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幸福の代償 [文学]

bg_natural_nanohana_batake.jpg『ゲド戦記』を書いたアメリカの作家アーシュラ・ル=グウィンの短編に『オメラスから歩み去る者たち』という不思議な作品がある。オメラスとは犯罪や戦争と無縁な平和に満たされた架空の街で、人々が思い思いに夏の到来を祝って集う華やいだ日常が綴られる。だがこの街の一角にただ一人、その幸福を分かち合うことの許されない孤独な子供がいる。子供は窓のない小部屋に幽閉されたまま劣悪な環境に放置され、気遣いの言葉一つかけてもらうことすら叶わない。オメラスで育つ少年少女は遅かれ早かれそんな街の秘密を知り、当然ながら憤りや悲しみに震える者もいる。だが彼らはやがて、子供が置かれた現実を直視することを止める。何故なら、不幸な子供の犠牲の上にこそ街の平穏な秩序が支えられていると気付いているからだ。もし子供を救い自由のもとに解き放てば、オメラスの人々が享受する幸福の日々は遠からず終わりを告げる。

一頃流行ったハーバード大マイケル・サンデル教授の本では、ベンサムの功利主義を論ずる題材の一つとしてオメラスの物語が紹介される。英国の思想家ジェレミ・ベンサムは「最大多数の最大幸福」を唱えたことで有名だ。雑に要約すれば、たとえ一部の個人の犠牲が伴っても社会全体の幸福(快楽)を最大化する施政が善である、ということになる。囚われの子供一人の苦しみと引き換えに社会の幸福が担保されるオメラスの世界は、ベンサム的価値基準では肯定されるが、現代的な人権意識に照らせば到底容認されない。サンデルによるこの問題提起は、ほとんどそのままの形でウィルス水際対策に現実化した。クルーズ船の乗客や武漢帰還者を隔離すれば国土の安全は保たれるが、検疫期間が長引けば当事者の人権は著しく制限される。

ただ、ル=グウィンの思考の源泉はもっと深いところにある。オメラスの人々は賢人でも聖人でもなく、欲も弱さも併せ持った私たちと同じ人間だ。彼らは至上の幸福を手にしながら、心の底ではその幸福がいつ潰えるかと怖れている。御伽話のような桃源郷を信じるほどウブではないから、幸福を維持するには相応の代償が必要だと考える。作者は、幽閉された子供がどうやって社会の幸福に奉仕しているのか、その仕組みについては一切触れない。なぜなら、子供の犠牲が続く限り社会の安寧が担保されると人々が「信じている」こと、その盲目的な信念の裏に潜む秩序崩壊への怖れこそが、物語の本質だからだ。

日本各地で新型コロナの感染者が見つかると、ニュース速報が飛び交い感染経路や行動履歴がたちまち詳らかにされる。情報が速やかに共有されるのは健全な社会の証であるが、緊迫感あふれる連日の報道は、正体不明のウィルス蔓延が徐々に社会を蝕んでいくかのような終末論的な世界像をわざわざ醸成している感もある。オメラスの人々が幸福な日常を失う不安から一人の子供の犠牲を黙認したように、新型コロナに対する過敏な反応がエスカレートすれば社会全体が判断力のバランスを失いかねない。品薄のマスクを求めて店頭で小競り合いになったり、地下鉄で咳込む乗客と口論になったり、そういったできごとがもはや対岸の火事ではなくなっている。感染症そのもののリスクより、社会の理性が試されるフェーズに入りつつあるのではないか。

10ページに満たないオメラスの物語は、ひときわ謎めいた一節で唐突に終わる。最後に語られるのは、囚われた子供の不条理を受け入れることができず、人知れず街を出て行く少年少女たちだ。彼らがどんな暮らしを求めどこを目指すのか、何も明らかにされない。だがオメラスを去る者たちは、社会全体がスルーする理不尽を容認せず、その矛盾を考え続ける人々である。ル=グウィンが人類に託した、一抹の希望を見る思いがする。

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