に即物的な実感から発しているのかも知れないと思った。しかし、こじんまりとした葬儀場は霊魂が漂うには殺風景に過ぎるのか、部屋の空気は無機質でひんやりとした現実の佇まいに沈んでいた。

通夜と告別式には思ったよりずっと大勢の参列者が訪れた。独身寮以来という旧友の方々が親身に手伝って下さり、私が生まれる前の父の思い出を語った。通夜では父より10歳は若いであろう会社員らしき男性が、焼香のあとに身じろぎもせず父の遺影を見つめていた。会社の後輩らしきこの男性にとって、父はどんな存在だったのだろうと思った。高度成長期に大手メーカーに就職しそのまま定年まで勤め上げた父は、あの世代に典型的な日本型サラリーマンだった。いま思えば、現役時代には平日の大部分を過ごしていた職場の父を、私は一度も見たことがなかった。途切れることなく訪れる参列者に黙礼を返しながら、家族が知らない父の顔について私は考えていた。

私は大学院生のころ実家を出て独り暮らしをはじめ、それからすでに10年以上が過ぎた。その間に父と私の生活はそれぞれ大きく変わった。独立して以来、父と顔を合わせる機会は年に数えるほどだった。私がアメリカに住んでいた4年間は行き来はほとんど絶えていたが、父は一度だけ一人で私たち夫婦を訪れ、一緒に車で国立公園を巡った。アリゾナの赤い大地に口をあける雄大な峡谷が眼前に開けた瞬間、父はまるで子供のように喜びの声を上げカメラを構えた。旅の終わりの日、空港で出発ゲートに吸い込まれていく父に手を振りながら、父は昔からこんなに小さかっただろうかと私は思った。

父が世を去ったあと、日常生活に大きな変化が訪れたわけではない。喪失感や悲しみはもちろんあるけれども、育ち盛りに肉親を失くした子供たちのそれとは比べるべくもない。今までは考えたこともなかったが、人生の半ばにさしかかってから親を亡くすこということ、それは喪失感というよりむしろ漠然とした恐怖に近い。通夜が始まる少し前、祭壇の前で父の亡骸を見つめるうち、ふと冷たくて重い粘液がみぞおちの辺りを沈んでいくような奇妙な感覚を経験した。そのとき心をよぎったのは、父は逝った、次は自分の番が来るのだ、という暗く冷厳な予感だった。人はいつか死ぬという自明の理を、この時ほど冷ややかな現実として間近に感じたことはない。子は親の背を見て育つというが、親の背中が目の前から永遠に消え去ったとき、子は初めてその先に待ち受ける深淵を覗き込む。父は最期の瞬間まで私の視界から死の闇を遮り立ちはだかっていたのだと、私はそのときようやく気が付いた。

※初出『尾張の☆は歌うか』2008年6月7日付

共通テーマ:日記・雑感