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ロックアウト [その他]

ロシアのウクライナ侵攻に続いて、今度はハマスとイスラエルの戦争が勃発した。気の滅入る速報ばかりニュースのヘッドラインを埋め尽くし、ブログを更新する気力も起こらない。誰かに頼まれて書いているわけでもないのでしばらく放置して何ら支障はないのだが、こういう時のために『コロラドの☆は歌うか』復刻企画があることを思い出した。

暗い世相なので、渡米後まだ間もない頃に書いたお気楽な記事を掘り起こすことにする。現地でアパート入居の当日に遭遇した、トホホな出来事の顛末である。



私は生涯に一度だけパトカーに乗ったことがあります───というとずいぶん昔の出来事に聞こえるかもしれませんが、何のことはない、つい昨年(注:2002年)のことです。しかも、日本では一度も厄介になったことのないパトカーに、アメリカに着いて一週間も経たないうちにお世話になってしまいました。念のため付け加えておきますが、何ら法に触れる行為に及んだわけではありません。私のしでかした間違いは、自分のアパートから一歩踏み出してドアを閉めた、ただそれだけだったのです。

その日は、アパートの契約をして入居した当日でした。一通り新居の内装と設備の点検を済ませ、付き添ってくれた研究室のボスが帰った後に、デジカメで部屋の写真を撮りまくっていました。家の写真を撮ったのは、1ヵ月半後コロラドにやって来ることになっていたオクサンの不安
 (隣家は10km先、四方は人影のない砂漠で、
 穴の開いたブリキのバケツが突風に吹かれて
 庭先をカラカラと転がっていき、…)
を払拭しておく必要があったからです。私の住まいは勤務先の大学が経営するアパートで、隣家は10kmどころか壁をはさんだ10cm先にありますし、窓の外には青々とした芝生(最近水不足のせいで色あせ気味ですが)が広がり、壁には大学のネットワークに直結するイーサネットのジャックまで付いています。

部屋の中を一通り撮り終えたので、アパートの表構えをフィルムに収めることにしました。左手にデジカメを持ち表に出て玄関のドアに右手をかけた瞬間、私はこのドアがオートロックであったことを思い出しましたが、自分で何をしているのか意識する間もなく、私の右手は躊躇うことなく扉を閉めていました。

その後どのくらいの時間だったか、これは何かの間違いではないか、初日早々に自分の家から締め出されるなど馬鹿なことがあっていいものか、という思いが頭をぐるぐる駆け巡っていましたが、玄関は押しても引いてもびくともせず、ポケットには鍵はおろか小銭一枚入っておらず、手元にあるのは当面の状況打開にはおよそ役に立たないデジカメ唯一つです。

とにかく、何とかしなければいけないことは分かっていました。既に夕方6時半をまわっていたので、閉まっているだろうと思いつつアパートの管理事務所に回ってみましたが、案の定そこは既に真っ暗で鍵が下りていました。入居当日では、助けを求めるにも顔見知りの隣人がいるわけもありません。契約時の説明で、時間外に担当者と連絡を取る際の携帯番号を書いた紙を渡されたのですが、その時の書類一式はそっくりアパートの部屋の中でした。それを部屋に取りにいけるくらいなら、初めから誰も困りはしないのです。

car_patocar_america.png途方にくれた挙句に天啓のようにひらめいたアイディアは───というのは嘘で、じつは事態に気付いた直後からうすうす意識しつつ極力回避したかった選択肢なのですが───大学直属のポリスに助けを求める、ということでした。担当者の携帯にも連絡を取れない夜中などは、大学の警察に連絡をつけなさいという管理事務所の指示を私は覚えていました。もちろんポリス・デパートメントの連絡先も部屋の中でしたが、私はたまたまキャンパスを移動中に警察の建物を見かけてその場所を知っていました。
しかし、とにかく私は気が進まなかったのです。もし一度でも、渡米早々不器用な英語で警察に話をつけに行くはめに陥ったことのある人なら、それも自分のアパートを開けてくれという情けない頼みごとのために出向いたことがあるのなら、私がその時どれほど気後れしていたか分かっていただけると思います。おかげで旅疲れも時差ぼけもすっかり吹き飛んでしまいました。

意を決して出かけたポリス・デパートメントの受付は、人気がなくがらんとしていました。カウンターは既に閉まっていて、緊急用のインターホンだけが冷たく私を見据えていました。この期に及んで私は未だ心を決めかね、用件のある方はマイクに向かって話すようにと書かれたパネルを穴が開くほど見つめていると、突然スピーカーが"CAN I HELP YOU, SIR?"とがなりたて思わず飛び上がりそうになりました。カメラで私の一挙手一投足を監視されていると気付いて私はますます気力が減退しましたが、なんとか気を取り直しインターホンに向かってしどろもどろに事情を説明しました。すると、行って開けてあげるからそこで待ちなさいということでしたので、少しホッとして硬いベンチに腰掛け誰かが出てくるのを待ちましたが、一向に動きを見せる気配がありません。私が英語を聞き間違えたのか、ここに居座っていてはいけないのかと不安になってそわそわし始めたころ、突然またスピーカがガリガリ鳴り出しあともう少し待てという指示が飛んだかと思うと、また延々と居心地悪い沈黙が続きました。永遠に近い3,40分が過ぎたころついに出てきたのは若い警官で、表に回してあったパトカーの後部座席に乗るよう指示されました。

日本ではどうか分かりませんが、パトカーの前後の座席の間は見るからに頑丈そうな透明のアクリル板で完璧に仕切られています。おそらく、いかなる銃弾もこの板を貫通することは出来ないのでしょう。そしてもちろん、後部座席のドアは内側から開けることが出来ません。私はますます惨めな気分になってきました。キャンパスから私のアパートまではものの数分でしたが、その時の私はきっと、出来心でつまらない罪を犯して捕まった気弱な犯罪者のような顔をしていたに違いありません。

アパートの駐車場に付くと、警官はゆっくりとパトカーを降り、後部ドアを開けてくれました。何かにつけ警官の動作がのろいので内心じれったかったのですが、のろい理由は彼が常に私の挙動から目を離さず、また決して私の前を歩こうとしなかったからです。私が突然銃を抜くような気配を醸していたとはおよそ思えないのですが、自宅でロックアウトされたアホな一日本人のために命がけの緊張感で鍵を開けに行く彼に、なんだか申し訳ない気分がしてきました。

警官はアパートのマスターキーを持っていました。後から知ったのですが私のようなケースは結構頻繁に起こるらしく、比較的治安の良いこの町では大学のアパートの鍵開けが大学の警察の主要な仕事の一つなのかもしれません(他人事ではないが、少し笑える)。鍵が開くと私は部屋に置いてあったパスポートを警官に見せ、彼は無線を使って私が確かにこの部屋の住人であることを確認すると、あっさり一件落着しました。吹き飛んでいた疲れと時差ぼけがその後どっと舞い戻ってきたことは、言うまでもありません。

これが、事の顛末です。あまりに馬鹿馬鹿しいので滅多に人に話したことはなかったのですが、アメリカでパトカーに乗った日本人はさほど多くないと思われるので、今振り返れば貴重な体験だったのかもしれません。この事件に懲りて、わたしはキッチンからリビングに行く時すら玄関の鍵を肌身離さず持ち歩くようになりました。いつ出来心で外に出てしまうか、知れたものではないからです。この強迫症的な習慣から抜け出せたのは、ずいぶん後になってから───予めドアの内側のノブのつまみを45度回しておけばオートロックを解除できることにようやく気が付いたとき───でした。

(初出:『コロラドの☆は歌うか:番外編』2003年1月31日付)

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