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ファクターX [科学・技術]

blackbox_question_open.png思えば3月下旬、桜の開花が始まった三連休は陽気に誘われた人々で賑わい、その後間もなく新型コロナのPCR陽性者数が跳ね上がった。3週間前のニューヨーク市を見るようだと警鐘が響き渡り、悲鳴を上げる医療現場は速やかな緊急事態宣言発令を国に求め、政府がようやく重い腰をあげたのが4月7日のことだ。もはや手遅れかと最悪を覚悟した人もいたかと思うが、感染爆発は結局起こらず、47都道府県の緊急事態宣言が順次解除された。クルーズ船対応に始まった政府対策は一貫して後手に回り、人口あたりのPCR検査数は先進国の水準に遠く及ばず、自粛要請に拘束力がなく休業要請には補償がなく、アベノマスクは検品をやり直し特別定額給付金の申請書はいっこうに届かない。何一つ満足に回っていないかのような惨状に関わらず、人口100万人あたりのコロナ死者数は7人未満と驚異の低水準を維持している。何だかよくわらないが日本はすごい、と思いを新たにした人も多いだろうか。日本の不可解な奇跡として、複数の海外メディアが紙面を割いている(Foreign Policy, Guardian, ABCなど)。

奇跡を説明する仮説は多岐にわたる。代表例は、日本人はマスク着用で歩き回ることに心理的抵抗が少ないとか、握手やハグなどボディタッチの習慣が薄いといった社会行動学的な説明だ。真面目な国民性ゆえ法的拘束力のない自粛要請だけでGWの新幹線がガラガラになるとか、同調圧力が強く独りで目立つ行動は取りたくないなど、社会心理学的な仮説もよく聞かれる。壮大な社会実験でもやらない限り証明は難しいが、いずれもありそうな話ではある。他にも(信憑性は定かでないが)日本人は肥満率が低く重症化しにくい、納豆を食べるので免疫力が高い、など文化習慣をめぐる多彩な俗説が乱立している。

日本独特の地道なクラスター対策がうまく機能したのだ、と胸を張る専門家もおられる。ウイルスのゲノム解析から感染源を追跡する研究を国立感染研が発表し、武漢起源の「第一波」はほぼ収束に成功したが、3月中旬以降ヨーロッパから持ち込まれた「第二波」は経路不明の感染者を大量に生み出した、ということである。クラスター追跡戦略は第一波の封じ込めには確かに有効だったが、緊急事態宣言をもたらした第二波ではむしろその運用上の限界があぶり出された感がある。日本型戦略そのものの是非はさておき、死亡率の低さを説明する要因としてはその役割は限定的のように思える。

ところで、武漢起源と欧州起源でウイルスの遺伝子に変異が認められることから、欧州株の方が感染力が高いとか毒性が強いとか諸説飛び交っているようだ。実際はどうなんだろうか?ヨーロッパはたしかに感染拡大が早く致死率の高い国が多いが、そもそもシェンゲン協定圏内は人の移動が自由だから感染があっという間に広がるのは無理もない。にもかかわらず欧州内(例えばドイツとイタリア)ですら医療体制次第で致死率が顕著にばらつくことはよく知られており、イタリアやスペインの事例だけを見てウイルスの毒性が強いとは言い切れない。ウイルス学的要因と疫学的背景を区別して問題を整理してくれる情報源がなかなか見つからないのだが、今後研究が進むことに期待したい。

感染症対策の基本は検査と隔離だそうで、検査が追いついていない日本は普通に考えれば感染爆発のリスクが高いはずである。しかも、検査を受けられない疑い患者は確定診断が下りず、本来は治療が必要な病人が大勢蚊帳の外に放置された。手厚いとは言い難い公衆衛生システムだが、皮肉なことに検査が少なすぎることが結果として医療崩壊の連鎖を防いだ感もある。日本でPCR検査数が伸びない理由として、保健所の過負荷や検査技師不足といったインフラの限界に加え、病床不足を恐れた一部の保健所が確信犯的に検査要請をスルーしたとする報道も出た。理由は何であれ、軽症(と言えども相当に苦しい思いをした)患者が病院に行けないことで、逼迫する医療現場が辛うじて守られていたのだとすれば、回っていない制度のほころびを患者の犠牲や医療従事者の献身が繕っていたことになる。何と満身創痍な「奇跡」か。

緩い対策にもかかわらず国内の感染拡大が鈍かった要因を山中伸弥教授が「ファクターX」と呼び、その解明を呼びかけておられる。いまのところ、XはまだXのままである。憶測に過ぎないが、「なるほど!」と膝を打つような明快な答えはないのではないか。仮に(1)マスク好きで(2)握手をしない(3)規律正しく(4)目立ちたがらない国民が(5)貧弱な検査体制の下で耐えた成果が日本の奇跡なら、一つひとつは目立たない要素がたまたま揃った偶然の作用が、感染拡大の危機を救ったということである。そんな「合わせ技一本」が実現した僥倖こそ、ファクターXの正体かも知れない。

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