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記憶の中の街並み [その他]

私が大学院に入って間もない頃、家族が全員別々に暮らすことになった。私が住むことに決めたアパートは、1Kの小さい部屋ながら、小高い台地の縁にあって眺望が開けていた。空気の澄んだ冬の朝には、正面に美しい富士山を望んだ。三鷹市の西の外れで、駅へのアクセスは不便だったが、開放感が気に入った。

bg_pattern2_aozora.png窓の外に連綿と続く街並みの果てに、なぜか気になる小さな一角があった。緩やかで緑豊かな丘陵地の中ほど、高層住宅がいくつか肩を寄せ合い立ち並んでいる。その合間を縫って丘を下る道路の一部も見えた。整然と街路樹に彩られた情景が記憶に蘇るが、木々を見分けられる距離ではなかったはずだから単に思い込みかも知れない。実際に歩いたらどんな街並みだろうと、あれこれ想像していた。見た目にはかなり遠そうだったが、自転車ならたぶん一時間もかからない道のりだっただろう。でも結局、一度も行かなかった。

地図帳を広げて定規を当て、高層住宅街の所在地を探してみたことはある。しかし、おおよその方角はわかっても、正確な距離感がつかみにくい。ゴマ粒のような建造物の光景を、想像だけを頼りに二次元面に投影する作業は、思いのほか難しい。今ならスマホの地図アプリを頼りに、当てずっぽで出かけてみたかも知れない。しかし25年前はスマホなど影も形もなかったし、Googleすらまだ存在していなかった。そもそもなぜその街角が気になっていたのか、上手く説明できない。ありふれたマンション群以外に、目を引くランドマークがあるわけでもない。ローカル線に乗って何もない無人駅でふと降りてみたくなるような、気まぐれの衝動だったのだと思う。

夕暮れ時には高層住宅に無数の灯りが煌めいて、その温もりに胸がかすかにざわついた。ずっと昔は自分もそんな灯りの一つのなかで暮らしていたのだろうかと思いつつ、記憶は既に風化を始めていた。薄れる記憶を無理につなぎとめていたいとは思わなかった。むしろ、近づいてそこに何もないことを確かめるくらいなら、蜃気楼は遠くから眺めている方がいい。一度もあの街を訪ねなかったのは、心のどこかでそう思っていたからかも知れない。

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